年間第16主日ミサ説教
良い羊は良い羊飼いについていきますよ、メ~~エ![]()
良い羊は良い羊飼いについていきますよ、メ~~エ![]()
1936年(昭和11年)は戦前、私もまだ生まれていませんでした。その頃の中国のカトリック信者の子どもたちの様子を写した動画を見つけました。
聖堂に入る時には聖水を付けて片膝をついて十字を切る・・・私も子どもの頃はそう教わりました。そして聖堂の中では静かにする・・・なぜなら聖堂にはイエズス様がいて、私たちはイエズス様にお祈りをする所だから。日曜日にはイエズス様に会いに行くのだからと、よそ行きの服をきせてもらったのも同じですね。![]()
YouTube: Chinese Catholic schoolchildren sing Gregorian chant at Mass in San Francisco (1936, HD)
「カルメル山の聖母」はカルメル会の守護者としての称号です。カルメル山の聖母と言えばスカプラリオですね。
カルメル山の聖母のスカプラリオとはカルメル修道会と跣足カルメル修道会の修道服のことです。カルメル会の修道服を着る者には聖母の救済があると約束されています。そこで一般信徒も修道者に倣うために修道服と同じように小さなスカプラリオを身につけるようになりました。今はメダイのスカプラリオもありますが、教会は布製のスカプラリオが修道服の衣服としての価値があるので、布製の物を優先するとしています。
「茶色のスカプラリオは、御子と、母でありカルメル山の女王である聖母マリア、の親子関係を形度ったもので、それを身につける者は、自分自身のすべてを聖母マリアの保護に任せる忠実な支持者であり、聖母の仲裁に頼り、精神的な生命の優越性と祈りの必要を心にとめて忘れない。」(典礼秘跡省)
「カルメル山の聖母への献身は、歴史とカルメル山の聖母の兄弟たちによる修道会が持つ霊的な価値に基づくものであり、そしてそれがこのスカプラリオに表されている。故に、茶色のスカプラリオを受け取った者は誰であれ、この会のメンバーとなり、自己の人生の状態の特性に基づき、その霊性に従って生きることを誓う。」(典礼秘跡省1996年)
カトリック司祭は洗礼を受けた人にこのスカプラリオを授与できます。その祝別と授与の方法は典礼秘跡省に承認されたものです。
注意しなければならないのは、信心に熱心なあまり、特別な恵みや奇跡を願うことにばかりに心を奪われる人は時々迷信に迷い込んでしまう危険があるということです。一時期「亡くなる時にスカプラリオを身に付けていると簡単に天国へ行ける」という誤った乱用もありました。茶色のスカプラリオも、決して聖霊のような方法で秘跡が与えらる恵みを与えることはありません。
スカプラリオを身につけるには約束事があります。スカプラリオは聖母マリア様が与えた修道服であり、衣服ですから、それを身につけるということはカルメル修道会に属することです。謙遜、貞節、そして祈りの精神で聖母に倣う生活をしなければなりません。そうすれば生きている時も死後も、聖母マリア様の保護を受けるでしょう。
ファシリティドッグって知っていますか?私も娘から聞いて知りました。老人ホームなどでお年寄りの癒しになっている犬については良く見聞きしますが、ファシリティドッグはそれとはちょっと違います。
YouTube: 闘病中の子供に寄り添いパワーを届けるワンコ
娘が働いている病院にもファシリティドッグがいるそうです。子どもたちだけでなくスタッフにも可愛がられているようです。
子どもの闘病生活にとってファシリティドッグの効果は大きいと思います。長期入院している子どものいる病院すべてにこのようなワンちゃんがいればいいのに
今日は聖ベネディクト修道院長記念日です。ベネディクト修道院と言えば祈りの生活です。そして修道士たちがいつも行うレクティオ・ディヴィナも今では修道院内だけでなく、一般信徒も行っています。
今月の鹿児島教区報に信徒の方たちでレクティオ・ディヴィナを20年続けているという記事が載っていました。
Lectio Divina (霊的な読書)は聖書の読書、黙想、祈り、観想の伝統的な修道院の慣習です。霊的な読書のルーツは3世紀頃オリゲネスに始まり、聖アンブロシウ、聖アウグスティヌスへ、そして6世紀聖ベネディクトによって確立されました。12世紀になりカルトジオ会のギゴ2世修道士によって今の読書、黙想、祈り、観想という四つの段階の形になりました。カルメル会ではレクティオ・ディヴィナは祈りの柱となっているそうです。勿論ベネディクト会、カルトジオ会、シトー会、フランシスコ会等でも行われています。
教皇ベネディクト16世はLectio Divinaについてこう述べておられます。
私は特に、レクティオ・ディヴィナという古い伝統を思い出し、推奨したいと思います。祈りを伴った聖書の熱心な朗読は、親密な対話を生み出します。その中で、読む人は神が語っておられるのを聞き、祈りの中で、信頼し、心を開いて神に応答します。この実践が効果的に推進されれば、教会に新たな霊的春が訪れると私は確信しています。
とは言っても私自身家族がいるとゆっくりと聖書を読み、黙想して、祈りそして観想する時間はありませんでした。特に子育ての時期は。寝る前に聖書を少し読み、祈るだけの日がほとんどでした。でも今は幸いなことに時間はたっぷりあります。![]()
レクティオ・ディヴィナについて詳しく知りたい方は神言会の聖書使徒職委員会のホームページに載っていますのでそちらをどうぞ。⇩
今日は七夕。朝からラジオでは七夕の話題が流れていました。その中で気になったことが短冊に書く言葉です。
〇〇が上手になりますように、〇〇ができるようにお願いしますとか病気をしませんように等々、子どもたちの願いは様々です。一方で親たちの願いは子どもたちの無病息災など家族に関するものが多いでした。
私は短冊に書く願い事は、自分のためのことではなく、他人のための願い事を書くのだと教わりました。中には「お父さんお母さんが元気でいますように」とか「戦争が早く終わりますように」などと自分以外の人のために願いを書いている子どももいました。嬉しいですね。お父さんお母さんがいつも他の人たちのことを気遣っている姿を見ているのでしょう。
さて、今日は都知事選、鹿児島県知事選挙もあります。自分のためではなく私たちのために働いてくれる人を選びましょう。私も教会の帰りに一票と入れてきます。
気が付けば今日は使徒聖トマの祝日でした。すっかり忘れていました。祝日なのにー![]()
こう暑いと体も頭もぼ~としてだるい。外の仕事はとても無理なので、部屋のエアコンを付けて聖書を読み始める。ぼ~とした頭が徐々にすっきりしてくるが、ゆっくりゆっくり読まないと頭に入らない・・・。暑さのせいより年のせいかな?
近所の家では大工さんたちがこの猛暑の中仕事をしています。大工さんたちは夏も冬も外で働くことに慣れているとはいえ、さすがにこの暑さは堪えると思います。彼らにただただ感服します。
もうすぐ我が家の玄関の扉を取り換える工事も始まります。築50年以上たつと壁と扉との間に隙間ができて台風の時困っていました。ずっとどうしようか迷っていましたがやっと決心がつきました。この暑い中工事に来てくださる方には冷たいお茶とお菓子とアイスを用意して労いたいと思います。
我が家のにゃんこも暑そうです。⇩
今日は福者ペトロ岐部と187殉教者の記念日です。数日前から『殉教者』(400年前、聖地エルサレムを訪れた初の日本人・ペトロ岐部カスイ。ローマで司祭となり、キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる日本に戻った男の生涯)を読んでいます。その苦難に満ちたローマへの旅、そして殉教。それはただ主への愛の証。また187人の殉教者のうち183人は子どもを含む信徒たちでした。
現在福者高山右近を聖人にという声を聞きますが、私はペトロ岐部と187殉教者を聖人にと願っています。
「日本にキリスト教は根付かなかった」という人もいますが、私はそうは思いません。宣教地でこれほど多くの殉教者を生んだ国が他にあるでしょうか?確実にキリスト教(カトリック)は日本に根付いています。大浦天主堂での信徒発見のシーンを思い起こしてください。もう日本には信徒はいないと誰もが思っていたのに・・・数は少なくても信仰の根はしっかり付いていたのです。ですからその証として殉教者たちを聖人のくらいに上げましょう。ただ私の心の中では日本で殉教したすべての人達はすでに皆聖人です。![]()
長崎でも司祭、修道者の召出しが少なくなっていると耳にします。長崎の信徒の皆さん、皆さんは先祖に根付いた信仰を脈々と受け継いでおられるのです。それは私が望んでも得ることのできない主からの特別なお恵みだと思います。誇りをもって再びその信仰を燃え上がらせてほしいです。
聖ペトロと聖パウロの祭日です。夫の堅信名はペトロ、次男の堅信名はパウロ、私の目から見ると逆で、夫がパウロで次男がペトロのようなイメージです。
私はペトロは寛容で優しい、パウロは強く堅固なイメージを持っていますが、実際はペトロは寛容、優しさに隠れてとても強く堅固であり、パウロはその強く堅固な力の中に優しさが隠れているような気がします。そう考えると二人の堅信名はぴったり合っています。
夫は二心無く、誰に対しても自分の信仰ははっきりと表す強く堅固な人でした。厳しい人と思われがちですが、しかし私よりもずっと優しく寛容でした。特に弱い人や貧しい人、苦しんでいる人、そして一生懸命信仰に生きようとしている人のためにいつも祈り、経済的にも援助をしていました。おそらく夫のそういう面を知っている人は少ないでしょう。
人間にはいろいろな面があります。一面だけを見てその人にレッテルを張らないように気をつけましょう。今は選挙の時期、特に選挙の立候補者に特定のイメージを植え付けて批判ばかりする、逆にほめちぎるのは良くないですし、そういう一面だけの評価に惑わされて投票しないように気をつけたいものです。
今年も聖ホセマリア神父様の記念日を迎えました。聖ホセマリア神父様の記念ミサは各地で行われてきましたが、7月6日(土)午後3時から長崎のカトリック本原教会でも行われます。午後2時よりゆるしの秘跡を受けられそうです。与れる方は是非!
いつも聖ホセマリア神父様の本を読んで、励ましと慰めを得ています。そして聖ホセマリア神父様へ取次ぎを願う祈りによって、主から多くの恵みを受けています。今は本を持ち歩かなくても、携帯で読むことができるので便利になりました。
生前の聖ホセマリア神父様の動画では、様々な人たちの色々な質問(家庭、夫婦、子育て、教育、仕事、友人関係、争い、貧富の差、人生の目的、信仰について等々)に、聖書の中でキリストはこう言っている…ペトロは…パウロは…、キリストの目線で、また聖人たちのことばや行いを用いて答えられています。
これらの動画を見ることで、私自身、知り、気づかされ、学び、諭され、癒されます。私はこれがある意味カトリック的わかちあいだと思います。
聖ホセマリア神父様は私たちにとってとても身近な聖人です。聖ホセマリア神父様に取り次ぎを願い祈りましょう。
酒井司教様の巡礼団はサンティアゴ・デ・コンポステラに着きました。ここでの司教様のスペイン語での説教、仏教徒の外国人に「あなたは日本人なのに、なぜカトリックなのか?」と問われた話に引き込まれました。私も成人洗礼を受けられた方に問うてみたいです。「あなたはなぜカトリックの洗礼を受けたのですか?」
ユリウス暦の聖霊降臨の日にルブリョフ作「三位一体」のイコンが聖セルギイ大修道院に返還され、修道院の至聖三位一体大聖堂で徹夜の祈りがありました。私たちにとってもなじみ深いイコンですね。
酒井司教様たちは巡礼七日目、カルダス・デ・レイに無事到着されました。聖トマス・ベケット教会でのごミサ。説教台には「PALABRA DE DIOS」と、刻まれています。まさに「神の言葉」を語る場所ですね。私たちは神の言葉=神が語られていることばを聴かなければなりません。
説教台から朗読が行われ、答唱詩編が唱えられ、福音が朗読されます。そして説教が行われます。(説教台から行わない教会もありますが) 朗読台から説教をされる時に多くの司祭様は「神の言葉」を意識して、それにふさわしいお話しをされます。私たちはその話を聞いて、より深く神の教えを学びます。信徒の躓きになるような内容は避けてほしいですね。
その点、酒井司教様の説教はいつも私の心に響くものです。主の深い愛に気づかされたり、自分の愚かさを反省したり・・・、司教様はいつも説教の準備を良くされていることが伝わります。準備はせずに聖霊が働くままに話すという司祭様もおられますが、たいていは内容に一貫性がなく、首をかしげてしまう内容のことがあります。教会の教えよりも自分の教えになってしまう・・・?
去年聖トマス・アクィナスは列聖700年、今年は帰天750年、そして来年は生誕800年を迎えます。神学生の時に勉強された『神学大全』を思い出して、聖トマス・アクィナスに倣い、神の言葉を正確に伝える司祭が増えますように。
聖トマス・アクィナス
シルゴ神父様は「聖イグナチオの霊操」の講話の中で、イエズス様の目で、ものを見る、出来事を見る、人を見る、ことが大事だと話されました。
時々自分に合わない人や気に入らない人の前に立ってその人を見る時、イエズス様は私たちにおっしゃってくださる。「あなたにはあわない人かもしれないけれども、その人のためにも、私は命をささげた」と。
ドキッとしました。そう、イエズス様がおっしゃることは真実です。そしてこのことを忘れていることに気づかされました。自分が気に入らなくても、主はその人を愛しておられるのです。それならば、当然私もその人を愛さなけばなりません。
私たちはいつも何かしらの不平不満を言っています。そして物事に対しての不満がいつの間にか特定の人に対しての不満や批判になってしまうことがあります。私自身他人を批判した事を悔い改めます。
酒井司教様はスペイン・ポルトガルを巡礼中です。ファティマでのごミサの説教(ポルトガル語)です。
(司教様の説教は1:50頃から始まります。)
宣教の実りについて、また私たち自身が自分なりの宣教をすることを願っておられます。
一つ目はYouTubeで偶然に見つけた5年前の黙想会のお話しです。
YouTube: 【四旬節黙想会】中島 貴幸神父(オプス・デイ属人司祭)【テーマ-喜びに喜べ(ローマ教皇フランシスコ著書)-2019年3月31日 カトリック武庫之荘教会
中島貴幸神父様のお話を初めて聞きました。丁寧で聞きやすく、その内容もなるほどと納得することばかりです。フランシスコ教皇の『使徒的勧告 喜びに喜べ』と『カテキズム』そしてベネディクト16世教皇の『使徒的勧告 主のことば』を用いて話されています。わたしはいつも教皇様が出される回勅や使徒的勧告、書簡などは読むのに苦労しますが、こうして話を聞くとよく理解できます。
回勅や使徒的勧告は日常なかなか読みません。これからは本棚の飾りになってしまっている本を、実際手に取って積極的に読もうと思いました。
二つ目はイグナチオ・ロヨラの「霊操」についてのイエズス会司祭の連続講話です。3年位前の動画です。以前名古屋にあったカテキスタ学院の先生から『霊操』の本をいただきました。しかしその時は誰も指導してくださる方がいなかったので、さっと目を通しただけで本棚にしまってしまいました。しかしあれから約40年後、こうしてインターネットで『霊操』について学ぶことができるようになりました。素晴らしい!
今日はパドヴァの聖アントニオ司祭教会博士の記念日です。ポルトガルのリスボンやイタリアのパドヴァでは祭日で盛大にお祝いするでしょう。聖アントニオの説教は素晴らしかったようです。
YouTube: Strong Families Are The Bedrock of The Catholic Church
家庭での子どもたちへの信仰教育の大切さがわかる動画です。それは信仰を押し付けることではありません。親が一番大切にしているキリストの愛を子どもたちに伝えるだけのことです。そうすれば自然と子どもは自ら善い方を選ぶようになります。
キリストより他の物事を大切にしたり、主に信頼せず、主への感謝を口にせず、祈らず、信仰の喜びを感じないでいる親を見ている子どもにキリストの愛の喜びが伝わるはずがありません。
とは言っても、人生すべてがこの通りになるとは限りません。私たちに理解できなくても主の考えで私たちに試練をお与えになることもあります。聖モニカのように親がどんなに深い信仰を持っていても子どもはマニ教にはまってしまうこともあります。勿論それはアウグスティヌスが聖人になるほどの信仰を得るために主が与えられた試練だったのかもしれません。また私の知っている司祭の兄弟は両親から同じ信仰教育を受けても一人は司祭、一人は無神論者(いつか回心するかも)になりました。
大切なことはたとえどんな状況であろうともあきらめずに主に信頼して子どものために祈り続けることだと思います。そうすれば洗礼のしるしのある子どもはキリストから離れてもいつかキリストにかえる恵みをいただけると信じています。
聖アントニオに倣い良い説教をする司祭の召し出しを願います。
今日の説教について: 司祭が説教の中で「悪霊(悪魔)があると信じている人?」「わからない人?」「無いと思う人?」と、質問して挙手をしてもらっていました。結果は置いておいて、ごミサの最後に再び悪霊について話されました。
すべてを悪霊のせいにする内容に、悪霊を信じている私でも引いてしまいました。
神父様の話では今日のマイクの不調も悪霊のせいということでしたが、例えば私が教会のごミサに与るために車を運転しているとします。途中で車のガソリンが空になり動かなくなりました。神父様ならきっとそれはあなたが教会に行くことを悪霊が邪魔しているからだと言われるでしょう。
でも私の思いは違います。神様が「出かける前にはいつもチェックして準備をしなさい」と、教えてくださっていると思います。そして大事に至らなかったことを私は神様に感謝します。おそらく私がみ言葉のわかちあいに参加しないのも、神父様なら悪霊が邪魔をしているからだと言うでしょう。
うまくいかないことをすべて悪霊のせいにする生活は悪霊に縛られたとても苦しいものになります。それよりうまくいかないことも主の恵みと思い、主に感謝しながら生活すればとても心穏やかに過ごせると思います。
あなたは守護の天使に護られています。いつも守護の天使に祈り,そして感謝しましょう。そうすれば悪霊の入る隙はありません。
もう一つの祈りは文語での「守護の天使に向かう祈り」です。
わが守護の天使、御身は天主の御摂理によりて、わが終生の友となりたまえり。御身の尊き御保護と、絶えざる御導きとを感謝したてまつる。
▴ 願わくは、御身の強き御翼もて弱きわが霊魂を覆い、危険を免れしめたまえ。苦しみに遭うとも落胆することなく、幸運においても思いあがることなく、世俗とその精神に流されることなく、貧しき人をないがしろにすることなく、主の御いつくしみにより、御身に委ねられるわが一生が、すべて御身の喜びとなるよう、われを導き、われを励まし、われを強めたまえ。われを離さず、わが足のつまずかざらんよう、清きみ手もてわれを支え、われを守りたまえ。アーメン。
皆さんにお勧めしたい本があります。以前にも書きましたがその名も『悪魔のささやき』(加賀乙彦著)です。
私の教会では主任司祭の強い要望で毎月「み言葉のわかちあい」をすることになりました。
私はみ言葉のわかちあいには数回参加しましたが、何れも私には合わない集いでした。それ以来このような集いには参加していません。ですから主任司祭には申し訳ないのですが私はずっと参加しないつもりです。
み言葉のわかちあいは日曜日のミサの福音箇所を読んで黙想し、それぞれ自分の心に響いた箇所について話して分かち合います。そしてしばらく沈黙した後、各自自由に祈りを捧げます。
もちろんすべてがこの通りに行われるとは限りませんが、流れは大体同じです。そして、もしみ言葉のわかちあいに参加される方は次のことをしっかりと守ってください。
1.集いの場で聞いたことを他の所で絶対に話さない。秘密は守ること。
2.話をした人に説明したり教えたり、批判したり、議論したりしないように。つまり話す人は皆に聞いてもらい、質問や誰かの助言を求めたりしない。そして聞く人は相手の話を聞くだけで何も応えてはいけません。相手の話を聞いて心にとめるだけです。
み言葉のわかちあいが大好きという方もおられます。それが霊的成長をたすけるのなら参加したらよいでしょう。でも私は苦手なのでパスします。![]()
私は以前にも書きましたが、黙想会(み言葉のわかちあいのない)、講話、十字架の道行などには参加しますが、祈りの集いなどOOの集いや集会といったものには参加しません。若い頃には友人やシスターに誘われて、好奇心から様々な集いに参加しましたが、どれもしっくりくるものではありませんでした。不熱心な信者と思う方もおられるでしょうが、私は他人の目は気にしません。![]()
それよりも毎日曜日の福音朗読の時に、ほとんどの方がみ言葉を聴かずに、パンフレットを黙読していることは問題だと思うのです。福音朗読の時は神のみ言葉を聴くようにと言われています。しかしパンフレットの文字を目で追っていては、聴いていることにはなりません。(朗読ミスをチェックするためにパンフを見ているの?
) 第一朗読・第二朗読・福音朗読の時にはパンフレットは置いて、静かに聞きましょう。(ページをめくる音もせず静かに・・・)
主のみ言葉を聴く人々
また平和のあいさつの時、「すでに司祭とはあいさつをしているので、はじめから信徒同士であいさつをしましょう」と主任司祭が説明したにもかかわらず、先ず司祭の方を向いて「主の平和」とあいさつしているのです。😥 まあ、み言葉を聴くことに比べればたいしたことではないのですが。毎回私があいさつしようとすると皆私ではなく司祭に向かってあいさつしています・・・![]()
典礼に関しては主任司祭が話されたことは守りましょう。一度説明されたら、何故そうしなければならないかを理解して、習慣に流されないようにしましょう。