信仰
ある人が洗礼の恵みをいただけるように毎日祈っています。この洗礼の恵み=信仰は強要するもの強制できるものではありません。何かの条件にする(例えば結婚)ものでもありません。ですから本人がキリストの教えを受け入れて心から洗礼を望むように、主の恵みを祈ります。
以前小寺神父様が書かれた信仰についてのブログがあります。多くの人が一般的に「宗教は怖い」という思いはカトリック教会には全く当てはまらないことがわかるでしょう。
「トマさん祈りの部屋」より
「したいからする」信仰
気分次第や勝手気ままという意味ではありません。神は信仰を強制も強要もしないという意味です。新興宗教の二世問題が注目されています。親から信仰を強要された子どもたちを救済する方法が議論されています。子の不幸を望む親はいません。我が子を救いたいと思って子に信仰を伝えたはずです。ところが結果は正反対になりました。我が子を教団に縛り付け、自由を奪い、幸せも奪いました。本来、宗教とは人を苦しみから解放するものですが、皮肉なことに教団からの解放が叫ばれているのです。どこで間違ったのでしょうか?
信仰の大前提は自由な心です。信仰は自分で考え、自分で決め、イエスを救い主として受け入れることです。しかしカトリックの洗礼を受ける人も、同じような不安を抱えていると思います。信者になると後で望まないことを要求されたり押しつけられたりするのではないか、という不安です。神は信仰を強要しません。カトリック教会も強要しません。信仰は「自分から、したいからする」ものです。それは、愛を強制出来ないのと同じです。神は愛です。信仰は神の愛を生きることです。強制された時点で愛は死にます。「おそれ」に変わるからです。厄介なことに「おそれ」は人を動かす力があります。
信仰の大前提は自由な心です。信仰は自分で考え、自分で決め、イエスを救い主として受け入れることです。しかしカトリックの洗礼を受ける人も、同じような不安を抱えていると思います。信者になると後で望まないことを要求されたり押しつけられたりするのではないか、という不安です。神は信仰を強要しません。カトリック教会も強要しません。信仰は「自分から、したいからする」ものです。それは、愛を強制出来ないのと同じです。神は愛です。信仰は神の愛を生きることです。強制された時点で愛は死にます。「おそれ」に変わるからです。厄介なことに「おそれ」は人を動かす力があります。
「おそれ」が原動力の信仰は「したいからする」信仰と正反対です。他者から動かされる信仰と自分から動く信仰。「おそれ」から逃げる態度と「おそれ」に打ち勝つ態度、常に不安が伴う信仰と喜びと平和をもたらす信仰です。神は人間から愛されたいのです。言うことを聞かせたいのではありません。人間的な愛情や親切心や思いやりが欲しいのです。義務を果たすだけでは足りません。義務以上の愛が欲しいのです。神との関係は人間関係と同じです。相互の交わりです。「おそれ」は交わりを台無しにしてしまいます。神は裁くのではなく「ゆるす方」です。母親のような慈しみの方です。
「したいからする」信仰は、気まぐれではありません。気まぐれな人、我がままな人と友人になれません。神様も同じでしょう。友情を育むために相手を思うように、神のために心遣いする、それが「したいからする」です。洗礼は神との出会いです。その後、親しくなるか疎遠になるか、それは本人次第です。神が愛を要求するのではありません。あなた自身が自分に要求するのです。大きく応える人は大きく愛し、小さく応える人は小さく愛します。喜びと平和は愛の大きさで決まります。もちろん、神との約束を守ることも愛の証です。■
*2023/04/16 「いつくしみの主日」説教(文責:小寺神父)
「したいからする」信仰は、気まぐれではありません。気まぐれな人、我がままな人と友人になれません。神様も同じでしょう。友情を育むために相手を思うように、神のために心遣いする、それが「したいからする」です。洗礼は神との出会いです。その後、親しくなるか疎遠になるか、それは本人次第です。神が愛を要求するのではありません。あなた自身が自分に要求するのです。大きく応える人は大きく愛し、小さく応える人は小さく愛します。喜びと平和は愛の大きさで決まります。もちろん、神との約束を守ることも愛の証です。■
*2023/04/16 「いつくしみの主日」説教(文責:小寺神父)