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2017年8月 4日 (金)

聖ヨハネ・マリア・ビアンネ司祭(記)

 

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 Kカトリック教会のごミサへたまに行きます。どうしてK教会に惹かれるのか、その大きな理由の一つは主任S神父様が普通の説教をなさるから。ジョークを入れたり歌ったりして会衆を楽しませることに重点を置くのではなく、説教の内容はその日のみことば(朗読個所)に沿ったお話。それも聖書の新しい解釈(昔の異端説)ではなく、正統な教えだからです。

 説教の長さや、言葉の問題、話し上手下手は関係ありません。長くても短くても、たどたどしい日本語でも早口でも、原稿を読んでも良いのです。大切なのは話す内容です。私は面白い説教や楽しいミサ、ノリの良いミサは苦手です。ミサ典礼はそれなりの荘厳さも必要です。

 惹かれるもう一つの理由は、ミサの奉献文が文語体であること。文語体の奉献文・・・良いですよgood 

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 今日は聖ビアンネの記念日。聖ビアンネ神父様は司祭の保護者です。神父様の説教はどんなものだったのでしょう。彼の伝記を読めば、少しはわかりますが、おそらくいつも信者の回心のためにキリストの教えを熱心に真面目に話されていたと思います。

 聖ビアンネは貧しい人たちを助けながら自分は私たちが想像する以上に質素な生活をしていました。しかしミサ典礼の祭服や聖具にはお金をおしみませんでした。それは自分のためではなくキリストへの畏敬の念の現れ、彼のミサに対する思いが伝わります。

 聖ビアンネは特別に何かしたのではなく、例えば修道会をつくったり、聖母やキリストのご出現にあって使命を託されたり、殉教したりしたわけではありません。ただ司祭の務め、ごミサや説教、告解を誠実に行っただけでした。しかし彼の名声はフランスの田舎町アルスだけにとどまらず遠く外国まで及びました。

 聖ビアンネ神父様からゆるしの秘跡を受けたいと願う大勢の人が彼のもとに来ました。人々は自分の犯した罪を告白して、キリストのゆるしとなぐさめ、そして希望を聖ビアンネ神父様を通して受けました。彼の罪の告白を聴く態度と告白に対する助言は人々の心に染み透ったのでしょう。だから人達はわずか数分の告解のためにも遠路はるばる苦労して彼のもとへ来たのだと思います。

 教皇ベネディクト16世は「司祭年」の年(2009年8月5日)に司祭の保護者聖ビアンネについて、「ビアンネ神父は司祭職という自分の受け取った賜物を常に最高のものと考え、子どもの頃、母に『もし自分が司祭だったら、多くの魂を捉えたい』と言った、その言葉どおりの人となり、南フランスの小さな村の無名の主任司祭は、善き羊飼いの姿を目に見える形で全世界に示す存在となった」「ビアンネ神父は生きた公教要理であり、特に彼がミサを捧げる時、聖体礼拝をする時、告解室にいる時、信徒はそれを最大限に学ぶことができた。」「ビアンネ神父が生きた革命後のフランスを覆った一種の『理性の独裁』の時代、また今日私たちが置かれた『相対主義の独裁』の時代、いずれの時代も人々の『真理への渇き」は変わらず、司祭たちはこの渇きに答えるため、『信仰の教育者』として『真のキリスト教共同体』を育て、すべての人々にキリストへ続く道を開く必要がある」と説かれました。