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2024年9月13日 (金)

困惑

 以前、私は外食する時に周りに人がいても「父と子と聖霊のみ名によってアーメン」と十字架のしるしをすると書きました。

 フランシスコ教皇様はインドネシア訪問の時に、様々な宗教の人々との会合に出席され、最後に祝福(ベネディクション)を与えられました。教皇様曰く、「祝福は常にすべての宗教に有効です。なぜなら祝福は常に愛のしぐさであり、普遍的なものだからです」と。そして祝福が始まり、「神が一人一人を祝福してください。あなたの家族を祝福してください。あなたの現在も未来も祝福してください。アーメン。」と言って終わりました。???「父と子と聖霊のみ名によって」も十字架のしるしもない教皇様の祝福でした。以前にも教皇様はユダヤ教のラビに会われた時に首からかけておられた十字架をサッシュの中に隠されましたね。

 これらを見て私は自分が他宗教の人の前で十字を切ることは間違いだと責められているような気持になりました。キリストを信じない人たちの前で十字を切るのは配慮のない良くない行為なのでしょうか?

 教会は跪いたらだめ、ご聖体は手で受けるように、他宗教の人に配慮してその人たちのいるところでは十字架のしるしはしない、みことばのわかちあい、・・・私は教会から徐々に締め出されているような気持になります。

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 「みことばのわかちあい」やシノドス的な(共に歩む)教会になるために「霊における会話」が、本当に散らされた羊たちを集め、教会の危機を救うことになるのでしょうか?カトリック教会が「みことばのわかちあい」を始めだしてしばらく経った頃からごミサに与る信徒は減り始めました。

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 フランシスコ教皇様が薦めている「霊における会話」がとても素晴らしいとの声を聞いたので、『シノドスハンドブック』を読みました。

 その中の「霊における会話」のプログラムとシートを読みました。最後の方に「教会内のさまざまな立場の人が同じテーブルで分かち合い、平等に発言する機会と、こころ静かに相手の話を聞く機会が与えられる」と、きれいな言葉で結んでいましたが、最終的には「最終的な合意の際に、真っ向から対立する意見があるような場合、審議・決断する人たちは、対立意見があることを充分理解した上で、決断することが求められます。グループのメンバーも、決断する人たちを信頼しながらゆだねることが重要です。この意味では、疑いのこころではなく、「霊」の導きにこころを開かせてもらえるような、信頼できる雰囲気づくりは必要になるでしょう。」と、書かれていました。「決断する人たちを信頼しながらゆだねることが重要・・・」だそうです。私には無理な気がします。信仰心が足りないのかもしれません。bearing

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 ブログはしばらくお休みします。

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