2017年8月12日 (土)

可愛い侍者

 今晩のごミサはいつもの侍者の他に見かけない二人の子供がいました。神父様の紹介でSさんのお孫さんとのこと。夏休みでおばあさんの所に里帰り中、おばあさん、お母さんと一緒にごミサに来て侍者をしてくれていました。

 きっといつも自分達の教会で侍者をしているのでしょう。二人共侍者にとても慣れている様子でした。なんといっても、朗読の後に「神のみことば」と言ってくれたのには感動しました。侍者が「神のみことば」と言ったのはこの教会では初めてですね。そう、「神のみことば」ですよね。聖書は神のみことば、そして私たちは神に感謝するのです。

 とても小さなこと、ある人たちのとってはどうでもよいことですが私にとっては大きな喜びでした。子どもたちに(人''▽`)ありがとう☆

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『バロックの巨匠たち』

 

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 娘がこの展覧会を見に行ってとても良かったと教えてくれました。鹿児島市立美術館で9月3日まで開催されているとのこと。これは絶対に見に行かなければ!

 図録を見せてもらいましたが、私の好きなティツィアーノをはじめムリーリョ、ルーベンスやブリューゲルにヴァン・ダイク、プッサン等々。しかも聖書を題材としている作品の数々。すぐにでも行きたいのですがお盆休みは人が多いのでぐっと我慢して平日に出かけることにします。

 こういう展覧会を待っていました。展覧会は一人で行くのが一番です。マイペースでゆっくりと鑑賞できるので。良い夏休みだな~ happy01

2017年8月11日 (金)

St.Chiara d'Assisi

 休日の今日はアッシジの聖キアラの記念日です。

 アッシジに行くと、聖フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco d’Assisi)聖キアラ聖堂(Basilica di Santa Chiara)と共に必ず行く場所がサン・ダミアーノ修道院(San Damiano)です。聖キアラが16歳から亡くなるまで過ごした修道院(多分)。

 貴族の家庭に生まれた聖キアラは聖フランチェスコの説教に心を動かされて、彼の指導のもと修道生活に入り、妹のアグネスと共にフランチェスコ会の女子修道会キアラ会(クララ会)を創立しました。後に彼女たちの母オルトナーラもこの修道会に入ることになります。聖キアラは修道院から一歩も出ることなく、清貧・貞潔・従順を守り、祈りと労働の日々を過ごし1253年8月11日59歳で亡くなりました。

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写真上から:サン・ダミアーノ. 聖キアラの服. 聖キアラ

2017年8月 7日 (月)

『聖書散歩』を読む 

 今日はビアンネ小平卓保神父様の命日です。久しぶりに神父様の書かれた本『聖書散歩』を、また読んでみました。読むたびに神父様から教えられているようで、主任司祭の時にもっとお話を聴いていればよかったと後悔しています。

 聖書学者と名乗られる方はたくさんおられますが、小平神父様は名実ともに『聖書学者』でした。英語、ラテン語はもちろんフランス語も堪能で、イスラエルでも学ばれ(ヘブライ語)旧約聖書の世界ユダヤ教にも詳しい方でした。

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 この本は以前にも紹介しましたが『散歩』と題されている通り、内容は読みやすいエッセイです。そのテーマはお酒に始まり恥、希望、孤独、旅、自由、主の祈り、償い、購い等々私たちの生活に身近なことを聖書からわかりやすく書いてあります。

 今日はその中から遠藤周作の『沈黙』についての箇所を紹介します。

神を作る

……『沈黙』のクライマックス、ロドリゴが踏絵を踏む場面は次のようになっています。「司祭は足をあげた。足に鈍い重みを感じた。それは形だけのことではなかった。……この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭に向かって言った。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。……こうして司祭が踏絵に足をかけた時……」(219ページ、新潮文庫)

 よく注意して読みましょう。「踏むがいい」という声が聞こえる前に、ロドリゴは足をあげているのです。言い換えれば、ロドリゴは、すでに自分で神をつくっているといえるでしょう。実際には、こんな都合のいい声が聞こえてくるはずがありません。彼は実に寛大な神をつくり出したことになります。この危険は、私たちにもあります。大審問官ほどでなくても、教会は聖書の神に忠実に従っているでしょうか。自分の尺度で神をつくっていないでしょうか。聖書研究会などに行っても、聖書に線でも引いて、それを行動の原理にしているカトリック信者はほとんど見かけません。自分で思いこんだり、つくったりした神に仕えている場合が多いのではないでしょうか。私たちの信仰は、人間の思惟ではなく、聖書の啓示に基づいているはずです。(『聖書散歩』158p.~159p.)

 最近「沈黙」の映画がリメイクされ、その感想を多くの司祭は曖昧に答えています。しかし小平神父様は原作についてカトリックの教えに基づきはっきりと書いています。だからと言って彼は厳しく気難しい人ではなく、逆にいつも優しくいつくしみ深い方でした。

 同性婚、離婚、再婚、精子バンク等々混沌とした現代では一部の司祭、信徒は自分に都合のよい神をつくろうとしているように思えます。今こそキリストの教えと聖書に基づき、信徒をしっかりと導く小平神父様のような司祭が必要ではないでしょうか。

2017年8月 6日 (日)

主の変容(祝)

 台風5号は奄美や屋久島に大雨をもたらしているようです。毎年訪れる台風ですが、大きさもコースも速度も様々なのでこればかりは慣れることはありません。皆様の所では大きな被害はなかったでしょうか?復旧作業の安全をお祈りいたします。

 さて今日は主の変容の祝日です。その様子が今日の福音個所です。

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 六日後、イエズスはペトロとヤコボとその兄弟ヨハネを連れて、人里離れた高い山に登られた。そして、彼らの前で姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。そのとき、モーゼとエリヤが現れ、イエズスと語り合った。ペトロが口をはさみ、「主よ、私たちがここにいるのはよいことです。お望みなら、私はここに三つの幕屋をつくります。一つはあなたのために、一つはモーゼのために、一つはエリヤのために」とイエズスに言った。ペトロがなお話し続けていると、光る雲が現れ、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け」と声があった。弟子たちはこれを聞いて、恐れて倒れ伏した。するとイエズスは彼らに近づいて彼らに触れ、「起きよ、恐れることはない」と言われた。彼らが目を上げてみると、イエズスのほかにはだれも見あたらなかった。山を下りるときイエズスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるまで、見たことをだれにも言うな」と命令された。(マテオ 17・1~9)

 イエズスの変容の時に旧約の)モーゼとエリヤが現れます。勿論モーゼ=律法、エリヤ=預言のことで、二人の律法と預言をイエズスが成就することがわかります。そしてもう一つ大切なことは「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け」という言葉です。この言葉通りにいつもキリストに聞き従いましょう。

2017年8月 4日 (金)

聖ヨハネ・マリア・ビアンネ司祭(記)

 

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 Kカトリック教会のごミサへたまに行きます。どうしてK教会に惹かれるのか、その大きな理由の一つは主任S神父様が普通の説教をなさるから。ジョークを入れたり歌ったりして会衆を楽しませることに重点を置くのではなく、説教の内容はその日のみことば(朗読個所)に沿ったお話。それも聖書の新しい解釈(昔の異端説)ではなく、正統な教えだからです。

 説教の長さや、言葉の問題、話し上手下手は関係ありません。長くても短くても、たどたどしい日本語でも早口でも、原稿を読んでも良いのです。大切なのは話す内容です。私は面白い説教や楽しいミサ、ノリの良いミサは苦手です。ミサ典礼はそれなりの荘厳さも必要です。

 惹かれるもう一つの理由は、ミサの奉献文が文語体であること。文語体の奉献文・・・良いですよgood 

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 今日は聖ビアンネの記念日。聖ビアンネ神父様は司祭の保護者です。神父様の説教はどんなものだったのでしょう。彼の伝記を読めば、少しはわかりますが、おそらくいつも信者の回心のためにキリストの教えを熱心に真面目に話されていたと思います。

 聖ビアンネは貧しい人たちを助けながら自分は私たちが想像する以上に質素な生活をしていました。しかしミサ典礼の祭服や聖具にはお金をおしみませんでした。それは自分のためではなくキリストへの畏敬の念の現れ、彼のミサに対する思いが伝わります。

 聖ビアンネは特別に何かしたのではなく、例えば修道会をつくったり、聖母やキリストのご出現にあって使命を託されたり、殉教したりしたわけではありません。ただ司祭の務め、ごミサや説教、告解を誠実に行っただけでした。しかし彼の名声はフランスの田舎町アルスだけにとどまらず遠く外国まで及びました。

 聖ビアンネ神父様からゆるしの秘跡を受けたいと願う大勢の人が彼のもとに来ました。人々は自分の犯した罪を告白して、キリストのゆるしとなぐさめ、そして希望を聖ビアンネ神父様を通して受けました。彼の罪の告白を聴く態度と告白に対する助言は人々の心に染み透ったのでしょう。だから人達はわずか数分の告解のためにも遠路はるばる苦労して彼のもとへ来たのだと思います。

 教皇ベネディクト16世は「司祭年」の年(2009年8月5日)に司祭の保護者聖ビアンネについて、「ビアンネ神父は司祭職という自分の受け取った賜物を常に最高のものと考え、子どもの頃、母に『もし自分が司祭だったら、多くの魂を捉えたい』と言った、その言葉どおりの人となり、南フランスの小さな村の無名の主任司祭は、善き羊飼いの姿を目に見える形で全世界に示す存在となった」「ビアンネ神父は生きた公教要理であり、特に彼がミサを捧げる時、聖体礼拝をする時、告解室にいる時、信徒はそれを最大限に学ぶことができた。」「ビアンネ神父が生きた革命後のフランスを覆った一種の『理性の独裁』の時代、また今日私たちが置かれた『相対主義の独裁』の時代、いずれの時代も人々の『真理への渇き」は変わらず、司祭たちはこの渇きに答えるため、『信仰の教育者』として『真のキリスト教共同体』を育て、すべての人々にキリストへ続く道を開く必要がある」と説かれました。

2017年8月 1日 (火)

毒麦のたとえ

 今日の福音朗読は先月23日(年間大16主日)と同じ箇所です。

さて、人々を去らせてイエズスが家には入られると、弟子たちが寄ってきて、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。「よい種をまくのは人の子である。畑は世界である。よい種は国の子らで、毒麦は悪者の子らである。それをまいた敵とは悪魔である。収穫は世の終わりで、刈る人は天使である。毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそうなる。人の子が天使たちを送ると、天使たちはその国の中から、すべてのつまずきと悪を行う人々を集め、燃えさかるかまどに投げ入れる。そこには嘆きと歯ぎしりがあろう。そのとき義人たちは父の国で太陽のように輝く。耳ある者はきけ」とこたえられた。(マテオ:13.36~43

 このたとえ話で「私たちの心の中には毒麦も良い麦もある」と、説明されたことがありますが、それはこのたとえ話の説明とは明らかに違います。確かに私たちはみな罪人ですが、ここで言っている毒麦はそういう意味ではありません。キリストははっきりと言っています。「よい種は(み)国の子らで、毒麦は悪者の子らである。・・・収穫は世の終わりで…毒麦が集められて火に焼かれるように、この世の終わりもそうなる」と。

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 この話のポイントはキリストに倣って善く生きようとする義人(よい麦)とそうでない人(毒麦)にはこの世の終わりに主の正しい裁きがあるということです。こう言うとすぐに「いつくしみ深い神はご自分が創られた人間を地獄に落とすわけがない。神はすべての人を愛し救われる」という人が必ずいます。その人は自分にとって都合のよい神を作っています。聖書に書かれていることを歪曲してはいけないでしょう。

 こう言うと、「あなたはとても厳しい!」と言われますが、万人受けすることを言ったら間接的にキリストを否定することになります。キリストが言っていないことをさも言ったように話すことはできません。聖ステファノはなぜ石を投げられ殉教したのでしょうか。民衆が喜ぶことを話せばよかったのでは?しかしそうすればただのステファノ、聖書に記されることもなかったでしょう。

2017年7月31日 (月)

泳ぐネコ科

 

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ニャン吉(Cat Press より)


 こう暑いとネコも海で泳ぎたくなりますよね???泳ぐネコといったら鹿児島のニャン吉君でしょう。先の曲がったカギ尻尾は我が家のトラ次郎とそっくりですが、トラ次郎は泳げないし、モデルをして稼げません。catface

 ネコ科は水が嫌いと思っていましたが、どうも違うようです。ニャン吉君は小さい頃から飼い主さんと一緒にお風呂に入っていたので、水は怖くないようです。それに引き換えトラ次郎は一度もお風呂に入ったことはありません(可哀そうとは思いませんが)。

 パリのペサック動物園のジャガーの檻の中にはプールがあります。小さい頃から水に慣れているのか、ここのジャガーCatalinaとMatoは見事に泳ぎます。たしかジャガーもネコ科ですよね。

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フランス・ペサック動物園(AFP BBNEWS より)

 常識外れのついでに「.r」のブログから可愛い写真を。

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 ⇧ にゃんことわんこ

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 ⇧ にゃんことひな鳥たち

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 ⇧ 子ざるとちびライオン(写真3枚:「ブログ  .r 」より)

 仲良く平和が一番!

2017年7月28日 (金)

みことばを聞く

 以前にも載せました。『ことなの木』で説明されていた「みことばを聞く」。これは大切なことですね。

 私の教会のごミサの中で「ことばの典礼」の朗読の時に、パンフレットを閉じてみことばを聞いている人は1%いるかいないか。一斉にページをめくる音がガサガサ・・・。これについては酒井神父様も「みことばは聞くように」とおっしゃっています(ちなみに私はよく目を閉じて説教を聞いていますが、居眠りしていると思っている人がいるようですshock)。

 カトリック荻窪教会学校のスヌ校長も子どもたちに教えています。⇩

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 そして朗読の後は侍者(いない時には朗読者)は「神の(主の)みことば」と言います。会衆は「神に感謝」とこたえます。カテドラル、K教会、T教会、M教会ほとんどの教会はそうしています。当然教皇様のごミサでも同じです。A教会では侍者が「神に感謝」会衆も同じく「神に感謝」?shock (侍者が「神に感謝」と言った場合には会衆は何もこたえない)

 色々と書きましたが結局他の人がどのようにしようと私には関係のないことだとわかりました。今まで何度書いても全く変わらないのであればこれが主のみ心。受け入れるしかありません。わたし自身がみことばをよく聞いて、自分が朗読した後に侍者がいなければ「神のみことば」と言えばよいことです。他人を変えようと思うのが間違いでした。note Que sera,sera Whatever will be,will be notes

2017年7月27日 (木)

十九の折り鶴~ラルシュ共同体

 菊地司教様のブログに載っていたラルシュ共同体が作成したビデオです。ラルシュ共同体(L'Arche International)とは知的障がいを持つ人と持たない人が共に生活しているコミュニティで、日本では静岡にあるそうです。私はこのビデオで知りました。


YouTube: 十九の折り鶴

 昨日は相模原殺傷事件から一年、ラジオでもこの事件のことを振り返り伝えていました。このビデオを見て皆さんは何を感じ、どんなことを考えましたか。

2017年7月25日 (火)

聖ヤコブ使徒(祝)

 聖ヤコブ使徒の祝日です。ゼベダイの子聖ヤコブは使徒ヨハネの兄弟です。キリストのいとこでアルファイのヤコブ(小ヤコブ)と区別するために「大ヤコブ」と呼ばれています。

 聖ヤコブは44年頃に殉教したといわれています。彼の遺体は9世紀頃にスペインで発見されました。当時キリスト教徒はイベリア半島に侵略してきたイスラム教徒とたたかっていたので、彼の遺体は特に崇拝されて、遺体が発見された場所には大聖堂が建てられました。そして彼はスペインの守護聖人となり大聖堂は有名な巡礼地となりました。スペイン語でサンティアゴ(Santiago)とは聖ヤコブのことです。

Photo聖ヤコブ使徒 ルーベンス

 聖ヤコブといえばサンティアゴ・デル・コンポステーラでしょう。三大巡礼地の一つで、シンボルのホタテ貝を巡礼者は着けて歩いています。

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巡礼路

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シンボルのホタテ貝  フランス語でホタテ貝のことを「ヤコブの貝」(coquilles Saint-Jacques)というそうです。

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そして定番の「ヤコブのケーキ」(以前アップした写真と同じです)

 私の友人の息子さんも歩いてサンティアゴ・デル・コンポステーラ巡礼をしました。彼はカトリック信者なのできっと祈りながら歩き、主の沢山のお恵みに気づかされたことと思います。若い時に巡礼できる人はいいですね。

2017年7月22日 (土)

St.Maria Magdalena

 聖マリア・マグダレナの 記念日は祝日になりました。おそらく信者で彼女について知らない人はいないでしょう。

 マリア・マグダレナはイエズスが七つの悪霊を追い出した女性として福音書に登場します。七つもの悪霊につかれていたということは肉体精神ともに大変な苦しみだったと思います。だから彼女の重い苦しみがいやされた時の喜びは私たちには想像できないくらいだったでしょう。

 キリストに癒されて彼女の生き方は180度変わりました。キリストを知ったことで新しく生まれたのです。彼女はいつもキリストを見て、キリストに倣い、キリストがすべてであると悟りました。キリストが十字架を荷われて歩んだ道を共に歩み、聖母マリア様と共にキリストの十字架のもとに留まりました。キリストは復活後最初に彼女に姿を現されました。彼女はキリストが昇天した後も弟子たちや兄弟姉妹のために働きました。

 聖マリア・マグダレナは私たちに教えてくれます。女性は女性なりのやり方で教会に貢献できることを。

 今日は私の亡き祖母の霊名祝日でもあります。聖マリアマグダレナの霊名を持つすべての人のために祈ります。

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Mla4agd51Paolo Caliari                   Domenico Tintoretto

 ちなみにマグダラのマリアはベタニアのマリア(ラザロの姉妹)と同じ人物と紹介している人もいるようですが、二人は別人です。名前からしてマグダラ地方のマリアとベタニア地方のマリア、すでに3世紀頃二人は別人であると言われています。

 *近年また異端とされたグノーシス派のフィリポ福音書、トマス福音書、マグダラのマリア福音書(に書かれていること)をあたかもカトリックの教えのように話す人たちがいます。気をつけましょう。

2017年7月 1日 (土)

バルバロ訳聖書

 昨年の11月頃聖書について書きました。そこでは共同訳聖書よりフランシスコ会訳聖書をお薦めしました。しかしフランシスコ会訳も注釈など・・・色々気になるところがあります。共同訳よりフランシスコ会訳、フランシスコ会訳よりバルバロ訳、結論として、バルバロ訳が一番と良いということに落ち着きました。ペトロ白柳大司教のIMPRIMATURもありますから。勿論フランシスコ会訳にもあります。IMPRIMATURがあるのとないのとでは大違い。カトリック信者ならやはりこれがある聖書を使わなければね!

 聖書学者の方々や異論のある方も多いでしょうが、私はバルバロ訳を使います。

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聖書 バルバロ訳

2017年6月29日 (木)

聖ペトロと聖パウロ使徒の祭日

 6月は祭日の多い月です。今月最後の祭日が「聖ペトロと聖パウロ使徒」。聖ペトロと聖パウロについては何度も書いているので今回は省略します。

 聖ペトロで思い出すのが「Quo vadis, Domine?(主よ、どこに行かれるのですか?)」。この言葉をもとにポーランドのヘンリク・シェンキェヴィチ氏が書いた小説が『クオ ヴァディス』です。あまりにも有名で何度か映画にもなりました。

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 ローマ帝国のキリスト教徒への迫害がひどくなり、ペトロもローマの町を離れるためにアッピア街道を歩いていました。そこに向こうからローマに向かって歩いてくるキリストと出会ったのです。ペトロは跪いて「主よ、どこに行かれるのですか?」と尋ねました。キリストは「もう一度十字架にかかるためにローマへ」と。これを聞いてペトロはすぐにローマへ引き返し、そして殉教したのです。

 小説の主人公マルクスとリギアは想像上の人物ですが、皇帝ネロや聖ペトロ、聖パウロは歴史上の人物です。キリスト教徒への迫害も歴史的事実に基づいて描かれています。信徒の方でまだ見ておられない方は是非一度ご覧になってください。

2017年6月26日 (月)

サクスム

 今日はオプス・デイの創立者聖ホセマリア・エスクリバーの記念日です。今月10日には東京で駐日教皇大使チェノットゥ大司教様の司式で聖ホセマリア記念ミサがささげられました。

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 そして聖ホセマリアが亡くなられた後にオプスデイの長として働かれた福者ドン・アルバロ・デル・ポルティーリョの生涯についての本が出版されました。

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 教皇ヨハネパウロ二世と親しかったドン・アルバロはその優しい温厚なお顔からは想像もできない苦しい時代をサクスム(岩)のような強い意志で生きてこられました。ご自身が多くの苦しみを体験したからこそ、今苦しんでいる人達のことが良く理解でき、寄り添い、優しく包み込めたのでしょう。

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 本によると昔はオプス・デイに対する攻撃もひどいものだったそうです。特に聖ホセマリアや福者アルバロを悲しませたのは教区や修道会、信徒によって攻撃されたことでした。それはホセマリア神父が列聖される時にもある修道会の一部の人による根拠のない非難中傷がありました。いまだにオプス・デイ嫌いの人達は本当のオプスデイを知らず、昔の根拠のない非難中傷をうのみにしているせいかもしれません。

 教皇パウロ六世や教皇ヨハネパウロ二世は特にオプスデイに理解がありました。私がオプスデイに出会えたことは主の大きなお恵みだと思います。聖ホセマリアの『道』を読まなければ、このブログを書き始めることもなかったでしょう。この『サクスム』を読んで、より一層オプスデイを知ることができました。「食わず嫌い」という諺があります。『サクスム』はオプスデイ嫌いの方に特にお勧めします。confident

2017年6月25日 (日)

ふたたび三位一体について

 Fr.Zのブログで「三位一体」について書かれていました。わたしが聞いた水のたとえも載っていました。(私は異端を教えられていたの?catface

一部の司祭は三位一体について人々の理解を助ける熱意で、三位一体は水にたとえられる(水は蒸気、氷、液体の三つの形態で見える)とか、また他の人は三位一体は殻、黄身、白身の異なる部分からなる卵にたとえられるとか主張します。またワインボトルや太陽にたとえたり・・・これらのたとえはすべて創造的だが確かに異端的・・・アリウス主義の支持者がいます。そこには他の異端もあります。[Fr.Zのブログより]

 つまり私が教わった水のたとえは異端的だったのでしょう。Fr.Zは三位一体を正しく理解するためにアタナシウス信条(Athanasian Creed)の三位一体に関するところを薦めています。

[アタナシウス信条]の一部 (「みこころネット」より)

 ・・・・・・・

 カトリック信仰は次の通りである。われわれは三位における唯一の神、一における三位の神を信じ、[三つの]ペルソナを混同したり、その実体を区分したりしない。

 なぜなら、聖父の一なるペルソナ、聖子の別のペルソナ、聖霊の別のペルソナがあるからである。しかし、聖父と聖子と聖霊たる神は一であり、栄光は等しく、威厳は永遠に共存するからである。

 聖父と聖子と聖霊はそのようなものである。聖父は創造されたのではなく、聖子は創造されたのではなく、聖霊は創造されたのではない。聖父は無限であり、聖子は無限であり、聖霊は無限である。聖父は永遠であり、聖子は永遠であり、聖霊は永遠である。しかし、三つの永遠ではなく、一つの永遠であり、また三つの無限や三つの創造されざるものではなくて、一つの無限、一つの創造されざるものである。同様に、聖父は全能であり、聖子は全能であり、聖霊は全能である。しかし、三つの全能ではなくて、一つの全能である。

 そのように聖父は神であり、聖子は神であり、聖霊は神である。しかし、三つの神々ではなく、一なる神である。そのように、聖父は主であり、聖子は主であり、聖霊は主である。しかし、三つの主ではなく、一なる主である。われわれはキリスト教的真理によって どのペルソナも御自身で神であり主であると認めるように強いられるのと同じように、カトリック宗教によって三つの神、三つの主があると言うことを禁止されている。

 聖父は何かから作られたのではなく、また創造されたのではなく、生まれたのではない。聖子は聖父のみからの御方であり、作られたのではなく、創造されたのでもないが、[聖父から]生まれたのである。聖霊は聖父と聖子からの御方であり、作られたのではなく、創造されたのではなく、生まれたのでもなくて、[聖父から]発出なさるのである。それゆえ、一なる聖父がましますのであって、三つの聖父があるのではなく、一なる聖子がましますのであって、三つの聖子があるのではなく、[一なる]聖霊がましますのであって、三つの聖霊があるのではない。そしてこの三位一体のうちには前と後、より大きいとより小さいというものは何もなく、三つのペルソナ全体は共に永遠に共存なさり、共に等しい御方である。

 それゆえに、前に言ったように、すべてのことがらにおいて、一体における三位、三位における一体が礼拝されるべきである。それゆえに、救いの状態にいることを望む者は三位一体についてこのように考えるべきである。

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2017年6月24日 (土)

洗礼者聖ヨハネの祭日

Photo 聖エリザベトを訪問した聖母マリア、二人のお腹の中にはキリストと洗礼者ヨハネがいます。この絵を見ると洗礼者ヨハネは生まれる前すでに母の胎内で救いの訪れを受けています。

 今日の福音朗読の中で名前についての話が出てきます。割礼の時に集まった人々は父親の名を取って「ザカリア」と名付けようとしましたが、ザカリアは「ヨハネ」と書きました。主から告げられていた名前です。

 この箇所を読むと名前も大切だと気づかされます。特に洗礼名を選ぶときには祈ります。そこにはやはり主のみ旨が働いているのではないでしょうか。霊名にふさわしい生き方をしなければと反省しています。

2017年6月23日 (金)

イエズスの聖心の祭日

 「イエズスの聖心」の信心は17世紀にフランスで広まりました。聖マルガリタ・マリア・アラコクがキリストからの啓示を受けたことに始まります。

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 彼女にキリストは茨に巻かれ十字架を戴き炎に燃え立つご自分の心臓を示して「人々を愛するために多くの苦悩をしのんだ私の心。しかし彼らは冷淡で、受けた恵みを忘れ、私の心はこの世の罪で傷つけられています」と言われ、彼女にその償いを命じられました。

 その償いとは、聖心の特別な祝日を定め、毎月の最初の金曜日に聖体拝領をして、毎木曜日の晩の聖時間を守り、家庭を聖心に捧げることです。

 初金のごミサに与りたくても学生や勤めている人には難しいです。6月は「イエズスの聖心の月」です。初金のごミサに与ることができなくても、いつもイエズス様の愛を理解し、敬い、聖心を生きるように、キリストの恵みに感謝して過ごすことが償いとなるでしょう。

2017年6月22日 (木)

誤解を解く

 今日は聖トマス・モア殉教者の日。聖トマス・モアについては学校の歴史の授業で習ったので皆さんよく知っているでしょう。英国宰相の彼は国王ヘンリー8世が離婚したいためにローマカトリック(離婚を禁じている)から離れ英国教会の首長になろうとしたことに反対したために、ロンドン塔に監禁され処刑されました。彼が殉教する前に言った言葉は有名です。「私は国王の忠実な僕として、しかしその前に、まず第一に神の忠実な僕として死んでいきます」。

 カトリック=キリストの教えに忠実であろうとすると、主の教えか、人間の望みか選ばなければならない時があります。曖昧であってはいけません。

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 同性愛の傾向がある人達も同じです。私が今まで書いてきたことで誤解をしている人がいるかもしれません。

 はっきりしておきたいのはカトリックは同性愛者に不寛容ではないということです。カトリックでは同性愛の傾向があること自体は罪ではありません。同性愛的傾向があるからと言って聖体拝領ができないのではありません。聖体拝領はできます。ただし同性愛の生活をしていたら別です。つまり同性同士で性関係を持ったり、同棲していたりしたら聖体拝領はできません。このような生活は罪の状態です。これは異性間でも同じです。大罪を犯したり罪の状態にいる人は聖体拝領はできません。

 カトリック信者の中にも同性愛の人はいますし、自ら選んで善い信仰生活をしようと努力している素晴らしい人はたくさんいます。

 ここに一冊の本があります。この本の序文を書いたサラ枢機卿が司教や司祭に是非読んでもらいたいと言っています。(日本語訳を望む!)

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2017年6月21日 (水)

作業は祈り

 ご聖体訪問をするたびに一人で教会の庭の草取りをしている方を見かけます。帽子を深くかぶりマスクのようなもので顔を覆っているのでどなたかわかりません。先週声をかけたところようやくわかりました。

 彼女は「これ(草取り)は私の祈りですから」とごく自然に答えられました。すばらしい信仰ですね(だからといって「皆さん草取りをしましょう」と言う意味ではありませんよ)。自分の仕事を祈りに変えられる素晴らしさです。久しぶりに信仰の人を見ました。

 丁度今日の福音と重なりました。「他人の前でよい業を行って人に見せびらかさぬように気をつけよ。そんなことをすれば天にまします父からの報いはいっさい受けられぬ。だから施しをするときには、偽善者の人が尊敬を受けようとして会堂や町でするように、自分の前でらっぱをならすな。・・・」(マテオ6:₁~₂)

 人に良く思われたいがために善行をする人は沢山います。その人達は他人から評価されることを喜びとします。また他人から悪く思われたくないから仕方なくする人も。しかし彼女は違います。私も彼女を見習わなければと思いました。

1シスターたちにとってパンを作ることは祈り このパンはご聖体になるためだけにつくられます。(聖血修道会聖ヨゼフ修道院)