心の貧しい人
先月の第4主日のミサの朗読箇所は真福八端でした。そのなかで「心の貧しい人」について幸田司教様は次のようの意味のことを話されています。
福音的な貧しさとは、ただの貧乏や貧困とは違いキリストの貧しさにあずかることです。・・・・福音のイメージで言えば、5つのパンと2匹の魚を大群衆で分かち合う世界。そこにはわずかなたまものについての感謝と賛美。神への信頼。兄弟姉妹への思いやり。そして分かち合いがあります。・・・ただの貧しさではなくて、キリストの貧しさにならう貧しさ。それをマタイは「心の貧しさ」というのです。・・・貧しいこと自体が良いのではありません。普通は贅沢や無駄を避け、単純質素な生活をすることが清貧と思ってしまいますが、福音的な貧しさはそうではありません。(『毎日がクリスマス』2017年1月29日)
その後『トマさん祈りの部屋』にも丁度この箇所について書かれていました。トマさんは以下のように解説しています。
・・・最初の「心の貧しい人は幸いである」は広く知られています。しかし、その意味していることは案外知られていません。キリスト信者でも誤解していることがあります。結びに「天には大きな報いがある」との言葉があるので、勘違いしやすいのです。「この世は苦しいことが多いが、天国で報われるから、辛抱して、我慢しなさい」という解釈が、その代表です。・・・もし天国の報いのために、この世の苦しみを我慢するだけなら、キリスト教は哀れな宗教になってしまいます。・・・イエスが高らかに宣言しているのは、この世でも幸せになり、あの世で幸せがマックスになる約束です。この世の苦しみを我慢するのではなく、苦しみや悲しみでも消え失せない幸せをイエスが拓きました。・・・それは、この世で既に天国の喜びが始まる道です。・・・この世が望む幸せ(、富、権力、快楽、安楽な生活、苦しみがない人生)は、崩れやすい上に、確実に死によって終わりを迎えます。虚しいものです。これとは全く別の道を拓いたイエスに倣うように、人々を招きました。・・・心が貧しいとは、この世の富に執着しないことです。苦しみは執着から生まれるからです。反対に天国に富を積むとは、徳を積むことです。この世の苦しみは悪ではなく、イエスと結ばれる道に高められました。イエスと共に生きる人は、苦しみが取り去られるのではなく、苦しみを愛する心に変えられます。こうして、イエスを信じて共に生きる人は、この世に生きながらにして、既に天国の喜びを生き始めています。それは天国で完成されます。だから、天国の報いを受ける人は、すでにこの世でも幸せを生きています。それが天国へ入る「印」なのです。■
*年間第4主日ミサ説教より
財産への執着、健康・若さ・美への執着、安楽への執着・・・様々な執着を断ち切れば苦しみから解放されます。だから聖人たちは「病気や苦しみも神からの恵み」と言えたのでしょう。
わたしが思うに確かにキリストの貧しさにならう生き方をされた「心の貧しい人」が聖マザーテレサや聖ホセマリアです。