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2015年6月

2015年6月30日 (火)

高慢と傲慢は違う

 28日にアップしたブログで、「高慢」と「傲慢」を同じ意味で書きましたが、違うと指摘を受けました。

 「高慢」はその能力のある人が相手に見下した態度をとること。「傲慢」は能力の無い人が見下した態度をとること。ということは「あなたは高慢だ」と言われるより「あなたは傲慢だ」と言われる方がきついですね。

 言葉には気をつけましょう。なにげない一言で人を傷つけることがありますから。

Photo 写真: .r より 「やさしいにゃん」

2015年6月29日 (月)

聖ペトロ 聖パウロ使徒(祭)

 シチリアのパレルモにある有名なパラティーナ礼拝堂です。

Photoキリストと聖ペトロ・聖パウロ

 聖パウロと聖ペトロについてはもう説明はいらないでしょう。以前にも何度か書いていますから。

 お二人のどちらかの名前を霊名にされている方も多いと思います。我が家は夫の堅信名がペトロ、息子の堅信名がパウロです。洗礼名と違い堅信名は必ず本人が選んでつけます。(幼児洗礼の場合は洗礼名は親がつけるので)夫も息子もそれぞれに思いがあってこの堅信名を選んだのでしょう。堅信名をつけない人もいます・・・それは私です。今思うとつけておけば良かったと後悔しています。

 幼児洗礼の人でこれから堅信を受ける人は是非堅信名をつけることをお勧めします。これからの自分の信仰生活の模範となり、助け守ってくださるような聖人を選んでください。

2015年6月28日 (日)

聖ヴィアンネに倣う ①

高慢について

 聖ヴィアンネは「高慢」(傲慢)についてこう言っています。

皆さん、誰が高慢であるか知りたいときには、話を聞いてごらんなさい。しゃべっているのは、いつも高慢な人でしょう。そして、自分についてしかしゃべらないでしょう。彼のことは、いつも他人よりも良いでしょう。良いのは彼だけです。自分の行為を目立たせようと思って、他人の行為はすべてけなします。・・・・・高慢な人は万事うまくやったと思っています。自分と関係ある人はすべて意のようにすることを欲し、正当な者はいつも彼です。いつも自分の意見が他人の意見よりも良いと思っています。…謙遜な人はそうじゃありません。…謙遜な、そして宗教についてよく学んだ人は、自分の意見を尋ねられるならば、ごく大人しく自分の意見を述べます。その後は、他の人々の意見を聞きます。自分に理があり、他の人々が間違っていても、もう何も言いません。(141p.~142p.)

 聖ヴィアンネから「高慢」についてこう言われると確かにその通りだと思います。特に「自分と関係のある人はすべて意のようにすることを欲し・・・」とありますが、このような人は思わぬ所にいるものです。そして必ず「私の言うことが理解できない(賛成できない)のは、あなたが傲慢だからだ!」と、言います。他人の傲慢は見えても自分の傲慢には気づかないようですね。

Kako4ghosps8yyd4seu8_2    謙遜な人聖マリア

2015年6月25日 (木)

聖ホセマリア・エスクリバー記念日6月26日

 明日は聖ホセマリアの記念日です。オプス・デイのメンバーでもない私が書くのもおこがましいのですが、私にとって聖ホセマリアとオプス・デイに出会えたことは主からの大きなお恵みですので、少しでもこの喜びを皆さんに伝えたいと思い書くことにしました。

 初めてオプス・デイについて知った時は、正直「あやしい」と思いました。(オプス・デイの方ごめんなさい!)あの頃は新しい活動や運動が多く生まれ、新しい祈り方や新しい典礼が行われ伝統が軽んじられていました。オプス・デイもその一つくらいに思っていたのです。しかし私は間違っていました。

 創立者聖ホセマリアの『道』を読んで、創立者の伝記を読んで、オプス・デイの素晴らしさがわかりました。聖ホセマリアの本を読めば読むほど引き込まれ、励まされました。聖ホセマリアが多くの信徒、司祭様、司教様、枢機卿様そして教皇様に愛されて聖人になられたことが納得できました。

 オプス・デイは新しいのですがその考えは昔から続くカトリックの教えを大切に守っています。特に秘跡については赦しの秘跡とごミサ・ご聖体を特に大切にしています。そしてロザリオの祈りや霊的聖体拝領など祈ることの大切さを教えています。

Photo 写真:facebook聖ホセマリア・エスクリバーより

 ここに聖ホセマリアの取り次ぎを願う祈りを載せます。(以前にも載せましたが)この祈りの中にオプス・デイ創立者の願い(家庭・職場・学校・病院などで、よい夫や妻に、よい父や母に、よい兄弟姉妹に、よい社会人や学生に、よい病人になるように努力を続ければ、神の子とよばれる生き方ができます)が込められています。

   祈願 

神よ、御身は聖母の取次ぎを通して、主の司祭・聖ホセマリアに数々の御恵みを与え、専門職とキリスト者としての日々の務めを果たしつつ聖性を求める道、オプス・デイ創立の忠実な道具となさいました。どうか私もまた、日常生活のあらゆる瞬間と状況を照らし、教会と教皇、そしてすべての人々に喜びと真心を込めて仕えることができますように。聖ホセマリアの取次ぎによって、私の願い(ここでお願いする)をお聴き入れください。アーメン

主の祈り・聖母マリアへの祈り・栄唱

 オプス・デイのホームページに聖ホセマリアの記念ミサの案内がありましたので、勝手に宣伝します。西宮市と京都市であります。機会のある方は是非このごミサに与ってみてください。

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 私と同じようにオプス・デイについてよく知らないまま毛嫌いしている方は多いと思います。これを機会に記念ミサに参加してみてはいかがですか?きっと主のお恵みがいっぱいあると思います。heart04

2015年6月24日 (水)

洗礼者聖ヨハネの誕生(祭)

Photo_3 幼子キリストと洗礼者聖ヨハネ  ムリーリョ

 教会の祈りで毎朝ザカリアの賛歌を祈ります。ザカリアはご存じの通り妻のエリザベトが身ごもったことを天使ガブリエルから告げられましたが、それを受け入れませんでした。彼は口がきけなくなります。しかし洗礼者ヨハネが生まれた時にお告げの通りその子の名前をヨハネと板に書いたとたん話せるようになりました。その時、聖霊に満たされて歌ったのがこの賛歌です。

神をほめたたえよ、イスラエルの神を。
神は民を訪れて あがない、
わたしたちのために力強い救い主を
しもべダビデの家に立てられた。

神は昔、預言者によって語られたように、
わたしたちに逆らう者、うらみをいだく者の手から、
わたしたちを救い、祖先をあわれみ、
とうとい契約を心に留められた。

神は先祖アブラハムに約束されたとおり、
逆らう者から わたしたちを救われた。
生涯を清く、正しく、平和に送り、
神に仕えることができるように。

幼な子よ、お前も神の預言者と呼ばれ、
主の前を歩み、その道をととのえ、
罪のゆるしによる救いをその民に知らせる。
すべては神のあわれみの心による。

神の深いあわれみにより
夜明けの太陽はわたしたちに臨み、
闇と死の影にある人を照らし、
わたしたちの歩みを平和に導く。

 洗礼者聖ヨハネはイエズスの先駆者として誕生から殉教までずっと救い主キリストをあかししました。ですから聖人の中で誕生と殉教を2回お祝いするのはこの洗礼者聖ヨハネだけです。

 今日は洗礼者聖ヨハネの誕生を祝い、取次ぎを祈ります。

2015年6月22日 (月)

聖トマス・モア殉教者

 トマス・モア、英国の歴史の中でも重要な人ですね。彼については皆さん学校の歴史の時間に習っているのでよく知っていると思います。彼のことを思うと英国国教会はカトリックに戻った方が良いと思うのですが・・・。

 トマス・モア(1477~1535)は、ヘンリー8世の時代、英国の宰相に任命されました。ヘンリー8世は妻と離婚して別の女性と再婚したいと思ったのですが、カトリックでは離婚は禁じられています。無理に離婚して再婚すれば教会から破門されます。そこでヘンリー8世はローマ教皇(ローマ教会)から離れ、英国教会を新しく作り(教会法を変えて離婚、再婚を認める)、英国教会の首長の地位につくことにしました。トマスはそれに強く反対しました。このため、彼はロンドン塔に1年以上監禁され処刑されました。

 「私は、まず神の忠実なしもべとして、それから国王の忠実なしもべとして死んでいきます」という言葉を残して殉教したそうです。

 現代では離婚・再婚は普通のこととして、珍しくありません。しかしカトリックでは信者同士が教会で挙げた結婚は秘跡です。神が結び合わせてくださったのですから、別れることはありません。もし別れるなら、それは神が間違っていたことになります。人間が正しくて神が間違っているなどありえないことです。

 ただし誤解しないでほしいのは、これは秘跡の結婚の場合です。信者でない人同士がカトリック教会で結婚式を挙げても、それは秘跡ではありません。ただ単に教会を結婚式場として使っただけのことです。ですから有名な歌手Mさんもサレジオ教会で結婚式を盛大に挙げましたが、その後離婚して再婚しています。また信者と未信者の結婚の場合も、結婚は有効ですが秘跡ではありません。もし結婚後未信者の方が洗礼を受けたらその結婚は秘跡になります。

Photo_2 聖トマス・モア

  かつては「結婚の秘跡」という信仰に命を懸けた人がいたことを忘れてはいけません。

2015年6月21日 (日)

カイコウズ

 近くの公園にカイコウズのみごとな木があり、5月中旬頃赤い花が満開でした。ここまで大きく育っているものは珍しいとか。いかにも南国にぴったりの花です。原産国はブラジルとか。

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Cimg5549 カイコウズ

 自然が豊かっていいですね。田舎生活も捨てたものじゃないです。

2015年6月20日 (土)

『クレド』を読む 

 ある本を探していた時に、この『クレド・信条』が目に留まりました。確か以前読んだ時にとても解りやすく一気に読んだ記憶があります。もう一度じっくりと読んでみたくなり、探していた本は諦めてこの本を読むことにしました。

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  著者は前教皇ベネディクト16世と現教皇フランシスコです。私たち一般信徒に向けて話された講話集なので、私でも理解できます。毎日唱えている「クレド」ですが、このように深く考えてみることは大切だと思います。単なる習慣・形式にならないように、その祈りの言葉一つ一つの意味をよく考えて、心をこめて祈らなければならないと改めて思いました。勉強会のテキストにしたら良いかもしれません。

 今日は「分裂」を取り上げたいと思います。今教会の中に分裂を起こそうとしている人たちがいます。今に始まったことではない(過去にも分裂を生み出しカトリックから離れて行った人たちがいます)のですが、再び同じようなことが起きるかもしれません。

 この講話集の中で教皇様はこう言っています。

23 キリストのからだとしての教会  …教会は…生きたからだです。このからだにはイエスという頭があります。…頭をからだの他の部分から切り離すなら、人は生きていけません。教会の場合もそれと同じです。…わたしたちも、…キリストの聖体の現存によって養われ、促されなければなりません。…わたしたちは皆、一つの霊によって、一つのからだとなるための洗礼をうけます。それゆえ教会にも多様性があります。…けれども、そこには交わりと一致が存在します。…教会の部分であるとは、一致の交わりの道具である教皇と司教と一つに結ばれていることです。…わたしたちは皆、違いがあっても一致しなければなりません。…一致は、わたしたちが主に願い求めなければならないたまものです。…神に願おうではありませんか。わたしたちを助けてください。つねにキリストと深く結ばれた、教会のからだの部分となることができますように。私たちを助けてください。対立、分裂、利己主義によって教会のからだを苦しめることがありませんように。わたしたちを助けてください。聖霊がわたしたちの心に注ぐ愛という唯一の力によって、互いに結び合わされた生きた部分となることができますように。(2013.6.19、サンピエトロ広場にて)

 私たちも秋のシノドスのために祈りましょう。教皇様と枢機卿様方のためにそして私たちを司牧してくださる司教様・司祭様方のために祈りましょう。

2015年6月19日 (金)

『道』より ④

Photo_3 モナコ ロイヤルベビー洗礼式 

730 あなたが神を見捨てないかぎり、神があなたをお見捨てになることはない。

732 イエスよ、私はあなたのうちに憩います。

 これほどの安心感、心の安らぎはありません。私達が主を信頼する限り主は絶対に私たちを見捨てることはないのです。神に感謝!

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2015年6月15日 (月)

ミサ

 以前紹介した酒井神父様のホームページにある講話です。大阪教区で典礼委員をされている神父様ですから、ごミサの正しい所作や意味について詳しく話されています。

 聖堂に入った時に聖水で十字架のしるしをする意味、ごミサの時どこに向かっていつお辞儀をするのか、ご聖体拝領の仕方、福音朗読の時、等々・・・私もいろいろと学びました。

 教会で典礼委員をされている方はぜひこれを見て、率先して信者さんたちに教えてほしいです。心のこもった美しいごミサを捧げるために。

 大阪府カトリック浜寺教会での講話「ごミサの心と形」(酒井俊弘神父)

http://www.catholic-hamadera.org/attached/jpn/lib/20150308/

4 ミサ(CTVより)

2015年6月13日 (土)

『道』より ③

594 謙遜になるのは、自らへりくだる時ではなく、人に卑しめられ、キリストのためにそれを耐え忍ぶときである。

 「謙遜になりなさい」。よく言われる言葉です。今まで「謙遜」を勘違いしていたのかもしれません。「自らへりくだる」ことだと思っていました。

 子どもの頃よく母に言われました。「卑下自慢してはいけませんよ」と。「卑下自慢」とは表面では謙遜していても、実は謙遜を美徳として自慢することです。「自らへりくだる」とは自分を卑下して謙遜になることです。でも謙遜を美徳と考えるならば必然的に自慢していることになります。

 だから聖ホセマリアは「謙遜になるのは、自らへりくだる時ではない」と言っているのですね。納得しました。自ら「私は贅沢せずに清貧な生活をしています」というのも「卑下自慢」の一つですね。本当の「謙遜」とは「人に卑しめられ、キリストのためにそれを耐え忍ぶとき」と言う意味がよくわかりました。

Photo「 謙遜なんて関係ないにゃん!」 (写真:.ruより)

2015年6月12日 (金)

イエズスの聖心(祭)

 「イエスの聖心」とは神の愛です。そしてこの「聖心の祭日」とはイエスの無限の愛のしるしである“聖心”をたたえる日です。

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   教皇講話集『クレド』の中に「聖なる教会」について書かれている箇所があります。その中に「神の愛」についても書かれています。

教会が聖なるものであるのは、教会が聖霊に導かれているからです。…教会を聖なるものとするのは、わたしたちではなく、神である聖霊です。このかたが愛によって教会を聖なるものとするのです。 こう言う人がいるかもしれません。でも、教会は罪人から作られているのではないか。…それは本当です。私たちは罪人の教会です。そしてこの罪人であるわたしたちが、神によって造り変えられ、新たにされ、聖なるものとしていただくように招かれているのです。わたしたちは皆、罪を犯しています。けれども主は、わたしたちが次のように言うのを聞きたいと望んでいます。「わたしをおゆるしください。私が道を歩めるようにお助けください。わたしの心を造り変えてください」。主は、心を造り変えることのできるかたです。…すべての人が神の愛によって新たにされ、造り変えられ、聖なる者となることができます。力のある人もない人も、罪人も、無関心の人も。失望した人も、道に迷った人も。…神はあなたに言います。「聖性を恐れてはなりません。」…そして聖性とは、…神の働きへの信頼です。…聖なる者となることを望みますか。主は両手を広げてわたしたちを皆を待っておられます。…主に愛していただこうではありませんか。わたしたち自身のため、また他の人々のために、この恵みを神に祈り求めたいと思います。(2013.10.2サンピエトロ広場にて)

 イエズスのみ心は愛です。ゆるしの秘跡によって私たちの罪を許してくださいます。ご聖体の秘跡によってキリストと出会わせ共にいてくださいます。聖霊は私たちのうちに働き聖性の道を歩ませてくださいます。これらイエズス様のみ心に感謝いたします。

2015年6月11日 (木)

『道』より ②

  皆さんは自己嫌悪になることはないですか?

Cimg5610  赦しの秘跡を受けて、ごミサでご聖体をいただいても、また同じことをくり返してしまう。噂話に興味を持ったり、批判したり、怠けたり、やるべき事をできるだけ引き延ばしたり、家事(仕事)の手を抜いたり。(´д`)

 聖ホセマリアの『道』にこう書いてあります。

483  「勇気を奮い起こしなさい。あなたは…できる。あの寝坊助・否認者・臆病者のペトロや…、迫害者・嫌悪者・頑固者のパウロが、神の恩寵のおかげでどうなったか、知っているだろう。」

 そう、聖ホセマリアの「あなたは…できる」という励ましの言葉を聞くと、また頑張ろうという気持ちになります。落ち込んだ心がまた元気になるのです。自分の弱さのせいで過ちを繰り返すかもしれないけれど、いつもキリストは共にいてくださる。聖霊が守り助け、マリア様が助け、守護の天使が守っていてくださるのだから。これからも頑張ってみようと思うのです。

 守護の天使で思い出したのですが、あなたの守護の天使の名前は何ですか?そう、自分を守ってくれる天使なので名前がないといつも「私の守護の天使さん」と、呼びかけなければなりません。それより名前で呼べばもっと親しみが増すでしょう。

 以前にも書いたアレクシアは守護の天使を「ウーゴ」と呼んでいました。そう呼びかけていつも親しくしていたのです。ところで私の守護の天使の名前はアンジェロです。えっ、そのまんまじゃないですか!(^^ゞ

Photo_3 天使像(サンタンジェロ橋)

2015年6月 8日 (月)

素晴らしいスヌ校長先生

 どこのカトリック教会もミサ典礼は全く同じですが、その他のことでは様々な特徴があります。特にその教会の主任神父様の影響が大きいのでしょう。明るい教会、活きいきとした教会、温かな教会、冷たい教会等々。

 このカトリック荻窪教会のホームページを見つけた時に、なんて活き活きとした教会だろうと思いました。特にスヌ校長先生(主任司祭?)が書いている教会学校新聞月刊『こもれび』がとても面白いのです。スヌ校長先生の優しさと教会の子供たちへの愛情が直球で伝わります。

 カテキズムもきちんと教えています。例えば大人でもよくしている人がいますが、スヌ校長先生が書いている通りです。↓

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 パンフレットを見ないで、みことばは聞きましょう。

 スヌ校長先生頑張ってねheart

2015年6月 7日 (日)

ご聖体

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 今日はT教会のごミサへ与るつもりで少し早めに家を出ました。ところがT教会の隣の幼稚園で行事があり、車は駐車できないとのこと。急きょカテドラルのごミサへ。同じ時間に始まりますが、幸い早く家を出ていたので余裕で間に合いました。こんなこともあるのですね。「時間にはゆとりを持って」教訓です。

 今日の説教でアン神父様は3つの要点を話されましたが、それよりも私が思ったことは「ご聖体をいただいた後が大切」ということです。私のように毎日ではなく、週に一度だけご聖体拝領をする人は特に、ご聖体をいただいてから一週間イエズス様と共に過ごすことを忘れないようにしなければなりません。ご聖体をいただくことより、いただいた後どのように過ごすかが大切なのだと。

 ご聖体を立っていただくか、ひざまずいていただくか、手でいただくか、口でいただくか…それよりも大切なことは、いただいた後どう生活するのか、ご聖体をどれ程意識して過ごすか、そちらの方がより大切なことだと気づかされました。

2015年6月 6日 (土)

『福音の喜び』を読む

 郡山司教様のブログを見て、久しぶりに私も『福音の喜び』を読んでみようと思いました。本棚から出した本には以前読んだ時につけた付箋がいっぱい。あの時、色々と感じたことがあったのに、それが今まったく生かされていないことに気づきました。たとえば、 

101 愛のおきてを理解できるように主に願いましょう。・・・・・「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12・21)・・・・・わたしたちは皆、好き嫌いがあり、今もおそらくだれかに対して怒りを覚えています。せめて主に伝えましょう。「主よ、わたしは、この人にもあの人にも腹を立てています。その彼、彼女のために祈ります」。怒りを感じている人のために祈ることは、愛への美しい第一歩であり、福音宣教の行為です。今日、それを行ってみましょう。兄弟愛の理想を奪われないようにしましょう。

 また、霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)について

153 ・・・・・わたしたちがみことばに照らされ新たにされるための祈り時間の中で、神のことばを読むことです。・・・・・テキストの霊的読書は、その箇所の文字どおりの意味から出発しなければなりません。そうでなければ、そのテキストに自分の都合のよいこと、自分の決定を正当化させるもの、自分の頭の中の図式にかなうことを語らせるのは難しくないからです。これは結局、聖なるものを自分に都合よく利用し、神の民に混乱を来すようなものです。時には、「サタンでさえ光の天使を装う」(コリントⅡ11・14)ことを忘れてはなりません。

 付箋をつけている箇所はまだまだたくさんありますが、わたしが一番心に共鳴したのはこの本の一番最初の序文です。

1 福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします。イエスの差し出す救いを受け入れる者は、罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放されるのです。喜びは、つねにイエス・キリストとともに生み出され、新たにされます。・・・・・

 私もできるだけ多くの人にこの本を読んでもらいたいのですが、1728円は高いですね。カトリック中央協議会が出す本はみな高いような気がします。文庫でも出してもらえたら他の人にも勧めやすいのですが。

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2015年6月 5日 (金)

『道』より ①

396 聖なる非妥協とは、不寛容のことではない。 (『道』聖ホセマリア著)

 私もそう思います。でも、近頃はあらゆることに妥協してしまうことが寛容さ、愛と言われています。逆に秘跡に対して妥協しない人はまるで寛容さに欠ける愛の無い人のように言われます。ファリサイ派のようだと非難されます。そうでしょうか?

 よく「放蕩息子」のたとえ話を出して、「主はどんなに教会を離れていた人でも、いつでも喜んで迎えてくださる」と、話します。全くその通りです。しかし放蕩息子は心から自分の過ちを悔い、自分が間違っていたことを悟り、お父さんにあやまります。そして聖書には書いてありませんが、おそらく同じような過ちを繰り返さないように努力したと思います。

 長い間教会を離れている人が参加しているとわかるごミサでは聖体拝領が始まる前に「準備ができていない人はご聖体ではなく祝福を受けてください」と知らせるべきだと思います。そのうえで(ご聖体をいただく準備ができているかいないかはその人自身にしかわりません)ご聖体を望む人には司祭はよほどの理由がない限りご聖体を与えることを拒否してはいけないと思うのです。

 「そんなファリサイ派が言うようなことを言わなくても、寛容さの無ない冷たい人だな。せっかく教会に来ているのだから準備ができていないからなどとかたいことを言わずに、信者にはみんなご聖体拝領をさせてあげなさい」と言う人たちの声が聞こえてきそうです。

 私のような放蕩娘さえも主は赦し受け入れてくださいました。主の愛は深く限りないとよくわかっています。だからこそ私は主キリストが現存されるご聖体を普通の食べ物と同じように考えることができないのです。ご聖体をいただくことは普通の食事とは違います。ご聖体をいただく前に準備は必要だと思います。

 秘跡について俗世間の価値観に合わせずに妥協しないことは、真に主キリストの教える愛を実践する寛容さだと思います。

5 初聖体(教皇ベネディクト16世と少女) 私も初聖体の時の喜びを思い出します。

2015年6月 4日 (木)

「キリストの聖体」祭日

 今日は「キリストの聖体」の祭日です。日本では特別に7日の日曜日になっています。この日に初聖体をする子供たちも多いです。初聖体にふさわしい日ですね。

Photo 聖ヨハネパウロ二世教皇 ご聖体顕示

Photo_3 聖体行列

 「ご聖体の中にキリストが現存している」ことは事実ですし、それを信じることができるのは神様の大きな恵みです。初聖体の前にこれだけはしっかりと教えましょう。そうしないと「ご聖体はキリストの象徴」と言う信徒も出てきます。これは大きな間違です。象徴ではなく現存です。人間の頭だけで理解しようとすると、現存ではなく象徴としか思えないでしょう。科学を頼りに信じようとしたら、信じることはできません。この世には神秘があります。

 ただし信仰の神秘は迷信ではありません。聖ホセマリアは言っています。「信仰はないが,迷信を信じる人がいる」と。ご聖体と神木やパワーストーンにパワースポット等を同じことのように考えないでください。とんでもない間違いです。カトリックでは迷信や占いを信じることは罪です。

 ところが近年カトリック製品を売る通販サイトK館ではパワーストーンと言って石を売ったり、司祭が「大雑把でいい、ぼくも血液型はO型」などと血液型性格を言ったり、風水にはまっている芸能人をカトリック学校の講演に呼んだりしています。私には理解できません。

 「カトリックしっかりして!」と言いたいです。トマさんはこう言っています。「現代社会は、真実の信仰を生きることが難しい時代です。・・・・・信仰を生きることは愚かなことだと勘違いされているのです。ほとんど絶滅危惧種です。・・・・・」(2015/05/26 長い黙想会「信仰の生温さ」より)

 「絶滅危惧種」的を得た表現です。特に日本では男の子の侍者も神学生も少なくなる一方です。さて、どうしましょうか?