よく「自分探し」をする人の話を聞いたり、「そのままのあなたでいいよ」とかいう言葉聞くたびに、「そうかな?違うと思うな~」と感じていました。私の疑問をスッキリとしてくださったトマさん、さすがトマさんです。
『トマさん祈りの部屋』からの一部コピーです。⇩
一昔前、「自分探し」が流行りました。・・・本当の「自分らしさ」は、どこにあるのでしょうか?・・・・・世間的な物差しで人生を測ると、勝つか負ける、成功か失敗、幸運と不運などに区別されます。しかし、人間は偶然の産物ではなく、神の愛によって生まれ、育まれ、完成するものです。そこには世間的な価値観では測れない霊的な側面があります。神と自分の関係に気付いた人だけが、本当の意味で「自分らしさ」を理解し、納得できます。・・・・・「あなたは、今のままでいいよ」とか、「無理しなくても、今のあなたがあなたらしい」という自己肯定を勧める言葉が氾濫しています。神が描いた各自のキャラクターを生きるという意味なら正解ですが、自分勝手なキャラクターを生きることは、物語を台無しにします。神のキャラクターを台無しにする自分勝手を罪と言います。「怠惰、高慢、虚栄心、わがまま、下品な好奇心、悪口、言い訳、依存心など」は、けっして「そのまま」でよくありません。これらは心の不純物で、神がお望みの自分を妨げますから、取り除く努力が欠かせません。戦うことで、「自分らしさ」が輝き出て、全体の神の物語が生きるのです。2018/07/11 聖ホセマリア著『道』第1章「性格(キャラクター)」解説より
その通りですね。「そのままのあなたで」とか「ありのままのあなたで」とか言われると、何て優しい甘いささやきに聞こえます。でも、キリストは罪人を呼んだ時に「そのままのあなたで良い」とは言っていません。呼ばれた人は皆キリストに倣う生活をするよう変わりました。聖マグダラのマリアは生活を改めて、二度と同じ罪を犯しませんでした。キリストは姦通の女(マグダラのマリア?)に会った時に「わたしもあなたを罪に定めない。今のあなたのままでいいよ」とは言われず、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはならない」と言っておられます。
聖マリアマグダレナ
私はデーツが大好きで、安いとつい買ってしまいます。そのまま食べるのも美味しいのですが、今回はこの甘さを利用してデーツマフィンを作りました。
材料: ブランデー漬けデーツ 約15~20個位
ホットケーキミックス粉 200g.
砂糖 70g.またはデーツシロップ大匙2~3(好みで加減)
卵 2個
バター 50g.(ヘルシーにしたければオリーブ油50ml.)
生クリーム 100ml.(牛乳でも可)
・オーブンは180℃に予熱しておく。
・ブランデーに漬けたデーツの実は種を取って刻む。
・卵を泡立て器でよく混ぜ、砂糖(またはデーツシロップ)、生クリーム、溶かしバター(さましたもの)を加えホットケーキミックス粉とデーツも加えて混ぜる。(卵を泡立てるほどに良く膨らむ)
・マフィン型の半分くらいまで生地を入れて約20分位様子を見ながら焼く。
デーツはとても甘いのですが、風味がありません。そこでデーツをブランデー漬けにして使いました。多分ラム酒でも美味しいと思います。次はフルーツケーキを作る時に入れようと思います。
デーツシロップもよく使います。蜂蜜と同じようにトーストやパンケーキに塗ったり、煮物をする時には砂糖代わりに、カレーの隠し味にも。
ペースト状のデーツもあるようですが、私はまだ使ったことがありません。多分ケーキやパンを作る時の生地に練りこんだり、あるいは餡と同じようにお団子につけたり、ジャムのようにトーストに塗ったりして使うのかもしれません。一度買って試してみようと思います。
ローマの聖マグダラのマリア教会へ行った時に、一つのチャペルの前に聖カミロの御絵が沢山置かれていました。私は後で知ったのですが、この教会に聖カミロが埋葬されていたのです。私もご絵を一枚いただき、病気の人のために聖カミロに取り次ぎを祈りました。
1550年に生まれた聖カミロの性格は短気で攻撃的で、しかも賭博やお酒が好きな生活をしていました。しかし、ある修道士の説教を聞いて回心し、悪い習慣を断って病院で働き始めました。そして聖フィリッポに司祭になることを薦められて、34歳で司祭になり、2人の同志と共に「病人のしもべ」(Ministers to the Sick)という修道会(後のカミロ修道会:Camillians)を創立しました。
カミロ修道会は病人に仕える聖職者修道会です。会員は肩や胸に赤い十字架をつけて活動し、この修道会の活動が赤十字運動のもととなりました。聖カミロ・デ・レリスは、病者と医療従事者の守護聖人です。
今日は聖ハインリッヒの霊名日です。聖ハインリッヒ=ハインリッヒ2世はバイエルン侯ハインリッヒの息子で、後にドイツ皇帝オットー3世のあとを継いで皇帝となりました。彼は聖堂や修道院をたくさん建て、また教育・文化・宣教のために力を注ぎました。素晴らしいキリスト教の君主としてよく知られています。
主は富める人も貧しい人も主の道具として使われます。聖書には「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しい」(マタイ19:24)と書かれています。だから単純に貧しい人だけが主に愛されて天の国に入れると思っている人がいます。しかしそうではありません。財産や権力があってもそれらを正しく主のために使う、主の道具となれる人は主から愛されています。地位もお金もある議員のアリマタヤのヨゼフもイエズス様のために新しい墓を用意して埋葬しました。主が求めておられること、主のみ旨を行う人が主に愛されて、天の国に入れるのだと思います。
なんと悲惨な状況でしょう。今回の豪雨で亡くなられた方が88名、重体の方が4名、行方不明の方が58名、こんなに痛ましい災害になるとは・・・。言葉もありません。
絶望と不安の中におられる方々に希望と安心を届けるには、私たちはどうしたらよいのでしょうか。とにかく祈りと共に何かしなければ・・・。
タイで洞窟に取り残されている少年たちの救出も始まったようです。救助する方々を含め全員の無事を祈ります。
嬉しいニュースと共にとても悲しいニュースが多い今月。これ以上悲しいニュースが続きませんように。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9.12-13)
Fr.Rupnik 作
今日の福音を読んで、改めて自覚しました。 わたしは罪人であるということです。自分は犯罪を犯さず、正しく生きようとしていてもやはり正しい人ではなく罪人だということ。
おそらくこの箇所を読んで、「私は罪人ではなく正しい人だから、キリストは必要ない」と思った人もいるでしょう。洗礼を受けない理由にする人もいるかもしれません。しかし人を殺したり盗んだり、法を犯すことだけが罪ではありません。他人を妬んだり嫉妬したり、疑ったり、うわさしたり、誹謗中傷したり、怠けたり、ごまかそうとしたり、自分のするべきことをしなかったり、快楽に夢中になったり・・・それらはすべて罪です。ですから私たちはすべて罪人です。すべての人には主が必要なのです。そのことに多くの人が気づきますように。
今日の聖書朗読個所を読むたびに理解できないのです。どなたかすっきりと納得のいく説明をしてくださいませんか?
やがて、イエズスが向こう岸のガダラ人の地方にお着きになると、悪霊に憑かれた二人の男が墓場から出てきてイエズスに出会った。・・・・・そこで、悪霊どもはイエズスに願って言った、「もしわたしたちを追い出されるなら、あの豚の群の中に入れてください」。そこで、イエズスは「行け」と仰せになると、悪霊どもは出ていって、豚の中に入った。すると豚の群れはみな崖から湖へ雪崩落ち、おぼれ死んでしまった。豚飼いたちは逃げて町に行き、悪霊に憑かれた者のことなど一切を告げ知らせた。すると、町じゅうの人がイエズスに会いに出てきて、イエズスに会うと、この地方から立ち去るように願った。(マタイ8:28-34)
・悪霊は豚そのものの中に入ったのか、それとも群れの中に入ったのか?
・なんのために悪霊は豚の中または群れに入り、そして豚を湖で溺死させたのか?その後悪霊はどうなったのか?単にユダヤ人が豚を不浄のもの(豚は食べない)としているという理由だけでは足りません。
・悪霊を追い出してくれたイエズスをなぜこの地方から立ち去るよう願ったのか?他の悪霊につかれている人の助けを願わないのか?それとも悪霊に命令できるイエズスを悪霊の頭と思ったのか?しかし、もし悪霊の頭と思ったのなら皆イエズスを恐れて隠れ、わざわざ会いに来ないのでは?
聖書に書かれていることで意味のないことはないと思うのです。この箇所も意図があり書かれていると思うのです。それとも私の考えすぎでしょうか。
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トマは言った、「わたしはその手の釘の後を見、自分の指をその釘の跡に入れてみなければ、また、自分の手をその脇腹に入れてみなければ、決して信じない」。(ヨハネ20.25)
疑り深いトマでしたが、イエズス様の復活した姿を目の当たりにし、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰宣言します。そして聖トマはインドへと布教して最後は南インドで殉教したと伝えられています。
キリストはトマに仰せになった、「あなたは、わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人たちはさいわいである」。(ヨハネ20.29)
これは聖トマだけに向かって言った言葉ではありません。当然わたしたちにも向けられたものです。
「見なければ信じない」という人が「見なくても信じる」ことのできる人となれますように、聖トマに主への取り次ぎをお祈りします。