聖霊降臨の前にイスカリオテのユダの代わりにマティア(5月14日が祝日)が選ばれ使徒たちに加わりました。なので聖母の周りには12人の使徒がいます。多くの聖画ではマリア様にも聖霊が降りているように描かれています。
マリア様はすでに聖霊によって身ごもったのに再び聖霊を受けたのでしょうか?神学的なことはわかりませんが私にとっては素朴な疑問です。聖霊が降った時に無原罪である聖母も使徒たちと一緒にいたのは確かなのですが。
疑問はさておき、使徒言行録(1:1-4)には聖霊降臨について、「皆が一つに集まっていた時突然天から激しい風が吹いてくるような音がして響き渡り、炎のような舌が分かれて現れて、一人一人の上にとどまった。するとみな聖霊に満たされた」とあります。キリストが天に昇っていかれる前にキリストは使徒たちに「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方は、間もなく聖霊によって洗礼を受ける」と約束され、その通りになりました。そしてこうも言われました。「聖霊があなた方の上に降るとき、あなた方は力を受けて、エルサレムと全ユダヤとサマリア、また地の果てに至るまで、わたしの証人となるであろう」。そして何世紀もの間それは実行され続け、ついに1549年聖フランシスコ・ザビエルによって日本にもキリストの教えが伝えられました。素晴らしい!
今日は「司祭不在の時の集会祭儀司会者養成講座」の公開講座第2回目がありました。典礼について気づきの沢山あるとても実りあるお話しでした。かねてからの私の典礼に対する考えが同じところでは、思わず『そうなのよ!』と心の中で応えてしまいました。
聖体祭儀=ミサの中で何を一番大切にしているか?所作によって一番大切にしているものがわかる。
典礼によって私たちは変えられ、生かされなければならない。
ミサは大きく分けて(開祭)・ことばの典礼・感謝の典礼・(閉祭)
ことばの典礼の主役は聖書 舞台は朗読台
・答唱詩編について: 詩編は神から降りる言葉なので、朗読台から一人で第1・第2朗読と同じように詩編を唱え(歌い)、答唱句は皆で神に返すのが望ましいです。
・説教について: 説教はその日朗読された福音を解き明かす証です。説教は神の言葉を聞くのと同じです。司祭は「神は今ならこう言うだろう」と話すでしょう。
感謝の典礼の主役は聖体 舞台は祭壇
パンを取り
感謝をささげ
さいて弟子たちに与え
司祭のいない集会祭儀ではこの赤い所だけないのです。代りに賛歌を入れます。
私たちは典礼奉仕によってキリストの体の一部となります。伴奏できる人、朗読が上手な人、お花が生けられる人、答唱詩編を歌える人、香部屋を準備する人等々それぞれに与えられた典礼奉仕によって、また役割がない人もキリストの体の一部となります。ですからだれでもただ順番に割り当ててするのはよくないです。
ご聖体を拝領する時に、「キリストの体」「アーメン」と応えますが、それは「あなたはキリストの体になりますか?」「はい、なります」と答えているのです。そして一番大切なもの=キリストはもう自分の体の中にあるのですから、聖体拝領後は他の物(聖像など)にお辞儀はしない。
私たちは毎日曜日に集まります。そこに司祭が不在でも神様はおられるのです。ですから司祭が不在でも集まりましょう。
最初に神父様は「典礼を邪魔する考え」という話をされました。フランシスコ教皇様の使徒的書簡 『わたしはせつに願っていた』からのお話しです。「私は典礼について何でも知っているのにあの人は何もわかっていない・・・」とか「私はこんなに典礼を一生懸命しているのにあの人は何もしない・・・」など、キリスト者としての成長を妨げる考えです。本当は典礼によって成長するはずです。典礼的養成について書かれているこの本を早速注文しました。
最後に、この公開講座は素晴らしかったのに私の教会から私一人の参加、典礼委員は一人も参加していませんでした。とても残念です。
YouTube: Second Vespers on the Solemnity of the Ascension of the Lord, May 9, 2024
9日木曜日、ヴァチカンからフランシスコ教皇様の2025年聖年の布告と主の昇天の夕の祈り(Second Vespers)です。
主の昇天の祭日です。復活して聖母や弟子たちと共に過ごされたキリストは復活から40日後天に昇っていかれました。40日後なので主の昇天は今日5月9日です。が、日本では守るべき祭日ではないので復活節第7主日(5月12日)に祝います。同じくキリストの聖体の祭日も5月30日木曜日ですが日本では6月2日日曜日になります。
天に昇られたキリストですが、聖霊と共に今も教会に、そして私たちの中におられます。マルコの福音書に書かれている通り、キリストは「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と使徒たちに言われました。私たち一人一人がキリストの教えを宣べ、キリストに倣って生活することは勿論ですが、何よりも大切なのはその権能と使命を与えられた司祭への召命が増えることです。
よく誤解されていますよね。カトリック教会は聖母像や聖人像を拝む偶像崇拝をしていると。これは間違いですね。カトリック教会をまったく知らない人が言っていることです。
YouTube: Bridge to Heaven: The Power of Intercessory Prayer in Catholicism
私たちは聖母や聖人、大天使や守護の天使に主への執り成しや取次ぎを願い祈ります。天使や聖母、聖人は私たちの代わりに直接神へ執り成し、取り次ぎをしてくれるのです。またキリスト像や十字架を通して主キリストを崇拝しているのであって、十字架や聖像その物を崇拝しているのではありません。十字架も聖像も被造物にすぎません。ですから教皇様が聖母像にキスするのは聖母への崇敬であり、十字架にキスするのは十字架を通して主キリストを崇拝しているのです。
今日は聖マルコ福音記者の祝日です。聖マルコの母はかなり裕福で家も広く、そこに使徒たちや信者が集まり祈りやミサ聖祭が行われていました。聖ペトロが牢獄から救出された後にすぐに訪ねたのもこの家です。古い伝承によると最後の晩さんが行われたのもこの家の二階にある大広間だといわれています。
聖マルコはいとこのバルナバを通して聖パウロを知り、後に聖ペトロから洗礼を受けたようです。聖パウロに同伴してキプロス島に、聖ペトロに同伴してローマにも行っています。一時期聖マルコと聖パウロは激しく衝突して別れることもありましたが、後に聖マルコは聖パウロの最も親しい協力者となりました。まさにキリスト者です。どんなにひどい喧嘩別れをしても、完全に和解して以前のことを根に持つことなく、助け合う関係になれる。私たちが見倣わなければならないことですね。
アレキサンドリアにあった聖マルコのお墓はイスラム教徒に征服されましたが、十字軍によって彼の聖遺物はベネチアに運ばれ、ベネチアの守護聖人となりました。皆さんもサン・マルコ大聖堂を思い浮かべるでしょう。
今日の福音は「キリストは善い羊飼い」の話でした。善い羊飼いに従順であれば、何も心配や恐れはありません。そして叙階の秘跡によって権能が授けられた司教、司祭も忠実にキリストに倣う羊飼いならば私たちも安心して従います。
特にオプス・デイの歴代属人区長は皆様とても善い羊飼いです。
YouTube: Opus Dei: Behind Closed Doors
オプス・デイの創立者聖ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲルが亡くなった後、次の属人区長は福者アルバロ・デル・ポルティリョ司教(1975~1994)、次にハビエル・エチェバリーア司教(1994~2016)、そして現在のフェルナンド・オカリス司教(2016~)です。
神のお告げの祭日。
私のパソコンのホーム画面は今の復活節の間は復活したキリストの姿とアレルヤの祈りですが、その他の日はこのお告げの祈りがホーム画面です。
昔からこのお告げの祈り(アンジェラスの祈り)は朝の6時、正午、そして夕方の6時の一日3回唱えられています。復活節の間はこの祈りの代わりにアレルヤの祈りを唱えます。
神のお告げについては教会の祈りの「福音の歌(Magnificat)」の中でも、
わたしは神をあがめ、わたしの心は神の救いに喜びおどる。神は卑しいはしためを顧みられ、いつの世の人もわたしをしあわせな者と呼ぶ。神はわたしに偉大なわざを行われた。その名はとうとく、あわれみは代々、神をおそれ敬う人の上に。・・・
と、毎晩歌っています。神のお告げの神秘は主キリストの復活と同じようにとても感動する出来事です。私は聖母マリア様のように跪いて謙遜でありたいと望んでいますが・・・いつも高慢が頭をもたげてしまいます。聖母に倣わなければ
イエズス様の時代一日の始まりは日没からでした。聖なる過越の三日間も木曜日の日没から始まります。
聖なる過越しの三日間とは第一日目は木曜日の日没(主の晩餐の夕べのミサ)から金曜日の日没まで、第二日目は聖金曜日の日没から聖土曜日の日没まで、第三日目は聖土曜日の日没から復活の主日の日没(復活の主日の晩の祈り)までです。キリストの過越しとはキリストが受難と十字架の死を通して復活されたことです。ですから聖木曜日から復活の主日まで全体が一つの主の過越しを祝う神秘なのです。
キリストが聖体、ミサ聖祭、司祭職の秘跡を制定した最後の晩さんの記念
復活の聖なる徹夜祭
3月25日と言えば「神のお告げ」の祭日ですが、今年は受難の月曜日と重なるのでご復活後の4月8日に移されました。
受難の月曜日の出来事
過ぎ越しの祭りの六日前に、イエズスはベタニアに行かれた。そこには、イエズスが死者の中か生き返らせたラザロがいた。そのベタニアで、人々はイエズスのために食事の用意をした。マルタは給仕をし、ラザロはともに食事の席に着いた人々の中に加わっていた。その時、マリアは非常に高価な純粋のナルドの香油を、一リトラ持ってきて、イエズスの足に塗り、自分の髪の毛でその足を拭いた。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、イエズスを裏切ることになるイスカリオテのユダが言った、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々にほどこさなかったのか」。ユダがこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエズスは仰せになった、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなた方とともにいるが、わたしはいつもあなた方とともにいるわけではないのだ」。(ヨハネ12章1~8節)
いよいよ聖週間の始まりです。キリスト信者にとって最も大切な一週間になります。
今日は枝の主日。英語でPalm Sunday と呼ばれるように枝の行列にはヤシの枝を用います。枝の主日にヴァチカンで用いられるヤシの葉はやわらかく加工しやすいようです。教皇様も毎年美しい枝を持っておられます。
中東では普通にあるヤシの木ですが、日本にはヤシの木がないので代りにソテツを用いるようになりました。かえってソテツでないといけないと思いこんでいる人もいるようです。ソテツは固くて葉先がとがっていて痛いですよね。教会にオリーブの木があればオリーブの方が良いと思います。ヨーロッパではオリーブを用いる教会が多くあります。
オリーブの枝の祝福 ⇧
オリーブは葉が落ちるので灰に出来ないと思っている人もいるようですが、枯れて落ちた葉っぱと枝を袋に一緒に保管していれば問題ありません。翌年灰を作る時にそれを用いればよいのです。
他にもナツメヤシやオリーブもないロシアやウクライナなどではネコヤナギや花々を用いたりもします。ポーランドでは花のポールをいくつも立てます。枝はこれでなければならないという決まりはありません。柔軟に対応しましょう。
ネコヤナギを持って ⇩
花を持つ正教会の司祭 ⇧
ウイーンの行列 ⇧
ポーランドの花のポール ⇩
今日は聖ヨセフの祭日です。バロン司教様が聖ヨセフについて話しています。そう、主から言われたことをただ従い実行した聖ヨセフは本当に魅力的な聖人です。ですから私たちはいつも聖ヨセフに取り次ぎを願います。聖ヨセフに取り次ぎを願う祈りを二つ。一つはすべての人のために、もう一つは司祭のために。
聖ヨセフに善い死を願う祈り
光栄に満ちた聖ヨセフ、マリアの幸せな浄配よ、世の救い主イエズスの保護者に選ばれたあなたは、御子を抱いて、天の楽しみを前もって味わいました。わたしたちのために罪の完全な赦しと、あなたの善徳に倣う恵みを取り次いでください。わたしがいつも天国への確かな道を歩めますように。あなたが臨終の時、イエズスとマリアに守られて安らかに息絶えたように、わたしの臨終の時にも、敵の手に陥らないように救いの手をさし伸べて見守ってください。天国であなたと共に永遠の栄光にあずかる希望に満ちて、イエズス、マリア、ヨセフの尊いみ名を呼びながら、息絶えることができますように。アーメン。
聖ヨセフへの祈り
幸せなかた聖ヨセフよ、たくさんの王たちが見たいと望んで見ることができず、聞きたいと望んで聞くことができなかった神を、あなたは見、そして聞くことができたばかりか、腕に抱き、口づけし、服を着せ、保護することをあなたはまかされました。
聖ヨセフ、私たちのためにお祈りください。私たちがキリストの約束にふさわしい者となりますように。
祈願 尊い司祭職を私たちにお与えくださった神よ、どうか、聖ヨセフが、おとめマリアよりお生まれになった御ひとり子を大切に抱くことをゆるされたのと同じように、私たちにも、清い心と正しい行いとをもって、主の祭壇に奉仕することをおゆるしください。そして、私たちが、今日、御子の聖なる御体と御血をふさわしい心で拝領し、来世においては、私たちに永遠の報いを得てくださいますように。私たちの主イエズス・キリストによって。アーメン。
最近見聞きした善いことの一つが、バーク枢機卿様が呼び掛けているグアダルーペの聖母の9ヶ月間のノヴェナです。
YouTube: Nine Month Novena to Our Lady of Guadalupe (March 12 — Dec 12, 2024) #novena
もう一つはマリ・エマニュエル司教様が「洗礼は基礎です。洗礼を受けた人はこれから基礎の上に家を建てていくのです」と話されていたことです。確かに洗礼はゴールではなく出発ですから、これから信仰生活を築き上げていくことになります。洗礼を受けて基礎の上に柱を建てただけで終わる人もいれば、基礎の上に立派な信仰の家を建てる人もいます。洗礼を授けた司祭や代父母そして教会の人たちの助けや協力があれば基礎のままで終わることはないでしょう。
エマニュエル司教様ははっきりと話される方です。でもそれはカトリックの教えに反するものではありません。むしろ正しい教えをはっきりと述べています。ただあまりにもはっきり言い過ぎるので、ちょっと引いてしまう人がいるのも事実です。でも預言者たちやキリストだって悪にたいしてはきっぱりと批判して、反感を買い石を投げられたりもしました。しまいには殺されましたからね。例えばこの話を聞いて皆さんはどう受け止めますか?⇩
YouTube: Bishop Mar Mari Emmanuel's Message to Pope Francis on Same-Sex Blessings
YouTube: We Need Our Lady’s Protection | Cardinal Burke’s Important Message
今日は姶良カトリック教会では昨晩に続き黙想会がありました。黙想指導はレデンプトール会の石田神父様です。洗礼を中心に七つの秘跡についてのカテキズムでした。私にとって七つの秘跡についての復習になりました。ところでボンクリという言葉を久しぶりに聞きました。私が若い頃に長崎出身の人から「あなたボンクリ?」と聞かれ「エッ?何のこと??」と思ったのを思い出しました。ボンクリが幼児洗礼のことだとその時に知りました。
神父様は幼児洗礼についてプロテスタントの考え方を話されました。私は幼児洗礼は素晴らしいと思います。ボンクリの私にとって主からの一番のお恵みです。
以前にも紹介しましたが、私が勉強している酒井司教様のカテキズム講座です。一人でカテキズムの本を読むよりもずっと学びやすいです。カテキズムを学びたい方にお勧めします。
私の夫が亡くなった後、友人からロザリオが届きました。彼女の夫の手作りです。数珠玉で編まれたロザリオは温かみがあり、なによりも愛が伝わります。
今は毎日このロザリオで祈っています。そして帰ってきた次男と一緒に、毎夕食後一連だけですがこのロザリオを使って祈ります。やはり一人で祈るより一緒に祈る人がいた方が良いですね。主に感謝!
今日は十字架の道行の日です。午前午後とも予定があり、K教会A教会どちらの十字架の道行にも参加できなかったので自宅で一人でしました。『聖ホセマリアの十字架の道行』を使いました。黙想の栞の中でこんな一文がありました。
わがままを抑えなさい。大げさにしたり、興奮したりしないで、意に反することも受け入れなさい。イエスの十字架をもっと軽くしてあげるために。
「意に反することも受け入れなさい。イエスの十字架をもっと軽くしてあげるために」そうです、今の私にとって最も必要な聖ホセマリアの助言です。自分が何と傲慢で主の十字架を重くしていることか痛感させられました。
カトリック黒島教会の祈りの本です。さすが長崎ですね。大切な祈りを厳選して載せています。文字は大きく漢字にはルビもふってあるのでお年寄りから子供まで使えます。
一番最初に載っているのが「お告げの祈り」と「アレルヤの祈り」です。祈りと共に生活があることの証ですね。また「初めの祈り」と「終わりの祈り」、「召命を求める祈り」や「司祭のための祈り」、「聖体に対する聖トマの祈り」(アドロ・テ)、「教会の保護者なる聖ヨセフに向う祈り」、「大天使聖ミカエルへの祈り」「全ての死者のための祈り」等も載っています。勿論ロザリオの祈りや十字架の道行、ゆるしの秘跡に朝晩の祈り、食前食後の祈りなども当然載っています。日常生活に必要な最低限知っておきたい祈りばかりです。
この祈りの本のカバーデザインも良いでしょう。黒崎教会の内陣に敷き詰められている有田焼のタイルの柄だそうです。綺麗ですね。
長崎の信者さんは皆さん知っておられる祈りだと思いますが、私はこの本で知りました。島本要大司教様の「宣教する教会をめざして」という祈りです。今の私たちが祈るべき良い祈りだと思うので知らない方のためにここに載せます。
宣教する教会をめざして
天におられるわたしたちの父よ、あなたは御子をこの世におつかわしになり、み心の思いをわたしたちに伝えてくださいました。御子は御父のみ心を生き、十字架の死を通って復活し、わたしたちに聖霊をつかわしてくださいました。
新しい世紀に、御子とともにこの世界につかわされた、私たち(長崎の)神の民を顧み、ゆたかな恵みを注いでください。
▴殉教の歴史に育まれたわたしたち現代の神の民は、いままた新たな迫害の中に生きています。世俗化の中で、人間性はゆがめられ、いのちの尊さは損なわれ、自己中心、家庭崩壊、環境汚染、貧富の格差拡大などの問題に直面しています。
(ここで身の回りの別のできごとをあげることもできる)
このような世界の悲しみと苦悩に共感し、これを分かち合う心をもって、すべての人と共生する恵みを、わたしたちに与えてください。
わたしたちが、御子の聖体に養われ、主の平和のうちにこの世界へとつかわされ、また祭壇へと帰っていく、生き生きとした信仰生活を送ることができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
*長崎以外の人達も祈れるよう(長崎の)をかっこでくくりました。