気が付けば今日は使徒聖トマの祝日でした。すっかり忘れていました。祝日なのにー
こう暑いと体も頭もぼ~としてだるい。外の仕事はとても無理なので、部屋のエアコンを付けて聖書を読み始める。ぼ~とした頭が徐々にすっきりしてくるが、ゆっくりゆっくり読まないと頭に入らない・・・。暑さのせいより年のせいかな?
近所の家では大工さんたちがこの猛暑の中仕事をしています。大工さんたちは夏も冬も外で働くことに慣れているとはいえ、さすがにこの暑さは堪えると思います。彼らにただただ感服します。
もうすぐ我が家の玄関の扉を取り換える工事も始まります。築50年以上たつと壁と扉との間に隙間ができて台風の時困っていました。ずっとどうしようか迷っていましたがやっと決心がつきました。この暑い中工事に来てくださる方には冷たいお茶とお菓子とアイスを用意して労いたいと思います。
我が家のにゃんこも暑そうです。⇩
今日は福者ペトロ岐部と187殉教者の記念日です。数日前から『殉教者』(400年前、聖地エルサレムを訪れた初の日本人・ペトロ岐部カスイ。ローマで司祭となり、キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる日本に戻った男の生涯)を読んでいます。その苦難に満ちたローマへの旅、そして殉教。それはただ主への愛の証。また187人の殉教者のうち183人は子どもを含む信徒たちでした。
現在福者高山右近を聖人にという声を聞きますが、私はペトロ岐部と187殉教者を聖人にと願っています。
「日本にキリスト教は根付かなかった」という人もいますが、私はそうは思いません。宣教地でこれほど多くの殉教者を生んだ国が他にあるでしょうか?確実にキリスト教(カトリック)は日本に根付いています。大浦天主堂での信徒発見のシーンを思い起こしてください。もう日本には信徒はいないと誰もが思っていたのに・・・数は少なくても信仰の根はしっかり付いていたのです。ですからその証として殉教者たちを聖人のくらいに上げましょう。ただ私の心の中では日本で殉教したすべての人達はすでに皆聖人です。
長崎でも司祭、修道者の召出しが少なくなっていると耳にします。長崎の信徒の皆さん、皆さんは先祖に根付いた信仰を脈々と受け継いでおられるのです。それは私が望んでも得ることのできない主からの特別なお恵みだと思います。誇りをもって再びその信仰を燃え上がらせてほしいです。
聖ペトロと聖パウロの祭日です。夫の堅信名はペトロ、次男の堅信名はパウロ、私の目から見ると逆で、夫がパウロで次男がペトロのようなイメージです。
私はペトロは寛容で優しい、パウロは強く堅固なイメージを持っていますが、実際はペトロは寛容、優しさに隠れてとても強く堅固であり、パウロはその強く堅固な力の中に優しさが隠れているような気がします。そう考えると二人の堅信名はぴったり合っています。
夫は二心無く、誰に対しても自分の信仰ははっきりと表す強く堅固な人でした。厳しい人と思われがちですが、しかし私よりもずっと優しく寛容でした。特に弱い人や貧しい人、苦しんでいる人、そして一生懸命信仰に生きようとしている人のためにいつも祈り、経済的にも援助をしていました。おそらく夫のそういう面を知っている人は少ないでしょう。
人間にはいろいろな面があります。一面だけを見てその人にレッテルを張らないように気をつけましょう。今は選挙の時期、特に選挙の立候補者に特定のイメージを植え付けて批判ばかりする、逆にほめちぎるのは良くないですし、そういう一面だけの評価に惑わされて投票しないように気をつけたいものです。
今年も聖ホセマリア神父様の記念日を迎えました。聖ホセマリア神父様の記念ミサは各地で行われてきましたが、7月6日(土)午後3時から長崎のカトリック本原教会でも行われます。午後2時よりゆるしの秘跡を受けられそうです。与れる方は是非!
いつも聖ホセマリア神父様の本を読んで、励ましと慰めを得ています。そして聖ホセマリア神父様へ取次ぎを願う祈りによって、主から多くの恵みを受けています。今は本を持ち歩かなくても、携帯で読むことができるので便利になりました。
生前の聖ホセマリア神父様の動画では、様々な人たちの色々な質問(家庭、夫婦、子育て、教育、仕事、友人関係、争い、貧富の差、人生の目的、信仰について等々)に、聖書の中でキリストはこう言っている…ペトロは…パウロは…、キリストの目線で、また聖人たちのことばや行いを用いて答えられています。
これらの動画を見ることで、私自身、知り、気づかされ、学び、諭され、癒されます。私はこれがある意味カトリック的わかちあいだと思います。
聖ホセマリア神父様は私たちにとってとても身近な聖人です。聖ホセマリア神父様に取り次ぎを願い祈りましょう。
酒井司教様の巡礼団はサンティアゴ・デ・コンポステラに着きました。ここでの司教様のスペイン語での説教、仏教徒の外国人に「あなたは日本人なのに、なぜカトリックなのか?」と問われた話に引き込まれました。私も成人洗礼を受けられた方に問うてみたいです。「あなたはなぜカトリックの洗礼を受けたのですか?」
ユリウス暦の聖霊降臨の日にルブリョフ作「三位一体」のイコンが聖セルギイ大修道院に返還され、修道院の至聖三位一体大聖堂で徹夜の祈りがありました。私たちにとってもなじみ深いイコンですね。
酒井司教様たちは巡礼七日目、カルダス・デ・レイに無事到着されました。聖トマス・ベケット教会でのごミサ。説教台には「PALABRA DE DIOS」と、刻まれています。まさに「神の言葉」を語る場所ですね。私たちは神の言葉=神が語られていることばを聴かなければなりません。
説教台から朗読が行われ、答唱詩編が唱えられ、福音が朗読されます。そして説教が行われます。(説教台から行わない教会もありますが) 朗読台から説教をされる時に多くの司祭様は「神の言葉」を意識して、それにふさわしいお話しをされます。私たちはその話を聞いて、より深く神の教えを学びます。信徒の躓きになるような内容は避けてほしいですね。
その点、酒井司教様の説教はいつも私の心に響くものです。主の深い愛に気づかされたり、自分の愚かさを反省したり・・・、司教様はいつも説教の準備を良くされていることが伝わります。準備はせずに聖霊が働くままに話すという司祭様もおられますが、たいていは内容に一貫性がなく、首をかしげてしまう内容のことがあります。教会の教えよりも自分の教えになってしまう・・・?
去年聖トマス・アクィナスは列聖700年、今年は帰天750年、そして来年は生誕800年を迎えます。神学生の時に勉強された『神学大全』を思い出して、聖トマス・アクィナスに倣い、神の言葉を正確に伝える司祭が増えますように。
聖トマス・アクィナス
シルゴ神父様は「聖イグナチオの霊操」の講話の中で、イエズス様の目で、ものを見る、出来事を見る、人を見る、ことが大事だと話されました。
時々自分に合わない人や気に入らない人の前に立ってその人を見る時、イエズス様は私たちにおっしゃってくださる。「あなたにはあわない人かもしれないけれども、その人のためにも、私は命をささげた」と。
ドキッとしました。そう、イエズス様がおっしゃることは真実です。そしてこのことを忘れていることに気づかされました。自分が気に入らなくても、主はその人を愛しておられるのです。それならば、当然私もその人を愛さなけばなりません。
私たちはいつも何かしらの不平不満を言っています。そして物事に対しての不満がいつの間にか特定の人に対しての不満や批判になってしまうことがあります。私自身他人を批判した事を悔い改めます。
酒井司教様はスペイン・ポルトガルを巡礼中です。ファティマでのごミサの説教(ポルトガル語)です。
(司教様の説教は1:50頃から始まります。)
宣教の実りについて、また私たち自身が自分なりの宣教をすることを願っておられます。
一つ目はYouTubeで偶然に見つけた5年前の黙想会のお話しです。
YouTube: 【四旬節黙想会】中島 貴幸神父(オプス・デイ属人司祭)【テーマ-喜びに喜べ(ローマ教皇フランシスコ著書)-2019年3月31日 カトリック武庫之荘教会
中島貴幸神父様のお話を初めて聞きました。丁寧で聞きやすく、その内容もなるほどと納得することばかりです。フランシスコ教皇の『使徒的勧告 喜びに喜べ』と『カテキズム』そしてベネディクト16世教皇の『使徒的勧告 主のことば』を用いて話されています。わたしはいつも教皇様が出される回勅や使徒的勧告、書簡などは読むのに苦労しますが、こうして話を聞くとよく理解できます。
回勅や使徒的勧告は日常なかなか読みません。これからは本棚の飾りになってしまっている本を、実際手に取って積極的に読もうと思いました。
二つ目はイグナチオ・ロヨラの「霊操」についてのイエズス会司祭の連続講話です。3年位前の動画です。以前名古屋にあったカテキスタ学院の先生から『霊操』の本をいただきました。しかしその時は誰も指導してくださる方がいなかったので、さっと目を通しただけで本棚にしまってしまいました。しかしあれから約40年後、こうしてインターネットで『霊操』について学ぶことができるようになりました。素晴らしい!
今日はパドヴァの聖アントニオ司祭教会博士の記念日です。ポルトガルのリスボンやイタリアのパドヴァでは祭日で盛大にお祝いするでしょう。聖アントニオの説教は素晴らしかったようです。
YouTube: Strong Families Are The Bedrock of The Catholic Church
家庭での子どもたちへの信仰教育の大切さがわかる動画です。それは信仰を押し付けることではありません。親が一番大切にしているキリストの愛を子どもたちに伝えるだけのことです。そうすれば自然と子どもは自ら善い方を選ぶようになります。
キリストより他の物事を大切にしたり、主に信頼せず、主への感謝を口にせず、祈らず、信仰の喜びを感じないでいる親を見ている子どもにキリストの愛の喜びが伝わるはずがありません。
とは言っても、人生すべてがこの通りになるとは限りません。私たちに理解できなくても主の考えで私たちに試練をお与えになることもあります。聖モニカのように親がどんなに深い信仰を持っていても子どもはマニ教にはまってしまうこともあります。勿論それはアウグスティヌスが聖人になるほどの信仰を得るために主が与えられた試練だったのかもしれません。また私の知っている司祭の兄弟は両親から同じ信仰教育を受けても一人は司祭、一人は無神論者(いつか回心するかも)になりました。
大切なことはたとえどんな状況であろうともあきらめずに主に信頼して子どものために祈り続けることだと思います。そうすれば洗礼のしるしのある子どもはキリストから離れてもいつかキリストにかえる恵みをいただけると信じています。
聖アントニオに倣い良い説教をする司祭の召し出しを願います。
今日の説教について: 司祭が説教の中で「悪霊(悪魔)があると信じている人?」「わからない人?」「無いと思う人?」と、質問して挙手をしてもらっていました。結果は置いておいて、ごミサの最後に再び悪霊について話されました。
すべてを悪霊のせいにする内容に、悪霊を信じている私でも引いてしまいました。
神父様の話では今日のマイクの不調も悪霊のせいということでしたが、例えば私が教会のごミサに与るために車を運転しているとします。途中で車のガソリンが空になり動かなくなりました。神父様ならきっとそれはあなたが教会に行くことを悪霊が邪魔しているからだと言われるでしょう。
でも私の思いは違います。神様が「出かける前にはいつもチェックして準備をしなさい」と、教えてくださっていると思います。そして大事に至らなかったことを私は神様に感謝します。おそらく私がみ言葉のわかちあいに参加しないのも、神父様なら悪霊が邪魔をしているからだと言うでしょう。
うまくいかないことをすべて悪霊のせいにする生活は悪霊に縛られたとても苦しいものになります。それよりうまくいかないことも主の恵みと思い、主に感謝しながら生活すればとても心穏やかに過ごせると思います。
あなたは守護の天使に護られています。いつも守護の天使に祈り,そして感謝しましょう。そうすれば悪霊の入る隙はありません。
もう一つの祈りは文語での「守護の天使に向かう祈り」です。
わが守護の天使、御身は天主の御摂理によりて、わが終生の友となりたまえり。御身の尊き御保護と、絶えざる御導きとを感謝したてまつる。
▴ 願わくは、御身の強き御翼もて弱きわが霊魂を覆い、危険を免れしめたまえ。苦しみに遭うとも落胆することなく、幸運においても思いあがることなく、世俗とその精神に流されることなく、貧しき人をないがしろにすることなく、主の御いつくしみにより、御身に委ねられるわが一生が、すべて御身の喜びとなるよう、われを導き、われを励まし、われを強めたまえ。われを離さず、わが足のつまずかざらんよう、清きみ手もてわれを支え、われを守りたまえ。アーメン。
皆さんにお勧めしたい本があります。以前にも書きましたがその名も『悪魔のささやき』(加賀乙彦著)です。
私の教会では主任司祭の強い要望で毎月「み言葉のわかちあい」をすることになりました。
私はみ言葉のわかちあいには数回参加しましたが、何れも私には合わない集いでした。それ以来このような集いには参加していません。ですから主任司祭には申し訳ないのですが私はずっと参加しないつもりです。
み言葉のわかちあいは日曜日のミサの福音箇所を読んで黙想し、それぞれ自分の心に響いた箇所について話して分かち合います。そしてしばらく沈黙した後、各自自由に祈りを捧げます。
もちろんすべてがこの通りに行われるとは限りませんが、流れは大体同じです。そして、もしみ言葉のわかちあいに参加される方は次のことをしっかりと守ってください。
1.集いの場で聞いたことを他の所で絶対に話さない。秘密は守ること。
2.話をした人に説明したり教えたり、批判したり、議論したりしないように。つまり話す人は皆に聞いてもらい、質問や誰かの助言を求めたりしない。そして聞く人は相手の話を聞くだけで何も応えてはいけません。相手の話を聞いて心にとめるだけです。
み言葉のわかちあいが大好きという方もおられます。それが霊的成長をたすけるのなら参加したらよいでしょう。でも私は苦手なのでパスします。
私は以前にも書きましたが、黙想会(み言葉のわかちあいのない)、講話、十字架の道行などには参加しますが、祈りの集いなどOOの集いや集会といったものには参加しません。若い頃には友人やシスターに誘われて、好奇心から様々な集いに参加しましたが、どれもしっくりくるものではありませんでした。不熱心な信者と思う方もおられるでしょうが、私は他人の目は気にしません。
それよりも毎日曜日の福音朗読の時に、ほとんどの方がみ言葉を聴かずに、パンフレットを黙読していることは問題だと思うのです。福音朗読の時は神のみ言葉を聴くようにと言われています。しかしパンフレットの文字を目で追っていては、聴いていることにはなりません。(朗読ミスをチェックするためにパンフを見ているの? ) 第一朗読・第二朗読・福音朗読の時にはパンフレットは置いて、静かに聞きましょう。(ページをめくる音もせず静かに・・・)
主のみ言葉を聴く人々
また平和のあいさつの時、「すでに司祭とはあいさつをしているので、はじめから信徒同士であいさつをしましょう」と主任司祭が説明したにもかかわらず、先ず司祭の方を向いて「主の平和」とあいさつしているのです。😥 まあ、み言葉を聴くことに比べればたいしたことではないのですが。毎回私があいさつしようとすると皆私ではなく司祭に向かってあいさつしています・・・
典礼に関しては主任司祭が話されたことは守りましょう。一度説明されたら、何故そうしなければならないかを理解して、習慣に流されないようにしましょう。
茨で囲まれているキリストの心臓。それはキリストの無償で無限の愛の象徴の聖心です。聖マルガリタ・マリア・アラコク(10月16日記念日)に現れたキリストは聖体の祝日後の金曜日に聖心を崇敬するように告げました。それはキリストの聖心を傷つけている私たちへの回心を促すものでした。
キリストは無償で私たちを愛してくださっているのに、そのキリストの愛を私たちは多くの罪で傷つけてます。それは彼女の時代17世紀となんら変わっていません。かえってキリストを信じていると言いながら紛争をやめようと努力しない人たち、洗礼を受けていながらキリストから離れた生活をする人達・・・今の時代の方がもっとキリストの聖心を傷つけているのかもしれません。
明日は聖母の御心の記念日です。
YouTube: Procesión del Corpus Christi 2024 en Valladolid
カトリックの国での「キリストの聖体」の祭日・ご聖体の行列です。
私の一番良くないところは多分高慢だと思います。心の中で思うだけですが。そんな私が繰り返し読んでいる本が教皇レオ13世が書かれた『けんそんのしおり』と聖ホセマリアの『道』です。それらにはすでに教皇フランシスコの講話集『識別』に共通することが書かれています。
『道』は今まで何度も紹介してきたので、今日は『けんそんのしおり』から。
・あなたに無礼な振る舞いをし、あなたをそしり、あなたを妨害して喜んでいるものがあれば、あなたは、神がその人をつかって私の高慢を砕こうとなされるのだと考え、その人は神のおん憐れみの手立てであると考えて、その人を敬い慕わねばならない。
・神のみ旨に逆らわないように、危険を避けるように、大罪に陥らないように、常々祈り続けているならば、あなたの態度や行いは、次第に望みどおりになり、真理を黙想し、善を行い、神とかかわりのないものを遠ざけられるようになるであろう。つまり、それこそ、まことの謙遜の土台である。そうすれば、あなたは絶えず神に祈っているのと同様である。
・神は憐れみ深いお方であるから、あなたはすべてを神のおん手に任せ、子どもが親にしたがうように、まったく神のみ摂理に信頼せよ。どんな苦しい場合にも、いたずらに悩み苦しむことなく、神のおん計らいに任せる心をもて。そうしないならば、あなたは神を疑い、神の善意を認めず、神に希望をおかず、神に教えようとする高慢なものとなるであろう。謙遜なものは、そんなことはしない。謙遜の徳は自分を抑えると同時に、神のおん助けにより、神の慰めを期待させるはずである。
・聖母が自分の祈りを聞きいれてくださるかどうかを疑ってはならない。聖母に願うなら、きっと聖母はあなたのために神に取り次いでくださるのである。聖母はおん子の母であるから、その取り次ぎは必ず聞きいれられるに違いない。
・あなたが謙遜になりたいならば、しばしば告解(ゆるしの秘跡)をして聖体を受けよ。告解は私たちのひそかな醜い行いを思い出し、イエス・キリストが使徒たちにお命じになった通りに、それを謙遜に言い表すのである。聖体は、私たちを愛するがために人間となって死なれた神を受ける秘跡であって、謙遜になるためにもっとも力あるものである。憐れみの神のみこころは、常に、あなたの心のうちに住まわれる。あなたがせつに謙遜の恵みを願えば、神は聞き届けられるであろう。式にあずかる時には、心と思いとを正し、天の食べものを受ける準備を整えよ。この食べものは、せつに乞い求めるものにだけ配られるからである。
主任司祭が薦めていた本2冊を読みました。1冊目は『使徒的勧告 信頼の道』2冊めは『教皇講話集 識別』です。『信頼の道』は幼きイエスの聖テレーズ生誕150年を記念して出されたものです。ですから今までテレーズの本を読んだ人には特に新しい発見はないと思います。今まで聖テレーズについて知らない人にとっては聖女を知る良い機会だと思います。
『識別』の冒頭に、「人は食べ物、服装、進路、仕事、交際相手を選んでいます。そのすべての積み重ねで人生設計が具体化し、神との関係もまた目に見えるものになっていくのです。何を選ぶか識別することはとても大事です。賢い選択には、知恵・経験・感情・意志が必要と同時に努力も必要です」。また「自分の気持ちや考えをよく知るには、それがどこから来るのか、自分をどこへ導くのか、どんな決断へと至らせるのかを識別しなければなりません。神は、よく見極めて選択するよう求めておられ、私たちにその選択の自由を生かすように望んでおられる」と。
・神は計画されていない偶然の出来事を通じて働かれます。
・祈りは霊的識別を助けるのに不可欠なものです。祈り続けるということは、イエスに心を開いていること、イエスに近づくこと、心にイエスを迎え入れること、イエスの存在を感じることなのです。そうすることで私たちは、イエスが望まれることなのか、自分の思いーイエスの望みとは隔たりがちなーなのかを識別することができるはずです。
・イエスはご自身に従うよう強いることは決してなさいません。ご自身の意志をあなたに知らせますが、あなたの自由にゆだねられます。
・自分の生活を読み返すことに慣れると、見る目が養われます。磨きがかかり、神が日々私たちに起こしてくださる小さな奇跡に気づけるようになります。
・孤独やすさみの時、心を開いて自覚的に過ごすという心得があれば、人間的にも霊的にも強くなっているはずです。・・・悲しみやすさみに、打ちのめされてはいけません。前へ進むのです。・・・すさみと呼ぶ精神状態、心が真っ暗で悲しんでいる時でもそうしたすさみは成長の機会となりうるのです。
・困難に直面しても、決して裏切ることのない神の恵みの助けを借りて、決然と試練に立ち向かいましょう。
・識別を助ける第一のものは、神のことばや教会の教義との照合です。みことばや教義は、心にうごめくものを読み解く助けとなります。
・主が私たちにくださった、こうした数々の助けがあれば、恐れる必要はありません。勇気をもって、喜びをもって、前へ進み続けましょう。
・識別の助けとなるもののひとつが霊的同伴者(霊的指導者)です。同伴者は時のしるしを、主の声を、誘惑者の声を、乗り越えられない困難の声を、よく聞き分けられるよう助けてくれます。
良い選択、判断ができるためにこれらのことを心にとめて、常にキリストの聖心に適う識別ができますように聖霊の恵みを願います。
今日は聖母の訪問の祝日です。
聖母マリアはエリザベトの出産を手伝うために訪問します。エリザベトは聖母マリアが訪ねて来てくれたことに感動して聖母に、
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と、喜びをあらわします。
その言葉を受けて、聖母は神に感謝し賛美を捧げます。
マグニフィカト
わたしは神をあがめ、
わたしの心は神の救いに喜びおどる。
神は卑しい はしためを顧みられ、
いつの代の人も わたしを しあわせな者と呼ぶ。
神は わたしに偉大なわざを行なわれた。
その名はとうとく、
あわれみは代々、神をおそれ敬う人の上に。
神はその力を現わし、
思いあがる者を打ち砕き、
権力をふるう者を その座からおろし、
見捨てられた人を高められる。
飢えに苦しむ人は よいもので満たされ、
おごり暮らす者は むなしくなって帰る。
神は いつくしみを忘れることなく、
しもべイスラエルを助けられた。
わたしたちの祖先、
アブラハムと その子孫に約束されたように。
毎晩教会の祈りを唱える時にこのマグニフィカトを唱えますね。その度に天主の大きな愛を感じると同時に、『今日も私は高慢だった』と自分の弱さを悔やんでいます。
YouTube: eucharistic procession in Krakow Poland 聖体行列2 クラクフ20180607 195104
三位一体の祭日が過ぎて木曜日になるといつも夫は「今日は聖体の日だ」と嬉しそうに言うのですが、私が「今度の日曜日よ」というと、「そうだった、どうしても木曜日だと思ってしまう。」と答えていました。本当は夫の方が正しいのですが。子どもの頃からずっと身についた感覚は忘れられないのでしょう。夫にとって毎年の聖体行列は良い思い出だったようです。
キリストはご聖体という目に見える特別な形でご自分を私たちに残してくださいました。聖ファウスティナたちのようにキリストのご出現を経験しなくても、私たちはいつも主の前にひざまずいて主と語り合うことができるのです。
ご聖体の秘跡によって主が私たちをどれほど愛してくださっているかがわかります。わたしたちももっと主を愛さなければ