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2014年2月

2014年2月28日 (金)

食べ物特集

 来週の水曜日は灰の水曜日です。中南米ではカーニバルがありますね。肉を断つ前の大騒ぎ・・・私個人としてはこの祭りはあまり好きではありません。

 せいぜいこの食べ物特集くらいでしょうか。食べ物と言っても、う~ん 食べられないかも。.ruさんのブログより。

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2014年2月27日 (木)

ウクライナのために

 ウクライナは以前(2012/12/7)このブログで初聖体の子どもたちの様子を紹介しました。あの子供たちは今どうしているのでしょうか?おそらく今は大人になり、苦しい日々を過ごしているのでしょう。

 教皇様はウクライナのために祈られました。

公開枢機卿会議(コンチストーロ)を前に、バチカンで21日、枢機卿団による家庭をテーマとした特別ミーティングの2日目が行われた。

この席で教皇フランシスコは、ウクライナの危機で苦しむすべての人々のために祈りを呼びかけられた。

教皇はご自分と、すべての枢機卿の名の下、現在、祖国の試練のために苦しんでいるウクライナのヤヴォロスキ枢機卿(リヴィウ名誉大司教)、フザール枢機卿(キエフ名誉総大司教)に精神的一致の挨拶をおくりたいと述べ、同国におけるあらゆる暴力行為の停止と、平和追求へのアピールを新たにされた。

さらに、教皇は政情不安や紛争のため、また宗教上の不寛容のために苦しむすべてのキリスト教徒のために祈られた。

バチカン放送局2014/02/21/特別枢機卿会議:教皇、ウクライナのために祈るのページから

 私たちもウクライナの兄弟姉妹たちのために祈りましょう。

 

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2014年2月26日 (水)

苦しみ

 アレクシアの話、そしてMさんの死が続きました。苦しみに対してキリストを知らない人達にとってはカトリックの人達の考え方は不思議に思うでしょう。

 丁度「トマさん祈りの部屋」に「苦しみを捧げる」ことについてわかりやすく書かれていました。

『苦しみ』を捧げる?                

       カトリックの勉強をしている人から質問されました。「キリスト信者の人から、苦しみを神様に捧げなさいとアドバイスされましたが、意味が分かりません。どうすればいいのですか?」そこで、理由を尋ねて納得しました。通常は良いものをプレゼントするのに、なぜ「苦しみ」という悪いものを神様にあげるのか?逆ではないか...という疑問でした。なるほどネ!確かに、そう言われれば、その通りです。この言葉は一体、何を指しているのでしょうか?
「捧げる」という言葉を「あげる」「プレゼントする」という意味で考えると道理が通りません。この場合は、「苦しみを避けたり逃げたりしないで、喜んで受け入れなさい!」という意味合いで使っています。それは十字架上のイエスに倣え、という勧めでもあります。イエスは自分から進んで苦しみを受け入れ、私たちの身代わりになって苦しみました。嫌々、仕方なしに苦しんだのではありません。そこには人間に対する優しい心遣い、愛が隠されているのです。
苦しみを捧げると言う場合、自分の罪を償うために苦しみを受け入れることを指しています。あるいは、人々の罪を償う場合も含んでいます。それは、十字架上の苦しみで人類を贖ったイエスに協力する、その業に参加するという意味があります。罪には罰が与えられ、それを終えると罪が赦されますが、人類の身代わりになって罰を受けるのがイエスの十字架です。そうして人間の罪が赦されるようになりました。イエスに罪はありませんが、罪を犯したかのように罰を受け入れ苦しみました。それこそが、苦しみを捧げるという意味です。
自分の落ち度や失敗で苦しむなら、自業自得です。苦しんで当たり前ですね。その苦しみが改心のきっかけになることもあります。ところが、自分の落ち度ではないのに苦しみが訪れることがあります。苦しみが無いに越したことはありませんが、苦しみが訪れたら、慌てたり恐れたりしないで、人生で試練の時だと覚悟を決め、苦しみを通して自分を清め、自分と人々の救いに役立てましょう。苦しみは不幸ではありません。神への愛が試されているのです。苦しみの中に自分の担うべき十字架を見るなら、「捧げている」のです。苦しみではなく、神への愛を捧げているのです。■ *2014/02/14 大分教会カテキズム勉強会より       

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2014年2月25日 (火)

別れ

 Mさんの訃報の知らせがありました。先月病院へお見舞に行った時には、あんなに笑顔いっぱいに話していたのに・・・。人の死はいつ訪れるか私たちにはわかりません。すべては主のみ心です。

 Mさんはいつも優しく、笑顔で接してくださいました。彼女と話していると気を使わず、とても穏やかな気持ちになりました。彼女の口から他人の悪口や批判を聞いたことがありませんでした。

 今夜は彼女のために祈りたいと思います。そして彼女のご主人のためにも。

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2014年2月23日 (日)

アレクシア

 キリスト信者の模範であるアレクシア(1971年~1985年)、彼女についての本を読みました。

 彼女がどれほどイエズス様マリア様ヨセフ様そして守護の天使「ウーゴ」を愛していたことか。入院している間は毎日ご聖体拝領を望み、司祭が毎日持って来てくださったそうです。

 彼女は8歳の時初聖体を受けますが、その準備の勉強はもちろんのこと、6歳から赦しの秘跡を2週間に1回は受けていました。それも自分の良心の糾明メモ帳を作ってしっかりと良心の糾明して準備をしてから受けていたのです。ミサに与ることはもちろんのこと、しばしば聖櫃の前でイエズス様と語らいの時を持っていました。癌になり苦しい闘病生活の間も「イエズス様、私がいつでも御身がお望みのことをしますように」と祈り、その姿は多くの人達に影響を与えました。

 彼女が特に好きだったのが聖ホセマリアと聖テレジア(アビラ)でした。聖ホセマリアが使っていたロザリオを姉の友人から借りて、いつもそれで祈っていました。

 彼女についての本を読んで、今まで漠然としてしかわからなかった「病気や苦しみをイエズス様の恵みとして受け入れること」がどういうことなのかはっきりとわかり理解できました。病気や苦しみに不安を持っている方は是非この本を読むことをお勧めします。

 『アレクシア』 酒井俊弘著  聖母文庫

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2014年2月22日 (土)

聖ペトロの使徒座

 聖ペトロは、キリストから「あなたはペトロ。わたしはこの岩(ペトロ)の上にわたしの教会を建てる」(マタイ 16.18)と言われました。聖ペトロは教会の最初の司教としてアンチオキアに使徒座を置き、その後ローマへ宣教に行き、バチカンの丘に使徒座の基礎を築きました。

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  聖アンブロジオは「ペトロがいるところに教会がある。教会があるところに、キリストがいる」と言いました。

 聖ペトロから今のフランシスコ教皇様まで266代続いています。

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2014年2月19日 (水)

キリスト信者らしく

 「トマさん祈りの部屋」から抜粋

(・・・・・・・)キリスト信者「らしさ」とは何でしょうか?世間では「真面目で、人が良い」という評判があります。その通りですが、それが本質ではありません。キリスト信者から見れば「ミサに来て、よく祈る人」が「信者らしい」と思われているかもしれません。これも重要なことですが、これらは「らしさ」の本質ではありません。キリスト自身が命じたのは「互いに愛し合いなさい」です。これがキリスト者と他の人を区別する印だったのです。キリスト信者ではなくても真面目な人、良い人、よく祈る人はいます。

「神を愛し、隣人を愛する」これが、キリスト者のアデンティティーです。「らしさ」を勘違いして「あの人はミサに来ないからダメね!」とか「あの人は祈りをサボっているから最低!」と悪口を聞くことがあります。言っている内容は間違っていませんが、その人の悪口を言う態度こそが一番キリスト信者らしくないのです。イエスの教えは、人を裁くためのモノサシではありません。自分で自分を裁く(反省する)言葉なのです。それを人に向けたとたん、キリスト者らしくない最悪の失敗を犯すことになります。そして、キリスト者らしく人を愛する時、もっとも「自分らしく」なる時でもあります。■
*2014/01/12 年間第二主日ミサ説教より

 Bさんの行いに対してAさんがBさんを裁くとCさんはAさんの裁く態度を批判する。行いの悪いBさん、それを裁くAさんそしてAさんを裁くCさん・・・よくありますよね。そして自分こそが正義だと思ってしまう・・・。一番キリスト信者らしくない・・・その通りですね。私自身気をつけなければなりません。

Photo アレクシア、彼女こそキリスト信者ですね。この本もお勧めです。

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2014年2月18日 (火)

住まい探し

 今日も雨。住まいを探しに今日は「アパマンショップ」へ。JRのK駅の近くのお店。ここが大当たり。とても感じが良くて、手際も良く丁寧でよく説明してくださり大満足。そして決めました。まるで私が決めたかのようですが、実は娘が決めました(娘の住まいなので)。

 毎度のことですが住まい探しは疲れます。でも決まってしまうと後は楽しみです。カーテンの柄を決めたり、家電をそろえたりと・・・。おっと、これも娘が決めることですね。つい私が選んでしまいそうです。

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 来月は引っ越しです。息子が帰省する予定なので手伝ってもらいましょう。

 

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2014年2月17日 (月)

日々色々

 昨日の日曜日はK教会のごミサに与りました。そこで求道者お二人の紹介がありました。若いお母さんと娘さんです。これから勉強を始められます。楽しみですね。

 もう一つのニュースはK教会の新しい聖堂は早ければ来年の御復活祭、遅くともクリスマスまでにできる予定だそうです。こちらも楽しみですね。

 今日は朝のうちは天気が悪くて寒いでした。風が冷たくて・・・。風に吹かれながら不動産屋さんへ・・・。でも良い物件が無くて・・・数年ぶりに娘と外食をする予定でしたが早く終わったのでそのまま本を買って帰宅しました。娘と二人で「外食にお金を使うより本を買った方が良かったね」と言ってお互いに満足。ヽ(*´∀`)ノ よく似た母娘です。

 

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2014年2月15日 (土)

子育て

 2008年4月長崎精道学園の指導司祭小寺神父様の入学式の時のお話の一部です。

 (・・・・・)自然のものはすべてそうですが、桜にも時があります。冬の間、寒さをじっとこらえて自分の時がくるのを待ちます。そして、「次はあなたの番ですよ!」と神様から声をかけられると「はーい!」と素直に答えてぱっと咲きます。そして、「わたしが、わたしが・・・!」と出しゃばらないで、役目を終えるとさっと潔く散っていきます。

 人間にも時があります。神様から「もう小学生になるときですよ。ランドセルをしょって学校 へ通ってお勉強するときがきましたよ!」と声をかけられました。子供たちは素直な「はー い!」という気持ちで最初の一日を始めたことでしょう。そして、みなさんも同じように、今日から一年生のお母さんですよ、お父さんですよ、と神様から呼びかけられているような気持ちだと思います。

 赤ん坊の時には、「肌を離すな!」と言われます。母親にしっかり抱かれて、肌の温かさ を通して愛情が伝わります。

 幼児の時には、「手を離すな!」です。手をつないで側にいて一緒に何でもして、共に楽しく過ごし信頼関係を深めます。

 小学生に上がれば「目を離すな!」子供の世界、子供の時間ができて、付きっきりにはなれません。一人でやらせてみる、これが大事です。それを見守ることで自信を付けていきます。小学生になってバスで通学する子もいるでしょう。いろんなことが初めてで心配です。親も不安です。でも、手を離すときが来ました。いろんなことを少しずつやらせていきましょう。でも目を離さないように。見守って、褒めて、声をかけて、毎日の小さな成長に気づくようにしましょう。こうして親も一緒に成長します。

 先の話ですが、思春期になれば「心を離すな!」です。日頃から親子で話すことが大切ですね。また日頃から親と先生が話すことも大切です。神を信じ、子供を信じ、私たちが互いに信じあうことです。親の手、親の目を少しずつ離れていきますが、それを補うように先生の手、先生の目、があります。また、友達の手、友達の目が増えていきます。これらの手と目が桜のような心で役割を果たしていけば、子供たちは神の子として成長できるような気がします。■(指導司祭:小寺左千夫)     

  小寺神父様のおっしゃっている通りですね。子育てにはスキンシップも手も目も心もかけてもかけてもかけすぎることはありません。自分の時間を子どものために与えられることは本当の幸せです。

 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も何せむに 

                   まされる宝子に如かめやも   山上憶良                                                                                                                                

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2014年2月14日 (金)

日本芸術院所蔵作品展

Title_2 久しぶりに展覧会へ行ってきました。東京まで行かなくても地元で観ることができます。しかもこの作家たちの顔ぶれ、素晴らしい!特に芝田米三先生の作品を観ることができて幸せです。今回は娘とではなく夫が一緒に行ってくれました。

 日本画では川合玉堂先生や山口華楊先生そして上村松篁先生の作品が印象に残っています。洋画では芝田先生の作品はもちろんのこと鬼頭先生の作品が好きでした。彫刻は長江先生の「キリエ」、工芸では陶器の器も良かったのですが、彫金や漆の作品に惹かれました。書はよくわからないのですが、漢詩や和歌の意味が解ればもっと筆の表現がわかり良く鑑賞できたのでは・・・。もう少し漢詩や和歌を勉強します。

 やはり日本画が良いですね。日本画の良さがわかってきました。

 芸術鑑賞は難しく考えずに、その作品を自分が好きか嫌いかで良いと思います。音楽も同じですね。今日観た作品の一番はどれ?二番は?順位をつけるなんて無意味でしょう。ずっと以前から思っていたことですが芸術に優劣をつけたりするのは間違っています。グノー、シューベルト、カッチーニどのアヴェマリアが一番かなんて意味無いでしょう。どのアヴェマリアが好きかでしょう。

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2014年2月13日 (木)

オプス・デイとの出会い

410pyilct4l__sl500_aa300__2  この本を書いたのはアメリカで牧師をしていた時にオプス・デイと出会いカトリックに改宗した方です。

 この本の題を見て私自身のことを考えました。私がオプス・デイと出会ったきっかけのことを。それは息子でした。彼の住まいの近くにオプス・デイがあることは知っていたので、縁ができれば良いと思っていました。そんな時に彼からオプス・デイに通い始めたと聞いたのです。オプス・デイについてくわしくは知らなかったのですがとても嬉しいでした。

 そして彼がオプス・デイの創立者聖ホセマリア・エスクリバーの著書『道』を貸してくれました。衝撃でした。これ程自分の心が動かされた本(聖書は別として)は今までありませんでした。大袈裟ではありません。息子が惹かれるのもよく理解できました。

 聖ホセマリアは言っています「私は新しいことは何も言っていない。聖書に書いてあること、今までカトリック(聖人達)が言ってきた事を話しているだけだ」と。でもこの当たり前のことが今は言われなくなりました。聖ホセマリアが話す事は新鮮に感じます。そして何より聖ホセマリアは話すだけではなく実行しています。そして聖人になりました。

 私がもっと若い時にオプス・デイに出会っていたら、聖ホセマリアの『道』を読んでいたら・・・。しかし若い時に出会っていても素直に心を開いて受け入れていたかどうか・・・今だから素直に受け入れることができたのかもしれません。すべてはそれに相応しい時を主は用意されています。

 私は皆さんに『道』を読むことをお勧めします。ただ現在この本は入手困難です。おそらく古本でもなかなか見つからないと思います。なので、このブログで少しずつ本の内容を紹介したいと思います。著作権に触れるかな?本をもっと出版してもらえれば問題ないのです。出版社の方ヨロシク!

 

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2014年2月12日 (水)

露天風呂

 先週家族湯の季一湯へ行ってきました。九つあるお風呂の中で9番のお風呂は露天風呂が深くて肩までゆったりと浸かることができて、良い気持ち。前回(7番)の所は広かったのですが深さが浅いでした。9番の方が温まりました。特に戸外が寒い時には深さは重要です。

Photo_2  下には川が流れています。鶯の声も聞こえて、いいお湯にうつらうつら・・・。それを見て夫曰く「まるでお猿さんみたい」ですって。でもそのくらい気持ち良かったのです。

 温泉は体の芯から温まり、湯冷めをしません。また行きたいな~ヽ(`∀´)ノ

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2014年2月11日 (火)

ルルドの聖母・世界病者の日

 ルルドの聖母と世界病者の日です。南フランスのルルドのベルナデッタに聖母が御出現されたのは1858年2月11日のことです。その後聖母は18回ベルナデッタにご出現になられました。

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 ルルドには今では多くの病院が建ち、毎年世界中から人々が巡礼に訪れています。この日を世界病者の日として、世界中で病気で苦しむ人たち、また介護する人たちのために祈ります。


第22回「世界病者の日」教皇メッセージ (2014年2月11日)

親愛なる兄弟姉妹の皆様

1. 第22回世界病者の日にあたり、わたしは病気で苦しんでいる人々と、彼らを助け、気づかう人々にとりわけ目を向けます。今年のテーマは、「信仰と愛 『わたしたちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです』(一ヨハネ3・16)」です。教会は、病者の皆様の中に、苦しんでいるキリストの姿をとりわけ見いだします。そうです。わたしたちの苦しみのかたわらには、そしてまさにそのただ中には、苦しんでいるキリストがおられます。キリストはわたしたちとともに苦しみという重荷を背負い、その意味を明らかにしてくださいます。神の子は十字架につけられたとき、苦しみに伴う孤独を打ち破り、その闇を照らしました。それゆえに、わたしたちは、自分たちのために行われた神の愛の神秘に向き合うことができます。その神秘はわたしたちに希望と勇気をもたらします。希望。神の愛のご計画の中では、苦しみの夜も復活の光に屈するから希望がもたらされるのです。そして勇気。勇気があるからこそ、わたしたちはあらゆる苦境にもキリストとともに、キリストと一つになって向き合うことができます。

2. 人となられた神の子は、人類から病や苦しみを取り除くのではなく、ご自分でそれらを引き受けることによって、それらを変え、新しい意味をお与えになりました。病や苦しみに新しい意味が与えられたのは、それらがもはや最後のことばではなく、新しく豊かないのちを意味するものとなるからです。それらが変えられたのは、キリストとの一致のうちに、もはや否定的ではなく、肯定的になる必要があったからです。イエスは道であり、彼の霊によってわたしたちはイエスに従うことができます。御父が愛のうちに御子をわたしたちにお与えになったのとまさに同じように、御子は同じ愛のうちに御自分をわたしたちにお与えになりました。ですから、わたしたちも、神がわたしたちを愛してくださったように、人を愛し、互いのために自らのいのちをささげることができるのです。神を信じることは善となり、十字架につけられたキリストを信じることは、余すところなく愛する力、敵さえも愛する力となります。キリストを真に信じることのあかしとは、自らをささげ、隣人、中でも愛されていない人、苦しむ人、片隅に追いやられた人を広く愛することなのです。

3. 洗礼と堅信の秘跡によって、わたしたちは、すべての苦しむ人のよいサマリア人であるキリストと一つになるよう促されます。「そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです」(一ヨハネ3・16)。いたわりを必要としている人々に愛をもって優しく接するとき、わたしたちは希望と神のほほえみを世界の果てまで届けます。わたしたちの行いが相手に惜しみなく尽くすものであるとき、わたしたちはキリストのみ心に近づき、その温かさに触れ、み国の到来に貢献するのです。

4.  わたしたちが優しい愛、敬虔で細やかな愛のうちに成長するために黙想することができる確かなキリスト者の模範がおられます。それは、イエスの母であり、わたしたちの母でもあるマリアです。マリアはつねに神の声に耳を傾け、ご自分の子らの必要や問題に目を留めています。マリアは、その胎内で人となられた神のいつくしみに駆り立てられ、自らを顧みず、親類のエリサベトに会って手助けをするために急いでガリラヤからユダヤに向かいました。カナの婚礼では、ぶどう酒が足りなくなったのを見て、御子を執り成しました。マリアは年老いたシメオンのことばを心に刻み、その人生の旅路において、力を落とすことなくイエスの十字架のもとに立ちました。シメオンは、マリアの魂が剣で刺し貫かれることを予言したのです。マリアは道を知っています。それゆえに、マリアはすべての病者と苦しむ人の母です。マリアがわたしたちを助け、支え、決して見捨てないことを確信しつつ、わたしたちは信頼と子としての信心をもって、マリアに向き合うことができます。マリアは、十字架につけられ復活したキリストの母です。マリアはわたしたちの十字架のかたわらに立ち、復活といのちの充満に向かうわたしたちの旅路に寄り添ってくださいます。

5. マリアとともに十字架のもとに立った使徒聖ヨハネは、わたしたちを信仰と愛の源へと、「愛である」神(一ヨハネ4・8、16)の心へと導きます。ヨハネは、兄弟姉妹を愛さないなら、神を愛することはできないことをわたしたちに思い起こさせます。マリアとともに十字架のもとに立つ人は、イエスが愛したように愛することを学びます。十字架は「神がわたしたちを真に愛しておられることの確かなあかしです。愛はあまりに大きいので、わたしたちの罪の中に入って罪をゆるし、わたしたちの苦しみの中に入って苦しみに耐える力を与えます。愛は死を打ち破り、わたしたちを救うために死の中に入るのです。……キリストの十字架はまた、キリストの愛に圧倒されるがままに任せるようわたしたちを招きます。そして、いつくしみと優しさをもって、ほかの人々、とりわけ苦しんでいる人、助けを求めている人を見つめるようつねに教えているのです」(「若者とともに歩む十字架の道行」リオデジャネイロ、2013年7月26日)。

 わたしは、この第22回世界病者の日をマリアの取り次ぎにゆだねます。そして、マリアに願い求めます。イエス・キリストとの交わりのうちに病者が苦しみに耐えるのを助け、彼らを介護するすべての人を支えてくださいますように。すべての病者、医療従事者、そして彼らを助けるボランティアの皆様に、わたしは心から使徒的祝福を送ります。

バチカンにて 2013年12月6日                     教皇フランシスコ

カトリック中央協議会事務局訳

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2014年2月10日 (月)

「神」の名の乱用

 他人のブログのコピーばかりで申し訳ないのですが、「トマさん祈りの部屋」に一般的なキリスト教に対する疑問と答えが載っていたのでここに載せます。私が言いたいことを解りやすく的確に書いてあります。さすがにトマさんは宣教・司牧のプロですね。

神のためなら何でも許されるか?       

       キリスト教の勉強をしていると「処女懐胎」や「死者の復活」という話が出てきます。多くの人が躓く箇所です。「本当ですか?」と質問します。すると「神が望んだから出来ます」と答えが返ってきます。何だか騙された気持ちになりますね。「神を出したら何でも説明出来るから、ずるい!」と言ッタ人がいました。その気持ち、分かります。でも、理性を超えた超自然の事柄は神で説明する他ありません。ただし、これらは理性を超えていますが、理性に反することではありません。
「神を出すのは、ずるい」という感想は一理あります。キリスト教の歴史の中で、神の名を出して非道な行為があったからです。十字軍や南米での宣教は、それ自体は高貴な志で行われましたが、神の名を出せば何でも許されると勘違いして、不適切な手段が取られた過去があります。そもそも、イエス・キリストは自分を『神の子』と称したことで、「神を侮辱している」とされ、神の正義を理由に殺されたのでした。本人たちは「神のために」正しいことをしているつもりでしたが、大きな過ちでした。
民族を虐殺したり文明を滅ぼしたりすることは、理性的に判断すれば犯罪であると誰でも分かります。「神のため」であっても罪は罪です。善い目的は手段を正当化しません。理性を無視することが信仰ではありません。それは「狂信」と言います。信仰は理性に従いつつ、それを超える事柄を受け入れることです。死後の世界は理性で計り知れませんが、それを信じて受け入れることが信仰なのです。自然と超自然はつながっています。理性と信仰もつながっています。
なぜなら、神が人となって人間の歴史に入り、私たちと共に神がいるからです。「人とため」が「神のため」につながり、「神のため」が「人のため」にもなるのです。キリスト者は「神のため」にだけ生きるのではありません。目の前の人のために生き、人々に仕えながら、それを通して神に自分を捧げて生きるのです。「神のため」に他者を不幸にすることがあってはなりません。改心させるのではなく、喜びと真心を込めて仕えて、神の愛を伝え、神の愛で本人が改心するのです。■(つづく) *2014/01/31大分教会、カテキズム勉強会「神の正義」について       

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2014年2月 9日 (日)

聖人

  オプス・デイのホームページを時々見ます。その中に「属人区長の書簡」というのがあります。最近の書簡は福者に決まったアルバロ・デル・ポルティーリョ司教様についての話でしたが、その中で教皇様のコメントが載っていました。アルバロ司教様の言葉も載っています。ここにその書簡の一部を載せます。

 (・・・・・)教皇フランシスコは数週間前にこうコメントなさいました。「聖人たちは超人でもなく、生まれつき完全だったわけでもありません。私たち一人ひとりと同じ普通の人たちです。彼らは、天国の栄光に達するまで、喜びや悲しみ、苦労や希望に彩られた普通の生活を送りました。しかし、その生活で何が起こったのでしょうか。神の愛を知ったとき、条件をつけたり偽りを言ったりすることなく、心から神に従い、一生を人々に仕えることに費やし、苦痛や逆境を耐え忍び、悪には憎しみではなく善をもって応え、喜びと平和を広めたのです。これが聖人たちの横顔です。一生の間、神への愛によって主に対して条件をつけずに過ごした人たちです。」 

 この教皇様のお言葉は、ドン・アルバロの横顔を写し出しているように思えます。繰り返しますが、困難や反対に対して、父なる神に全幅の信頼を持って対処する強さを持ち続けることができるよう、その取次ぎにより頼みましょう。

 (・・・・・)私の前任者であるドン・アルバロの言葉を見ることにします。平和に満ちた深い糾明のための助けとなるでしょう。

 (・・・・・) 「創立者は生前いつも聖霊に揺すぶられながら過ごしていました。何も気づくことのできなかった早い時期も、気づいた後と同じように、聖霊の働きかけを完全に意識し、英雄的に応えていました。(…) 1928年10月2日から、唯一すべきことは導かれるままになすことだったと断言していました。簡単なことのようですが、落ち着いてその人生を見直すと、このしなければならない〈唯一のこと、導きに任せる〉、ことで、オプス・デイ創立前後の嘲笑や無理解、孤独や中傷など数知れない犠牲が伴うことになったことに気付かされます。

 私たちもこのように神の導きのままに過ごす決心をしましょう(ローマ8,14参照)。創立者の応え方は、たとえご自分では重要視されなかったとしても、常に英雄的でした。私たちも、偉大な人物のようでなくとも、少なくともよい子供たちとして、創立者に倣うよう努めましょう。創立者は聖性の道で大人物でした。私たち子供たちもこのずば抜けて立派な父親の足跡をたどり、聖人になるよう励みましょう。」

 教皇様とそのご意向のためそして側近の方々のために祈り続けましょう。特別に、今月後半、教会と世界そして人々に多くの善をもたらすために開催される枢機卿会議の実りのために祈りましょう。また、私の数々の意向にも固く一致していてください。これらの意向が神のお望みのままに実現されていくように。大切な質問をしたいと思います。フランシスコ教皇のため、どのように、どれほど祈っていますか。惜しみない犠牲の精神でどのように助けていますか。度々、射祷 omnes cum Petro ad Iesum per Mariam, を生きていますか。すべて、ペトロと共に、マリアを通ってイエスに到るのです。 

                OPUS DEI  「属人区長の書簡」 (2014年2月) より 

 現在のオプスデイ属人区長はハビエル・エチェバリーア司教さまです。

Photo フランシスコ教皇とオプス・デイ属人区長エチェバリーア司教

                                              

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2014年2月 7日 (金)

従順

「従うこと」は「愛すること」      [ トマさん祈りの部屋]より                            

       昔の修道院では、新しく入ってきた新米シスター(志願者)に従順を試すことがありました。たとえば、「庭に穴を掘りなさい!」と命じます。「何のためですか?」と質問すると、「口答えしないで、従いなさい!」と注意されます。そして、穴が出来上がると「その穴を埋めなさい」と、再び命じられます。そこで反抗的な態度を取ると「従うことが大切なのです!」と厳しく言い渡されます。このように、従順とは上長に従うことであり、「上長に従うことは、神に従うこと」と教えていました。
修道精神として尊いことですが、社会人には当てはめられません。これでは思考停止してしまい、相手任せの無責任に人になってしまいます。まるで機械のような従順ですね。聖ホセマリアは、それを「死体の従順」と呼んでいました。社会人のキリスト者に求められる従順は、聖母マリアのような従順です。不明な点があれば、聡明さを発揮して質問します。それは反抗ではなく、より良く従うためです。たとえば、花を植えるためなら、草花の種類によって掘る穴の大きさや深さが違います。それを自分で考えて、最適の穴を掘るのです。これが「生きた従順」です。
この従順は、相手が望むことを自分も同じように望むことです。そのためには、望みをよく知ることが欠かせません。そして、イニシアティブを持って従います。信仰における従順も似ています。教えに従いつつ、神の望みをより良く知り、神の望みが自分自身の望みになっていくこと、それが信仰生活です。従順になろうとして、あまりに細かい指示を尋ねることは、聡明の反対です。子供の「おつかい」になってしまいます。具体的な事柄は自分で考え、相手の意向を汲み取って、最善を自分で決める事も従順の一部分です。
とは言え、神のことは分からないことが多いものです。アブラハムもモーゼもペトロも、分からないことがありました。質問しても分からないことがありました。でも、相手を信じ、神を信じて従いました。そういう場面がきっと出てくるでしょう。その時は、自分の考えを述べ、相手の話を聞いて、それに従うことは神に従うことだと納得できたら、自分の責任で自分から望んで従うのです。嫌々とか、無関心な態度で従うのではありません。それなら断った方がいいですね。だって、従うことは「愛すること」ですから…■(おわり)       

 今の修道院では穴掘りはさせませんが「上長に従うことは神に従うこと」「上長の命令は神の命令」という考え方は今でもあります。しかし私の考え(謙遜にかけますが)では「命令」も愛のない命令は間違っていると思うのです。命じる人が自分の気持ちを満足させるために神の名を使って命じているのでは?本当に「神への従順を教えるため」だけなのか、それともそれを乱用しているのか・・・。命じられた人がそこに命じる人の愛を感じるかどうかも大切だと思います。

 それにしても「死体の従順」とは的確な表現ですね。さすが聖ホセマリア神父様です。

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2014年2月 6日 (木)

可愛いね

 幼児洗礼を受けた人にとって、初聖体の思い出は格別だと思います。一所懸命要理を勉強して、天にましますとめでたしのお祈りを覚えて、告解を初めてして・・・。

 この写真のお兄ちゃんにとっても忘れられない初聖体になりました。

Cardinal_burke_kid  

 初聖体のできなかった弟が泣いてしまい、それをバーク枢機卿様が優しく慰めています。素敵な家族と枢機卿様ですね。

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2014年2月 5日 (水)

日本26聖人殉教者(祝)

26_4 1597年2月5日長崎で26人のカトリック教徒が十字架につけられて殉教しました。その中には3人の少年ルドビゴ茨木12歳、アントニオ13歳、トマス小崎14歳も含まれていました。

 「信仰の証し」 いつもこの26聖人のことを想うと、今の教会はこれで良いのかと・・・。彼らが命を懸けて証しした信仰を私たちは証しし続けているだろうか?とても不安になる時があります。

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2014年2月 4日 (火)

梅と桜

 

 仙巌園の梅が見ごろを迎えたとか。2月中旬には緋寒桜も満開になる模様。梅と桜の競演が楽しみですね。

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 我が家の白梅も咲き始めました。木が若いからでしょうか毎年花は咲くのですが実が生りません。以前にあった紅梅の大きな木には毎年たくさんの実が生りました。梅干しにしたり、梅酒やカリカリ梅もよく作りました。あれば作るのが大変・・・でもなければ淋しくて物足りない気持ちです。今年こそ白梅に実が生って欲しいです。

 よく桜と梅どちらが好きかと聞かれますが、私はやはり梅が好きですね。桜の豪華さ・華やかさは素晴らしいのですが、それでも梅の方が好きです。皆さんはどちらですか?

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