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2017年5月19日 (金)

弱い人々

弱い人々のために (バルバロ神父)

 キリストは、「弱い人々」のために来た。それは真実である。そのためにキリストは、「神のあわれみ」をわれわれに教えた。しかしキリストは一度も、人間の弱さをあおったことはない。むしろ「自分の生命を救いたいなら、それをすてよ」と教えたではないか。キリストにとって死は、「恐るべき最後」ではなくて、新しい生命へのかど出であり、それが、キリスト教の中心である「よみがえり」の意味となるのである。

 サルトルの無神論的実存主義の結論が「すべてはナンセンス」であるということをここで皆考えてみてはどうであろうか。サルトルの考えでは、神もなく、来世もなく、すべては無意味な、その混沌の中で、人間は自分の力で自分を救わねばならないのである。人間のことを、この世だけで解決するのが、その思想の根本である。こう考えてくれば、たしかにふみ絵も、人間の作ったばかばかしいものであるから、それをふんでもかまうまい、無意味なことなのだから。

 しかし、こうなれば、もうキリスト教ではなく他の宗教である。もうキリスト教はない。

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 小説『沈黙』に対するバルバロ神父様の考えです。神父様の考えはよくわかります。今、特に映画公開後バルバロ神父様と同じような意見は言えない雰囲気です。それはあまりにも「人間の弱さ」をあおるような話しをする信徒や司祭が多いからです。

Photo_3京都大殉教:テクラ橋本とその子どもたち

  今月25日の聖人パッジの聖マリア・マグダレナは重病・精神的苦痛・絶望への誘惑・多くの耐え難い苦しみを受けましたが、彼女は「死よりも苦しみを」と祈りました。テクラ橋本やパッジのマリア・マグダレナのような人がいたことを忘れてはなりません。