私は痛悔の定義を知るよりも痛悔の心を感じたい。もし聖書のすべてと哲学説のすべてを知っていたとしても、カリタスと恩寵がなければ、何の利益があるだろう。神を愛し神に仕えること、これ以外は空の空、すべては空しい。(『キリストにならう』bot)
今日は聖アンドレ使徒の祝日です。明後日の日曜日からは待降節(新年)が始まります。
今年こそは自分と考えの違う人に対して公然と非難するのではなく、その人のために祈り優しい気持ちで見守りたいと思います。ただ非難・攻撃するのは神のない人々と同じ、主の愛を忘れないように過ごす1年にしたいです。
そのことも含めてそろそろクリスマス前のゆるしの秘跡を受ける準備をしなければと思っています。準備とは良心の糾明をして痛悔をすることです。
よく準備ができていない時とは糾明よりも痛悔をしていない時のように思います。そういう時は罪をゆるされても、あまり喜びや感謝の気持ちはわかないからです。
昔のことばかり書きますが、ゆるしの秘跡も変わりましたね。昔は罪の告白の後に続けて「かくおぼえたる罪とおぼえざる罪と洗礼以来犯したる罪とをことごとく痛悔し、これが赦しと償いとの御恵みとを請い求め奉る。」と、願い祈ったものですが、今は「今日までの主な罪を告白しました。ゆるしをお願いいたします。」とだけです。
また、悔い改めの祈りでは「痛悔の祈り」をとなえました。今は悔い改めの祈りはとても短くなっています。どちらの祈りも心が大切ですが、「痛悔の祈り」の方が痛悔の心をよく表しているような気がします。とは言っても、夫の国では告解の前に痛悔をするのであらためて痛悔の祈りは唱えないそうです。おそらくそのような国の方が多いと思います。
先日見つけた『ゆるしの秘跡:よい告解のための手引き』というリーフレットはとても使いやすい手引書です。興味のある方はグーグルで検索してみてください。
(リーフレット内容の一部)
YouTube: Messa a San Marco, KYRIE IV, Schola Gregoriana Mediolanensis, Giovanni Vianini, Milano, Italia