永井隆博士の本は『長崎の鐘』を学校で教わったことで永井博士についてわかったような気になり、他に博士が書かれた本をじっくりと読んだことはありませんでした。学校ではただ「原爆の恐ろしさ」ばかりが印象に残り、「カトリック信仰」についてはほとんど記憶にありません。
これは学校教育のせいかもしれません。宗教はタブー視されているせいでしょう。フランス革命についても同じです。永井博士=原子爆弾の脅威のイメージばかりが強くて、永井博士=カトリック信仰は学校では教わりませんでした。
ある人の『如己堂随筆』の感想を読んでみて、この本を私も是非読みたいと思い早速買い求めました。そして読んでみての感想は『自分自身が恥ずかしい』の一言です。私はカトリック信者として偉そうにこのブログを書いていたことを本当に恥ずかしく思いました。永井隆博士のカトリック信者としての生き方、信仰にただただ心打たれました。主は博士にこれらのことを書かせるために限られた時間をお与えになったのでしょう。
まだ読んでおられない方は是非読んでみてください。カトリック信者は自分の信仰について黙想するきっかけにになると思います。またカトリック信者でない方はカトリックの教えについて知ることができるでしょう。これらの本に出合えたことを主に感謝します。
YouTube: O Salutaris Hostia - Catholic Eucharistic Hymns
聖トマス・アクイナスの記念日が今年もきました。聖トマス・アクイナスといえば『神学大全』。以前これの易しい解説本はないかと書きました。すると娘が『トマス・アクイナス・理性と神秘』(山本芳久著)という本を持って来てくれました。「この本は優しいし、弟がトマスの研究に惹かれる気持ちがわかる」と言っていたので読み始めました。
確かに易しく書いてあります。しかし哲学の基礎のない私には簡単ではありません。ゆっくりと同じところを何度も読み返しながら読み進んでいる状態です。
本を読むのは楽しいですね。以前「欲しい物は買わない。必要な物を買う」と書きましたが、本を買う時に一番悩みます。『この本は本当に必要か?ただ単に欲しいだけか?』と。ほとんどの場合「必要」と思って買うのですが、いつも後悔するのは小説の類です。しかし聖人に関する本や典礼、祈り、説教集、回勅などは心と信仰の糧となるのでいつも買ってよかったと満足しています。
「学ぶ」という点では私も生涯学生です。
今呼んでいる本がこちら。⇩
岡本神父様の『良い音楽は神の姿を映し出す』。ひと口に音楽といってもそのジャンルは広く、音楽について書かれた本も教科書に載っているような有名な曲ばかりに偏っています。
しかしこの本は神父様が書かれているので宗教音楽が中心。最近ミサ曲にはまってしまった私にピッタリの内容でした。
グレゴリアン聖歌は勿論のことアンブロジオ聖歌など中世音楽から東方教会の聖歌、バロックではモンテヴェルディやバッハ、ペルゴレージなどについて。古典派はハイドンやモーツァルトなどを、ロマン派のシューベルト・ショパン・ヴェルディ・グノー、・・・20世紀はフォーレやドビュッシー等の宗教音楽について書かれています。
とても興味深く読んでいます。特に中世音楽については学校でも習った記憶がないくらい何も知りません。今まではただグレゴリアン聖歌をCDで聴くだけでした。
宗教音楽には天主に対する深い崇敬を感じます。特にグレゴリアン聖歌の素晴らしさ、それはまさに祈りです。教会のごミサで再び普通にグレゴリアン聖歌が歌われることを切に望みます。教会の合唱団やオルガニストの方達もそれを望んでおられると思います。
実は最初にこの本を手に取った時、一瞬で読む気が失せたのです。その理由は本の帯です。なんと私の大の苦手なA.Cさんが書いていて、しかも本の中にも前田大司教様との対談が載っていたのです。「前田大司教様はA.Cのファンなのか・・・、それなら私とは合わないのかも・・・」と思ってしまったのです。
しかしせっかく興味を持って(通販なので詳しい内容や帯のことは知らず)買い求めた本なのでとにかく読んでみよう、A.Cさんとの対談はとばせばよいと思い読み始めました。
「読んで良かった」素直な感想です。やはり枢機卿になられる方の話ははっきりしていて、あいまいな優しさ?ではないです。勿論100%書かれていることに同意見ではありませんが(例えば化粧品の話など)、キリストや教会の教えに関しては納得です。ご自身の病気についてのお話も私にとって良い教えとなりました。A.Cさんとの対談も話されているのはもっぱら前田大司教様の方ばかりなので、気にせずにスッと読めました。
頭から拒否するのではなく、すべては意味があり主は与えられているのですから、それを受け入れることが大切だと今回のことでもわかりました。
ところで肝心の俳句についてですが素人の私には批評できません。皆さんが読んでみてそれぞれに感じてください。
注文していた葉室麟さんの新作『嵯峨野花譜』が届いたので早速読み始めました。アマゾンでのこの本の紹介文より。
舞台は文政13年(1830年)の京都。年若くして活花の名手と評判の高い少年僧・胤舜(いんしゅん)は、ある理由から父母と別れ、大覚寺で修行に励む。
「昔を忘れる花を活けてほしい」「亡くなった弟のような花を」「闇の中で花を活けよ」……次から次へと出される難題に、胤舜は、少年のまっすぐな心で挑んでいく。
歴史、能、和歌にまつわる、あるいは生まれたままの、さまざまな花の姿を追い求め、繊細な感受性を持つ少年僧が、母を想い、父と対決していくうちに成長をとげていく、美しい物語。
舞台が大覚寺とあったので、「いけばな嵯峨御流」と関係があるような気がして嵯峨御流のいけばなの写真集(古本ですが)を買いました。まさに小説に出てくるように、自然の花がいける人の心を表している作品ばかりです。
葉室さんは歴史・日本画・和歌・茶道・華道など日本の歴史文化に造詣深く、私の知らない世界を教えてくれます。
私はお茶席の花が特に好きです。夏は茶室の竹の花器に一枝か二枝生けてある花の姿が涼しげで。母がお茶を点てていた頃を思い出します。
写真はブログ『一期一会』より(木槿に朝顔)
次男に薦められて『パウロの信仰告白』を読み始めました。以前にも紹介した『キリストの友となるために』の著者マルティーニ枢機卿様が書かれた本です。『キリストの友…』もこの『パウロの信仰告白』も司祭の黙想指導をした時の講話です。
Cardinale Carlo Maria Martini(1927.2.15~2012.8.31)
聖書学博士であり、グレゴリアン大学の総長を務められた枢機卿様はイエズス会特有?のある点でとても進歩的?な考えを持っておられリベラル派・改革派と呼ばれました。私の考えとは違いますが(私は保守派?)。しかし学者として素晴らしい方で度々司祭の黙想指導をされました。『パウロの信仰告白』は司祭だけでなく一般の人にも薦められています。
今日はビアンネ小平卓保神父様の命日です。久しぶりに神父様の書かれた本『聖書散歩』を、また読んでみました。読むたびに神父様から教えられているようで、主任司祭の時にもっとお話を聴いていればよかったと後悔しています。
聖書学者と名乗られる方はたくさんおられますが、小平神父様は名実ともに『聖書学者』でした。英語、ラテン語はもちろんフランス語も堪能で、イスラエルでも学ばれ(ヘブライ語)旧約聖書の世界ユダヤ教にも詳しい方でした。
この本は以前にも紹介しましたが『散歩』と題されている通り、内容は読みやすいエッセイです。そのテーマはお酒に始まり恥、希望、孤独、旅、自由、主の祈り、償い、購い等々私たちの生活に身近なことを聖書からわかりやすく書いてあります。
今日はその中から遠藤周作の『沈黙』についての箇所を紹介します。
神を作る
……『沈黙』のクライマックス、ロドリゴが踏絵を踏む場面は次のようになっています。「司祭は足をあげた。足に鈍い重みを感じた。それは形だけのことではなかった。……この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭に向かって言った。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。……こうして司祭が踏絵に足をかけた時……」(219ページ、新潮文庫)
よく注意して読みましょう。「踏むがいい」という声が聞こえる前に、ロドリゴは足をあげているのです。言い換えれば、ロドリゴは、すでに自分で神をつくっているといえるでしょう。実際には、こんな都合のいい声が聞こえてくるはずがありません。彼は実に寛大な神をつくり出したことになります。この危険は、私たちにもあります。大審問官ほどでなくても、教会は聖書の神に忠実に従っているでしょうか。自分の尺度で神をつくっていないでしょうか。聖書研究会などに行っても、聖書に線でも引いて、それを行動の原理にしているカトリック信者はほとんど見かけません。自分で思いこんだり、つくったりした神に仕えている場合が多いのではないでしょうか。私たちの信仰は、人間の思惟ではなく、聖書の啓示に基づいているはずです。(『聖書散歩』158p.~159p.)
最近「沈黙」の映画がリメイクされ、その感想を多くの司祭は曖昧に答えています。しかし小平神父様は原作についてカトリックの教えに基づきはっきりと書いています。だからと言って彼は厳しく気難しい人ではなく、逆にいつも優しくいつくしみ深い方でした。
同性婚、離婚、再婚、精子バンク等々混沌とした現代では一部の司祭、信徒は自分に都合のよい神をつくろうとしているように思えます。今こそキリストの教えと聖書に基づき、信徒をしっかりと導く小平神父様のような司祭が必要ではないでしょうか。
今日はオプス・デイの創立者聖ホセマリア・エスクリバーの記念日です。今月10日には東京で駐日教皇大使チェノットゥ大司教様の司式で聖ホセマリア記念ミサがささげられました。
そして聖ホセマリアが亡くなられた後にオプスデイの長として働かれた福者ドン・アルバロ・デル・ポルティーリョの生涯についての本が出版されました。
教皇ヨハネパウロ二世と親しかったドン・アルバロはその優しい温厚なお顔からは想像もできない苦しい時代をサクスム(岩)のような強い意志で生きてこられました。ご自身が多くの苦しみを体験したからこそ、今苦しんでいる人達のことが良く理解でき、寄り添い、優しく包み込めたのでしょう。
本によると昔はオプス・デイに対する攻撃もひどいものだったそうです。特に聖ホセマリアや福者アルバロを悲しませたのは教区や修道会、信徒によって攻撃されたことでした。それはホセマリア神父が列聖される時にもある修道会の一部の人による根拠のない非難中傷がありました。いまだにオプス・デイ嫌いの人達は本当のオプスデイを知らず、昔の根拠のない非難中傷をうのみにしているせいかもしれません。
教皇パウロ六世や教皇ヨハネパウロ二世は特にオプスデイに理解がありました。私がオプスデイに出会えたことは主の大きなお恵みだと思います。聖ホセマリアの『道』を読まなければ、このブログを書き始めることもなかったでしょう。この『サクスム』を読んで、より一層オプスデイを知ることができました。「食わず嫌い」という諺があります。『サクスム』はオプスデイ嫌いの方に特にお勧めします。
待降節にあたり、クリスマスまでのノベナ(九日間の祈り)としてとても素晴らしい本が届きました。
フランシスコ・ファウス著『ゆるしのための九日間の祈り』です。前書きに「この冊子は、心から人をゆるすことを通して、まことの平和の人となれるように、聖ホセマリア・エスクリバーの取次を通して、神の恵みを求めるためのものです。」とあります。
第一日: 心の平和を保つ 第二日: 理解し、ゆるす
第三日: 高慢に打ち勝つ 第四日: 怒りに打ち勝つ
第五日: 恨みに打ち勝つ 第六日: 家庭の不和をなくす
第七日: 一歩目を踏み出す
第八日: 悪に対して善を報いる
第九日: マリア様に助けを求める
丁度告解の準備をしている時に届きました。読んでみると良心の糾明にも役立ちます。
久しぶりに良い祈りの本に出合いました。定価540円(税込み)です。お勧めします。