毒麦のたとえ
今日の福音朗読は先月23日(年間大16主日)と同じ箇所です。
さて、人々を去らせてイエズスが家には入られると、弟子たちが寄ってきて、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。「よい種をまくのは人の子である。畑は世界である。よい種は国の子らで、毒麦は悪者の子らである。それをまいた敵とは悪魔である。収穫は世の終わりで、刈る人は天使である。毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそうなる。人の子が天使たちを送ると、天使たちはその国の中から、すべてのつまずきと悪を行う人々を集め、燃えさかるかまどに投げ入れる。そこには嘆きと歯ぎしりがあろう。そのとき義人たちは父の国で太陽のように輝く。耳ある者はきけ」とこたえられた。(マテオ:13.36~43)
このたとえ話で「私たちの心の中には毒麦も良い麦もある」と、説明されたことがありますが、それはこのたとえ話の説明とは明らかに違います。確かに私たちはみな罪人ですが、ここで言っている毒麦はそういう意味ではありません。キリストははっきりと言っています。「よい種は(み)国の子らで、毒麦は悪者の子らである。・・・収穫は世の終わりで…毒麦が集められて火に焼かれるように、この世の終わりもそうなる」と。
この話のポイントはキリストに倣って善く生きようとする義人(よい麦)とそうでない人(毒麦)にはこの世の終わりに主の正しい裁きがあるということです。こう言うとすぐに「いつくしみ深い神はご自分が創られた人間を地獄に落とすわけがない。神はすべての人を愛し救われる」という人が必ずいます。その人は自分にとって都合のよい神を作っています。聖書に書かれていることを歪曲してはいけないでしょう。
こう言うと、「あなたはとても厳しい!」と言われますが、万人受けすることを言ったら間接的にキリストを否定することになります。キリストが言っていないことをさも言ったように話すことはできません。聖ステファノはなぜ石を投げられ殉教したのでしょうか。民衆が喜ぶことを話せばよかったのでは?しかしそうすればただのステファノ、聖書に記されることもなかったでしょう。