今日は「灰の水曜日」、四旬節が始まります。復活祭を迎えるための回心と償いの40日間の始まりです。「あなたは塵であり、塵に帰って行くのです」
私は今まできちんと計画を立てないで過ごした四旬節は必ず良い準備ができないままに復活祭を迎えてしまいました。今年の四旬節はレントカレンダーを作り、良い準備をして素晴らしい復活祭を迎えたいと思います。
私たちは四旬節には神への祈り、自分自身の節制、そして他人へ慈善を行うようにと教えられてきました。四旬節と聞くと「〇〇をしない」という自分に対する節制を思い浮かべる方が多いと思います。そして節制して使わなかったお金を他の人のために献金する。これは節制と慈善がひとつになっています。
祈りと慈善がひとつになったのがロザリオの祈りではないでしょうか。つまりロザリオの祈りとその意向です。教皇様のために、司祭様のために、苦手な〇〇さんのために、大好きな〇〇さんのために、病気の人、悩み苦しんでいる人、煉獄にいる霊魂、改心・回心の必要な人そして教会のため等々。自分のためではなく誰かのために祈るのです。
毎日新型コロナウィルスのニュースがはいってきます。今までに亡くなられた方は1700名余り。しかし去年すでに6000人以上の人が亡くなっている国があるというニュースは届きません。
それは感染力の強い「はしか」がコンゴ民主共和国で今も猛威を振るっていることです。しかも亡くなる人の73%は5歳未満の子どもです。自分に直接関係のないことには無関心な私たち。マスコミも取り上げるニュースを選びます。しかしキリストの教えを信じている人なら、貧しく虐げられている弱い人達にこそ目を向けて助けるべきでしょう。誰も手をさし出そうとしない人たちにこそ手を差し伸べるのがキリスト者です。皆さん国境なき医師団を通して助けの手を差し伸べましょう。➡ https://www.msf.or.jp/
教皇ベネディクト16世が「聖ペトロの使徒座」について話されたことです。
・・・キリストは、ペトロを「岩」として選び、その上に教会を建てました(マタイ16・18参照)。ペトロは、主の昇天と聖霊降臨の後、エルサレムでその奉仕職を開始しました。教会の最初の「座」は二階の広間でした。二階の広間は、イエスの母マリアも弟子たちとともに祈った場所です。おそらくこの場所で、シモン・ペトロに特別な地位が与えられました。その後、ペトロの使徒座はアンティオキアに移りました。・・・「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(使徒言行録11・26)この町で、ペトロは最初の司教になりました。・・・このアンティオキアから、神の摂理に導かれて、ペトロはローマに赴き、そこでペトロは殉教し、その福音への奉仕の旅を終えます。だから、ローマの聖座は、深い栄誉を与えられると同時に、キリストによってペトロに委ねられた使命をも与えられているのです。・・・こうしてローマの聖座は、ペトロの後継者の座として、また、ローマ司教の「司教座」として知られるようになりました。この「司教座」は、自分の群れを牧するようにキリストに命じられた使徒の座を表します。・・・ローマの司教座はその神の民全体を導く使命をも表しているのです。・・・・・サンピエトロ大聖堂の後陣には、使徒の座を表す彫刻が置かれています。これはベルニーニの円熟期の作品です。この彫刻は、教会の四人の博士の彫像で支えられた、巨大な青銅の玉座の形で作られています。四人の博士のうち、二人は西方教会の聖アウグスチヌスと聖アンブロジオ、二人は東方教会の聖ヨハネ・クリゾストモと聖アタナシオです。(教皇ベネディクト16世の話 2006年2月22日)
トマさん(小寺神父)の2月16日年間第6主日のごミサの説教はキリストの教えがよくわかりました。「トマさん祈りの部屋」ここ⇩
https://toma-san.at.webry.info/202002/article_6.html
理解しているようでいて曖昧な理解に終わっている聖書の様々な箇所。私は何年たっても明解な答えは得られずに曖昧さだけが残っていました。しかしオプスデイの神父様方の本に出合い、またその説教を読むうちに的確な説明を得ることができました。それは私の曖昧な理解を正すものです。
マタイ福音書5章17~37節の「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」というキリストのことばの箇所もそうです。小寺神父様の説明はとても良く理解できます。もっともっと説教を聴きたく(読みたく)なります。()
また作ってしまいました。炊飯器でケーキ!あまりにも簡単に作れるので、空いた時間でついつい作ってしまいます。
チーズオレンジケーキ
今回は冷蔵庫内の片づけを兼ねて、賞味期限切れのクリームチーズとレモン、オレンジジュースを使ってホットケーキミックス粉で作りました。レモンとオレンジジュースでさわやかケーキを目指しましたが、オレンジの味や香りは微かに感じる程度でした。
こちらはコーヒーケーキですがチーズオレンジケーキと同じに見えますね。食べてみたらその違いがわかります。
チーズオレンジケーキ
材料: ホットケーキミックス粉 200g. 卵 3個、
砂糖 100~150g.、 クリームチーズ 約300g.
オレンジジュース 150ml.
レモン1個(果汁・皮はすりおろす)
粉糖(飾り)
クリームチーズ+砂糖+卵+オレンジジュース+レモン果汁+レモン皮+ホットケーキミックス粉の順にすべて混ぜ合わせて、炊飯器の釜に流し入れて、ケーキモードで60分セットするだけ。冷めてから粉糖をふって飾ればOK。甘さや酸味は砂糖やレモン果汁の量で加減してください。クリームチーズはたまたま300g.強余っていたので使いましたが200g.位で大丈夫だと思います。
コーヒーケーキはホットケーキミックス粉200g、卵3個、砂糖100~150g.、ひまわり油50ml、インスタントコーヒー大匙3~4(お好みで)、牛乳150ml 温めた牛乳にコーヒーを溶いて生地に加えます。ひまわり油(植物油)の代わりに溶かしバターにするともっと美味しくなると思います。
バナナケーキの時にはコーヒーと牛乳の代わりに大きなバナナを2本(小なら3本)細かく切って入れます。卵は4個に増やして、ホットケーキミックス粉にベーキングパウダーを小匙1加えます。ケーキモードの炊飯器で同じく60分です。
ホットケーキミックス粉を使うと簡単です。しかし焼き上がり後すぐはふんわりこしがあるのですが、冷めると硬くなってしまいます。手抜きしたものとそうでないものが同じに仕上がるわけがありませんよね。「手抜きした物はそれなりに、そうでないものはより美味しい」です。
夫は「もう作るのを止めてくれ~!」と言っています。お互い血糖値が気になりますから。
教会バザーがありました。私はご飯を炊くことになり、久しぶりに一升炊きの炊飯器を倉庫から出しました。昔は毎朝お弁当を四つ作っていました。その頃はこの一升炊きの炊飯器が大活躍。子どもたちと別々に暮らすようになった今は5合炊きでも大き過ぎるくらいです。
あの頃は毎朝5時前に起きてお弁当を作りました。作るのを楽しむ余裕などなく、ただ頑張って作るという毎日でした。でも今思うと私よりお弁当を持って行く家族の方がずっとずっと大変で、頑張っていたと思います。自分の労苦ばかりを思い、家族の頑張りに思いがいたらなかった私でした。
今お弁当作りに励んでいるお母さん方、頑張っている家族のことを思いながら少しは楽しんでお弁当を作ってください。
バザーではカレー係でした。ベテランの方のカレーの作り方がちょっと凝っていました。人参と南瓜は別々に茹でます。後で人参のゆで汁も使います。玉葱をよく炒めて取り出します。次に肉を炒めてローリエの葉を入れます。ここに人参をゆで汁ごと加えお湯を足します。しばらく煮てから次にじゃがいもを加え煮て、次に炒めた玉葱も加えて煮ます。そして茹でた南瓜を加えて、(多分)煮干しの粉?とチキンスープの素?インスタントコーヒーを入れて煮込みます。最後にカレールー(甘口3:中辛1:辛口1の割合)を入れます。
私は初めてこのような作り方があるのを知りました。皆さんはどのようにカレーを作りますか?
バザーで買ったおにぎりと煮しめ、ケーキにクッキー、ミニ肉まんにふくれ菓子、どれも美味しそう!
最近教会の中にも民主主義・平等の話を見聞きします。世間と教会は同じでなければならないという考えでしょうか。
かつてこういう考えの人に対して聖書学者であった小平卓保神父様は「世間一般の常識と教会の常識は違いますよ」と、話されていました。それは教会の教えをまげて世間に合わせようとすることへの警告でした。一般社会で言う民主主義は教会にはありません。民主主義とは人に主権のある人間中心、教会は父と子と聖霊の神中心だからです。「教会には民主主義がない」と不満を言っておられる方は、その不満自体間違っています。残念なことに今は「教会の常識は一般社会の常識と同じでなければならない」と言う考えの人が増えているようです。
トマさんは小平神父様と同じようなことを書いておられます。「民主主義、人権、個人の権利が強調される現代社会では、自分を与える「奉献」の価値が理解されません。世の流れに逆らう生き方です。しかし、自分を捧げるとき、自分が最大限に生きるのです。日々、世間の流れに逆らって神への奉献を新たにしましょう。」■*2020/02/02『主の奉献』ミサ説教より
アマゾンシノドスを受けてフランシスコ教皇様の『使徒的勧告』が公布されました。予想に反して()新しい改革はありませんでした。これで怒っている人もいるでしょうが、私は主に感謝!
カトリックでは儀式(ミサ・ゆるしの秘跡等)を行えるのは叙階の秘跡を受けた司祭だけです。しかしマルチン・ルターは、このカトリックの教義に対して、「キリストに従う者は、誰でも儀式を行う権利を持つ」と、カトリックを批判しました。これがプロテスタント共通の「万人祭司」と言う考えです。
ですから教師(牧師)には男性、女性、既婚者、どんな職業を持つ人でもなれます。(プロテスタントでは司祭と呼ばずに教師・牧師と呼びます)つまりその教会のすべての信者が平等に神と繋がっているので、教師(牧師)と信徒は平等、教師(牧師)だけでなくすべての信徒が儀式を行えるという考えです。
ん?この考えはカトリックの中でも最近よく耳にしますね。カトリックのプロテスタント化?こういう現実を憂いベネディクト16世とサラ枢機卿は本を出版することにしたのかもしれません。しかし教会内からこの本に対する批判も・・・カトリック内でも想像以上にこの考えが広まっているのかもしれません。
ある教会ではごミサの中で信徒の方がご聖体を配ることがあります。ある時ご聖体ではなく祝福を受けたい人の頭に十字の印をして祝福を与えていました。???信徒が祝福を与えることはできないはずですが???
以前から思っていたことですが、ごミサの最後に全員に司祭から祝福が与えられるので、ご聖体拝領の時に祝福を与えることは考慮した方が良いと思います。と言うか、以前は「聖体拝領」はご聖体をいただくためだけのものでした。拝領準備のできていない信者や洗礼を受けていない方を軽視する意味のものでは決してありません。私は以前のように聖体拝領はご聖体をいただくためだけにした方が良いと思います。
今日はルルドの聖母の日(世界病者の日)です。ルルドはこの曲であふれているでしょう。メロディーは世界共通!カトリック聖歌は歌いやすくて、世界共通の曲も多いです。
今日は世界中で一緒に、病気で苦しんでいる人とその家族や世話をしている人たちのために祈ります。聖母の取り次ぎが彼らの心の支えとなりますように。また聖母マリア様が希望を与えてくださいますように。
A priest may not by his own authority change the liturgical texts. That would be a liturgical abuse. The priest does NOT have the option to do that.(5 February 2020 Fr.Z)
教会法・典礼に詳しいFr.Zは「ごミサの典礼文は司祭が勝手に変更する(言葉を変えたり、何かを付け加える)ことはできない」と書いています。これはとても重要なことです。
司祭が変えた典礼文を聞いたり、司祭独自の聖書解釈を聴く時のごミサほど居心地の悪いものはありません。
一般の儀式なら誰がどんなスピーチをしようと私には何の影響もありません。しかしごミサは典礼であって一般の儀式とは全く違うことを理解しなければ。それにはまずごミサとは何であるかをよく理解していなければなりません。そうでなければごミサにコンサートや観劇のような楽しさを求めてしまうことに何の違和感も感じない人が増えてしまいます。
*(教会でゴスペルを歌いながら高揚して楽しんでいるシーンをよく映画などで見ますが、それはプロテスタントの祈祷集会であってカトリックのごミサではありません。)
余談ですが、アメリカの民主党候補者選びの選挙で使われた「選挙アプリ」は不具合が生じて混乱を招きましたね。このアプリと同様に「教皇選挙アプリ(Conclave app」の開発を進めたい人達がいるようです。まさか冗談でしょう!・・・でもロザリオアプリも発売されているし、今のヴァチカンならあり得るかも ・・・どうかフェイクニュースでありますように。
「春節」(野花の生け花より)
以前にも書きましたが葉室麟さんの小説『嵯峨野花譜』で嵯峨御流いけばなを知りました。そして小説を読んで以来ずっと「嵯峨御流」が気になっていました。
たまたまYouTubeで見たお花が素敵で、それを生けておられたのが嵯峨御流師範の方でした。基礎だけでも習いたいと思ったのですが近くに教室はありません。仕方がないので本を買って読んでみることにしました。
そもそも「嵯峨御流」とは仏前供養の「嵯峨荘厳華」、生花の「未生流」、盛花・瓶花の「嵯峨流」を総称して、三様式の流名はそのまま残し対外的に「嵯峨御流」と呼ばれているそうです。
私は二十歳くらいの頃に母に勧められて一度だけ未生流のお稽古場へ伺ったことがあります。お花の先生は勿論のこと生徒さん方も年配の茶道の先生をなさっている方が多く、その凛とした空気、雰囲気に怖気づき二回目はありませんでした。あの時に頑張って通い続けていたら・・・今は後悔しています。
『嵯峨御流いけばな』です。⇩
先日夫と「専心池坊いけばな展」を見に行きました、
夫は英国スタイルの華やかなお花が気にいったようです。どの作品もとても美しく華麗で、特に私の好きな椿の生けてある作品の前ではつい長く足が止まってしまいました。そして花器も素晴らしく、お花との調和も見事でした。
様々な作品を見て、人はそれぞれに好みが違うからこそ良いのだと思いました。また自分の好きな花が生けてあると特に嬉しくて心が温かくなることも。
生け花は生ける場所と目的によっても違うでしょう。茶室にぴったりな生け花でも教会の祭壇には不向きなことがあります。祭壇のお花は主を賛美するためですから華やかさも必要ですね。国によっても様々な習慣や生け方があると思います。
KYOTVで日本の宣教についの紹介がありました。その中で、ある時ご婦人が神父様に「初金」について尋ねたところ、その神父様は「初金や十字架の道行き等の信心業は必要ありません。全部捨ててください。ごミサだけを大切にしてください」と、言われたそうです。この考えはある時期多くの司祭に影響を与えました。
私はこの話を聞いて妙に納得しました。それは世界的に信徒が少なくなり召出しが少なくなっている原因の一つがわかったような気がしたからです。この話を聞いて私が思ったのは神父様の答とは違い「信心業を大切にする人はごミサも大切にする」ということです。
信心業は初金ミサ、十字架の道行きだけではありません。ロザリオの祈り・ノヴェナも信心業、ご聖体訪問も信心業です。他にもお告げの祈りや聖母マリアの七つの悲しみの道行き、グアダルーペやルルド、ファティマ、チェンストホーヴァ等の聖母への信心業、またメダイやご絵も信心業の道具の一つです。
昔は多くの家庭で信心業を通して親は子どもに信仰を伝えていました。家庭での信仰教育です。親は子どもと一緒にロザリオを祈り、教会の前を通るときには十字を切り、あるいは聖堂に入りご聖体の前に跪いて短い祈りをしました。しかし第二ヴァチカン公会議後信心業を軽視する神父様が増え、結果、子どもたちに信仰が伝わりにくくなりました。ご聖体を一番大切にする信心が育たなければ当然ごミサに与る意味も薄れてしまいます。
長い年月をかけて形作られ伝えられてきた伝統は人々の知恵と信仰によって生み出されたものです。私は古くから受け継がれているそれらを簡単に捨ててはいけないと思っています。
近年信心業を勧める神父様方が増えています。今まで教皇様方は一度もロザリオなどの信心業をやめなさいと言ったことはありません。それどころか聖母訪問をし、道行きをし、ロザリオを祈っておられます。
信仰生活とはごミサに与るだけでなく、その時以外もイエズス様やマリア様を忘れずに、信心業をしながら祈り生活することではないでしょうか。かえって信心業によってごミサを大切にする心が育つのだと思います。
今日5日は日本26聖人殉教者の祝日です。殉教された聖人の皆さんもきっと信心業が大好きだったと思いますよ。
作詩:永井 隆