読む Feed

2016年1月19日 (火)

『拓』から ③

 聖書の読み方について聖ホセマリアは次のように言っています。

672  毎日数分間、新約聖書を読みなさい。そしてそのときには、もう一人の登場人物になって各々の場面の中に入り込み、そこでの出来事に参加しなさい。私はこう勧めた。それは、福音の教えを自分のものとし、それを生活の中で(実行する)ため、また、人々に(実行させる)ためである。

Photo_5 読むならフランシスコ会訳かバルバロ訳で

 まさか信者なのに聖書をただ飾っているだけ・・・という人はいないでしょう。coldsweats02 聖書は普通の本ではありません。「神のみことば」です。

 ですから小説のように最初から最後のページまで一通り読めば終わりではありません。期間内に読めばよいものでもありません。聖ホセマリアは「もう一人の登場人物になって…場面の中に入り込み…参加しなさい」と、具体的に教えています。忙しい、時間がないという理由でゆっくりと時間をかけて読まなければ、主のみことばを味わうことはできないでしょう。

 今年は一年間ゆっくり、じっくりと聖書を味わいたい、聖書を読む時間をもっと増やそうと思います。

2016年1月15日 (金)

『拓』から ②

564  あなたは自らを価値のない人間だと言うのか。それなら、価値のある人間になるよう努力すれば良いのではないか。

618  勉強をしない学生なんて、一体何の役に立つのか。

 人は皆自分の仕事を心を込めて精一杯することが大切です。赤ちゃんはよく食べてよく泣いてよく眠る、学生は勉強する、大人はそれぞれの職場で正直に働く、病気の人は良い患者でいるように努める、留置されている人はまじめに罪を償う。

 聖ホセマリアは当たり前のことを言っています。でもこの当たり前のことを邪魔しようとする悪い誘惑があります。私もこの誘惑に負けないように頑張るにゃん…ではなくて頑張ります。

Photo_2 写真:.ru より  「勉強してま~す」

2015年11月30日 (月)

『拓』から ①

 聖ホセマリア・エスクリバーの『拓』から。

481 お告げの場面はたまらなく好きだ。幾度、黙想したことだろう。マリアは心を潜めて祈っておられた。神とお話しするために、五感と全能力を注ぎ込んでおられたのである。神のみ旨を知るのは祈りにおいてであり、み旨を自分の生活の一部にするのも祈りにおいてである。聖母の模範を決して忘れないように。

 私は聖ホセマリアにお会いしたことはありませんが、「お告げの場面はたまらなく好き」とおっしゃる神父様から、いつもマリア様のように温かで優しい笑みをたたえておられる姿が浮かびます。聖ホセマリア神父様ならきっと私の未熟な信仰を責めるのではなく温かく励ましてくださるでしょう。そして「ロザリオを一緒に祈りましょう」と言ってくださるでしょう。

19_2写真:Google より   『拓』 (477 )

2015年10月31日 (土)

『拓』

Photo_3  聖ホセマリアの『拓』が 新たに文庫本で出版されました。このサイズならバッグの中に入れて何処へでも持って行けます。『道』が文庫になった時も、より読みやすくなって助かりました。この『拓』もじっくりと何度も読んでみたいです。

 聖ホセマリアの色々な本をもっと文庫本として出版してほしいです。現在どの本もなかなか手に入れるのが難しい状況です。

 聖ホセマリアは時には厳しく強い言葉で私たちを励まし、また優しい愛で包んでくれます。そこには聖人の包容力から生まれる安心感があります。多くの人に読んでもらいたいsign01

2015年8月10日 (月)

「教皇講話集」から ~最後に~

 最後にこの本を読んでとても印象に残るエピソードがありました。それは「賢慮の賜物」についての話の中で、教皇様がブエノスアイレスの巡礼者の告白場にいた時の話です。

 そこには、ピアス、タトゥー、とにかくそうしたものを色々とつけた、完璧に今どきの若者もいました。この若者がわたしのところに来て、自分の身に起きていることを話しました。それは、大きな深刻な問題でした。彼はいいました。「この話をすべて母に話しました。すると母はこういったのです。聖母のもとに行きなさい、お前が何をすべきか、聖母が話してくださるでしょう」。これが、賢慮のたまものをもった女性です。彼女は息子の問題を解決する方法を知りませんでしたが、正しい道を示しました。・・・・・この素朴でごく普通の女性が、まことの助言を息子に与えたのです。事実、彼はいいました。「聖母をじっと見つめました。そうすると、自分がすべき色々なことが分かってきました」。わたしが話す必要はありませんでした。・・・・・お子さんのためにこのたまものが与えられるよう願ってください。子に助言するたまものは、神のたまものです。(p.74~75)

 親として、子に何と助言してよいかわからない時があります。そんな時には自分が信じていることを伝えるだけです。祈りなさい。神様は必ず道を示してくださいます。マリア様は助けてくださいます。

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2015年8月 5日 (水)

「教皇講話集」から 聖性

 「教皇講話集」にはまた七つの賜物や教会について書かれています。もっと知りたい方はこの本を読んでください。

 この本で教皇様は「すべての人に対する聖性への招き」について話されていますが、これは聖ホセマリアが話されていたことと全く同じです。というよりも「オプス・デイ」そのものです。では、その箇所を引用します。

 聖人になるために、司教や司祭、修道者になる必要はありません。わたしたちは皆、聖人となるよう招かれています。ですからわたしたちは、聖性を、祈りに没頭するために日常の雑事から離れる機会のある人にだけ与えられるものだと考えがちです。しかし、そうではありません。・・・・・聖性は、神から与えられるもっとも大きくてもっとも深いものです。実際、わたしたちが聖人になるよう招かれているのは、まさに、日常の雑事をしながら、愛をもって生き、キリスト者として自身であかしをすることを通してなのです。・・・・・あなたは奉献生活者ですか。それなら、喜びをもった献身と奉仕の生活によって聖人となってください。あなたは結婚していますか。それなら、キリストが教会にしたように、伴侶への愛と心配りによって聖人になってください。あなたは、洗礼を受けて未婚のかたですか。それなら、誠実に、自らの能力を発揮しながら仕事を果たすこと、そして兄弟姉妹のために時間を作ることで、聖人になってください。・・・・・あなたは、子をもつ親もしくは祖父母ですか。もしそうでしたら、ご自分のお子さんやお孫さんに対して、イエスを知り、イエスに従うよう熱心に教えることで聖人になってください。よい親、よい祖父母になるには、多くの忍耐を要します。辛抱強く努力することによって聖性がもたらされます。・・・・・そうです。生活のあらゆる場面が、聖性へと続いています。・・・・・くじけずにその道を歩んでください。神だけがこの恵みをお与えになれます。(p.171~173)

20121121_705622_2 (オプス・デイ属人区司祭 酒井俊弘著) 教皇様も同じことを言っています。この題『聖性への招き:ふつうのおばさん、おじさんも聖人に』は間違っていないでしょう。お勧めの本です。お求めはパウルスショップhttp://www.paulus.jp/ またはお近くのカトリック書店へ。

2015年8月 3日 (月)

「教皇講話集」から 叙階の秘跡・結婚の秘跡

   二つの特別な召命に対応する、二つの秘跡があります。叙階と結婚です。この二つは、キリスト者がキリストの模範とみ名に従って、自分の生涯を愛のささげものとし、そうして教会を築くことに協力するようになるための、二つの偉大な道です。(p.50)

Ordination_at_stpeters_3 叙階式

  叙階の秘跡について詳しいことは省きますが、教皇様は次のように話されました。

  「司祭になるためにはどうすべきか、ということです。司祭になる近道は、どこかで売られているのでしょうか。いいえ、そんなものは売られていません。人を司祭にするのは、主の働きかけです。主が招かれるのです。主が、司祭にと望まれる人を個々に呼ばれるのです。この呼びかけを心の中で聞いた若者がここにいるかもしれません。それは、司祭になる望み、神に由来することがらにおいて他の人に仕えたい、信仰を教え、洗礼を授け、ゆるし、感謝の祭儀をささげ、病者をいやす奉仕のために全生涯を用いたいという望みです。皆さんの中に、心の中でこうしたことを感じた人がいれば、それを感じさせてくださったのはイエスです。この招きを大切にし、それが成長して教会全体の中で実りをもたらすよう祈りなさい。(p.53~54)

Photo_2カトリックの結婚式

 結婚はわたしたちにとって身近な問題です。教皇様は結婚についてこのようにはっきりと言っています。

 神の像は、結婚した夫婦なのです。男と女なのです。神がわたしたちを愛し、わたしたちと契約を結んだことが、この男と女の契約のうちに表されるのです。・・・・・結婚はわたしたちに対する神の愛のイコン(映し)です。・・・神は夫婦を唯一の存在とします。これこそが結婚の神秘です。・・・・・男と女は、その愛によって聖別されるのです。事実、夫婦は、秘跡の力により、真実に、固有の使命を帯びます。そのため彼らは、単純で日常的なことから始めて、忠実と奉仕を通じて、キリストがご自分の教会を愛する愛ーを目に見えるものとすることができるのです。・・・・・夫婦生活がいかに困難で試練に満ちているかを、わたしたちはよく知っています。神とのきずなを生き生きと保つことが大切です。これこそが結婚のきずなの土台だからです。そして、主とのきずなはつねに真実です。家族が祈れば、このきずなは保たれます。夫が妻のために祈り、妻が夫のために祈ると、このきずなは強められます。(p.55~57)

 教皇様は結婚生活を素晴らしいものにするための秘訣を教えています。それは三つの言葉です。「いいですか」、「ありがとう」、「ごめんなさい」です。「いいですか」は結婚生活の中で図々しくならないためだそうです。「ありがとう」は私のためにそうしてくれてありがとう、夫は妻に、妻は夫に感謝を示すこと。そして、わたしたちは皆間違いを犯すので、口にするのは難しくても「ごめんなさい」を言わなければならないと。喧嘩をしても一日の終わりには必ず仲直りすること、夫婦が祈り合うこと、そして三つの言葉で結婚は前に進みますと。円満なご夫婦はおそらく既に実行しているでしょう。ちょっとうまくいっていないご夫婦は試してみてください。

2015年8月 2日 (日)

「教皇講話集」から 病者の塗油の秘跡

 「病者の塗油」は私が子供の頃は「終油の秘跡」と言われ、死が近づくと神父様を呼んでこの塗油をしてもらいました。臨終の時に霊的な慰めを受けるためでした。しかし今はそれだけではありません。

 わたしたちがこの秘跡を執行するごとに、主イエスは、司祭を通して、苦しむ人、重病人の人、また高齢者に近づいてくださいます。・・・・・この秘跡は、イエスが病者のそばに、そしてまた高齢者のそばにいてくださることを保証しています。・・・・・司祭が病者を訪問することはとても重要です。・・・・・主イエスご自身がわたしたちの手を取り、かつて病気の人になさったようにわたしたちに触れてくださるのです。そして、今やわたしたちはイエスのものであり、何ものもー悪と死さえもー決してわたしたちをイエスから引き離せないことを思い起こさせてくださるのです。・・・・・重病人、そして高齢者のもとにも司祭に来てもらい、病者の塗油の秘跡を授け、慰めと、前に進むためのイエスの力を与えてもらいましょう。(p.46~49)

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2015年7月31日 (金)

「教皇講話集」から ゆるしの秘跡

 今日はイエズス会創立者の一人聖イグナチオ・ロヨラ司祭の記念日です。日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルもいたイエズス会は日本人にとって特になじみのある会です。

 さて、今日は「ゆるしの秘跡」について『教皇講話集』から。

 わたしたちは(キリスト教入信の秘跡による)このいのちを「土の器に」納め、罪ゆえに依然として誘惑と苦しみと死に服しているため、新しいいのちを失うこともありえます。・・・ゆるしの秘跡はいやしの秘跡です。告白に行くのは、自分をいやしていただくためです。魂をいやし、心をいやし、何であれ犯したよくないことをいやしていただくためです。・・・・・ゆるしの秘跡において、わたしたちはイエスにゆるしを願います。ゆるしはわたしたちの努力の結果ではなく、贈り物です。聖霊のたまものです。・・・・・「わたしは神だけに告白します」という人がいるかもしれません。確かにあなたの神に向かって「わたしをおゆるしください」といって、罪を述べることができます。しかし、わたしたちの罪は、兄弟と教会に対する罪でもあります。だから、司祭を通して、教会と兄弟にゆるしを願わなければならないのです。・・・・・多少恥ずかしく思うことは健全です。・・・・・羞恥心はわたしたちを謙虚にするからです。・・・・・人は告白の列に並ぶとき、恐れや、場合によっては恥ずかしさを感じたりします。しかし、告白が終わると、自由な、伸び伸びした、美しい、ゆるされた、真っ白な、幸福な状態ででてくることになるのです。これが告白のすばらしさです。・・・・・ゆるしの秘跡にあずかるとは、温かい抱擁に包まれることです。それは御父の限りないあわれみの抱擁です。(p.41~45)

 教皇様は、最後に告白した時から長い時間が経っていたなら、明日を待たずに告白に行ってくださいと言っています。イエス様は司祭よりいつくしみ深く、深い愛をもって受け入れてくださるので、勇気を出して告白に行ってくださいと。

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2015年7月30日 (木)

「教皇講話集」から エウカリスチア

 「エウカリスチア」つまり「ご聖体と感謝の祭儀」ごミサです。神学的なことはさておき、教皇様はこのエウカリスチアがいかに大切かを強調されています。

・・・・・感謝の祭儀は単なる祝宴以上のものです。それは、救いの神秘の中心である、イエスの過越しの記念したものです。「記念」とは、単に思い起こすことでも、単純な想起でもありません。それは、わたしたちがこの秘跡を祝うごとに、キリストの受難と死と復活の神秘にあずかることです。エウカリスチアは神の救いのわざの頂点をなします。・・・・・わたしたちは、主が聖体によって与えてくださったたまもののゆえに、どれほど主に感謝しても感謝しきれません。それはまことに偉大なたまものです。だから、主日にミサに行くことがきわめて大切なのです。ミサに行くのは祈るためだけではなく、聖体を拝領するためです。このパンは、イエス・キリストのからだであり、わたしたちを救い、ゆるし、御父と一つに結びつけるのです。わたしたちは主日ごとにミサに行きます。それは、主日はまさに主が復活された日だからです。だから主日はわたしたちにとってきわめて大切なのです。わたしたちは聖体によって、自分たちが教会に属するもの、神の民に属するもの、神のからだに属するもの、イエス・キリストに属するものであることを感じます。・・・・・子どもが十分よく初聖体の準備をすること、それもすべての子どもがそうすることが大切です。初聖体は、洗礼と堅信の後、イエス・キリストにしっかりと結ばれるための第一歩だからです。

 教皇様の「エウカリスチアの秘跡」について厳しい言葉が続きます。

・・・・・主日のミサに行き、聖体をどのように生きているか。それは単なる祭儀、固定した伝統、自己を見つめ、これでいいのだと正当化する機会なのか。それとも、それ以上のものなのか。・・・・・聖体をどのように生きているかを判断するために、きわめて具体的なしるしがあります。第一の手掛かりは、他者に対するわたしたちの見方、考え方です。・・・・・わたしたちは皆、自らに問わなければなりません。ミサに行くことで、それをどのように生きているだろうか。こうした問題を抱えた人(貧しい人、病気の人、のけ者にされた人、社会的困難・自然災害にあった人・経済危機に苦しむ人)を助け、彼らに寄り添い、彼らのために祈っているだろうか。それとも少し無関心になっていないか。・・・・・第二の手掛かりはきわめて重要で、それは自分がゆるされたと感じる恵み、そしてゆるそうとする恵みです。・・・・・神のあわれみを必要としていることを感じず、自分が罪人だと思わない人はミサに行かないほうがましです。わたしたちがミサに行くのは、自分が罪人だからです。そして、神のゆるしを受け、イエスのあがないとゆるしにあずかりたいからです。ミサの初めに唱える「告白します」は、単なる「形式だけ」のものではなく、まことの悔い改めの行為です。・・・・・感謝の祭儀はわたしたちが行うものではないことをつねに心に留めなければなりません。それは、わたしたちがイエスのことばとわざを記念することではありません。そうではありません。これは、まさにキリストのわざなのです。感謝の祭儀の中で働くかた、祭壇上におられるかたは、キリストです。感謝の祭儀はキリストの与えるたまものです。キリストが、ご自身を現存させ、ご自分の周りにわたしたちを集め、ご自分のことばといのちでわたしたちを養ってくださるのです。・・・・・「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6・54)。信仰と、祈りと、ゆるしと、悔い改めと、共同体の喜びと、貧しい人々、多くの兄弟姉妹の必要に対する気遣いの精神をもって、聖体を生きましょう。(p.36~40)

 なんとなく、日曜日だから、いつものように・・・という安易な気持ちでミサの与ってはいけませんね。そして教皇様は「自分が罪人だと思わない人はミサに行かない方がましです」とまではっきり言っています。厳しい言葉ですがこれは本当です。

Photo フェイスブック:聖ホセマリアより

2015年7月28日 (火)

「教皇講話集」から 堅信

 今日は堅信について。

・・・・・この秘跡はわたしたちをいっそう固くキリストに結びつけてくれます。聖霊の特別な力をわたしたちに与え、信仰を広め、守り、キリストの名を公言し、十字架を決して恥じないようにさせてくれます。だから、自分の息子や娘がこの秘跡を受けられるように配慮することが大切です。・・・・・わたしたちはもしかすると、彼らが堅信を受けることにそれほど配慮していないかもしれません。すると子どもたちは途中にとどまり、聖霊を受けられなくなります。聖霊はキリスト教的生活においてたいへん大切です。聖霊は前進する力を与えるからです。・・・・・堅信を受ける年齢に達している子どもや若者がおられるなら、彼らがキリスト教入信の秘跡を完成し、聖霊の力を受けられるよう、できるかぎりのことをしてください。これは大切なことです。(p.29~30)

 確かに洗礼と比べて堅信はあまり重視されていないような気がします。私のまわりにも堅信をまだ受けていない人がいます。以前堅信をまだ受けていない大人の方に教会の担当者が「今度堅信を受ける準備を始めませんか?」と尋ねたところ「何、それ?私はいいよ(拒否の意)」と答えていました。洗礼を受けても堅信の意味すら知らない人がいるのも事実です。教皇様は自分たちが堅信を受けたことを思い起こして、まことのキリスト者として生きることができるように主に助けを願いましょうと言っておられます。

3 堅信お祝いのケーキ(写真:Googleより) イタリアでは堅信もこのように盛大に祝うのですね。いいな~heart04

2015年7月26日 (日)

「教皇講話集」から 洗礼

91iqnzbr2tl  昨日から読み始めた本です。この本を読む限り、私の不安はなくなりました。教皇様の教えはカトリック(不変)であると(当たり前のことですが)安心しました。マスコミが教皇様の言葉を都合のよいように歪曲して報道していることがよくわかりました。

 教皇様はわかりやすく、時には厳しい言葉で私たちに教えておられます。それでは先ず「洗礼の秘跡」について。

「・・・わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」。それゆえ、洗礼は単なる形式ではありません。それはわたしたちの存在の深みに触れる行為です。洗礼を受けた幼児と洗礼を受けていない幼児は同じではありません。洗礼を受けた人と洗礼を受けていない人は同じではありません。・・・・・わたしたちは洗礼によって、わたしたちを侮辱する人、傷つける人をもゆるし、愛することができるようになります。・・・・・洗礼は、わたしたちが、困窮する人、苦しむ人、また隣人の顔のうちにイエスのみ顔を見いだせるように助けてくれます。それはすべて、洗礼の力によるものです。

・・・・・洗礼はわたしたちをキリストのからだの部分、神の民の一員とするのです。・・・・・いのちが世代から世代へと引き継がれるのと同じように、洗礼の泉から新たに生まれることを通じて、恵みも世代から世代へと引き継がれます。・・・・・わたしたちは自分の子どもたちに、幼子たちに、神の恵みと自分たちの信仰を伝えなければなりません。この子どもたちが大人になったとき、彼らの子どもたちに信仰を伝えることごできるようにするためです。それが洗礼というものです。・・・・・「教会の役目がどんなものであっても、また信仰の素養に差があっても、洗礼を受けた一人ひとりが福音宣教者なのです。・・・・・」(p.19~24)

 私がこのブログを始めたのは、キリストの教えを少しでも他の人たちに伝えたいと思ったからです。すでに信者の方は読んでいてさほど苦にならないと思いますが、信者でない方、まだキリストをよく知らない方はきっと読みづらいかもしれません。けれどもこのブログを読んで少しでもキリストに興味をもたれたらうれしいです。聖書を読んでみようかな?あるいは近くのカトリック教会へ行って、神父様と話してみたいな・・・と思われた方が一人でもいれば幸せです。キリストがあなたの心の扉を叩いたら、ためらわずに開けてください。キリストをあなたの心に入れてください。

2015年7月13日 (月)

聖ヴィアンネに倣う ④

 『やとわれ羊飼いのふたたび言いたい放題』(酒井俊弘著)を読んでいて、私の言いたいことを酒井神父様が的確に書いておられ、嬉しくなりました。まさにこの通りです。聖ヴィアンネ(霊名日は8月4日)は自分自身はとても清貧な生活をしておられました。貧しい人や困っている人たちをいつも助けていました。そして徒歩でリオン市に出かけては自身の貧相さとは反対に自分のお金で教会のために良い品を買っていたそうです。では、酒井神父様の本から抜粋します。

・・・典礼、ことにミサに関係することに関しては、荘厳すぎるということはありえないでしょう。「キリストは、常に自分の教会とともに、特に典礼行為に現存している。キリストはミサの犠牲のうちに現存している。かつて十字架上で自身をささげた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として司祭のうちに現存するとともに、また特に両形態のもとに現存している」(第二バチカン公会議『典礼憲章』7)。もちろん、清貧を守り、質素であることは大切ですし、困っている人たちに寛大に施しをすることも教会の重要な役割です。しかし、神様に関わることに対して、まず寛大になるのが自然でしょう。全世界の主任司祭の守護の聖人である聖マリア・ヴィアンネがアルスの村に赴任して最初にしたのが、祭壇、祭器、祭服をできるだけ華麗にすることでした。彼自身は、粗食に耐え、厳しすぎるほどの清貧のうちに生きていましたが、ことこの点に関しては、ぜいたくの限りを尽くしました。・・・・・・

・・・・・結婚式に臨んで、花嫁が選びに選んだウエディングドレスに身を包み、花婿が花嫁に精一杯奮発した結婚指輪を贈るように、司祭は敬意をもって祭服を身に着け、愛情をもって祭具を扱うべきでしょう。・・・洗礼を受けた者は皆、共通司祭職にあずかっている・・・ですから同じ心がすべての信徒にも求められます。そしてその心は、ミサに参列する際の服装や振る舞い、ミサ中の動作や歌い方に反映されるべきです。こうして、司祭も信徒もともにキリストの心で、聖なるいけにえであるミサにふさわしく参加することができ、典礼の本質を具現化できるでしょう。(p.112~113)

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 ヴィース教会(ドイツ)

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ノートルダム大聖堂(モントリオール)

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 聖ヤコブ教会(ローテンブルグ)

 どれも美しい祭壇です。(写真はすべてGoogleから)

 偶像崇拝を禁じているイスラム教でも神様に祈る所はこんなに美しく装飾されています。

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イランのモスク  (写真:Mohammad Reza Domri Ganji)

2015年7月11日 (土)

聖ヴィアンネに倣う ③

  聖ヴィアンネについてもう少し触れてみたいと思います。

Photo_2  この本には聖ヴィアンネが話されたことが載っています。本の中から「地獄」の話を少しだけ。

地獄の存在を証明する必要はありません。わが主御自身「ラザロ、ラザロ」と叫んでいた悪い富豪の物語をされて、地獄について語られました。皆地獄があることをよく知っています。しかし決して地獄が存在しないかのように生活します。いくらかの金銭のために霊魂を売るのです。(139p.)

 今の教会であまり教えられることのなくなった「地獄」についてふれています。そして、こうも言っています。

「地獄に私共を落とすのは神様ではありません。私共が自ら罪を犯して、地獄に飛び込むのです」。(138p.)

「隣人の畑を耕して、自分の畑は荒れ放題にしている人を、皆さんは何と言うでしょうか。ところが、皆さんのやっていることは全くこの通りなのです。たえず他人の良心をせんさくし、それでいて、自分の良心は手入れせず、ほったらかしているのです。死がやってきた時、他人のことは実によく考え、自分のことはあまり考えなかったことをどんなに嘆くことでしょう。なぜなら、裁きを受けるのは自分であって、他人ではないからです・・・・・いつも、手が汚れていないかと見るように、自分のこと、自分の良心を見つめ、考えましょう」。(53p.)

「お祈りと秘跡とを打ち捨て、罪の中にうずくまっている悪い信者ほど、不幸なものはありません。しかし、善良な信者にとっては少しも苦痛はありません。神様を所有することは幸福中の幸福です。この幸福は他の一切のものを忘れさせてくれます」。(285p.)

 聖ヴィアンネの言う通り他人のことをあれこれ詮索するのではなく、自分の良心を見つめ、考えることが大切。そして主は本当に憐み深くその愛は尽きることがありませんから、自分の罪を心から悔いて主に赦しを請う人は必ず赦されるでしょう。悔い改めるのに遅すぎることはありません。そこには希望があります。

2015年7月 3日 (金)

聖ヴィアンネに倣う ② 

 外見は信心深くても、ごく些細な侮辱やほんにつまらない誹りにも腹を立てる人がいます。一人の危篤に陥った修道士がいました。・・・「私はいつも、他人から受けたすべての侮辱を忘れました。広い心をもって赦しました。神様も私を赦してくださるとおもいます」と。悪魔を狼狽させる手段は、私共に悪いことをした者に対して憎み心が起こったときに、すぐ彼等の改心のために祈ることです。・・・うわべだけの信者は何も忍耐しようとしません。あらゆる事に心を乱されるのです。棘のある言葉には棘のある言葉でむくいます。・・・悪魔は悪い信者はそのままそっとしておきます。どの悪魔もこのような信者にはかまいません。しかし、善業をなす信者に対しては数えきれない程のありとあらゆる誹りや侮辱をかりたてます。これは大きな功徳のもとです…。(199p.~200p.)

 外国で勉強している息子が夏休みで帰ってきました。息子に色々と話しているうちに、なぜか私の心に引っかかっていたことがすっと解決しました。そしてその晩、聖ヴィアンネの本をなにげなく開いた箇所が上記のところでした。「誹りや侮辱もお恵みである」ということが本当によくわかりました。苦痛から解放された気分です。これこそ聖霊のお恵みです。

Photo 私の心はこんな感じheart

2015年6月28日 (日)

聖ヴィアンネに倣う ①

高慢について

 聖ヴィアンネは「高慢」(傲慢)についてこう言っています。

皆さん、誰が高慢であるか知りたいときには、話を聞いてごらんなさい。しゃべっているのは、いつも高慢な人でしょう。そして、自分についてしかしゃべらないでしょう。彼のことは、いつも他人よりも良いでしょう。良いのは彼だけです。自分の行為を目立たせようと思って、他人の行為はすべてけなします。・・・・・高慢な人は万事うまくやったと思っています。自分と関係ある人はすべて意のようにすることを欲し、正当な者はいつも彼です。いつも自分の意見が他人の意見よりも良いと思っています。…謙遜な人はそうじゃありません。…謙遜な、そして宗教についてよく学んだ人は、自分の意見を尋ねられるならば、ごく大人しく自分の意見を述べます。その後は、他の人々の意見を聞きます。自分に理があり、他の人々が間違っていても、もう何も言いません。(141p.~142p.)

 聖ヴィアンネから「高慢」についてこう言われると確かにその通りだと思います。特に「自分と関係のある人はすべて意のようにすることを欲し・・・」とありますが、このような人は思わぬ所にいるものです。そして必ず「私の言うことが理解できない(賛成できない)のは、あなたが傲慢だからだ!」と、言います。他人の傲慢は見えても自分の傲慢には気づかないようですね。

Kako4ghosps8yyd4seu8_2    謙遜な人聖マリア

2015年6月20日 (土)

『クレド』を読む 

 ある本を探していた時に、この『クレド・信条』が目に留まりました。確か以前読んだ時にとても解りやすく一気に読んだ記憶があります。もう一度じっくりと読んでみたくなり、探していた本は諦めてこの本を読むことにしました。

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  著者は前教皇ベネディクト16世と現教皇フランシスコです。私たち一般信徒に向けて話された講話集なので、私でも理解できます。毎日唱えている「クレド」ですが、このように深く考えてみることは大切だと思います。単なる習慣・形式にならないように、その祈りの言葉一つ一つの意味をよく考えて、心をこめて祈らなければならないと改めて思いました。勉強会のテキストにしたら良いかもしれません。

 今日は「分裂」を取り上げたいと思います。今教会の中に分裂を起こそうとしている人たちがいます。今に始まったことではない(過去にも分裂を生み出しカトリックから離れて行った人たちがいます)のですが、再び同じようなことが起きるかもしれません。

 この講話集の中で教皇様はこう言っています。

23 キリストのからだとしての教会  …教会は…生きたからだです。このからだにはイエスという頭があります。…頭をからだの他の部分から切り離すなら、人は生きていけません。教会の場合もそれと同じです。…わたしたちも、…キリストの聖体の現存によって養われ、促されなければなりません。…わたしたちは皆、一つの霊によって、一つのからだとなるための洗礼をうけます。それゆえ教会にも多様性があります。…けれども、そこには交わりと一致が存在します。…教会の部分であるとは、一致の交わりの道具である教皇と司教と一つに結ばれていることです。…わたしたちは皆、違いがあっても一致しなければなりません。…一致は、わたしたちが主に願い求めなければならないたまものです。…神に願おうではありませんか。わたしたちを助けてください。つねにキリストと深く結ばれた、教会のからだの部分となることができますように。私たちを助けてください。対立、分裂、利己主義によって教会のからだを苦しめることがありませんように。わたしたちを助けてください。聖霊がわたしたちの心に注ぐ愛という唯一の力によって、互いに結び合わされた生きた部分となることができますように。(2013.6.19、サンピエトロ広場にて)

 私たちも秋のシノドスのために祈りましょう。教皇様と枢機卿様方のためにそして私たちを司牧してくださる司教様・司祭様方のために祈りましょう。

2015年6月19日 (金)

『道』より ④

Photo_3 モナコ ロイヤルベビー洗礼式 

730 あなたが神を見捨てないかぎり、神があなたをお見捨てになることはない。

732 イエスよ、私はあなたのうちに憩います。

 これほどの安心感、心の安らぎはありません。私達が主を信頼する限り主は絶対に私たちを見捨てることはないのです。神に感謝!

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2015年6月13日 (土)

『道』より ③

594 謙遜になるのは、自らへりくだる時ではなく、人に卑しめられ、キリストのためにそれを耐え忍ぶときである。

 「謙遜になりなさい」。よく言われる言葉です。今まで「謙遜」を勘違いしていたのかもしれません。「自らへりくだる」ことだと思っていました。

 子どもの頃よく母に言われました。「卑下自慢してはいけませんよ」と。「卑下自慢」とは表面では謙遜していても、実は謙遜を美徳として自慢することです。「自らへりくだる」とは自分を卑下して謙遜になることです。でも謙遜を美徳と考えるならば必然的に自慢していることになります。

 だから聖ホセマリアは「謙遜になるのは、自らへりくだる時ではない」と言っているのですね。納得しました。自ら「私は贅沢せずに清貧な生活をしています」というのも「卑下自慢」の一つですね。本当の「謙遜」とは「人に卑しめられ、キリストのためにそれを耐え忍ぶとき」と言う意味がよくわかりました。

Photo「 謙遜なんて関係ないにゃん!」 (写真:.ruより)

2015年6月11日 (木)

『道』より ②

  皆さんは自己嫌悪になることはないですか?

Cimg5610  赦しの秘跡を受けて、ごミサでご聖体をいただいても、また同じことをくり返してしまう。噂話に興味を持ったり、批判したり、怠けたり、やるべき事をできるだけ引き延ばしたり、家事(仕事)の手を抜いたり。(´д`)

 聖ホセマリアの『道』にこう書いてあります。

483  「勇気を奮い起こしなさい。あなたは…できる。あの寝坊助・否認者・臆病者のペトロや…、迫害者・嫌悪者・頑固者のパウロが、神の恩寵のおかげでどうなったか、知っているだろう。」

 そう、聖ホセマリアの「あなたは…できる」という励ましの言葉を聞くと、また頑張ろうという気持ちになります。落ち込んだ心がまた元気になるのです。自分の弱さのせいで過ちを繰り返すかもしれないけれど、いつもキリストは共にいてくださる。聖霊が守り助け、マリア様が助け、守護の天使が守っていてくださるのだから。これからも頑張ってみようと思うのです。

 守護の天使で思い出したのですが、あなたの守護の天使の名前は何ですか?そう、自分を守ってくれる天使なので名前がないといつも「私の守護の天使さん」と、呼びかけなければなりません。それより名前で呼べばもっと親しみが増すでしょう。

 以前にも書いたアレクシアは守護の天使を「ウーゴ」と呼んでいました。そう呼びかけていつも親しくしていたのです。ところで私の守護の天使の名前はアンジェロです。えっ、そのまんまじゃないですか!(^^ゞ

Photo_3 天使像(サンタンジェロ橋)