ご聖体拝領
やはりキリストを受けるにふさわしい態度はこれですね。主キリストの方から罪人の私たちの所に来てくださるのですよ。謙ってキリストを拝領したいです。
やはりキリストを受けるにふさわしい態度はこれですね。主キリストの方から罪人の私たちの所に来てくださるのですよ。謙ってキリストを拝領したいです。
聖マリア・ゴレッティについてYouTubeに紹介の動画がありました。それで分かったのですが、先日私が紹介した中に間違いがありました。それは獄中のアレッサンドロにマリア・ゴレッティがユリの花を一輪手渡したと書きましたが、それは間違いで彼女が刺された14か所の傷と同じ数の14本のユリでした。この動画は信頼できます。(日本語字幕にできます)
YouTube: The Inspiring Story of Maria Goretti | A Tale of Forgiveness, Martyrdom and Redemption
聖マリア・ゴレッティは亡くなる前に自分を殺めたアレッサンドロを赦しました。そしてもっと素晴らしいことはアレッサンドロは服役中に回心して、出所後に彼女のお母さんに赦しを願い、カプチン・フランシスコ修道会(OFMCap.)の修道士になりました。勿論お母さんも彼を赦しました。
アレッサンドロが服役中のある夜に、夢の中でマリア・ゴレッティが現れて、彼女から「私はあなたを赦しています」と言われ、ユリの花を一輪渡されました。このことがきっかけで彼は回心しました。
この小さな少女ができたのに、私たちは些細な事に対してもできないのはキリストへの愛が足りないからでしょうか。聖母マリア様のように彼女もお母さんもどんなに苦しめられてもその人を許しました。愛の心を主に願わずにはいられません。
ごミサに与りご聖体をいただき、祈りの集いに参加し、教会の仕事や行事にも熱心に参加している人が実は家に帰ると夫(妻)に冷たく心は離れている、あるいは子供との関係がうまくいっていないということがあるようです。家庭内がうまくいっていないので教会に安らぎを求めて逃げてしまう。両親の仲が悪いせいで家庭に安らぎのない子供もいます。
確かに主キリストは「重荷を負って苦労している者は皆、私のもとに来なさい。休ませてあげよう」。言っておられます。しかし主はその後にこう続けています。「わたしの心は柔和であり、謙遜であるから、わたしの軛を受け入れ、わたしの弟子になりなさい。そうすれば、魂は安らぎを見出すであろう。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷はかるいからである」。
つまり主のもとに行くだけでは何も変わらないということです。主と同じように柔和で謙遜にならなければ、キリストの教えを受け入れて主に従う者にならなければ安らぎは得られないということでしょう。主に従うとはつまり家族を愛するということではないでしょうか。家族を赦し、愛するように努力すること。先ずは毎日相手のために祈ること、子供たちのために祈ることでしょう。愛とは自分だけが安らぎを得るのではなく、苦しんでいる相手にも子どもたちにも安らぎを望むことではないでしょうか。
自分が苦しい時は必ず相手も同じように苦しんでいます。そして親の不仲は子どもたちをも傷つけ苦しめます。家庭こそが子供にとって一番安らぐ場所のはずなのに、そうでない子供が多いのが現実です。主キリストがおられる家庭を築きましょう。いつも赦す心と感謝の心そして祈りを忘れずに!
若者たちにこの動画を勧めます。フランス語ですが日本語の字幕もあります。(ちょっとへんですが ) ⇩
https://www.youtube.com/watch?v=oG2bbntHaMw
若者の巡礼はよくありますが、遠足・お祭り気分が70%そしてミサと告解と祈りが30%のような巡礼もあります。しかしシャルトルへの巡礼は明らかに違いますね。足の痛みに耐えて主と共に歩く巡礼者たちの姿から私は明るい希望と主のいつくしみを感じました。
主のいつくしみと言えば明日は使徒聖トマの祝日です。釘後を見て、自分の指をその釘後に入れてみなければ信じないと言った聖トマの前に復活されたキリストが現れて、「指をここに持ってきて、私の手を調べなさい。手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人たちは幸いである」と仰せになりました。
いつの時代も人々は目に見える奇跡を求めます。でも奇跡を体験しなくても、奇跡を見なくても、キリストを信じている人たちは主のいつくしみの中にいます。奇跡は信仰のバロメーターではありませんから自分が望む奇跡が起きないからと言って、自分の信仰のせいだとは決して思わないでください。神様は私たちとは違います。「あなたは信仰が深いから望み通りに奇跡を与えましょう。あなたの信仰はまだまだなので奇跡は無理です」なんてことは絶対にありません。かえってキリストを迫害していたサウロに奇跡は起こりました。主のみ旨ははかり難く、わたしたちはその中に生きているのです。
フランスの暴動
ブログをアップしようとしていた時に、この動画を見ました。いつも見ている日本在住のフランス人の動画です。ただ事ではないフランスの状況です。リンクを貼ります。是非見てください。フランスのために祈りましょう。
カトリック教会の伝統を大切にする信者の巡礼と司祭司教様とご聖体の行列です。言葉はわからなくても動画を見ているだけで信仰の力を感じます。
①
https://www.youtube.com/watch?v=wTkO6zF5YwU
②
YouTube: Paris - Chartres 2023 - Tag 2
③
https://www.youtube.com/watch?v=siyah-OwoYg
④
YouTube: Paris - Chartres 2023 - Einzug von Priestern und Bischöfen
マニプルを腕に付けている司祭の多いこと。日本ではほとんど見ないですね。また同じくビレッタ帽をかぶっていますね。カトリックの聖職者が伝統的にかぶるものです。日本でも高位聖職者はズケットをかぶるのですから司祭はビレッタをかぶったらよいのに!
今日は福者ペトロ岐部司祭と187殉教者の記念日です。福者ペトロ岐部神父様の時代にもローマの司祭たちはビレッタをかぶって入堂し、マニプルを付けてごミサをあげていたことでしょう。キリスト信者たちが迫害されていた日本ではできなかったことですね。今はもう迫害はないのですから、堂々と身につけたら良いのにと思います。
聖ペトロと聖パウロの霊名・堅信名の方々おめでとうございます。
天主のみ旨ははかり難いものです。学問のある聖パウロの回心といい、漁師のペトロ、世間から嫌われていた徴税人のマタイ、キリストを裏切るイスカリオテのユダ、福音書を書いた医者のルカ等々、主が選んだ人たちは様々です。のちの聖人たちも同じです。聖人たちの中にはアジアやアフリカ等様々な国の人がいます。また女性も多くいました。キリストは復活後に最初に女性に現れました。このようにキリストは人種、職業、男女の差別を全くしなかったこと、また世間の評判(差別)を無視していたことが良くわかります。
女性の司祭がいないことを男尊女卑のせいにする人がいますが大きな間違いです。理由は全く違います。また女性司祭を望む人たちはマグダラのマリアを12人の弟子たちと同じように描いた映画などを作っていますが、これも間違いです。マグダラのマリアはキリストを信じて他の女性たちと一緒に彼らの世話をしていましたが弟子ではありませんでした。
今日は聖ペトロと聖パウロについて、彼らが何を話し、どう行い、どのように亡くなられたのか、じっくりと聖書や聖人伝を読んでみようと思います。
YouTube: 恐れずに語る…十字架のしるしをすることから
25日主日のごミサの説教です。この中で酒井司教様が勧めていたことは、かねてから私が思っていたことだったのでうれしくなりました。
それは外食をする時にも十字架のしるしをすることです。私はよく牧場などに出かけて、外でお弁当を食べますが、その前には必ず十字架のしるしと食前の祈りをします。勿論レストランなどのお店でも同じです。主に感謝をすることは当たり前ですから。
そういう私も数年前までは人前で十字架のしるしをするのは恥ずかしいという思いがありました。でも何かのドラマで見たのか本で読んだのか記憶は定かではありませんが『恥ずかしいと思うのは悪いことをした時、良いことをするのに恥ずかしく思うことはない』という文言がありました。『食前の祈りをしたり、十字架のしるしをするのは悪いことではない。なにも恥ずかしく思うことではないし、自分の信仰をあらわすのは当たり前のこと』との思いがわいてきて、スッと吹っ切れていつでもどこでも十字架のしるしと食前の祈りをすることができるようになりました。ですから病院の待合室で他の人たちがいてもロザリオを祈る前に十字架のしるしをします。
また司教様の説教の中で、ある信者さんがカテドラルの中に入って真っ先に「さすが大阪教区、磔刑の十字架がある」と、言った話しには耳が痛いです。私の教区カテドラルの正面には磔刑の十字架はありません。キリストのいないただの木の十字架です。いつイエズス様の姿を十字架上で見られるのか・・・私は20数年もの間待ち続けています。
ごミサの後に酒井司教様の霊名(聖パウロ)のお祝いがありました。なかなか面白いご挨拶でしたね。
今日は聖ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲル司祭様の記念日です。
聖ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲル
約十年位前から私は勝手に聖ホセマリア神父様を私の保護聖人になってもらっています。いつも『道』を読んで、反省したり励まされたり。寝る前には必ず「聖ホセマリアへの祈り」でしっかり願い事をして休みます。勿論自分のためではなく他の人のための願い事です。
『道』は私の道しるべです。迷ったとき、倒れそうになった時、ここから力をもらいます。自分の間違いに気づかされることもあります。
昨年私より3歳も若い昔の友人が亡くなりました。私の命もいつ終わるのかはわかりません。その時に永遠のいのちをいただけるようにいつも準備をしておかなければと改めて思いました。これは年寄りだけでなく若い人たちも同じですよ。
聖ホセマリアの説教の一部(Opus Dei HPから)
皆さん、兄弟である人々のいるところ、希望の実現をめざして仕事に従事し、愛情を捧げるところ、これこそ皆さんが日々キリストと出会うところです。この世の最も物質的なものの真っ只中こそ、神と人々に仕えて自らを聖化すべきところなのです。
私が聖書の言葉を使って常に教えているように、世界は良いものです。それは神の御手から出たもの、神の被造物であり、神なるヤーウェがご覧になり、「よし」と思われたからです。良い世界を悪いもの、醜いものとしたのは、人間の罪と不信仰です。皆さん、決して疑わないでください。この世に属する皆さんのような男女が、日常の正当な諸現実から逃げ出すようなことがあれば、それは神のみ旨に反する生き方になります。
逆に、人間生活の社会的、物質的、世俗的な仕事の〈中〉で、それらを〈通して〉、神に仕えるよう招かれていることを、いま改めてはっきり理解していただかなければなりません。研究所、病院の手術室、兵舎、大学の教壇、工場、作業場、田畑、家庭、その他広範にわたるあらゆる種類の仕事の中で、神は日々私たちを待っておられます。ぜひ知っておいてください。ごくありふれた状況の中に、聖なること、神的なものが隠れています。そして、それを見つけ出すのは、私たち一人ひとりの責任なのです。
(聖ホセマリア・エスクリバー『教会を愛する』、精道教育促進協会、1992)
2023年、今年も世界各国から約3000人の若者がローマに集まり聖週間を過ごしました。UNIV(ユニーヴ)オプス・デイの属人区長オカリス神父様も若者たちと共に話します。
YouTube: Encuentros del Prelado con jóvenes del UNIV 2023
(日本語の字幕にできます)
今日は洗礼者聖ヨハネの祭日です。亡くなった日だけでなく誕生の日も祝うのは洗礼者ヨハネだけですね(勿論主キリストと聖母を除いて)。それは彼が偉大な預言者だからでしょう。
聖人たちは亡くなった日を記念日として祝います。それはこの世の命をなくした日ではなくて、永遠のいのちを得た日だからです。
洗礼者聖ヨハネは「私よりも優れた方が来て聖霊で洗礼をお授けになる」と言っています。そのために皆悔い改めなさいと。それは罪を悔い改めて告白することです。今日私たちは洗礼者ヨハネを祝うその前に先ず私たち自身が悔い改めることが必要だと思います。
成人洗礼を受けられた方で洗礼後の教えが不十分なために、何が罪(小罪)かわからないとか、ゆるしの秘跡の受け方がわからないのでゆるしの秘跡を受けないでいる方がおられるようです。
私が教会学校で神父様から聴いた話です。「家の中はゴミを片付けても掃除をしないでいるといつの間にかほこりが積もっています。だからゴミが無くても掃除をします。私たちの心も同じで、小さな罪がほこりのように積もって心をくもらせてしまいます。だから時々告解(ゆるしの秘跡)をして心の掃除をしましょう」と、今でもよく覚えています。
前に紹介した『祈りの友』にはゆるしの秘跡を受ける前の準備と受け方が詳しく書かれています。特に「良心の糾明」のところでは具体的に詳しく書かれているので、小罪とはどんなものかわかるでしょう。また聴罪司祭に初めて受ける、あるいは受け方が良くわからないと伝えれば神父様が優しく導いてくださいますので、安心してゆるしの秘跡を受けに行ってください。
ムリーリョの幼い洗礼者聖ヨハネの絵は本当に美しいですね。キリストに洗礼を授ける場面や、ヨハネの頭を盆にのせて踊るサロメの絵など沢山の絵画がありますが、私はやはり幼子の姿の絵が好きです。
Murillo
Raffaello
この動画は聖ペトロ司祭兄弟会の叙階式です。 不思議なことに伝統を大切にしている会ほど司祭の召命が多いようです。
今日は聖ヨハネ・フィッシャー殉教者と聖トマス・モア殉教者の日です。お二人が殉教された理由を今一度よく考えてみましょう。真理よりも世間の価値観を大切にしようとする今のカトリックの風潮は、ある祈りを祈祷書から省いていることにも表れているような気がします。
カトリック教会に置いてある祈りの本はほとんどが『カトリックの祈り』です。でも私がお薦めするのは『カトリック祈祷書 祈りの友』です。祈りの数の多さと慣れ親しんでいる文語での祈りが載っています。以前にも書いた「始業の祈り」と「終業の祈り」も載っていますし、また免償などについての説明も載っています。 ただ2点だけ不満なのは文語での「聖母に一切を託する祈り(聖アロイジオ)」と「諸聖人の連願」が載っていないことです。諸聖人の連願は典礼聖歌で唱えるのが普通なので載せていないのかもしれませんね。『カトリック祈祷書 祈りの友』も田中司教様のIMPRIMATURがあるので教会でも問題なく使えますよ。
教会に置いてある⇩『カトリックの祈り』
お薦めの⇩『カトリック祈祷書 祈りの友』
前教皇ベネディクト16世の私設秘書であり、フランシスコ教皇の秘書・教皇庁公邸管理部室長を務めるゲオルグ・ゲンスヴァイン大司教(Archbishop Georg Gänswein)様について最近ちょっとざわついています。
私は大司教様はそろそろ枢機卿になられると思っていましたが、どうやらそうはならないようです。フランシスコ教皇様から故郷ドイツに戻るよう命ぜられた(他にも色々と問題があるようですが)という記事を見ました。
やはりそうなるのか・・・と、残念な気持ちです。今のフランシスコ教皇様ならあり得ることですし、大司教様も教皇様には従うしかありませんね。この問題がこれ以上大きくならないことを祈ります。主のみ旨にお任せします。アーメン。
先日「カナン」というベーカリーのパンが美味しいと聞き、行ってみました。お店の名前「カナン」は旧約聖書で主がアブラハムに約束された地カナンからとっているそうです。
店内は思っていたよりも狭く、行列してコの字型に陳列してあるパンを取りながら最後は会計をする、セルフ食堂のような感じです。でもパンの種類は多く、菓子パンではなくハードパンや調理パン等の食事パンが中心で、タルトも少しありました。そして若者が多いのにはびっくり!美味しい証拠ですね。
写真を撮る前に食べてしまったイチジクのタルトと梨のタルトもとても美味しかったです。良い材料を使っているのがわかります。パンもすべて美味しかった。 ただしお値段もそれなりに高いです。高いというよりその価値のあるパンやタルトだと思います。ですからこれからは毎日とはいきませんが、特別な日にいただこうと思います。
聖霊降臨後の19日目(キリストの聖体の祝日後の金曜日)がイエズスの聖心の祭日です。そして翌日が聖母の聖心の日です。
聖マルガリタ・マリア・アラコク(Sancta Margarita Maria Alacoque)の神秘体験でイエズス様はご自分の心臓を彼女に見せて、「私の心はこの世の罪で傷つけられている」と言われました。ですからキリストの聖心を思う時には私たちは自分の罪の回心と償いとが不可欠だと思います。
イエズス様の聖心とは愛です。でも私は毎日イエズス様の聖心を傷つけています。私たちは聖マルガリタの頃よりももっともっと聖心を傷つけているのではないでしょうか。
毎晩寝る前に心の糾明をすることを怠らないようにしましょう。そして今日は「イエズスの聖心の連願」を、明日は「聖マリアの連願」を唱えましょう。(夫の家族は5月の「聖母の月」の間は聖マリアの連願を、10月の「ロザリオの月」にはロザリオを唱えていたそうです。)
聖マルガリタ・マリア・アラコクの記念日は10月16日です。
聖アントニオが生まれたのはポルトガルのリスボン(1195年)です。はじめ聖アウグスチノ修道会に入り、後にアッシジの聖フランシスコ兄弟会に移りました。1231年6月13日にパドヴァの近郊で亡くなり、遺体はパドヴァの大聖堂(Basilica di Sant'Antonio di Padova)に安置されています。ですから「リスボンの聖アントニオ」また「パドヴァの聖アントニオ」と呼ばれています。また聖アントニオはリスボンの守護聖人で今日リスボンでは聖アントニオ祭が盛大に行われていると思います。聖アントニオにはよくイエズス様が幼子の姿で現れたので、絵画や彫刻では聖アントニオは幼子イエズス様を抱いています。
聖アントニオは素晴らしい説教をすることで有名でした。罪人は悔い改めて、人々はそれぞれに回心し、多くの人たちがその説教に魅了されました。
また異端のキリスト教徒や異端者アルビジョア派=カタリ派やパタリヌ派に対しての説教に専念しました。そして異端に反駁するためには確固たる教義的基盤が必要であることを主張して、聖フランシスコにフランシスコ会神学学生の設立を願いました。聖フランシスコも同意して「私はあなたが私たちの兄弟たちに神学を教えてほしいと思います。ただし、規則で規定されているように、そのような研究のせいで聖なる祈りと献身的な精神が彼らの中で消えないことを条件とします。」と応えています。
聖アントニオは「真実は憎しみを生みます。このため、聞き手の憎しみを招かないように、沈黙のマントで口を覆う人もいます。」と話しています。これは特に権力者や著名人に対して話しているのですが、今の時代のカトリック信者にも当てはまることではないでしょうか。「真理を説けば、世俗的な人々の憎しみを招く、・・・しかし・・・スキャンダルを起こされることを恐れて真実を誤ってはなりません。」と。
今の時代に異端の鉄槌(聖アントニオ)が説教されたら、どんな話をされるでしょうか?今は聖アントニオとは反対にすべてを肯定するような(キリストの教えを曖昧にする)説教が好まれています。私たちが今の司祭から聖アントニオのような説教を聞くのは無理なのでしょうか?
今日「キリストの聖体」の日のごミサの説教です。良いお話です。
YouTube: 教会の聖櫃(せいひつ)を「ベタニア」とするために
私も聖櫃で待っておられるイエズス様をもっと訪問して、イエズス様に話しをしたいと思いました。
今月の26日は聖ホセマリア・エスクリバー司祭の記念日です。すでに今日一回目の記念ミサが挙げられました。でも来週17日と7月1日もあります。与ることができる方は是非!「ゆるしの秘跡」を大切にしているOpus Dei です。
今日は「三位一体」の後の木曜日、「キリストの聖体」の祭日です。
ポーランドのある司祭の叙階25周年記念ミサです。ご聖体拝領を見てみましょう。動画は1:21:00頃からです。
YouTube: JUBILEUSZ 25 LECIA KAPŁAŃSTWA KS. PROBOSZCZA MIROSŁAWA FRANKOWSKIEGO
これを見るとやはりひざまずいて舌で受けるのが良いですね。カトリック教会は長い間このようにしてきました。私が初聖体を受けた時にも同じでした。立ったままで手で受けるのは受け取る側にとってはとても楽ですが、キリストへの崇拝を思うとひざまずいて舌で受ける方がふさわしい姿だと思うのですが。(心は形に現れる?)残念ながら多くの人たちはそうは思わないようです。
パンの形色のうちにまことにまします隠れ給う天主、今うやうやしく御前に礼拝し奉る。われは主を認むる力足らざるにより、わが心を全く主に従わせ奉る。
▴ここに今、見、触れ、味わうところのみにては、これが主なることを認め難けれども、ただ耳に聞けるところによりて確信するなり。われは天主の御子ののたまいしことを、ことごとく信じ奉る。この真理の言葉にまさるまことは、世にあることなし。
十字架上にては天主の性のみ隠れしかど、ここにては人たるの性も共に隠るるなり。されどわれ二つの性の共にましましすを信じ、かつこれを公言し、カルワリオにて悔改めし盗賊の願いしことをわれもまた願い奉る。
▴われはトマの如く御傷を見ざれども、主のわが天主なることを公言してはばからず。願わくは、われをして主をますますあつく信じ、主に依り頼み、主を愛することを得しめ給え。
わが主の御死去の記念として人に命を与うる活けるパンよ、わが心を御身によりて生きながらえしめ、何時もその甘美なる味を覚ゆるを得しめ給え。
▴御血の一滴くをもってしても、世のすべての罪を償うを得給う主なるイエズス、願わくは汚れたるわれを、御血をもって清め給え。
聖体の姿のうちに見奉るイエズス、願わくはわが渇するごとく望むところを与え給え。即ち天国においてあらわに主の御顔を見奉り、御栄えを仰ぎて幸いなるを得しめ給え。アーメン。
聖体に対する聖トマス・アクィナスの祈り(口語)
パンとぶどう酒の形のもとに、隠れておられる神よ、つつしんであなたを礼拝します。
あなたを見つめながらも、全く見通す力のないわたしは、心のすべてをあなたに委ねます。
▴今ここに、見るところ、触れるところ、味わうところでは、あなたを認めることができません。
ただ、聞くところによってのみ確信します。神の御子の言われたことは、何ごとであれ
信じます。この真理のことばにまさることは、世にはないからです。
十字架上では神の本性だけが隠されていましたが、ここではその人性も隠されています。
主にあるふたつの本性を信じ、それを宣言し、悔い改めた盗賊の乞い願ったことを
わたしも願います。
▴わたしは使徒聖トマスのように御傷を見なくとも、あなたがわたしの主であることを
宣言します。わたしがあなたをますます深く信じ、あなたに希望し、あなたを愛させて
ください。
主のご死去の記念として、人に命を与える生きたパン、わたしの心をあなたによって生かし、
甘美なあなたを常に味わわせてください。
▴御血のひとしずくだけで、世のすべての罪を償うことのできる主イエス、願わくは汚れた
わたしを、御血をもって清めてください。
今、隠れていますイエス、渇き望むものを与えてください。覆いを取られた、あなたの顔を
見出し、あなたの栄光を見る幸いな者となりますように。アーメン。
今月は「聖心の月」ですね。特に16日の「イエズスの聖心」の祭日には『イエズスの聖心の連願』を唱えましょう。
聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会
よく一般には(学校でも教えられますが)「ユダヤ教・イスラム教・キリスト教は唯一の神を信じている」と言われています。確かに八百万の神ではなく唯一の神です。しかしそれは同じ概念の神ではありません。
キリスト教の神は「三位一体」です。私は八百万の神と混同しないように「神」ではなく、以前カトリック教会が使っていた「天主」をできるだけ使うようにしています。多くの日本人は「神」と言えば「八百万の神」、山の神や水の神あらゆる物にやどっている神を思い浮かべるからです。このことは岩下壮一神父様も『カトリックの信仰』の中で書いておられます。カトリックでは山や水や木はすべて神の被造物であって、それらは神の現れ(汎神論)ではありません。最近では信者の中にも汎神論的な間違った考えの方がちらほら・・・。気をつけましょう。
私たち信徒は神の「三位一体」を頭で理解しようとはしないで、ただ信じればよいのです。無理矢理三位一体を何かに例えて説明しようとすると、それは異端的な考えに陥る可能性があるからです。私たちは完全に理解できなくても知ることはできます。『カトリック教会のカテキズム』232~265に書かれています。
聖ホセマリアの御ミサにおいて実現する至聖三位一体との交わりについて
(オプスデイH.Pより抜粋)
「口よ、歌え、光栄ある聖体を。尊き母の御子・万民の主が、世の贖いのために流されたこの聖い御血の秘義を」と、聖なるホスチアの前で、信者が昔から絶えず唱い続けてきた訳がよくわかります。隠れておいでになる神を恭々しく礼拝しなければなりません。ご聖体は童貞マリアからお生まれになったイエス・キリストご自身、苦しみを受け、十字架につけられた御方、御脇腹を刺し貫かれ、血と水とを流したイエス・キリストご自身であるからです。
これこそ、聖なる宴、キリストご自身を糧として受ける宴ですが、そこでは、主のご苦難が記念されるだけでなく、人が主と共に親しく神と交わり、来世の栄光の保証を受けます。教会典礼のこの短い賛歌の中に、主の熱烈な愛の歴史のクライマックスが要約されているのです。
・・・・・
三位一体の神はご聖体という得も言われぬ方法を通して、人間にその愛を注ぎ続けられます。ご聖体は犠牲であると共に秘跡であると、昔カトリック要理で習ったものです。秘跡としては、聖体拝領と祭壇上の宝物、つまり聖櫃の宝物として示されます。世界中の聖櫃に現存するキリストの御体のために、教会は特に聖体の大祝日を定めました。
・・・・・
奉献の後の、指の清めのすぐ後で、司祭は次のように祈ります。「聖なる三位一体の神、わたしたちの主イエス・キリストの受難、復活、昇天の記念としてささげるこの供え物をお受けください」、そしてごミサの終わりには、聖三位一体に尊敬を表す素晴らしい祈りを唱えます。「聖なる三位一体の神、しもべであるわたしの奉仕のわざをこころよくお受けください。値打ちのないわたしが敢えてみ前にお捧げするこのいけにえをお喜びください。御いつくしみによって、わたしとわたしが捧げたすべての人々のために快くお受け入れください」。
繰り返し申しますが、ごミサは三位一体の神の働きであって人間の働きではないのです。ごミサをたてる司祭は、自分の体や声をお貸しすることによって主のみ旨に仕えますが、自分の名においてではなく、キリストのペルソナとキリストのみ名において振る舞うのです。
・・・・・・
ミサにおいて、聖三位一体ご自身が教会に与えられますから、ごミサによって私たちは信仰の主要な秘義に導かれることになります。こうして、ごミサはカトリック信者の霊的生活の中心であり根源であることがよくわかります。ごミサはすべての秘跡が目指す秘跡です。洗礼において与えられ、堅信によって強められ成長した恩恵の生活は、ごミサによって絶頂に達するのです。「ご聖体にあずかることによって、聖霊が私たちを神化してくださっていると感じます。ごミサにおいて聖霊は、洗礼の時のようにただ単にキリストに同化させるだけでなく、私たちをキリストに結びつけ、完全にキリスト化させてくださるのです」と、エルサレムの聖キリルスは述べています。
・・・・・・・
ある信者にとってごミサは、社会の因襲とまでは言わなくても、単なる外面的な儀式に過ぎず、またある人はごミサについて極めて貧弱な考えしか持っていない、と私が述べても、別に変わったことを言っていることにはならないでしょう。私たちの心は全く哀れなもので、神がお与えになった最も偉大な賜物にさえも慣れてしまうのです。ごミサ、今捧げるこのごミサには、繰り返して申し上げますが、聖なる三位一体の神が特に介入なさいます。この深い愛に応えるために、心身共に、すべてを捧げる必要があります。神に耳を傾け、神に話しかけ、神を見、神を味わうのです。そして言葉に言い尽くせないときには、元気を出し、全人類に向かって主の偉大さを称え、「口よ、うたえ、光栄ある聖体を」と歌うのです。
(聖ホセマリア・エスクリバー『知識の香』84ー87)
ということで、私は簡単にごミサを中止したり無くしてはいけないと思います。(`•︵•´) !
これら諸々のことで先週は心乱れていたせいか、連絡網である方に連絡するのをすっかり忘れてしまいました。
ウガンダの新しい国王ムワンガは小児性愛者でした。公教要理の係りをしていたルワンガは男の子たちを国王から守りました。しかし後に国王は彼らに公教要理を受けているか調べ、信仰を捨てないと答えた15人を火あぶりにしました。
Today is the feast of St. Charles Lwanga and companions, murder victims and martyrs of homosexual depravity.
Today we might also contemplate the various ways in which the State is encroaches in our lives in this regard and tries to force us to do things that are repugnant to nature and to God’s laws.
Today we should especially ask God to forgive and convert all those who in any way have contributed to or succumbed to any aspect of what is rightly called toxic “gender theory” and called demonic, due to its origin.
Today is the feast day of a saint, who died as a martyr especially because he resisted a sodomite king, who was furious that he and many children wouldn’t have homosexual sex with him.(2023年6月3日Fr.Zの記事より抜粋)
聖母の月も今日で最後、一昨日は「教会の母聖マリアの記念日」そして今日は「聖母の訪問の祝日」です。毎日聖母のご加護に感謝しながら過ごしています。幸いなことに今は夫婦仲よく穏やかに過ごしていますが、この状態がいつまで続くかはわかりません。
「認知症」とは本当はどういうものなのか、知っているようで本当はよくわかっていませんでした。だんだんと自分や夫にも関係してくることと思い『ボケ日和』という本を買って読みました。
認知症と言っても加齢による単なる脳の老化からアルツハイマー型認知症のように病気が原因のこともあります。何れにせよ早く専門医に診てもらうことが大切なようです。薬で進行を遅らせたり、症状を和らげたりできるからです。
初期の頃は家族でも気づきにくいこともあるようですが、おかしいなと思ったら「物忘れ外来」や「認知症外来」へ早めに連れて行くことが大事だそうです。『年のせいだ』とか『まだ大丈夫だろう』と思わず、早めの診察・治療を受けましょう。
この本を読んで、『そういえばあの人はひょっとして初期の認知症だったのかも…』と、思える人が2~3人いました。もしあの時に認知症が原因だったとわかっていたら、私はもっと違った態度をとれたのにと後悔しています。
私自身に認知症の疑いが出た時には、迷わずに病院での診察・治療を受けられるように夫に頼みました。そして時期が来たら施設に入れてほしいということも伝えました。夫も同じ考えです。認知症が原因で家族に亀裂が入ってしまうこともあるようですから、子どもたちにもそう伝えておこうと思います。
以前施設での認知症患者への虐待というニュースもありましたが、加害者はほんの一握りの人で、ほとんどの職員は毎日一生懸命に入所者のために働いておられると思います。私は職員の皆さんを信じてお任せするつもりです。
結局認知症になるかどうかは自分ではまったくわかりません。もしその時が来たら素直に受け入れる(しかない?)。認知症にならなくても、周りにいる認知症の方やその家族を理解して、明るく優しい気持ちで接するようにしたいと思います。