2017年11月18日 (土)

黄金千貫

 唐芋(さつま芋)はブームの品種ばかりが店頭に並んでいます。指宿の道の駅では「安納芋」ばかり。JAやCOOPでも安納芋が半分以上を占めて、残りは「紅はるか」や「紅あずま」、「シルクスイート」など。

 昔は唐芋といえば黄金千貫でした。そう、焼酎の原料です。品種改良が進みさつま芋の甘さはどんどん増すばかり。今では黄金千貫は人気は無く、ほとんどが焼酎の原料として作られるだけとなりました。

 ところが偶然に「黄金千貫」を道の駅で見つけました。2袋しかなかったので2つとも買ってしまいました。お芋は大好きなのでどの品種でも食べますが、甘~い安納芋よりは甘くはないけれど香りが良い黄金千貫が好みです。お芋の天ぷらには黄金千貫が一番!

Dscn2190黄金千貫と銀杏

2017年11月14日 (火)

ミサは退屈?

CNNの記事からフランシスコ教皇様の話しとして、

・・・聖職者に対し「ミサでは心を高めるべきで撮影のために携帯電話を掲げないことを信者に教示すべきだ」と強調した。

また、信者だけでなく司教らも同じことをしているとして、「ミサはショーではない」といさめた。

「ミサは退屈」との不平については「神がそこにいる。神は退屈なのか?」と反論。さらに、一部の子どもの十字架を切って祈る方法がだらしないとし、適切な礼拝の方法を教えるべきだと主張した。

 ついに教皇様も我慢できなかったのでしょう。教皇様の気持ちよ~くわかります。私も以前「ミサは退屈だからミサを楽しくするにはどうしたらよいか?」などと本気で尋ねた人(聖職者)がいたのを知っています。「ミサが退屈だから教会を離れる人が増えた」とまで言っていたようです。でも以前のラテン語での長~いミサの時には教会を離れる人は今よりずっと少なかったと思います。つまり昔はミサの意味を皆はよく教えてもらい理解していたけれど、今は教えてもらっていないということかもしれません。

 教皇様が話されたのは11月8日水曜日の一般謁見の時です。その時のyou tubeを載せます。↓


YouTube: 2017.11.08 - General Audience

2017年11月13日 (月)

気になる祝福

 いつの頃からでしょうか、ごミサの聖体拝領の時に祝福が始まったのは・・・。ヴァチカンのごミサでは今も昔も無いので日本やアメリカなど数か国の特有なことかもしれません。

 私は聖体拝領の時の祝福は必要ないと思います。その理由はごミサの最後にみんな(信者もそうでない人もすべて)祝福をいただいているから。司祭はごミサの最後に「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」と言い、私たちは「アーメン」とこたえてます。

 理由があってご聖体をいただかない人に、しつこく祝福を受けに行くように勧めている方がおられます。よい心で勧めているのでしょうが本人が拒否しているのに何度も勧められればかえって目立ってしまい本人にとっては良い気持ちはしないでしょう。未信者の方が遠慮されている場合と違い、聖体拝領の意味をよくわかっている信者さんが聖体拝領をしないのには理由があるからで、そのことを考慮してそっとしておいてあげるのが良いのではないでしょうか。とにかくごミサの最後には祝福があるのですから。

2

ごミサの最後に皆を祝福される教皇様

2017年11月11日 (土)

良く思われたい

「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」(ルカ16:15

 

 今日の福音でキリストがファリサイ派の人達に言った箇所です。ドキッとしますね。私たちも他人に良く思われたいから良いことをする。つい自慢してしまう・・・。誰にでもある心の驕りです。悪いことではなく良いことをしたのに主は喜ばれない。私たちが陥りやすい過ちです。気をつけなければ・・・catface 

1

写真は「.r」より 本文とは関係もありません。

2017年11月 9日 (木)

ラテラン教会の献堂(祝)

 

LateranoSan Giovanni in Laterana


 今日はラテラン教会の献堂の祝日です。ラテラン教会と言ってもピンとこない方もおられるでしょう。

 ラテラン教会とはローマ司教座教会です。教皇様はローマ司教座の司教でもあります。ですからラテラン教会は「すべての教会の母」と呼ばれているのです。

 また今までに21回開かれた公会議の中で第9回から第12回までの4回の公会議はラテラン公会議としてここで開催されました。一番新しい第二ヴァチカン公会議しか知らずに、それだけが正しくてそれ以前の公会議は古くてもう無効だと思っている方がいるようですがとんでもない誤りです。すべての公会議は正しく有効です(東方教会は多くても第7回公会議までしか認めていませんが)。

 キリストは使徒たちの中からペトロを特別に選びました。そしてペトロはローマでキリストの代理者・首位権者として教座を定めました。ですからローマは使徒座と呼ばれます。ローマ教皇様は使徒たちの頭である聖ペトロの後継者です。つまり教皇様には教会全体を司牧・統治する全権があたえられているのです。

 ラテラン教会献堂を祝日とする重要性がわかっていただけたと思います。

Laterano2

2017年11月 4日 (土)

子育て

[オプスデイ:『生きるための教育』~子育て~]より抜粋

子育てという仕事は、結局のところ、子供たちが善いことを「したいと思う」ように育てるということです。

・・・ 子供たちがあらゆるものを身に着け、彼らのわがままに屈して望みを叶えることなど全く必要のないことです。反対に、手放すこと、待つことを学ばせるべきです。事実、人生には、待つことのできるものが数多くあり、また必然的に待つべきことが多いものではありませんか。聖ホセマリアは、このことをまたとない明確さで、こう語っています。「お金に寛大すぎてはなりません(…)。子供たちに、つつましい生き方、少しスパルタ式の生き方を学ばせることです。つまり、キリスト者としての生き方ができるようにすることです。難しいことですが、勇気を出さなければなりません。つつましく生きるよう躾けることの大切さを納得しなさい。さもないと、元も子もなくしてしまいます」。・・・

・・・・・・・・・・・・・

 ・・・希望は両親にとって極めて必要な徳です。子供の教育は大きな喜びであると同時に、決して小さいとは言えない悩みや心配が伴います。いずれにせよ、失敗したという思いをいつまでも引きずってはなりません。逆にいつも楽観的に、信仰と希望を持ってやり直すことができるのです。努力が実らないことはありません。たとえ、なかなか目標に達しないとか、結果が表れないとか思えても、必ず実りはあるものです。父親母親であることに終わりはありません。子供には、大きくなり独立した後でも両親の祈りと愛情がいつも必要です。聖マリアはカルワリオでイエスを一人きりにはなさらなかったのです。最後まで献身し犠牲を捧げられた聖母の模範は、神が両親に託されたこの素晴らしい務めに光を照らします。生きるための教育、それは愛の仕事です。(Opus Dei H.P. 2017.9.15)

    *    *    *    *    *    *

Bologna_2幼子のように信頼してすべてをゆだねる(Osservatore Romano[Bologna])


 「幼子のようにならなければ・・・」というイエズス様のことばを文字通り受け取って、幼い子が自分の我を通そうとしてわがままを言ったり、自由勝手気ままに行動していることを良いことのように見ている放任主義の大人達がいますが、それは間違いでしょう。「幼子のように」という意味をはきちがえていると思います。親を信頼しきっている子どもと同じように私たちも父である神を信頼しきって、親を心から信頼する子どものような飾らない素直な心でおごり高ぶることのないように、それがイエズス様の言っている「幼子のように」という意味だと思います。

2017年11月 2日 (木)

死者の日

「わたしの父のみ旨とは、子を見て信じる人々にみな永遠の命を受けさせ、終わりの日に彼らを復活させることである 」。 (ヨハネ6:40)

 昨日の「諸聖人の祭日」に続いて今日は「死者の日」です。「諸聖人の日」が「死者の日」と違い祭日なのは、聖人たちはすでに皆天国にいるからですね。ですから「死者の日」の今日は霊魂の救いを必要としている亡くなった人達のために祈らなければなりません。

 亡くなった私や夫の家族また先祖の人達はもちろんのこと、今煉獄にいるすべての人のために祈ります。

Mg8cvezl

2017年11月 1日 (水)

優しいにゃん!

B_xvi_with_cats

前教皇ベネディクト16世~好いですね!

2017年10月31日 (火)

カトリックの国

 カトリックの国ポーランド。今も伝統を大切にして信仰を守り続けている国。聖マキシミリアノ・マリア・コルベや聖ヨハネパウロ二世教皇を育てた国です。

 現ポーランド首相の息子さん(Tymoteusz Szydlo)も司祭に叙階されました。

6_synszydlokstymoteuszodprawilmsz_2

20_2

22_2

21

初ミサ~荘厳で美しいです heart

2017年10月30日 (月)

にゃんこ

 花子が最初に産んだ子猫たちは一ヶ月後に次々といなくなりました。次に生んだ子猫たちは今のところ5匹ともいます。

 毎朝餌をあげに行く時は「5匹ともいるかな?」とドキドキです。

Dscn2076花子(母ねこ)貫之・紫・忠見・俊成・業平 cat 名付け親は娘です。

Img_20171009_11274620171027

業平

Dscn2051俊成

2017年10月26日 (木)

銀杏

 今年も銀杏の季節到来。道の駅では銀杏が並んでいます。私も早速買っていただきました。

 銀杏はペンチで割れ目を入れ、封筒に20粒ほど入れて封筒の口を数回折り曲げて電子レンジへ。500Wで2分位チンすると、ほくほくの銀杏が出来上がります。粗熱が取れてからだと薄皮もきれいにむけます。塩を振ってそのまま食べたり、茶わん蒸しに入れたり、銀杏ご飯にしたりと用途も様々。皆さんも是非秋の味覚を味わってください。

Dscn2145

2017年10月24日 (火)

十字架

 キリストの身体のないただの十字架。これはキリストの十字架ではありません。磔刑の道具でしかありません。

 キリストの身体のない十字架が祭壇に掲げられるようになった時、これをすすめた人の理由の一つとして「キリストが血を流し苦しんでいる姿のある十字架は残酷で、それを見る人は不快に感じる」というものでした。

 なんとも信じられないようなあきれた理由でした。十字架はただのシンボルとなり、キリストが十字架に磔にされた本当の意味をあらわさなくなりました。

38

2017年10月23日 (月)

なぜカトリックか

 

30
 キリストを信じる人はどれくらいいるのでしょう。カトリック、正教、プロテスタント、そしてどこにも属さない人。

 私がカトリックであり続けるのは、カトリックには秘跡があるからです。「洗礼」「堅信」「聖体」「ゆるし」「病者の塗油」「叙階」「結婚」この七つの秘跡ほど素晴らしいもの、希望を与えるものはありません。罪びとである私たちはキリストから何度でもその罪をゆるしてもらえます。ご聖体はキリストの特別なかたちでの現存です。それを直接いただける恵み。これらのことをよく知ればカトリックを離れるなんてありえません。

 よく「信仰に知識はいらない」といって、カテキズム(信仰教育)が軽視された時期がありました。しかしその結果が洗礼を受けた後に教会を離れてしまう人や離婚する人たちを増やしました。それは秘跡の本当の素晴らしさや罪とは結婚とはどういうものかをきちんと教えてもらっていなかったからでしょう。

 私は洗礼を受けて60年以上になりますが、いまだに日々学び教えられることばかりです。信仰の神秘は尽きることがありません。時には疑問を持ったり、絶望しかかったりすることもありましたが、それでも・・・カトリックであり続けます。きっと多くのカトリック信者さん方も私と同じだと思います。

Gesu_solo_cuore_4

もしカトリックがなくなったら・・・私は正教に移るでしょう。

2017年10月15日 (日)

アビラの聖テレジア(大テレジア)

 今日は大テレジアの祝日。なのにごミサの説教でも触れられることなく、なんだか寂しいですね。アビラの聖テレジア大好きですheart

7

(秋休み中ですが時々短くアップしてます)

2017年10月13日 (金)

General Audience ~ 日本からの巡礼団

 郡山司教様のブログを見て、早速ヴァチカンからのGeneral Audienceをチェック。可愛らしい双子ちゃんがいました。教皇様から祝福をいただけて幸せですね!

20171011_2

20171011_4

20171011

20171011_7

20171011_9

20171011_5_2

2017年10月11日 (水)

映画「WAR ROOM」

War_room
 原題は「WAR ROOM」邦題は「祈りのちから」

 なまぬる~い信仰生活を送っている人にお薦めの映画です。祈ることを忘れ、キリストを忘れて生活している人に特にお薦め!!

2017年10月 4日 (水)

聖フランシスコ・アッシジ(記)

 

27
 アッシジの聖フランシスコといえば「清貧」。清貧は物を持たないことではなく、物に執着しないこと。それを手ばなす時には執着せずに喜んで手放せることです。富や財産を自分の物と執着せず、主から預かったものと思い、持たない人と分かち合う人が清貧に生きる人だと思います。聖フランシスコとその後のフランシスコ会を支えたのは貧しい人達だけではなく、多くの富かな人々の金銭と祈りがあったことを忘れてはなりません。

 教会の中でよく質素に生活している人が豊かに暮らしている人を軽蔑するような言動を耳にしますが、私は賛成できません。それはまるで神を否定する無神論者と同じ、見せかけだけの平等です。貧しい人でも豊かな人でも、富に執着しない人が天に宝をつめる人です。貧しくても豊かでもお金や富に執着する人を主は喜ばないでしょう。

 諸事情によりしばらくブログをお休みします。秋休みかな?皆さん秋を満喫してくださいね!confident

2017年10月 2日 (月)

守護の天使(記)

 もう10月、今月はロザリオの月。そして今日は守護の天使の記念日です。

 守護の天使・・・皆さんは意識していますか?私たちが悪に傾かないように守り助けてくださる天使たちを。毎晩寝る前に守護の天使に感謝しなければいけませんね。

 思えばいつも守護の天使に守られてきた私です。あの時・・・あの時・・・そう、どんな時にも必ず導き守られました。それは事故にあわず、病気にならなかったということではありません。苦しみや涙がなかったという意味でもありません。悪から守られたということです。たとえ罪を犯しても回心する道へ導いてもらいました。

 守護の天使は無病息災のお守りではありません。主が私たち一人一人それぞれに天使をつけてくださったのは私たちが正しい道を歩むためです。これもまた主のいつくしみでしょう。

Jnpnh45q

2017年9月29日 (金)

聖ミカエル・聖ガブリエル・聖ラファエル大天使(祝)

 

76
 三大天使の祝日です。殉教者の祝日とはまた違った華やかさを感じるのは私だけでしょうか。人間と違い神に近い天使たちは特別な力を持っています。

 悪魔を足で踏みつけている大天使ミカエル、日本の守護者でもあるので特に身近に感じます。

*   *   *   *   *   *   *   *   *

 ところで話は全く変わりますが、最近世界各地での教皇様のごミサを見ていると、「主の祈り」の時に両手を広げ手のひらを上に向けて祈っている人達が目につきます。また隣の人と手をつないで祈っている人が多いのはアメリカ。イタリアでも手をつないで祈る人たちが増えているとか。日本国内でもちらほら。

 私は子供の頃教会学校で「主の祈りの時には両手を胸の前で合わせてお祈りしましょう」とシスターから教わりました。両手を広げて祈るのはミサを司式している司祭だけだと思っていました。

 私は祈る時に両手を開いたり手をつないだりするのは馴染めないので遠慮します。シスターは正しいことを教えてくださったと信じています。とはいえ、最近ではシスターの中にも主の祈りの時に両手を広げて祈る人たちもいます。noteなんでだろ~ なんでだろ~ なんでなんでだろ~?notes

2017年9月25日 (月)

GEN ROSSO

 数年ぶりに家族全員が揃った夏、私の教区に又新しい司祭も誕生し、良いことが続いた二ヶ月間でした。私の弾む心にピッタリの懐かしい曲を見つけました。


YouTube: Ama e capirai CGR 022


YouTube: Gruppo GIOIA- Se un giorno (Gen Rosso)

 昔のGEN ROSSO(ジェン・ロッソ)はよかった!今はどんな曲を歌っているのか知りませんが。昔を懐かしむ・・・典型的中高年ですね。coldsweats01