レバノンの新司祭
多宗教の国(カトリック20~25%)レバノンでの新司祭の叙階式・祝賀会・初ミサの模様です。叙階式は本当に素晴らしいです。そこにはキリストの光があふれています。そこに集まった人々には信仰・希望・愛が満ちあふれています。
YouTube: An Entire Village Celebrates a New Priest in Lebanon 🇱🇧✝️
多宗教の国(カトリック20~25%)レバノンでの新司祭の叙階式・祝賀会・初ミサの模様です。叙階式は本当に素晴らしいです。そこにはキリストの光があふれています。そこに集まった人々には信仰・希望・愛が満ちあふれています。
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昨日の朝のブログに自分がいつも高慢の罪に縛られていることについて書きました。その後司教様の話を聞き、ごミサに与り説教を聞き帰宅しました。
何とも言えない心のもやもや感・・・聖書、聖ホセマリア神父様の本、アブリ神父様の本、カテキズムなどを読んでいくうちに、様々な考えが頭をよぎりやがて徐々に心は落ち着きました。
おかしな話ですが、先ず主が私に幼児洗礼を授けてくださったことを感謝しました。当然のことですが、幼児は洗礼を受ける時に打算や思惑など一切ありません。やがて子どもは教会学校で神様や教会・お祈りについての話しを聴き、それを素直に受け入れます。子どもの素直な心にまかれた正しい信仰の種は育ち続けます。途中で倒れたり、枯れかけても必ずまた起き上がります(少なくとも私はそうでした)。
幼児は本当に可愛いですね![]()
告解の準備(糾明)をしている時に、必ず高慢の罪が最初に浮かびます。高慢の罪から様々な悪が生じて、自分を主から遠ざけています。
先ずは他人を批判しない、特に『聖職者の方々を絶対に批判しない』これは私の高慢の罪を一つ遠ざける方法だと気づきました。それには努力も必要です。
オプスデイのホームページに載っている『神のいつくしみの秘跡:ゆるしの秘跡について』の「罪」の箇所を読みました。
罪
自らの罪を認めること、罪人であることを知ることこそ、改心の第一歩です。もちろん、この神との和解の第一歩もゆるしの秘跡において、最終的に罪の赦しを得るまでの歩みと同じように、神の恩恵なしには踏みだせないものです。
しかし、恩恵は自然を無効にすることも破壊することもありません。ということは、恩恵に協力する義務があるということです。何もかも全面的に主にお任せするのではなく、わたしたち一人ひとりが協力しなければならないのです。すなわち、差しのべられた御手に届くことが出来るように、わたしたちが努力しなくてはならないということです。勉強や読書、あるいは知識のある人の援助を得て、キリスト教倫理の根本的な考えを会得しなければなりません。実際には罪でないことを罪であると考えたり、反対に確かに神の法に不従順であるものを、神を侮辱することにはならないと考えたりしないためです。自らの過失を知ることさえできないのであれば、改心の第一歩を踏みだすことはできません。
神を憎んで重大な悪を行うときのみ、罪が成立すると考える人がいるようですが、間違っています。罪が成立するために、神と対決するという具体的な意図は必要ありません。実際には、罪とは神の法に反する、背くと知りながら考えたり行ったりすることです。従って、法を知りながらその法を守らないなら、罪を犯したことになります。
言い換えると、罪とは突然天から降って湧いてくるようなものではなく、三つの条件が満たされた時、罪が成立します。
(1)ある考えや思い、言葉や望み、行いや怠りが、重大な事柄(悪)であること。
(2)(1)が神を侮辱するものであることを充分に自覚していること。
(3)意図的に承諾して、実行に移すこと。
このような状況を、それぞれ、対象、意識(知識)、同意(承認)と呼びます。この三つの条件がそろった時、個人の罪が成立します。それは、悪を悪と知りつつ、主を侮辱すると分かっていながら、その悪を望むからです。
こういう状況にあってのみ罪を犯すのであれば、神の掟を知らない方がいいと、考えるのは誤りです。知ろうとする努力がないところから生じる無知は、過失から出たものです(過失ある無知と言えます)。従って、過失から生じた無知だけでなく、その無知が原因となって犯した全ての罪の責任を負わねばならないことになり、主のお言葉がぴったり当てはまります。「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは、聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない』」(マタイ13・14)。
YouTube: 20260703「聖ホセマリア記念ミサ2026~信仰の土台は「神の子」の自覚~
私は「神の子」であるという自覚 : 主の祈りを唱える時「天におられるわたしたちの父よ・・・」私たちは神に「お父さん」と呼びかけます。
私は「罪人」であるという自覚 : 拝領前に「神よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と信仰告白をします。
確かに私たちは罪人ですが神の子どもなのです。そしてマリア様も私たちの母となってくださいました。私たちを母としていつも護ってくださっています。私たちも良い子どもでいなければなりませんね。
「ペトロ岐部司祭叙階400年記念」ポスターより
1603年から1639年(徳川家康・秀忠・家光)にかけて、(現在の)鹿児島、福岡・大分、長崎、広島、大阪、京都、東京、新潟の各教区で188名の方が殉教しました。司祭をはじめ武士、農民、町人身分を問わず、また一家全員幼子も一緒に殉教した家族もありました。
詳しく学びたい方は『ペトロ岐部と187殉教者 歴史・巡礼ガイド』が参考になります。⇩
私たちはこの殉教をただ単に過去の出来事ととらえるのではなく、殉教者の流した熱い血に感謝して、彼らの信仰に倣うことが必要だと思います。
迫害のない時にはキリストを忘れてしまいがちです。家庭では親は子どもにキリストよりも他の事を優先するような態度をとり、またそう教えてしまいます。「殉教」とは何なのか、その意味することをこの機会に家庭で話し合ってみたらどうでしょう。
YouTube: QUO VADIS (2001) Full HD
聖ペトロと聖パウロといえばすぐにこの映画「クオ・ヴァディス」が思い浮かびます。原作はポーランドのノーベル賞作家ヘンリク・シェンケヴィチの小説『クオ・ヴァディス:ネロの時代の物語』です。
キリスト教徒への迫害がひどくなったローマを発って、アッピア街道を歩いているペトロに近づいてくるキリスト。ペトロは驚いて、ひざまづいて尋ねました。
ペトロ:Quo vadis, Domine? ( 主よ、どこに行かれるのですか?)
キリスト:あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう。
それを聞くとペトロはすぐにローマへと引き返しました。そして捕らえられて殉教します。
この映画は素晴らしい作品です。キリスト教を知っている人も知らない人も一度は観てほしい映画です。観ることができる機会がほとんどないので、できることなら教会で上映会をしてもらえたらと思っています・・・がやはり無理かな?
今日は聖ホセマリア・エスクリバーの記念日です。小寺神父様が「身体の神学」の特別編として、聖ホセマリアの教えを通して話されています。私でも理解できるわかりやすいお話しです。
YouTube: オンラインクラス「身体の神学(特別編)」(2026年6月24日)
毎日聖ホセマリア神父様に天主への執り成しを願い祈ります。でもいつも同じ熱意を保てないことがしばしばあります。時にはその火が消えそうになることも・・・。そんな時には聖ホセマリア神父様が書かれた『道』を読んだり、このような講座を聞くことによってふたたび力をもらいます。
私は数年間聖ホセマリア神父様に執り成しを願ってきたことが一つあります。それは自分のためではなく、主にとっても良いことだと思うのですが、なかなかかないません。そんな時にオプスデイの神父様が「旧約の創世記で、17歳のヨセフが夢の中で主から啓示されたことは20年後に実現されました。私たちがいくら良いことを願っても主はすぐに与えてくださるわけではありません。主がよいと思われた時に適うのです。ですから落胆せずに願い続けなさい」という話を聞きました。この話を聞き『あきらめてはいけない、主は必ずいつか報いてくださる』と悟りました。それと同時に私は聖書をさっと軽く読むだけで、深く味わって読んでいなかったことにも気づかされました。
洗礼者聖ヨハネ (B.E.Murillo)
12月24日キリストのご降誕の6か月前の今日は洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日です。
エリザベトの夫ザカリアも天使によってエリザベトが男の子を生むと告げられます。ヨハネはエリザベトの胎内にいる時から聖霊に満たされていました。そして神から子どもをヨハネと名付けるように言われたザカリアは神に従ってヨハネと名付けました。
成人したヨハネは 預言者として人々に「悔改めるように、まもなく救い主キリストが来る」ことを人々に告げ知らせ、彼らに水で洗礼を授けていました。そしてキリストにも洗礼を授けました。
洗礼者聖ヨハネはエリザベトの胎内にいるときから領主ヘロデによって斬首されて殉教するまで、イエス・キリストの先駆者としての役割を果たしました。
うっとおしい梅雨のお天気ですが、農家にとってはとても大切で必要な恵みの雨です。いつも自分中心で物事を考えて、不平不満を言っている自分に反省!
ちょっと素敵な動画を見つけました。
カトリック信者が多い国ならではの光景でしょう。
司祭が病人訪問をしてご聖体を授けてくださるのが一番でしょうが、ご聖体拝領のできない病状の人や小さな子どもたち赤ちゃんたちにはこのご聖体の祝福は素晴らしいお恵みですね。
小寺神父様の「体の神学」その3です。『なるほど』と学ぶことばかりです。ご聖体拝領も毎回「キリストとひとつに交わる」のだということをしっかり意識していませんでした。信者になって70年たっても教わることは次々と出てきます。信仰は一生学び続けること、終わりはありませんね。
小寺神父様のオンラインクラスです。今回も学ぶことが多いでした。感謝!
6月26日は聖ホセマリア・エスクリバー神父様の記念日です。今年は少し早く6日に東京のカトリック碑文谷教会で酒井司教様によって記念ミサがあげられました。今後も大阪、大分、長崎で記念ミサがあります。オプスデイは必ずごミサ前にゆるしの秘跡の時間を設けています。
恵みあふれるイエスよ、
あなたは人類を深く愛し、その愛のしるしとしてご自身のみ心(聖心)を開いてくださいました。私たちは今日、あなたの無限の愛に感謝し、
私たちの心もまた、あなたのみ心に似たものとなるようにお恵みください。
どうか、悩みや苦しみの中にある人々にあなたの温かなまなざしを注ぎ、
私たちが互いに愛し合い、一つになることができますように。私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン。
先日見ていた海外のドラマの中で、心に響いたセリフを三つ。
「相手を赦すことは相手のためではない。自分のため」
「仕返し(復習)することで自らを癒すことはできない」
「人生で真に価値あるものは損得では測れない。」
何れもキリストの教えを知っている人なら理解できますし納得します。相手を赦すことがなぜ自分のためなのかを理解できない人はおそらく聖書を読んだことがない人かもしれません。人生の価値がお金や名声だと思っている人もそうでしょう。たとえ聖書を読んだことがあっても正しく理解していなければ納得できないでしょう。
キリストを知るには先ずは聖書を読んでみる。そしてそれを正しく理解するために司祭や修道者(シスター・ブラザー)またカテキスタに教えを乞う。そしてキリストを信じる恵みをいただけたら洗礼へ・・そして永遠のいのちをいただく・・・そうなれれば素晴らしい!
YouTube: World-famous flamenco dancer puts on a show for Pope Leo in Madrid
今スペインを訪問中のレオ教皇様です。当然のことフラメンコでの歓迎も
私はパパ様もフラメンコも大好きです!![]()
このように分かりやすく良い話をもっと信徒の方たちに聴いてもらいたいです。でも私の周りのほとんどの人は関心がないようで、自ら学ぼうとする人は数えるほどです。
信徒の中には正しい教えを学び続けることがとても大切で必要なことだと気づいていない人もいます。その結果おかしな集いや運動に惹かれてしまう・・・。それはとても悲しいことです。
「三位一体の主日」の後の木曜日は「キリストの聖体」の祭日です。世界の多くの教会が聖体行列、ミサそして聖体降福式を行います。
YouTube: Hymnus - Adoro te devote
私はごミサでご聖体をいただくと、不安や虚しさは癒されて、満たされた穏やかに気持ちになります。ご聖体訪問だけでも心は落ち着きます。そして自分がいかに自己中心であったかを悟ります。「私はご聖体によって生かされている」と実感します。
聖霊降臨祭日 M.Kさんが生けた祭壇の花 綺麗ですね![]()
3名の方の堅信式と献堂40周年記念の祝賀会も無事に終わりました。美味しく楽しいひと時でした。ちょっとケーキを食べすぎたかな?![]()
さて今日一番大切なことはもちろん「聖霊降臨」です。聖霊降臨についてもう少し詳しい話を聞きましょう。
YouTube: オンラインクラス「聖霊降臨=教会とキリストの結婚」(2026年5月20日)
「聖霊降臨」とは「教会とキリストの結婚」である・・・とても深い内容のお話しです。しかもわかりやすくて、よく理解できました。このような講話を待ち望んでいました。
オンラインクラスはこれからも続くのでしょうか?とても期待しています。楽しみです![]()
主のご復活から50日目の今日は「聖霊降臨」の日です。
1986年の5月25日にカトリック姶良教会の献堂式が行われました。あれから40年・・・これからも姶良教会共同体の一人一人が聖霊の恵みを受けて、より善い信仰生活を送り続けることができますように。
今日は中野司教様による堅信式も行われます。堅信の秘跡を受けられる皆さんおめでとうございます ![]()
アブリ神父様は堅信の秘跡について次のように書いています。
堅信の「堅」は堅めるの意で、堅信とは、信仰を堅め、確かなものとし、力強くすることである。神から与えられた信仰の恵みは、種のようなものであり、年とともに成長し、大きく、深く、強いものにならなければならない。・・・・・堅信を受けられた信者は、日々、神の子であるキリスト者としての生活を営むように心がけ、・・・・・自分に与えられた使命を果たせるように、毎日祈りの中で決意を新たにしなければならない。これは特に毎日の生活の出発である朝の祈りのときに行うのがふさわしい。・・・・(『堅信の秘跡と聖霊』J・アブリ著)
上智・聡明・賢慮・勇気・知識・孝愛・主への畏敬、聖霊の七つの賜物をいただくことによって受堅者の皆さんの信仰がより強く成長し続けますように。