2017年7月31日 (月)

泳ぐネコ科

 

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ニャン吉(Cat Press より)


 こう暑いとネコも海で泳ぎたくなりますよね???泳ぐネコといったら鹿児島のニャン吉君でしょう。先の曲がったカギ尻尾は我が家のトラ次郎とそっくりですが、トラ次郎は泳げないし、モデルをして稼げません。catface

 ネコ科は水が嫌いと思っていましたが、どうも違うようです。ニャン吉君は小さい頃から飼い主さんと一緒にお風呂に入っていたので、水は怖くないようです。それに引き換えトラ次郎は一度もお風呂に入ったことはありません(可哀そうとは思いませんが)。

 パリのペサック動物園のジャガーの檻の中にはプールがあります。小さい頃から水に慣れているのか、ここのジャガーCatalinaとMatoは見事に泳ぎます。たしかジャガーもネコ科ですよね。

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フランス・ペサック動物園(AFP BBNEWS より)

 常識外れのついでに「.r」のブログから可愛い写真を。

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 ⇧ にゃんことわんこ

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 ⇧ にゃんことひな鳥たち

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 ⇧ 子ざるとちびライオン(写真3枚:「ブログ  .r 」より)

 仲良く平和が一番!

2017年7月28日 (金)

みことばを聞く

 以前にも載せました。『ことなの木』で説明されていた「みことばを聞く」。これは大切なことですね。

 私の教会のごミサの中で「ことばの典礼」の朗読の時に、パンフレットを閉じてみことばを聞いている人は1%いるかいないか。一斉にページをめくる音がガサガサ・・・。これについては酒井神父様も「みことばは聞くように」とおっしゃっています(ちなみに私はよく目を閉じて説教を聞いていますが、居眠りしていると思っている人がいるようですshock)。

 カトリック荻窪教会学校のスヌ校長も子どもたちに教えています。⇩

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 そして朗読の後は侍者(いない時には朗読者)は「神の(主の)みことば」と言います。会衆は「神に感謝」とこたえます。カテドラル、K教会、T教会、M教会ほとんどの教会はそうしています。当然教皇様のごミサでも同じです。A教会では侍者が「神に感謝」会衆も同じく「神に感謝」?shock (侍者が「神に感謝」と言った場合には会衆は何もこたえない)

 色々と書きましたが結局他の人がどのようにしようと私には関係のないことだとわかりました。今まで何度書いても全く変わらないのであればこれが主のみ心。受け入れるしかありません。わたし自身がみことばをよく聞いて、自分が朗読した後に侍者がいなければ「神のみことば」と言えばよいことです。他人を変えようと思うのが間違いでした。note Que sera,sera Whatever will be,will be notes

2017年7月27日 (木)

十九の折り鶴~ラルシュ共同体

 菊地司教様のブログに載っていたラルシュ共同体が作成したビデオです。ラルシュ共同体(L'Arche International)とは知的障がいを持つ人と持たない人が共に生活しているコミュニティで、日本では静岡にあるそうです。私はこのビデオで知りました。


YouTube: 十九の折り鶴

 昨日は相模原殺傷事件から一年、ラジオでもこの事件のことを振り返り伝えていました。このビデオを見て皆さんは何を感じ、どんなことを考えましたか。

2017年7月25日 (火)

聖ヤコブ使徒(祝)

 聖ヤコブ使徒の祝日です。ゼベダイの子聖ヤコブは使徒ヨハネの兄弟です。キリストのいとこでアルファイのヤコブ(小ヤコブ)と区別するために「大ヤコブ」と呼ばれています。

 聖ヤコブは44年頃に殉教したといわれています。彼の遺体は9世紀頃にスペインで発見されました。当時キリスト教徒はイベリア半島に侵略してきたイスラム教徒とたたかっていたので、彼の遺体は特に崇拝されて、遺体が発見された場所には大聖堂が建てられました。そして彼はスペインの守護聖人となり大聖堂は有名な巡礼地となりました。スペイン語でサンティアゴ(Santiago)とは聖ヤコブのことです。

Photo聖ヤコブ使徒 ルーベンス

 聖ヤコブといえばサンティアゴ・デル・コンポステーラでしょう。三大巡礼地の一つで、シンボルのホタテ貝を巡礼者は着けて歩いています。

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巡礼路

Scallop

シンボルのホタテ貝  フランス語でホタテ貝のことを「ヤコブの貝」(coquilles Saint-Jacques)というそうです。

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そして定番の「ヤコブのケーキ」(以前アップした写真と同じです)

 私の友人の息子さんも歩いてサンティアゴ・デル・コンポステーラ巡礼をしました。彼はカトリック信者なのできっと祈りながら歩き、主の沢山のお恵みに気づかされたことと思います。若い時に巡礼できる人はいいですね。

2017年7月22日 (土)

St.Maria Magdalena

 聖マリア・マグダレナの 記念日は祝日になりました。おそらく信者で彼女について知らない人はいないでしょう。

 マリア・マグダレナはイエズスが七つの悪霊を追い出した女性として福音書に登場します。七つもの悪霊につかれていたということは肉体精神ともに大変な苦しみだったと思います。だから彼女の重い苦しみがいやされた時の喜びは私たちには想像できないくらいだったでしょう。

 キリストに癒されて彼女の生き方は180度変わりました。キリストを知ったことで新しく生まれたのです。彼女はいつもキリストを見て、キリストに倣い、キリストがすべてであると悟りました。キリストが十字架を荷われて歩んだ道を共に歩み、聖母マリア様と共にキリストの十字架のもとに留まりました。キリストは復活後最初に彼女に姿を現されました。彼女はキリストが昇天した後も弟子たちや兄弟姉妹のために働きました。

 聖マリア・マグダレナは私たちに教えてくれます。女性は女性なりのやり方で教会に貢献できることを。

 今日は私の亡き祖母の霊名祝日でもあります。聖マリアマグダレナの霊名を持つすべての人のために祈ります。

Dozcngr01Tiziano                            El Greco

Mla4agd51Paolo Caliari                   Domenico Tintoretto

 ちなみにマグダラのマリアはベタニアのマリア(ラザロの姉妹)と同じ人物と紹介している人もいるようですが、二人は別人です。名前からしてマグダラ地方のマリアとベタニア地方のマリア、すでに3世紀頃二人は別人であると言われています。

 *近年また異端とされたグノーシス派のフィリポ福音書、トマス福音書、マグダラのマリア福音書(に書かれていること)をあたかもカトリックの教えのように話す人たちがいます。気をつけましょう。

2017年7月 1日 (土)

バルバロ訳聖書

 昨年の11月頃聖書について書きました。そこでは共同訳聖書よりフランシスコ会訳聖書をお薦めしました。しかしフランシスコ会訳も注釈など・・・色々気になるところがあります。共同訳よりフランシスコ会訳、フランシスコ会訳よりバルバロ訳、結論として、バルバロ訳が一番と良いということに落ち着きました。ペトロ白柳大司教のIMPRIMATURもありますから。勿論フランシスコ会訳にもあります。IMPRIMATURがあるのとないのとでは大違い。カトリック信者ならやはりこれがある聖書を使わなければね!

 聖書学者の方々や異論のある方も多いでしょうが、私はバルバロ訳を使います。

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聖書 バルバロ訳

2017年6月29日 (木)

聖ペトロと聖パウロ使徒の祭日

 6月は祭日の多い月です。今月最後の祭日が「聖ペトロと聖パウロ使徒」。聖ペトロと聖パウロについては何度も書いているので今回は省略します。

 聖ペトロで思い出すのが「Quo vadis, Domine?(主よ、どこに行かれるのですか?)」。この言葉をもとにポーランドのヘンリク・シェンキェヴィチ氏が書いた小説が『クオ ヴァディス』です。あまりにも有名で何度か映画にもなりました。

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 ローマ帝国のキリスト教徒への迫害がひどくなり、ペトロもローマの町を離れるためにアッピア街道を歩いていました。そこに向こうからローマに向かって歩いてくるキリストと出会ったのです。ペトロは跪いて「主よ、どこに行かれるのですか?」と尋ねました。キリストは「もう一度十字架にかかるためにローマへ」と。これを聞いてペトロはすぐにローマへ引き返し、そして殉教したのです。

 小説の主人公マルクスとリギアは想像上の人物ですが、皇帝ネロや聖ペトロ、聖パウロは歴史上の人物です。キリスト教徒への迫害も歴史的事実に基づいて描かれています。信徒の方でまだ見ておられない方は是非一度ご覧になってください。

2017年6月26日 (月)

サクスム

 今日はオプス・デイの創立者聖ホセマリア・エスクリバーの記念日です。今月10日には東京で駐日教皇大使チェノットゥ大司教様の司式で聖ホセマリア記念ミサがささげられました。

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 そして聖ホセマリアが亡くなられた後にオプスデイの長として働かれた福者ドン・アルバロ・デル・ポルティーリョの生涯についての本が出版されました。

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 教皇ヨハネパウロ二世と親しかったドン・アルバロはその優しい温厚なお顔からは想像もできない苦しい時代をサクスム(岩)のような強い意志で生きてこられました。ご自身が多くの苦しみを体験したからこそ、今苦しんでいる人達のことが良く理解でき、寄り添い、優しく包み込めたのでしょう。

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 本によると昔はオプス・デイに対する攻撃もひどいものだったそうです。特に聖ホセマリアや福者アルバロを悲しませたのは教区や修道会、信徒によって攻撃されたことでした。それはホセマリア神父が列聖される時にもある修道会の一部の人による根拠のない非難中傷がありました。いまだにオプス・デイ嫌いの人達は本当のオプスデイを知らず、昔の根拠のない非難中傷をうのみにしているせいかもしれません。

 教皇パウロ六世や教皇ヨハネパウロ二世は特にオプスデイに理解がありました。私がオプスデイに出会えたことは主の大きなお恵みだと思います。聖ホセマリアの『道』を読まなければ、このブログを書き始めることもなかったでしょう。この『サクスム』を読んで、より一層オプスデイを知ることができました。「食わず嫌い」という諺があります。『サクスム』はオプスデイ嫌いの方に特にお勧めします。confident

2017年6月25日 (日)

ふたたび三位一体について

 Fr.Zのブログで「三位一体」について書かれていました。わたしが聞いた水のたとえも載っていました。(私は異端を教えられていたの?catface

一部の司祭は三位一体について人々の理解を助ける熱意で、三位一体は水にたとえられる(水は蒸気、氷、液体の三つの形態で見える)とか、また他の人は三位一体は殻、黄身、白身の異なる部分からなる卵にたとえられるとか主張します。またワインボトルや太陽にたとえたり・・・これらのたとえはすべて創造的だが確かに異端的・・・アリウス主義の支持者がいます。そこには他の異端もあります。[Fr.Zのブログより]

 つまり私が教わった水のたとえは異端的だったのでしょう。Fr.Zは三位一体を正しく理解するためにアタナシウス信条(Athanasian Creed)の三位一体に関するところを薦めています。

[アタナシウス信条]の一部 (「みこころネット」より)

 ・・・・・・・

 カトリック信仰は次の通りである。われわれは三位における唯一の神、一における三位の神を信じ、[三つの]ペルソナを混同したり、その実体を区分したりしない。

 なぜなら、聖父の一なるペルソナ、聖子の別のペルソナ、聖霊の別のペルソナがあるからである。しかし、聖父と聖子と聖霊たる神は一であり、栄光は等しく、威厳は永遠に共存するからである。

 聖父と聖子と聖霊はそのようなものである。聖父は創造されたのではなく、聖子は創造されたのではなく、聖霊は創造されたのではない。聖父は無限であり、聖子は無限であり、聖霊は無限である。聖父は永遠であり、聖子は永遠であり、聖霊は永遠である。しかし、三つの永遠ではなく、一つの永遠であり、また三つの無限や三つの創造されざるものではなくて、一つの無限、一つの創造されざるものである。同様に、聖父は全能であり、聖子は全能であり、聖霊は全能である。しかし、三つの全能ではなくて、一つの全能である。

 そのように聖父は神であり、聖子は神であり、聖霊は神である。しかし、三つの神々ではなく、一なる神である。そのように、聖父は主であり、聖子は主であり、聖霊は主である。しかし、三つの主ではなく、一なる主である。われわれはキリスト教的真理によって どのペルソナも御自身で神であり主であると認めるように強いられるのと同じように、カトリック宗教によって三つの神、三つの主があると言うことを禁止されている。

 聖父は何かから作られたのではなく、また創造されたのではなく、生まれたのではない。聖子は聖父のみからの御方であり、作られたのではなく、創造されたのでもないが、[聖父から]生まれたのである。聖霊は聖父と聖子からの御方であり、作られたのではなく、創造されたのではなく、生まれたのでもなくて、[聖父から]発出なさるのである。それゆえ、一なる聖父がましますのであって、三つの聖父があるのではなく、一なる聖子がましますのであって、三つの聖子があるのではなく、[一なる]聖霊がましますのであって、三つの聖霊があるのではない。そしてこの三位一体のうちには前と後、より大きいとより小さいというものは何もなく、三つのペルソナ全体は共に永遠に共存なさり、共に等しい御方である。

 それゆえに、前に言ったように、すべてのことがらにおいて、一体における三位、三位における一体が礼拝されるべきである。それゆえに、救いの状態にいることを望む者は三位一体についてこのように考えるべきである。

・・・・・・・・・・・・・

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2017年6月24日 (土)

洗礼者聖ヨハネの祭日

Photo 聖エリザベトを訪問した聖母マリア、二人のお腹の中にはキリストと洗礼者ヨハネがいます。この絵を見ると洗礼者ヨハネは生まれる前すでに母の胎内で救いの訪れを受けています。

 今日の福音朗読の中で名前についての話が出てきます。割礼の時に集まった人々は父親の名を取って「ザカリア」と名付けようとしましたが、ザカリアは「ヨハネ」と書きました。主から告げられていた名前です。

 この箇所を読むと名前も大切だと気づかされます。特に洗礼名を選ぶときには祈ります。そこにはやはり主のみ旨が働いているのではないでしょうか。霊名にふさわしい生き方をしなければと反省しています。

2017年6月23日 (金)

イエズスの聖心の祭日

 「イエズスの聖心」の信心は17世紀にフランスで広まりました。聖マルガリタ・マリア・アラコクがキリストからの啓示を受けたことに始まります。

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 彼女にキリストは茨に巻かれ十字架を戴き炎に燃え立つご自分の心臓を示して「人々を愛するために多くの苦悩をしのんだ私の心。しかし彼らは冷淡で、受けた恵みを忘れ、私の心はこの世の罪で傷つけられています」と言われ、彼女にその償いを命じられました。

 その償いとは、聖心の特別な祝日を定め、毎月の最初の金曜日に聖体拝領をして、毎木曜日の晩の聖時間を守り、家庭を聖心に捧げることです。

 初金のごミサに与りたくても学生や勤めている人には難しいです。6月は「イエズスの聖心の月」です。初金のごミサに与ることができなくても、いつもイエズス様の愛を理解し、敬い、聖心を生きるように、キリストの恵みに感謝して過ごすことが償いとなるでしょう。

2017年6月22日 (木)

誤解を解く

 今日は聖トマス・モア殉教者の日。聖トマス・モアについては学校の歴史の授業で習ったので皆さんよく知っているでしょう。英国宰相の彼は国王ヘンリー8世が離婚したいためにローマカトリック(離婚を禁じている)から離れ英国教会の首長になろうとしたことに反対したために、ロンドン塔に監禁され処刑されました。彼が殉教する前に言った言葉は有名です。「私は国王の忠実な僕として、しかしその前に、まず第一に神の忠実な僕として死んでいきます」。

 カトリック=キリストの教えに忠実であろうとすると、主の教えか、人間の望みか選ばなければならない時があります。曖昧であってはいけません。

     *   *   *   *   *   *   

 同性愛の傾向がある人達も同じです。私が今まで書いてきたことで誤解をしている人がいるかもしれません。

 はっきりしておきたいのはカトリックは同性愛者に不寛容ではないということです。カトリックでは同性愛の傾向があること自体は罪ではありません。同性愛的傾向があるからと言って聖体拝領ができないのではありません。聖体拝領はできます。ただし同性愛の生活をしていたら別です。つまり同性同士で性関係を持ったり、同棲していたりしたら聖体拝領はできません。このような生活は罪の状態です。これは異性間でも同じです。大罪を犯したり罪の状態にいる人は聖体拝領はできません。

 カトリック信者の中にも同性愛の人はいますし、自ら選んで善い信仰生活をしようと努力している素晴らしい人はたくさんいます。

 ここに一冊の本があります。この本の序文を書いたサラ枢機卿が司教や司祭に是非読んでもらいたいと言っています。(日本語訳を望む!)

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2017年6月21日 (水)

作業は祈り

 ご聖体訪問をするたびに一人で教会の庭の草取りをしている方を見かけます。帽子を深くかぶりマスクのようなもので顔を覆っているのでどなたかわかりません。先週声をかけたところようやくわかりました。

 彼女は「これ(草取り)は私の祈りですから」とごく自然に答えられました。すばらしい信仰ですね(だからといって「皆さん草取りをしましょう」と言う意味ではありませんよ)。自分の仕事を祈りに変えられる素晴らしさです。久しぶりに信仰の人を見ました。

 丁度今日の福音と重なりました。「他人の前でよい業を行って人に見せびらかさぬように気をつけよ。そんなことをすれば天にまします父からの報いはいっさい受けられぬ。だから施しをするときには、偽善者の人が尊敬を受けようとして会堂や町でするように、自分の前でらっぱをならすな。・・・」(マテオ6:₁~₂)

 人に良く思われたいがために善行をする人は沢山います。その人達は他人から評価されることを喜びとします。また他人から悪く思われたくないから仕方なくする人も。しかし彼女は違います。私も彼女を見習わなければと思いました。

1シスターたちにとってパンを作ることは祈り このパンはご聖体になるためだけにつくられます。(聖血修道会聖ヨゼフ修道院)

2017年6月20日 (火)

聖体行列と初聖体

 18日の聖体の祝日はヴァチカンでも聖体行列がありました。勿論ごミサでは子供たちの初聖体もありました。

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178聖体行列

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Photo_4初聖体の子供たち (初聖体の準備はとても大切なので、ヨーロッパでは初聖体は小学校2年生くらいからです。)

2017年6月19日 (月)

家庭

 オプス・デイのホームページに載っている属人区長オカリス神父様の今月の手紙は「家庭」について書かれていました。

 カトリックの教えでは「男性と女性の異性が結ばれるのが結婚」です。しかし世の中は同性の結びつきを異性間の結婚と同じに考え、同性の結びつき=結婚という法律を作る国や州が出てきています。多くの人達はそれを進歩的と言っているようです。

 このような風潮の中でオカリス神父様は私たちに励ましの手紙を書いてくださっています。それはまさにパウロが各地の教会の信徒たちに手紙を書き励ましたのに似ています。

オプスデイ属人区長オカリス神父様の手紙より抜粋

  多くの人は、男性と女性が一致するために神が計画された結婚を、時代遅れ・・・単なる一つのモデルに過ぎないと考えています。しかし私たちは希望で満たす必要があります。家族についての真理の光は、神が人の心に刻まれたものですから、嵐の最中にあっても、道は、常に開かれていくのです。

 ・・・聖ホセマリアの言葉「キリスト者の仕事、それは豊富な善で悪を溺れさせることである。それは、否定的なキャンペーンをしたり、何々反対を叫んだりすることではない。そうではなくて、楽観に溢れ、若さと喜びと平和に満ちて、肯定をモットーに生きることである。すべての人を、すなわちキリストに付き従う人も、キリストを見放している人や彼を知らぬ人も、理解する心で見ることである。とは言え、理解するとは、不介入や無関心な態度をとることではなく、行動することである」。多くの家庭が遭遇している、また家族制度自体にも見られる困難を嘆いて、落ち着きや不屈の精神を失うことなく、強さと専門性を持って、キリスト者の家庭を守り促進するよう努めましょう。これは私たちだけの問題ではなく、神に関わることであり、代々に関わることでもあります。家庭も結婚も聖性の道です。・・・聖性への召し出し、それは幸せです。家庭は愛が生まれる場です。私たちが築いたり築かなかったりということ以前に、家庭には神の愛が私たちの人生に最初に現存する場なのです。・・・「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(1ヨハネ4,19)。父性と母性は、私たち一人ひとりが誰であるかを、神の贈物であり、愛の実りであることを教えてくれます。家族生活で起こり得る多くの困難の最中で、他の人々は神の贈物であることを自覚し、知ることで、彼らをもっと愛するよう仕向けられます。そして社会は、いつも、この無条件の愛を必要としています。・・・

 オカリス神父様の手紙は続きますが、前半の部分で十分に伝わるでしょう。「世の風潮を嘆き憤るのではなく、神の賜物を信じて、家庭は神の愛が現存してることを信じて生きなさい。結婚も聖性の道であることを自覚すればそこには愛が生まれます」と。私はオカリス神父様の手紙を読んで励まされました。

20_2オプス・デイH.Pより オカリス神父

2017年6月18日 (日)

キリストの聖体(祭)

 「キリストの聖体の祝日」は三位一体の祭日後の木曜日に祝われていましたが、近年日曜日に移動しました。

 今日初聖体を受けられた子どもたちおめでとうございます。一生心に残る日となるでしょう。きっとイエズス様について沢山お勉強したと思います。

 ご聖体の中にはイエズス様が特別なかたちでおられます(現存しています)。そう信じている子は聖櫃(せいひつ)にはイエズス様がいらっしゃることを知っているので、その前でお祈り(イエズス様とお話)をするでしょう。きっと聖櫃の前を通る時にもイエズス様に頭を下げてあいさつをするでしょう。

 また長い間ごミサに与らなかったり(主日のミサに病気などの特別な理由がないのに行かないのは罪)、大きな罪を犯したときには必ずゆるしの秘跡を受けてからご聖体をいただきましょう。そうしないとイエズス様に対してもっと大きな罪を犯してしまうことになりますから。お父さんやお母さんがこれらのことを忘れていたら教えてあげましょうね。

 アブリ神父様は「機会があればいつも秘跡のうちにおられるイエズスを、短時間でもよいから訪問して尊敬しよう。カトリック教会のそばを通るときは、短い賛美の祈りをとなえ、主にあいさつしよう」と勧めています。

 聖ホセマリアも同じことを言っています。「主のおすまいとしての教会の屋根や塔が遠くに見えたとき、・・・主はそこで待っておられる」。「聖体訪問をやめてはならない。いつもの祈りのあとで、聖櫃にいますキリストに、日々の心配ごとを打ち明けよ。そうすれば、信仰生活を続けるための光と励ましを受けるであろう」。

 聖体の祝日に子どもが初聖体をする教会が多いです。初聖体は特別に嬉しいものです。様々な国での初聖体の模様を!

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フィリピンとヴェトナム

10_baltimoreアメリカ

35_iraq_イラク

37_indiaインド

40_peru_limaペルー

Photo日本(潜竜聖母幼稚園)可愛い!lovely

おまけ:初聖体お祝いケーキ

26初聖体は大きな喜びheart

2017年6月15日 (木)

8つの誤り

 チャールズ・ポープ司教様の書かれた現代の8つの誤りは勿論教会内の誤りについてです。

 今は「神の慈悲はすべての人にある」と言われていますが、本当は「悔い改めた人には誰にでも神の慈悲がある」。愛と優しさについても、優しさだけが愛なのではなくて優しさは愛の一部。だから何でも肯定するのではなく時には叱責、罰も愛である。また寛容や普遍主義の誤解、人類中心主義などについて書かれていて、どれも「その通り!」と、頷いてしまいます。

 新しいイエズス会の総長様は「悪魔はいない」と話されたとか・・・。これは9つ目の誤り?coldsweats01

 アメリカでは同性愛者カップルにご聖体を授ける司教もおられるとかsad

 教会のために聖霊の恵みをもっともっと祈らなければと・・・。また教皇様や高位聖職者の方々のためにも祈りましょう。私たちを教え導く方たちですから。

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2017年6月14日 (水)

何でも差別・・・ではないでしょう

 郡山司教様のブログにおもしろいことが書いてありました。カトリック婦人連合を女性連盟と改名した理由についてです。

 改名した人たちの理由に司教様も失笑したとか。読んでみて私もちょっとあきれました。キリストの教えを知っているカトリックの人がこんなことを言うとは。世のフェミニストと同じ。

 婦人の「婦」は女+箒(ほうき)、箒を手にして掃除をする人という差別的イメージを与えるのでふさわしくないというもの。しかし司教様が調べたところ本来の意味は「箒は掃除のためではなく、酒を含ませて廟(祭儀を行うところ)を清めるためのもの」で、婦とはその役を担っている女性のことだそうで、「婦人」は差別どころか女性の地位と役割を明確に表すものとか。

 私はそもそもカトリックの人が女性が箒をもって掃除するすることを差別的なこととしてとらえていること自体理解できません。箒で掃除することは立派な仕事です。会社や学校、病院等で働く女性の仕事だけに価値があるのでしょうか?フェミニストたちは何でも「差別差別」と声高に言います。それは彼女たち自身が一番女性を貶めていることに気付いていないのでしょうか。

 カトリックの中に「女性の司祭がいないのは女性差別」と騒ぐシスターや女性信徒がいます。女性の司祭がいないのは差別ではありません。理由は別です。そもそもカトリックの中に女性差別はありません。キリストは差別そのものを否定しています。それどころ女性の地位を高めました。神の母となった聖母マリア、キリストが復活後に初めて姿を現したのはマグダラのマリア。サマリアの女性とキリスト等々。

 話がずれてしまいました。要するに「婦人」でいいのです。婦人会が箒をもって掃除をしてお茶の準備や片付けをしても差別ではないのです。何でも差別と言うのはやめましょう。

Photoキリストとサマリアの女性

2017年6月13日 (火)

パドヴァの聖アントニオ司祭教会博士 記念日

 

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 パドヴァの聖アントニオはとても有名で、しかも人気のある聖人なので、そのご絵や聖像も沢山あります。聖アントニオの遺骨まで写真になっているのにはちょっとびっくり。

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 幼きイエズスを抱いているご像の多い聖アントニオは1195年ポルトガルのリスボンで生まれ、司祭になりたくてアウグスチノ会に入りました。その後モロッコで殉教したフランシスコ会員に憧れてフランシスコ会に移り、念願のモロッコへ派遣されました。しかしそこで病気になりポルトガルに帰ることに。ところが彼が乗った船は強風に流されてイタリアへ。

 フランシスコ会とドミニコ会の集会の時にフランシスコ会の上長から突然説教をするように命じられます。そしてその説教こそが神から彼に与えられたタラントでした。彼の素晴らしい説教は多くの人の心に響きました。彼の説教を聴くために、どの町でも大勢の人が集まりました。パドヴァでは大聖堂に人が入りきれなくて町一番の広場に移ってもまだ足りなかったそうです。

 彼の説教によって回心した人は数知れず、また贅沢な暮らしをしていた大司教の前でも説教し、大司教は恥じて生活を改めました。 

 初めはモロッコで殉教したフランシスコ会員に憧れてフランシスコ会に移り、モロッコへ行きましたが、そこは主のみ旨の場所ではありませんでした。主は彼をイタリアのパドヴァへと導きました。

 聖アントニオの一生は典礼聖歌52番の祈りのようです。

note 神の計らいは限りなく 生涯わたしはその中に生きるnote

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2017年6月11日 (日)

三位一体(祭)

 

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 聖霊降臨に続いて三位一体の祭日。聖霊は御父と御子と切り離しては考えられないので、聖霊降臨のときにも三位一体については少しだけふれました。

 カトリックの教えは不変です。しかしその教え方には色々あります。現代はどのような教え方をしているのかわかりませんが、昭和三十年代から四十年代の頃、私が子どもの頃はアブリ神父様の書かれた『カトリック教理』テキストに載っているように説明されていたと思います。

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三位一体というのは、神には父と子と聖霊の三つのペルソナがあるが、それらのペルソナはまたそれぞれ唯一の神である。

世の初めに、神のほかには何も生きていなかった。神は生命そのものであるから、いつも生きておられたし、いつまでもいきられる。神は唯一であるが、ペルソナは三つある。この神の三つのペルソナは、父、子、聖霊である。この各ペルソナは、それぞれ全知、全善、至聖、全能である。すべてにおいて、三つのペルソナはそれぞれみなひとしい。この三つの神のペルソナは、また、一つの、同じ神である。この三つのペルソナのある唯一の神を、至聖なる三位一体という。・・・唯一の神性のうちに三つのペルソナがあるということは、キリスト教信仰の最大の真理である。・・・父なる神は私たちを造られ、子なる神は私たちをあがない、そして聖霊は私たちに、神の生命をあたえられる。

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 難しい言葉もありますが、当然神父様やシスターが理解を助けるためにわかりやすい説明で補ってくださいました。

 「三位一体」は聖霊の恵みによって信じることができます。聖霊の恵みを祈りましょう。