今日は3.11東日本大震災6年目の日、そしてお花教室の日でもありました。教室の後で先生へのお礼の昼食会がありました。四旬節中なのでちょっと気が咎めたのですが・・・。
お花教室の花材は、さくら、小手まり、チューリップ、スィートピー、ナルコランです。一足早く春が来たという感じです。
濃い色は下・中央に、薄い(淡い)色は上・脇の方にが基本だそうです。確かにその方が落ち着くし安定感があります。
昼食会はイタリア料理のお店「da cuore」。本当に久しぶりの外食、こういう機会がなければお店でいただくことはありません。隣にある病院の先生のブログ『こてる日記』にもよくこのお店での会食について書かれています。先生方も利用されるので、健康的(?)な味付けです。
カップチーノ(これは隣の人のコーヒー。私はエスプレッソ)
お花の先生はとても優しいので、センスのない私でも続いています。そして他の生徒さん方も気さくでとても居心地の良い教室です。お食事会も他人の陰口や悪口は一切無し。気持ちの良いひと時を過ごすことができました。先生をはじめ生徒の皆さんに感謝!
久しぶりのお花教室。今日は祭壇のお花当番でした。先生が生けてくださったお花をそのまま祭壇に飾りました。
今日の花材は桃、カラー、麦、スイートピー、ドラセナです。桃の節句をイメージして丸くふくよかなイメージで。
・カラーや麦はすっと真っすぐに伸びているので生ける時には直立型に。
・「桃の先枯れ」という言葉があり、枝の先の方が枯れていても切らずにそのまま生かす。
・陽方と陰方(日が当たっていた方と陰になっていた方)があり、陽方は左に陰方は右に。
・直立型の「型」と「形」の違いについて。簡単に言えば「型」は決まったかたちで「形」は自由なかたち。
「型」はパターン、手本などで「芝居の型」や「型にはまる」等、「形」は「物の姿やかたち」「形状」です。ですから華道・書道・茶道・舞踊・声楽何事もすべてはまず「型」を学び、それから自由な形へと発展する。「型」をしっかりと身に着けていればより自由なかたちが創造できるでしょう。
そういえばピカソの若い頃のデッサンは素晴らしいです。デッサン力があるからこそ自由な線も生きているのでしょう。また水墨画を習っていた人が最初は線ばかりひいて(描いて)いたと言っていました。線を描くことによって水墨画の基礎(力の入れ具合や水の含ませ具合による墨の濃淡や線の太さなど)を学んだのでしょう。そういえば柔道、剣道、空手もまず型から。型がしっかりとできるようになってから組手を始めます。
お花の話からどんどん横道にそれてしまいました。これから少しずつ暖かくなり、お花も増えてきます。🌸~春よ来い、早く来い~♪
平日ミサに与るようになって、何となく傲慢になっているような自分に気づかせてくれたのがトマさんのこの文です。
ミサに「行く」ことが大切なのではなく、ミサを通してイエスと人格的な交わりに至ることが大切なのです。これが信仰の根本であり中心です。この交わりはミサの時だけではありません。むしろ、その後が肝心です。イエスと一つになって生活をし、イエスと同じ心で仕事をすることです。ミサにおけるイエスとの交わりを一日中続けることを、「ミサを生きる」と言います。ミサに行くことが大切なのではなく、ミサを生きることが大切なのですね。(「トマさん祈りの部屋」より)
日曜日以外も平日のミサに行く人のすべてが良い信者、信仰の篤い信者とは限らず、ミサを生きている人こそが信仰篤い良い信者なのですね。病気で臥せっていて教会に行くことが出来ずに司祭に来てもらい聖体拝領をしている人達がおられます。かえって病者の中にこそミサを生きている信仰篤い人がおられます。
イシドロ・ソルサノやアレクシア・ゴンサレスのようにミサを生きる人にならなければ・・・
ある冬の一日藺牟田池に出かけました。この池に来ると必ず立ち止まり眺めるのが「落羽松(ラクウショウ)」です。一般には「ヌマスギ」と呼ばれています。この木の根(膝根)は呼吸をするために地上に出ています。水が少ない時にはもっと根が見えるのですが、今回は水に隠れてしまっていて見える根は少ないでした。それでも神秘的な眺めです。
大きな椿の木が一本だけ花を咲かせていました。赤、ピンク、絞りと色とりどりの花をつけた木はそこだけが暖かそうでした。
たまに自然の中に出かけて冷たい空気を吸い、緑や水や水鳥を眺めて熱くなった頭をクールダウン。せっかく冷ました頭ですが、帰りに温泉に入って温めました。これで頭はより休めたかもしれません。久しぶりに船津温泉でサウナに入りました。冬の温泉はホコホコになりプチ贅沢した気分です。
今日は菊地司教様の「年頭司牧書簡2017」で相模原市津久井やまゆり園での事件に触れて書かれた一文です。
わたしたちキリスト教の信仰に生きる者にとって、生命の価値を量る権利は、神にしかありません。わたしたち人間にではなく、その人間に生命を与えられた神、生命の創造主である神にしかありません。
どの生命が生存して良いのか、どの生命が生存する価値があるのか。そんなことを判断する権利を神はわたしたちに与えておられません。
菊地司教様も書いておられますが「犯行に及んだ青年の考え方とまたそれを支持する人もわずかですがいるということの衝撃」は言葉になりません。この人達の闇の部分はどのようにして彼らの心に育ったのでしょうか?
人間の驕り、神の被造物でしかない人間が神の代わりになろうとする時、このような闇が生まれるのかもしれません。人間は神の前でもっと謙遜になるべきでしょう。そしてそのことを小さい頃から教え育てなければ・・・心の教育の大切さを改めて考えています。
菊地司教様も郡山司教様も相対主義への警告、そして神様の前で私たち人間はもっと謙遜になりなさいと言っておられます。
新年と神の母聖マリアの祝日おめでとうございます。 2017年元旦は皆様はどのように過ごされていますか?
「一年の計は元旦にあり」と諺にもあるように、一年の目標を決めて、最初の日の過ごし方を大切にしなければ。
ということで、今朝はカテドラルへ。イエズス様に新年のご挨拶 娘もカテドラルに来ていて一緒にごミサに与りました。
「文句を言わず、怒らずに笑顔で主に感謝して毎日を過ごす」これが今年一年私が心がけること。言葉で言うと簡単なようですが行うは難しです。特に私の性格からするとつい・・・言ってしまいそう。
皆さんは何か目標をたてましたか?実践できますように!
柏木博子さんのCDを聴いています。メゾソプラノの声なのでとても聴きやすくて・・・うっとりします。本当に良いお声です。どの曲も馴染みのあるクリスマスの曲なので特に心に響きます。
プロテスタントには良いクリスマスの曲が沢山あります。しかも馴染みのある曲ばかり。一方カトリックの典礼聖歌には・・・。以前クリスマスの深夜ミサで、今まで歌ったことのない知らない典礼聖歌を歌うことになりテンションがぐっと下がったのを思い出しました。誰がどうしてあんな曲を選んだのかわかりません。
クリスマスの時こそ誰もが知っている聖歌をカトリック聖歌集(プロテスタントの曲も入っています)の中からミサ閉祭後にたくさん歌うようにしたらもっとクリスマスの喜びを分かち合えるのにと思います。また入祭と閉祭の歌は初めて教会に来られた方も一緒に歌えるようなクリスマスの曲を選んだ方がよいですね。
話は戻りますが、柏木博子さんのCDをクリスマスのごミサが始まる前に聖堂に流したらよいと思います。クリスマスの雰囲気を徐々に盛り上げてくれることでしょう。そして何よりおしゃべりの騒々しさが無くなり、静かな祈りへ導く雰囲気を作ってくれそうです。
今月初め、夫の車が通勤途中で突然動かなくなり、車を押して安全なところへ移動させてから修理の人に連絡するという事がありました。帰宅すると今度はお風呂のタイマーが壊れて動かず。どちらも部品を注文しなければならないので直るまで時間がかかります。
良いことも悪いことも重なる時には重なります。でも気持ちよく受け入れましょう。思い煩ったところで何も変わりませんから。かえって息子が帰省する前に起こってよかったです。これが空港へ迎えに行く途中の山道だったら大変だったでしょうし、お風呂を楽しみにしている息子もせっかく帰ってきたのにお風呂に入れなければかわいそうでした。
「すべてはそれにかなった時がある」とはコヘレトの言葉通ですが、どんな時でもどんな事でも受け入れましょう。
そしてまた、相次ぐ司教様の訃報。糸永司教様に続いてオプス・デイ属人区長ハビエル・エチェバリーア司教様が亡くなられました。
エチェバリーア司教様は12月の属人区長の手紙の中で「・・・複雑で感情を煽る現代社会においては、気づかないうちに周りの慌ただしさに巻き込まれて慌てふためき、傍らにおられる主を見つめることをせずに過ごす危険があります。全てをお与えになるイエスが、多くのことを私たちに求められるのは至極当たり前のことです。このことを理解しないと、神の無限の愛を知ったり、その愛に深く入り込んだりすることができなくなります。」と書いておられます。
また「お告げの祈りを丁寧に愛をこめて唱えること、・・・・・特に、信心生活の細かな点に気を付けて改善を図りましょう。・・・・・三位一体に受け入れられ十字架によって救われたことを自覚しつつ、ゆっくりと十字架を切ること、食卓での祝別や感謝を自然体でしかし信心を込めて実行すること、篤い信仰の具体的な表明として「永遠の馬小屋・ご聖櫃」の前で丁寧な挨拶をすること、喜んで施しをすること、12月上旬には無原罪の聖マリアの祭日を準備しながら、ご像やご絵の聖母に愛情を込めて挨拶すること・・・・・」と、待降節の間の行いについて具体的に私たちに教えてくださっています。
オプス・デイのホームページで今までの司教様の手紙をゆっくり読み返してみます。エチェバリーア司教様は天に召されても教えは残ります。
(オプス・デイのホームページより)
待降節に入り今日は待降節第一主日です。2回目の朗読当番でした。
前回はコチコチになって声は震えるし読む速度は速くなる始末。今回こそはと張り切り過ぎて、読む箇所を間違えました。なんと待降節第二主日の箇所を読み始めて『なんか違うな~』と気づいて正しい個所を読み直しました。
パンフレットは使わずに朗読台にある物を使うようにと聞いたことがあったのでそうしたのですが・・・パンフレットならこんな間違いはしなかったでしょう。けれども私はやはりパンフレットは使いたくありません。次回からは読む前にしっかりと確かめます。これも良い経験・勉強になりました。神に感謝!
ところで話は全く違うのですが、世の中どんどん便利なものが出てきています。料理の世界でもこんなに便利なものがあるのですね。牛乳を混ぜるだけでカスタードクリームができちゃうのです。試しに一袋買ってみました。
牛乳を1カップ加えて1分混ぜるだけ。なめらかなクリームになりました。味はさらっと軽めで甘さも普通の手作りより薄めです。勿論小麦粉・バター・砂糖・卵・牛乳から作ったものに比べればコク・風味とも劣りますが、これはこれで使えると思います。コアントローやオレンジキュラソ、ラム酒、アマレットなどで香りをつけるともっと美味しくなると思います。
もう一つマフィンミックス粉を試してみました。美味しければ簡単に作れるし材料費も安いのでバザーに出そうと思ったのです。ミックス粉と卵、水、サラダ油だけでできるのですが、簡単に作れるだけあって味もそれなりでした。やはりバター、牛乳、グラニュー糖を使ってバニラの風味をきかせて作ったものにはかないません。本格的に作ると材料費がかかり、売値が高くなってしまうので、バザーに出すのはやめました。
見た目は美味しそうなマフィンですが持ってみると軽~い。バターで作った時のずっしり感がありません。
バザーには代わりに何を出そうか思案中。小さなヤコブのタルトかカウボーイクッキーか・・・それとも何も出さないか バザー前日の私のやる気次第ですね。
今年のフェイジョアの収穫、去年は数個だったのが今年は約60個も実りました。夫が枝を切らなければ100個は収穫できたかも・・・。先週で収穫も終わりました。フェイジョアさん、また来年沢山の実をつけてください。
香りのよいフェイジョア。縦半分に切りスプーンですくっていただきます。勿論ジャムにしても美味しいです。
今年は成り年なのか柚子も沢山実をつけています。柚子ジャムを作ろうかなと考え中。香りのよいジャムになりますが、私はパンにジャムをつけないのでもっぱら夫だけで食べてしまいます。ジャム好きな夫のために頑張ろうかな。
以前作った柚子ジャムは好評でした。柚子をまるのまま数回湯でこぼし、水につけたまま一晩置きます。翌日半分に切って種(捨てる)と中身と皮に分け、皮は細切りにして中身と一緒に砂糖を入れて煮ます。この方法だと苦味が適度に取れて美味しいジャムができます。
思うところがあってロザリオを探していました。祈る道具であるロザリオはピンからキリまであります。当たり前のことですが祈りの価値がロザリオの値段に比例するのではありません。あくまでも使う人の好みや使いやすさ(手になじむ)などで選びます。また巡礼に行った時の記念として求める人もいます。洗礼や初聖体でプレゼントされる人もいるでしょう。
教会関係やそれに準ずる店ではロザリオは聖具なので利潤追求のために売られることはありません。ですからだいたいその素材と作り方(機械か手編み)によって値段は決まっています。例えば、
左上:銀手編み白檀¥17301 右上:一般的なもの¥1296 左下:天然石¥11880 右下:アクリル¥500 (パウリーネ・ドンボスコ社・パウルスショップより)
ところがこんなロザリオを見つけて久しぶりに「びっくりぽん!」(十字架等は金や銀ではありません)
念のために言っておきますが、このお店はとても良心的でキリスト教の製品を取り扱っています。私もよく利用しています。このロザリオ以外は妥当なお値段なので、お店のせいではなく仕入れ値そのものが高かったのでしょう。
メジュゴリエがヴァチカンから認められず批判されることが多いのもどうやらこのへんが原因の一つかもしれません。