聖トマス・モアが殉教したのは1535年7月斬首刑によってでした。あれから約485年たった今、その殉教の意味は忘れられようとしています。
「私は、まず神の忠実なしもべとして、それから国王の忠実なしもべとして死んでいきます」と言って殉教した聖トマス・モア。彼の神への忠実さ・・・彼に倣い私たちも神の教えに忠実に生きなければ!
同じく聖ヨハネ・フィッシャー司教も同じ理由でヘンリー8世によって処刑されました。この聖人たちは共にヘンリー8世の意に従わず、イギリス教会がカトリックから離教することに反対し抵抗して殉教しました。
かつてカトリックの教義に反することが今ではそうでないかのように話す人もいます。主の教えは変わりません。
「イエズスの聖心」といえば主キリストの愛=神の愛のことでしょう。聖マルガリータ・マリア・アラコックにご出現されたイエズス様は人々の聖心に対する冷たい態度をとても嘆かれました。そしてイエズス様の愛に倣いその心を尊ぶようにと願われました。そしてご聖体の祭日後の金曜日を特別に聖心を礼拝する日とするよう告げられました。
聖女の時代より今はもっとイエズス様の聖心を蔑ろにしている人が増えていると思います。人々の信仰は生ぬるくなり、教義を都合よく曲げて教える人たちになびく人も少なくありません。
イエズス様はとてもとても優しい方ですが、その優しさに甘えてわがままな子どものように自己中心になってはいけませんね。イエズス様だって叱る時には叱るのですから。イエズス様に叱られる前に、その豊かな愛に感謝して教えに従うように頑張ります。
今朝のごミサで最後に神父様は『イエズスの聖心に対する祈り』も唱えられました。 明日は聖母の聖心です。
昨日木曜日は「キリストの聖体」の祭日でした。
主キリストは私たちと共にいつまでもこの世にとどまることを望まれました。ご自分の聖体(おんからだ)と聖血(おんち)を私たちの霊の食物とすることを望まれました。それがご聖体です。「私はいのちのパンである。天から降ってきたパンを食べる人は決して死ぬことはない。私は天から降ってきた生きたパンである」と言われました。
ご聖体をいただくということはキリストと交わること、私たちのうちにキリストが生きておられることです。
ご聖体拝領以外にも機会があればいつでも秘跡のうちにおられるイエズス様を訪問して崇拝し、短い時間でよいので賛美の祈りを捧げましょう。
初めてご聖体をいただいた私(昭和30年代?)
私は公教要理で「神様は唯一であり、そして父と子と聖霊という3つのペルソナがあります。この3つのペルソナはそれぞれ全知・全能・全善・至聖です。この3つのペルソナはそれぞれみな等しく、この3つのペルソナのある唯一の神を「至聖なる三位一体」といいます」と教わりました。
三位一体を何かに例える必要はありませんし、できません。この世の全てのものを作られた神を神の被造物に例えて説明すること自体おかしなことです。無理に例えるから誤った理解(汎神論等)が生まれるのです。頭で理解しようとせずにそのまま素直に信じましょう。
父なる神は私たちを造られ、子なる神は私たちを贖い、聖霊は私たちに神の生命(理性・知恵)を与えられます。それは3人の神がいるのではなく、その3つのペルソナは唯一の神です。
十字をきる時には「父と子と聖霊のみ名によりて、アーメン。」
栄唱 「願わくは、父と子と聖霊とに栄えあらんことを。▴始めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで。アーメン。」
チーズが切れてしまい買いに行かなければと思っていました。我が家の近くの店にはチーズといえばプロセスか、やたらカマンベールだけは色々なメーカーの物が置いてあります。しかし他のナチュラルチーズがないのでいつも牧場へ行った時に買っていました。
梅雨入り前、緊急事態宣言も解除されたので、人の少ない平日を選んでチーズを買いに出かけました。本当に人が少ない・・。店内のチーズも少ない・・・。パルメザンは最後の1個をかごへ。
外のベンチに座って霧島連山を眺めながらボ~~~ッとする・・・青空と太陽、心地よい風、木々の緑とウグイスの声・・・これらすべてを創造された主に感謝!
最後はおやつに持って行ったバスクチーズケーキを食べました。クリームチーズとカッテージチーズを半々にして作ったので、少し酸味があり美味しかったです。自然の中だとまた特別ですね。