自分が両親の年になるとつくづく思います。私が若い頃一時期祈りを忘れた頃がありました。でもその間も親は私のために祈ってくれていたことを。私が祈りを忘れても守護の天使と親の祈りで護られていたのですね。
聖モニカも息子アウグスティヌスのために祈り続けました。親なら自分のことより子どものために祈るのは当たり前のこと・・・。でもその当たり前のことに気づいていない親もいます。子どものことを嘆くばかりで、その子のために祈らない。祈りの力は私たちの想像を超えるものです。子どもたちのために祈れば、主はその祈りに報いてくださいます。
ということで、今日は夫に誘われて藺牟田池へ行きました。いつもの通り池のまわりをロザリオをしながら一周しました。
絶滅危惧種のベッコウトンボを1匹だけ見ました。ラッキー!
私の好きな小説家阿川弘之さんの娘さんですね。海軍におられた阿川弘之さんの小説には『山本五十六』や『米内光政』など海軍を扱った作品が多いです。阿川弘之さんは「海軍には命がけで戦争に反対した人達がいた」と話しておられました。高い教育を受け、世界のことをよく知っている広い視野を持っていた海軍の人達だからこそ、現状をよくわかっていて戦争に反対したのでしょう。しかし彼らの声はつぶされていきます。
阿川弘之さんの仲間が遠藤周作、北杜夫、なだいなだ、辻邦生さんたちです。皆さんお亡くなりになりました。なんだか正論を言う人がどんどんいなくなり寂しいです。
娘さんの阿川佐和子さんは面白いというか楽しい方ですよね。知識豊かで教養溢れているのに、気取ったところがなく、気さくでどんな人をもド~ンと受け止めてしまう懐の深さ!考え方もお父様に似て真っ正直です。だから私は彼女の話を聞くのが大好きです。
先日YouTubeの「TAKU-音TVたくおん」に阿川佐和子さんが出ておられました。相変わらず魅力的で、楽しい佐和子さんでした。
朝の空腹時の血糖値がなんと156!!! (゚o゚;)~ ガーン ! なぜ?なぜ?・・・やはり昨日のストレスが原因か?帰宅後無意識のうちにしょっちゅう口に何かを入れていたのかもしれません。(入れていたのですね。)ストレスとは恐ろしい~!(ストレスのせいではなく私の意志の弱さのせいですが)
気を取り直して、今日は間食を一切しないことにします。食後のデザートもなし・・・かも。
さて、私の思い書きたいことはたくさんあるのですが、書くのは難しいですね。誤解なく真意が伝わるかどうか・・・。
教会を離れてしまった人たちについて。この人たちの教会に来なくなった理由や原因が実は私たちにあることに気づいていないのではないでしょうか。
教会から離れてしまった人たちを呼び戻そうとしてあることを考えますが、そもそもそのことが教会を離れる原因であることに気づいていないのです。例えば教会での役目(仕事)が負担だけれど「No」といえない。ところが役目を与えればその人はそのために教会に来るようになると思っている人がいます。ますますその人にプレッシャーをかける事になります。またある人は陰で中傷(悪口を言われる)されたことが原因かもしれません。そもそも私たちが教会に行くのは先ずごミサに与るためであって、掃除や諸活動のためではないということです。当たり前ですが陰口や悪口などのおしゃべりをするためでもありません。
病人は別として、ごミサが嫌で(信仰の迷い、喪失)来られないのか、それとも様々な活動や人間関係が嫌で来られないのかを知ることは大切です。それを知るにはまず神父様がその人の話しを聞いてあげることでしょう。そして原因が諸活動であるならば私たちがその人の希望を考慮し、人間関係なら私たちが回心してその人を迎えてあげるべきです。自分は嫌なこともやりたくないことも教会のため、キリストのために喜んでしているというのは本当に立派です。素晴らしい信仰だと思います。でもその信仰心を相手にも同じように求めるのはいかがなものでしょうか。
「何事も皆が平等にしなければならない」という考えには疑問を持ちます。世間一般ではそうであっても教会ではそうあってほしくありません。聖パウロはローマ人への手紙で書いています。
・・・神がおのおのに分け与えてくださった信仰の度合いに応じて自分を評価し、程よく見積もるようにしなさい。私たちの体には多くの部分があるが、それらの部分がすべて同じ働きをしていないのと同様に、大勢のわたしたちも、キリストにおいて一つの体であり、一人びとり互いの部分なのです。わたしたちは与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、・・・奉仕の賜物であれば奉仕し、また教える人は教え、励ます人は励まし、施しをする人は惜しみなく施し、つかさどる人は心を尽くしてつかさどり、慈善を行う人は快く行うべきです。(ローマ人への手紙12章3節~8節)
YouTube: Yo soy el camino firme | Música católica
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私は確固たる道であり、
私は命であり真理です。
・・・・・
私は命のパンです
そしてあなたと一緒にいました。
・・・・・
私は良い羊飼いです
愛のために命を捧げます。
・・・・・
この歌を聴いていると本当に心が安らぎます。小さなことに思い煩っていた自分・・・「主への信頼はゆるぎない」と自覚させてくれる歌です。
庭の一角が空いたので何か木を植えたいと思い春の木市へ出かけました。
ミモザは綺麗ですが根の張りが弱く台風で倒れたことがあるので却下。イペーも我が家の土には合わないらしく枯れてしまいました。数十年前モクレンの木がありとてもよく育っていたのですが、電話線に引っかかるというので切ってしまいました。今空いている所は電話線も電線もなく、なんといってもモクレンの花の咲いた樹形はとても美しいのでモクレンを植えることに決めました。
さてそこで花は何色にしよう?夫と話し合うのですがこれがなかなか決まりません。真白、クリーム色、黄色、紫色、桃色それとも赤・・・。そして買ったのがこれです。
白モクレンとバルカンです。実をいうと木市にあったのは白が数本と白以外は紫が1本そしてこのバルカンが1本だけでした。やはりモクレンは秋の木市の方が豊富に出るのかもしれません。
とにかく根付いてくれますように。( ◜◡◝ 人
不思議ですね。酒井司教様の本を読み返していたところ、今の私にピッタリの箇所がありました。
「キリスト教に興味があります」と、教会に来て、だんだんと教会の中に入っていってですね、そこの信者さん同士に何か諍(いさか)いがあるとか、あるいは神父さんの悪口を聞くとか、そういうことがあれば、確かにつまずきになる危険性がありますよね。「イエス・キリストは信じたいけれど、キリスト教徒にはなりたくない」。そういうことになってしまう。それは私たち信者の側に大いに責任がある。私自身も含めて・・・・。(『雇われ羊飼いのみたび言いたい放題』より)
これを読んで確かにその通りだと思いました。また司教様は説教でも話しておられました。「家族の中で一人だけ信者の人が、いつも教会から家に帰ってきて家族に教会の人の悪口を話していたとしたら、聞かされた家族は『教会はそんなに良いところなら私も行ってみようかな』とは思わない。そんな教会には行きたくないと思うでしょう」。
私たちは故意にではなくても自分が気付かないうちに他の人につまずきの原因を与えている事がよくあります。司教様の本を通して今の私に主が諭してくださったのだと思いました。
主に感謝!
日々いろいろなことが起きます。嬉しいことなら良いのにちょっと心が重くなることも。
「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さない。口から出るものこそ人を汚すのである」。(マタイ15章11節~12節)
そうですね。何気なく話したことが大ごとになったり、誤解を生んだり・・・さんざんです。こんな時に聖ホセマリアの言葉が頭に浮かびます。
・せいぜい時間の無駄にしかならないような無益な思いは、遠くへ投げ捨ててしまいなさい。
(すぐに投げ捨てます。)
・あなたのエネルギーと時間は神のものであり、道端で吠えかかる犬に石を投げたりして、無駄にしてはならない。無視しなさい。
(気にせずに無視します。)
・心の痛みは神の愛の試金石であることを忘れてはならない。
(忘れません。)
・信心に凝り固まった人と信心深い人との違いは、聖人ぶった人と本物の聖人との違いに等しい。
(信心に凝り固まった人にはならないように気をつけます。)
・神の御母は慎みのこの上ない模範である。聖ヨセフにさえ、あの神秘を明かさなかった。あなたに欠けている慎みを聖母にねがいなさい。
(聖母に倣い慎みを身につけます。)
これからは余計なおしゃべりはしないように気をつけます。主も聞いておられるのですから。これからも主に信頼して、主が望むことを愛します。
Fr.Z のローマでの食事の一品。よく見るとお皿の上の方に写っている小魚は鹿児島名物の「きびなご」に見えるのですが・・地中海でもきびなごが取れるのでしょうか?小さなイワシならオイルサーディンでよく目にしますが。もしこの魚がきびなごなら、絶対に美味しいはずです。
今日偶然に立ち寄った蒲生のくすくす館で「ルバーブジャム」が販売されていました。外国のレシピによく登場するルバーブ、それから作るルバーブジャム。一度は食べてみたいと思っていました。迷うことなく緑と赤のジャムを買いました。
そして明日の朝食が待ちきれずに、少しだけパンに塗って味見をしました。う~ん期待が大きすぎたせいか、それほどの感動はないジャムでした。特に香りもなく野菜の味もかすか、酸味はありますがルバーブそのものの酸味か、添加してあるレモンのものかよくわかりません。くせがないので食べやすく、パンやお菓子に合うと思います。普通に美味しかったです。(*ˆ~ˆ*)
ヨハネ・パウロ二世教皇様は2,000年から復活の主日の次の日曜日=復活節第2主日を「神のいつくしみの主日」と定められました。そして2002年8月3日に「神のいつくしみの主日」に全免償を受けることができる旨の文書が発行されました。
教皇様の「神のいつくしみのメッセージ」の中に、次のような文章があります。
人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。この愛が、回心をもたらし、平和を与えます。どれほど世界は、神のいつくしみを理解し、受け入れる必要があることでしょうか。
死と復活によって父の愛を現してくださった主よ。わたしたちはあなたを信じ、今日、確信をもってあなたに繰り返してこう述べたいと思います。イエスよ、わたしはあなたを信頼しています。わたしたちと全世界をあわれんでください。
このメッセージはいつも私たちにとって新鮮なものです。今もこの世は悪と利己主義に覆われています。神のいつくしみを特に必要としている人達がそのいつくしみを理解して、それを受け入れ、回心して平和を築いていきますように。
パソコンのお気に入りの整理をしていたところ、こんな動画がありました。久しぶりに見て、現代の聖人たちの姿にほっこり
YouTube: John Paul II & Mother Teresa of Calcutta: Beautiful friendship
ついでに他の聖人たちにも登場願いましょう。
ご復活祭のごミサの後にある「Urbi et Orbi」、時差があるので日本では19時頃になります。いつも教皇様への不満を口にしている私でもやはり年に2回の祝福は是非受けたいのです。そして今回も受けることができました。しあわせ~
YouTube: Messaggio e Benedizione “Urbi et Orbi” 09 aprile 2023 Papa Francesco LIS
キリストのご復活おめでとうございます アレルヤ!
救い主キリストは復活されました
使徒聖トマスは見て信じました。私たちは見なくても信じることができますように。
この世ではいつも苦しんでいる人たちが必ずいます。戦争、暴力、破壊、虐待、搾取・・・。これらは神様が与えたものではなく、私たち人間が犯した罪の結果です。罪人の私たちが毎年回心してキリストの復活を祝っているのなら、この世の中はもう少し良くなっているはずなのに・・・。
それでも、キリストのご復活は光であり希望です。アレルヤ!
今年はテーブルにコロンバが初登場!作り方や焼き時間にミスをしましたが、初めてなのでよしとしましょう。美味しければそれで良いのです。そしていつものクリーチと卵です。
焦げたところを隠そうとしてパールシュガーをかけ過ぎました!
上の卵型の飾りは普通は11個だそうです。12使徒からイスカリオテのユダを除いた11人をあらわしているとか。でも私は12個飾ります。
今年の卵は6個だけ。
YouTube: Sorrowful Mother- Catholic and Orthodox Ukrainian Lenten Hymn
『典礼憲章』によると:
主の受難と死去の聖金曜日に行われる復活断食は、神聖なものである。それは、いずこにおいても守るべきものであり、また、適当であれば、聖土曜日にも続行すべきである。・・・信者は、可能であれば過越の聖なる断食によって復活徹夜祭に備えることが勧められています。
つまり聖金曜日と同じように聖土曜日も「復活の聖なる徹夜祭」までは断食と沈黙そして祈りで過ごすのが望ましいということです。私は聖金曜日は大斎小斎と祈りを大切にして過ごしますが、聖土曜日は毎年ご復活の卵や様々な準備に追われて忙しく過ごしています。今年も教会での卵の準備に掃除、家でも同じく卵や料理の準備があります。これで良いのでしょうか?主のご復活を待つのに一番大切なことをおろそかにしているような気がします。そう、聖書にあるマリアとマルタの話のように。
ある神父様はマルタとマリアの話について「おそらくマルタもマリアと一緒にキリストの話を聞き、その後マリアはマルタを手伝って一緒にもてなしの準備をしたのではないだろうか・・・」と書いておられます。確かに優先すべきことを先ずはする、それもあわてていい加減にするのではなく落ち着いてじっくりと行うことが大切だということでしょう。
主のご復活を迎える準備で卵やご馳走を用意することは大事ですが、それよりも大切なのは心の準備だということを忘れないようにします。そして何よりも聖なる過越しの三日間教会へ行くことが一番大切ですね。
いよいよ今晩の「主の晩餐の夕べのミサ」から聖なる過越しの三日間が始まります。心の準備はできていますか?
キリストは最後の晩餐でご聖体を制定されました。
イエズスはパンを取り、賛美をささげてこれを手で分け、弟子たちに与えて仰せになった。「取って食べなさい。これはわたしの体である」。また杯を取り、感謝をささげ、彼らに与えて言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これはわたしの血であり、多くの人に罪のゆるしを得させるために流される、契約の血である・・・」。(マタイ26章26~29節)
そして聖パウロはコリントの教会への手紙の中でこのように書いています。
したがって、ふさわしくない状態で「主のパン」を食べたり、「主の杯」を飲む人があれば、主の体と血に対して罪を犯した者となるのです。(コリントⅠ 11章27節)
「主のパン」をいただくのにふさわしい状態となるために「ゆるしの秘跡(告解)」があります。主の優しさ・いつくしみですね。私たちが大罪を犯しても主は赦してくださる機会を与えてくださってるのです。感謝
ご聖体という特別な形で主は現存し、いつも私たちと共にいてくださいます。聖櫃には主がおられます。いつもそのことを忘れないでいましょう。
「子ども家庭庁」が発足しましたね。少子化対策として児童手当の支給・妊娠から出産・子育てまでの一貫した支援・保育行政そして児童虐待、いじめ、貧困対策など、子どもに関わる業務を幅広く担当するそうです。
少子化もいじめもず~っと言われ続けていますが、現状はほとんど変わらずといったところですね。
子育てについては人それぞれに思いや考えがありますが、私の場合は専業主婦で子どもを育てました。結婚当初、夫は私に外で働いたらいいと言っていましたが、私が専業主婦を望みました。自分が専業主婦として子育てをしたかったからです。経済的には配偶者控除があったので助かりました。夫はいつも子どもたちを入浴させ、寝かしつけてくれました。アイロンがけや皿洗いに掃除、買い物も手伝ってくれました。子どもが熱を出すと病院へ連れて行くのは夫。妻が専業主婦の夫は「男尊女卑の考えの人」というのは大きな間違いです。そう言う人は「仕事に貴賤なし」ではなく「貴賤あり」と思っているのでしょう。外で働くよりも家事は劣る仕事だと。
私のように自ら専業主婦を望み自分で自宅で子育てをしたいという女性もいることを忘れないでほしいです。外で働くことだけが労働ではありません。
ある大学の専門家の先生が「ドイツのように男女の給与の格差をなくし、すべての妻が外で働けるように日本は『妻は家庭で子育て、夫は外で働く』という古い意識を改革しなければならない。そのためには配偶者控除を廃止しなければ・・・」と、話していました。もしあの頃配偶者控除がなければ私は子どもは3人ではなく1人しか生まなかったかもしれません。
幸いなことに別の先生は「専業主婦として家庭で子どもを育てたいという女性もいる」と、話されました。その人たちのことも考えなければならないと。
私のような考えの人は少数かもしれませんが、私の同級生はほとんどが専業主婦で子どもを育てました。今の少子化対策は根本から考えがずれているような気がします。ですからいくらお金をつぎ込んでも、こんなに長い年月をかけても改善しないのではないでしょうか?配偶者控除を無くしたら私のような考えの人も子どもを産まなくなりますよ。
子どもの服を縫ったりお菓子を作ったり、子育ては楽しいこともいっぱい。子どもたちが巣立った今はお菓子を作っても夫と二人だけで血糖値を気にしながら食べています。
紅茶バナナケーキ
最も大切な聖週間が始まります。イエズス様はこれから起こることを知りながら、どういう気持ちでエルサレムに入ったのでしょうか?
棕櫚の葉を持ち、キリストが通る道に敷物を敷いて歓迎したエルサレムの人々。まさかそのキリストが十字架にかけられるとはその時誰が思ったでしょう。でも事実は聖書に記されている通りです。
あの時聖母マリア様と共に最後までキリストの十字架に従った人もいれば、良い時にはキリストを歓迎し、悪くなると簡単にキリストを捨ててしまう人たちもいました。私たちはそうならないように、強い信仰を持って、聖母に倣えるように主の助けを願いましょう。
⇧ Kカトリック教会 ⇩ 枝の行列をする前です。毎年手にオリーブの枝を持って行列します。オリーブはソテツの葉と違い刺さないので良いですね。たしかM教会もオリーブの枝を使っていました。
YouTube: Hosanna filio Davidー棕櫚の葉を手に持って
(この聖歌を歌っておられ玉置和男先生は1932年生れ大阪田辺カトリック教会の信徒です。)