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2017年9月16日 (土)

『嵯峨野花譜』

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 注文していた葉室麟さんの新作『嵯峨野花譜』が届いたので早速読み始めました。アマゾンでのこの本の紹介文より。

舞台は文政13年(1830年)の京都。年若くして活花の名手と評判の高い少年僧・胤舜(いんしゅん)は、ある理由から父母と別れ、大覚寺で修行に励む。
「昔を忘れる花を活けてほしい」「亡くなった弟のような花を」「闇の中で花を活けよ」……次から次へと出される難題に、胤舜は、少年のまっすぐな心で挑んでいく。
歴史、能、和歌にまつわる、あるいは生まれたままの、さまざまな花の姿を追い求め、繊細な感受性を持つ少年僧が、母を想い、父と対決していくうちに成長をとげていく、美しい物語。

 舞台が大覚寺とあったので、「いけばな嵯峨御流」と関係があるような気がして嵯峨御流のいけばなの写真集(古本ですが)を買いました。まさに小説に出てくるように、自然の花がいける人の心を表している作品ばかりです。

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 葉室さんは歴史・日本画・和歌・茶道・華道など日本の歴史文化に造詣深く、私の知らない世界を教えてくれます。

 

 私はお茶席の花が特に好きです。夏は茶室の竹の花器に一枝か二枝生けてある花の姿が涼しげで。母がお茶を点てていた頃を思い出します。

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写真はブログ『一期一会』より(木槿に朝顔)

2017年8月17日 (木)

『パウロの信仰告白』

 次男に薦められて『パウロの信仰告白』を読み始めました。以前にも紹介した『キリストの友となるために』の著者マルティーニ枢機卿様が書かれた本です。『キリストの友…』もこの『パウロの信仰告白』も司祭の黙想指導をした時の講話です。

Carlo_maria_martini_sj_2Cardinale Carlo Maria Martini(1927.2.15~2012.8.31)


 聖書学博士であり、グレゴリアン大学の総長を務められた枢機卿様はイエズス会特有?のある点でとても進歩的?な考えを持っておられリベラル派・改革派と呼ばれました。私の考えとは違いますが(私は保守派?)。しかし学者として素晴らしい方で度々司祭の黙想指導をされました。『パウロの信仰告白』は司祭だけでなく一般の人にも薦められています。

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2017年8月 7日 (月)

『聖書散歩』を読む 

 今日はビアンネ小平卓保神父様の命日です。久しぶりに神父様の書かれた本『聖書散歩』を、また読んでみました。読むたびに神父様から教えられているようで、主任司祭の時にもっとお話を聴いていればよかったと後悔しています。

 聖書学者と名乗られる方はたくさんおられますが、小平神父様は名実ともに『聖書学者』でした。英語、ラテン語はもちろんフランス語も堪能で、イスラエルでも学ばれ(ヘブライ語)旧約聖書の世界ユダヤ教にも詳しい方でした。

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 この本は以前にも紹介しましたが『散歩』と題されている通り、内容は読みやすいエッセイです。そのテーマはお酒に始まり恥、希望、孤独、旅、自由、主の祈り、償い、購い等々私たちの生活に身近なことを聖書からわかりやすく書いてあります。

 今日はその中から遠藤周作の『沈黙』についての箇所を紹介します。

神を作る

……『沈黙』のクライマックス、ロドリゴが踏絵を踏む場面は次のようになっています。「司祭は足をあげた。足に鈍い重みを感じた。それは形だけのことではなかった。……この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭に向かって言った。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。……こうして司祭が踏絵に足をかけた時……」(219ページ、新潮文庫)

 よく注意して読みましょう。「踏むがいい」という声が聞こえる前に、ロドリゴは足をあげているのです。言い換えれば、ロドリゴは、すでに自分で神をつくっているといえるでしょう。実際には、こんな都合のいい声が聞こえてくるはずがありません。彼は実に寛大な神をつくり出したことになります。この危険は、私たちにもあります。大審問官ほどでなくても、教会は聖書の神に忠実に従っているでしょうか。自分の尺度で神をつくっていないでしょうか。聖書研究会などに行っても、聖書に線でも引いて、それを行動の原理にしているカトリック信者はほとんど見かけません。自分で思いこんだり、つくったりした神に仕えている場合が多いのではないでしょうか。私たちの信仰は、人間の思惟ではなく、聖書の啓示に基づいているはずです。(『聖書散歩』158p.~159p.)

 最近「沈黙」の映画がリメイクされ、その感想を多くの司祭は曖昧に答えています。しかし小平神父様は原作についてカトリックの教えに基づきはっきりと書いています。だからと言って彼は厳しく気難しい人ではなく、逆にいつも優しくいつくしみ深い方でした。

 同性婚、離婚、再婚、精子バンク等々混沌とした現代では一部の司祭、信徒は自分に都合のよい神をつくろうとしているように思えます。今こそキリストの教えと聖書に基づき、信徒をしっかりと導く小平神父様のような司祭が必要ではないでしょうか。

2017年7月 1日 (土)

バルバロ訳聖書

 昨年の11月頃聖書について書きました。そこでは共同訳聖書よりフランシスコ会訳聖書をお薦めしました。しかしフランシスコ会訳も注釈など・・・色々気になるところがあります。共同訳よりフランシスコ会訳、フランシスコ会訳よりバルバロ訳、結論として、バルバロ訳が一番と良いということに落ち着きました。ペトロ白柳大司教のIMPRIMATURもありますから。勿論フランシスコ会訳にもあります。IMPRIMATURがあるのとないのとでは大違い。カトリック信者ならやはりこれがある聖書を使わなければね!

 聖書学者の方々や異論のある方も多いでしょうが、私はバルバロ訳を使います。

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聖書 バルバロ訳

2017年6月26日 (月)

サクスム

 今日はオプス・デイの創立者聖ホセマリア・エスクリバーの記念日です。今月10日には東京で駐日教皇大使チェノットゥ大司教様の司式で聖ホセマリア記念ミサがささげられました。

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 そして聖ホセマリアが亡くなられた後にオプスデイの長として働かれた福者ドン・アルバロ・デル・ポルティーリョの生涯についての本が出版されました。

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 教皇ヨハネパウロ二世と親しかったドン・アルバロはその優しい温厚なお顔からは想像もできない苦しい時代をサクスム(岩)のような強い意志で生きてこられました。ご自身が多くの苦しみを体験したからこそ、今苦しんでいる人達のことが良く理解でき、寄り添い、優しく包み込めたのでしょう。

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 本によると昔はオプス・デイに対する攻撃もひどいものだったそうです。特に聖ホセマリアや福者アルバロを悲しませたのは教区や修道会、信徒によって攻撃されたことでした。それはホセマリア神父が列聖される時にもある修道会の一部の人による根拠のない非難中傷がありました。いまだにオプス・デイ嫌いの人達は本当のオプスデイを知らず、昔の根拠のない非難中傷をうのみにしているせいかもしれません。

 教皇パウロ六世や教皇ヨハネパウロ二世は特にオプスデイに理解がありました。私がオプスデイに出会えたことは主の大きなお恵みだと思います。聖ホセマリアの『道』を読まなければ、このブログを書き始めることもなかったでしょう。この『サクスム』を読んで、より一層オプスデイを知ることができました。「食わず嫌い」という諺があります。『サクスム』はオプスデイ嫌いの方に特にお勧めします。confident

2017年4月22日 (土)

読みたいけれど・・・

 読みたいけれど、読めない本があります。なぜ読めないかというと英語で書かれているから。英語のできない私は読みたくても読めません。

51wdbdv2f7l『GOD OR NOTHING』 サラ枢機卿

 どなたか翻訳出版してくださらないかな。女子パウロ会、エンデルレ書店、パウロ会・・・よろしくお願いします。

 英語のできる方にはお薦めの本。世界的に読まれています。

2016年12月 9日 (金)

『ゆるしのための九日間の祈り』

 待降節にあたり、クリスマスまでのノベナ(九日間の祈り)としてとても素晴らしい本が届きました。

 フランシスコ・ファウス著『ゆるしのための九日間の祈り』です。前書きに「この冊子は、心から人をゆるすことを通して、まことの平和の人となれるように、聖ホセマリア・エスクリバーの取次を通して、神の恵みを求めるためのものです。」とあります。

第一日: 心の平和を保つ  第二日: 理解し、ゆるす

第三日: 高慢に打ち勝つ  第四日: 怒りに打ち勝つ

第五日: 恨みに打ち勝つ  第六日: 家庭の不和をなくす

第七日: 一歩目を踏み出す 

第八日: 悪に対して善を報いる

第九日: マリア様に助けを求める

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 丁度告解の準備をしている時に届きました。読んでみると良心の糾明にも役立ちます。

 久しぶりに良い祈りの本に出合いました。定価540円(税込み)です。お勧めします。

2016年9月20日 (火)

『生活のスパイス365日』

 台風16号が直撃するとの予報で雨戸を固く閉ざして一夜を過ごしましたが、たいした強風、大雨もなく朝を迎えることができました。被害の出た地域の皆さんにはお見舞い申し上げます。

 さて、先日息子と「ドン・ボスコ」のDVDを久しぶりに観ました。ドン・ボスコは皆さんご存知の通り「サレジオ修道会」を作りました。「ボスコ修道会」ではなくあえて自分が尊敬する聖サレジオの名前をつけました。

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 私はあまり聖サレジオについて知らなかったので、この機会に聖サレジオの本を読むことに。まずは超易しい『聖フランシスコ・サレジオのすすめ』-生活のスパイス365日 から始めます。題の通り毎日一つ聖サレジオのすすめる言葉が書かれています。やはり聖人達の言うことは共通することばかりです。聖人たちの本を読んで納得することばかりなのですが、それを実行できないから私はいつまでも聖人に近づけないのです。catface 例えば、

・ 耐えざる飲食の節制は、たまに行う厳しい断食よりもはるかに値打ちがあります。というのは、このような断食には大きな心のゆるみが起こることがあるからです。

・ 嘆き、いさかい、争いの聞こえる家には、聖霊がお住みになりません。

・ 羊が狼に近づくのを見て、大声を上げて叫ぶのは、愛のしるしです。このように、教会の敵が悪をもたらすとき、黙っていてはいけません。

・ 最も虫の好かない人に対して、何度も、柔和と愛徳を実践しましょう。

・ 神に関することは、ふざけながら話してはなりません。常に謙遜と尊敬をもって語りなさい。

・ 隣人を快く耐え忍ぶようになれるのは、いつのことでしょう。これが、聖人たちの教訓の中で、最高のものです。これを学んで実行する人は、幸いです。

 読んで理解して納得したらなら、次は実行しなければ本を読んだ意味はありません。一つでもやり遂げたいものです。特に毎日の飲食の節制は煉獄の霊魂の救いのために喜んで捧げたいと思います。

 私の好きな射祷は「キリスト、あなたが望むことを愛することができますように」です。皆さんも好きな射祷があるでしょう。それをいつも唱えて聖人に倣いましょう。

2016年8月29日 (月)

聖人たち

 今日は洗礼者聖ヨハネ殉教記念日です。彼のように殉教した聖人は大勢いますし、殉教しなくても聖人になった人は沢山います。

 帰省している息子から本をもらいました。『ミサの前に読む聖人伝』という本です。

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 この本には約170名の聖人について書かれています。わたしの子どもたちや夫の霊名の聖人たちは残念ながらこの本には載っていません。約950名の聖人を扱っている本もあるそうなので、そこには載っているかもしれません。それにしても聖人の多いこと・・・全て私たちが倣うべき人達です。

 この本で今まで名前しか聞いたことのない聖人たちが実際どのような人物だったのかを知ることができました。そして聖人になった人は貴族でお城に生まれた人からとても貧しい生活の中で生まれた人、高い教育を受けた人から文字の読めない人まで男性も女性も子どもも老人もいます。神はすべての人に恵みを注がれているということを確信しました。

 「まさに神は全ての人を愛しておられ、その神(聖父と聖子と聖霊)の愛に気づいて神を愛する人に神は永遠の命を約束される」ことをこの聖人たちは教えてくれます。

2016年6月17日 (金)

日本国憲法を守ろう!

 

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 2015年3月30日のブログにこの本の紹介を書きました。ブログの最後に「日本国憲法を守らないといけない人は誰ですか?」という質問に「私たち国民」と自信をもって答えた人は是非この本をよむべし!と、書きました。

 私自身この本を読んでみて日本国憲法がとても良くわかりました。そして日本国憲法(特に第九条)は絶対に守らなければいけないと確信しました。今年は参議院選挙もあるので早く皆さんにこの本を薦めなければと思い、再度書くことにしたのです。

 改憲派の人達がよく「この憲法はアメリカから押し付けられたもの、だから変えなければ」という理由を言います。それって本当?その答えも書いてあります。護憲、改憲迷っている人は特に読んでください。改憲に賛成している人もこの本を読めば案外その根拠は間違っていることに気づくかもしれませんよ。

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2016年6月14日 (火)

『み心の信心のすすめ』

 今月の3日(金)はイエズスのみ心の祭日でした。み心の信心についてもっと知りたいと思い『み心の信心のすすめ』という本を読みました。

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 聖アラコックについて特に新しいことは書いていなかったのですが、川村信三神父様の「信心」についての前書きにひかれました。最初に「忘れられた信心」と題して次のようなことが書かれていました。

 一昔前まではカトリック教会には「信心」が盛んだったのに、最近(2009年頃)の教会では耳にしなくなりました。第二ヴァチカン公会議後、これまで教会が大切にしてきた多くのものは無駄なもの、時代にそぐわないものとして捨て去られるようになりました。特に、聖書に直接の根拠をもたない「信心」は、他のキリスト教諸派とかかわりをもつとき、大きな差し障りになると考えられました。ロザリオや、十字架の道行きなどの多くの「信心」は、中世ヨーロッパのある地域でつくり出されたもので、特に「信仰」とはかかわりのないものだと考える雰囲気がカトリック教会で広がりました。エラスムスやルターが言うように「信心はまったくばかげていて、無知な人びとが勝手気ままにつくりだした、聖書には根拠をもたず、必要のないもの」なのでしょうか。なぜ人びとは「信心」をあみだしたのか、あみださざるをえなかったのかをよく考えてみたいとおもいます。

 そして、「信仰の工夫としての信心」、「み心の信心は教会の宝」と続きます。

 人びとは実際の生活の中で、どうすれば、信仰を具体的に表現し高めることができるのか、あれこれ考え、見つけたのがいろいろな「信心」。しかし「信心」が行き過ぎや、正当な信仰から離れてしまう危険もあるので、「信心」が形だけに終わってしまわないように心することが大切だと書かれています。

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 「信心」の中でも特に「み心の信心」をすすめています。詳しくはこの本か聖アラコックの「み心の信心」について書かれたものを読んでください。

 最近ではロザリオの祈りや十字架の道行き、初金(み心の信心)がよく行われるようになり、カトリックの良いところを取り戻しています。とても嬉しいことです。

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2016年5月 7日 (土)

『愛への道』

 『愛への道:十字架の聖ヨハネの生活と教え』

215 ことばと考えにかたくくつわをはめて、あなたの愛情をいつも神の上に向かわせること。そうすればあなたの精神は神的に暖められるであろう。

302 他人のことは、良いことであれ、悪いことであれ、気にかけずにいなさい。そうでなけれぼ、罪の危険だけでなく、気を散らし、集中に欠ける原因になるから。

322 われわれにとっていちばん必要なことは、この偉大な神の前に、欲求と舌を沈黙させることです。かれがお聞きになる唯一のことばは、愛の沈黙ですから。

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 ということでこのブログもしばらくの間お休みします。


2016年4月25日 (月)

岩下壮一神父

 昨夜は夫の都合で夜のごミサに与りました。T神父様の説教は岩下壮一神父様についてでした。はっきり名前は出されませんでしたが説教の内容からして岩下神父様のことだと思います。

 岩下神父様については確か以前にもこのブログに書いたと思います。『人間の分際』と言う神父様について書かれた本の中からでした。

 数週間前娘が『カトリック教会の信仰』というこれは岩下神父様ご自身が書かれた本を図書館から借りていました。この本はまさに「カトリックの公教要理」です。岩下神父様は神山復生病院院長としてハンセン病患者さんたちの友となり、また救済のために働かれました。一方その豊かな学識でカトリック宣教と護教のためにも尽くされました。この『カトリックの信仰』の他にも『信仰の遺産』という本があります。

 今の時代にこそ岩下神父様のカテキズム(公教要理)が必要なのかもしれません。みなさんにもこれらの本をお薦めします。

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2016年3月17日 (木)

前教皇ベネディクト十六世

 前教皇ベネディクト十六世は長いインタビューに応じ、その内容は「人の義化と神のいつくしみ」についてでした。またその一部は第二ヴァチカン公会議後の信仰の危機についてです。少しだけ内容を聞きましたが、まさにこのインタビューの答えを待ちわびていた人たちが沢山いると思います。私もおそらくその中の一人になると思います。というのも、まだすべてを読んだわけではない(英語やイタリア語では読めません)ので感想をはっきりと言うことはできません。早く正確な日本語訳を出してほしいです。

 一つ残念なことはご自身の現教皇時代に出してほしかったことです。しかし今だから意味があるのかもしれません。すべては主が決められた時がありますから。時にかなっているのかもしれません。

 前教皇ベネディクト十六世に感謝し、前教皇様のために祈ります。

11_3(写真:The Holy See より)

2016年3月11日 (金)

『命のパン』~ご聖体は口でそれとも手で?

 

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  この『命のパン』(J.アブリ著)はごミサについて書かれた本です。よく争い?のテーマとなっている「ご聖体は口で拝領すべきか、手で拝領してもよいか?」という問題に私がきっぱりと答えましょう。この本を読む限り答えは、

「どちらでもよい」のです。ではなぜそう言えるのか、この本から説明しましょう。

 エルサレムの聖キリル(A.D.386♰)は、「聖体を受けるには、両手をのばし、左の手のひらを右の手のひらの上に重ね、貴人から物をいただくようにして」受けるように戒めて、・・・また同時に「アーメン」と唱えるように教え、さらに、「聖体を受けるときは、主のおんからだに注目する」ようにとの注意もつけ加えている。聖キリルの記述以外にも、初代教会時代の信者が、聖体を手で受けることを示すしるしはいろいろある。

 八世紀ごろは東西両教会ともに、聖体は手で受けており、拝領者はそれによって、自分が罪びとで主を迎えるにふさわしくない者であることを自覚し、そのために、この卑しい自分に来られる主をいっそう賛美した。

 聖体を手で受ける習慣は、中世紀の初めごろまで続いた。そのためにミサ聖祭には司祭の洗手式があり、また信者は教会の前で手を清めたが、古い聖堂にはその場所の名残が今も残っている。ガリア(フランス)の教会には、婦人は手のひらの上に布をおき、その上に聖体を受ける習慣があった。

 しかし聖体を手で受けることには危険もあった。信者の中には、受けた聖体をすぐに拝領せず、そのまま家に持ち帰って、いろいろな迷信的な目的に用いる者が出てきた。・・・こういうことから、聖体は司祭の手から直接信者の口に授ける習慣が広まり、九世紀にはほとんどすべての所で、この形による聖体拝領がおこなわれるようになった。また、中世紀の中ごろには、信者はただ聖体を仰ぎみるだけで拝領しないという習慣もあった。

 十二世紀ごろまでは、一般信者も、聖体とともに聖杯も拝領したが、十三世紀になってからは、西方教会では、信者はパンだけを拝領するようになった。また、聖体拝領のときにひざまずく習慣は、十一、二世紀ごろに始まったもので、当時の諸修道会の会則に倣ったのである。しかしカリスは初めから立って受けた。・・・・(P.155~157)

 つまり、ご聖体を拝領する者はキリストのからだを受けるということを意識して、それにふさわしい態度で受けることが大切です。それは口で受けても手で受けても同じです。どちらで受けても典礼で認められているのですから。自分の方法を他人に強要したり、批判したりするのはやめましょう。ちなみに私は今は口で受けています。

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2016年3月10日 (木)

カテキズム

 信仰教育の大切さをしみじみと実感している今日この頃です。良いカテケージスの本を探してもなかなかありません。大人は『カトリック教会のカテキズム』を読めば良いのですが、子どもには難しすぎて無理です。

 ここにアブリ神父様が書かれた『カトリック教理 ジュニア・カテキズム』という古~い本があります。昔の中学生たちはこんなにしっかりと要理を勉強していたのですね。本では質問・答え・祈り・神のみことば・典礼・課題の順で進んでいきます。

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 (最初の質問)  私たちはなんのために、この世に生まれてきたのでしょうか?

 要理を勉強されたみなさんは何とこたえますか?

 (答え)  私たちがこの世に生まれてきたのは、神さまを知り、神さまを愛し、神さまに仕えてやがて神さまのみもとで永遠に幸福になるためです。

 各教えの最後にそれぞれ「課題」が出ています。課題なので答えは載っていません。この課題はよく勉強しないとなかなかできないものがあります。例えば、

・ 助力の恩恵と成聖の恩恵との違いを、かんたんなことばで説明しなさい。

・ あなたがカトリック教会の一員としていただいている神の恵みを、未信者の少年少女に説明する手紙を書いてごらんなさい。

・ つぎの場合、人への愛を具体的に示す方法を表にして書きなさい。 a 両親に対して b 兄弟姉妹に対して c 先生に対して d 友だちに対して e 敵に対して。

・ 「十戒なんてもう時代遅れだ。現代にはそんなものを守っている人はいやしな」―こういう人に対して、あなたはどう答えますか?

・ 「私は完全な痛悔を起こすことはできません。またきっと罪を犯すだろうということをよく知っていますから」―このことばをどう考えますか?それに対してどう答えるか、あなたのノートに書きなさい。

・ ミサ聖祭中、最も重要な役割をつとめられるのはキリストです。では、その時キリストはなにをされますか?ミサ聖祭中の司祭はなにをしますか?私たちの役目はなんですか?ノートをキリスト、司祭、信者の三段にわけて答を書きなさい。

・ 今の教皇さまはどなたですか?教皇さまについてどれだけ知っていますか?教皇さまのあげられる何かの典礼に参列したことがありますか?その典礼で、何か特別に気のついたことはありますか?

 最後に今、四旬節中にピッタリの課題です。

・ 四旬節中にあなたが行おうとする償いのわざを表にしてごらんなさい。灰の水曜日の灰の祝別の祈りを読みなさい。その祈りから、どのように私たちは自分の犯した罪を悔やまねばならぬか、また、どのように神に赦しを願うかを、書き抜きなさい。

 約250ページの本ですが、中身のしっかりとしたものです。初聖体の子ども用ではなく、堅信をした子どもたち用です。大人の私でも勉強になります。再販はないのかな?

2016年3月 7日 (月)

良心の糾明に

 古い本の中に良書があり、よく読み返すことがあります。いつもゆるしの秘跡(告解)を受ける前に読むのが『神のゆるしへ近づく道』というJ.アブリ神父様の書かれた本です。

 カトリックの教えは不変なので古い本だからといって内容も古くて現代に合わないということはありません。かえって古い本の方が素晴らしいことが多いのです。聖人たちが書いた本もそうですね。

 聖書学者のアブリ神父様の授業はとても難解でしたが(何十年も昔のこと)、なぜか本になるとよく理解できるのです。この本にはゆるしの秘跡を受ける前の「良心の糾明」が具体的に書かれています。古本ですがアマゾンで入手可能です。ゆるしの秘跡を受ける前の準備に良いですよ。

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2016年1月30日 (土)

本2冊

 昨日、話に出た2冊の本。

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 『回勅 いつくしみ深い神』は問題なく我が家の本棚にありました。あらためて読み直します。問題は『聖ファウスティナの日記』の方です。

 私の娘は聖ファウスティナが好きで、よくこの聖人についての本を読んでいます。確か以前彼女はこの本も読んでいたような記憶が・・・。そこで娘に聞くと「持っている」との返事。早速借りて読むことにしました。

 マリア様やイエズス様のご出現は純粋にご出現のメッセージを謙遜に受け取ることが大切です。教会はこのことを忘れてはいけません。商売のためにそれに群がる人やご利益だけを求める人達によって押しつぶされてしまう危険があります。また嫉妬や妬みの心でもみ消されることも・・・。秋田の聖母ご出現も然り。シスターアグネス笹川が聖母より受けたメッセージの内容よりも聖母が流された涙の奇跡ばかりがマスコミでクローズアップされました。多くの人が奇跡(ご利益)だけを求めてバスで押し寄せた時期もありました。メジュゴリエのように教会や町が潤い続けるために「世界中から人が集まる良い宣教」とごまかしてはいけません。

 いつも書いていますが聖母やキリストのご出現は何のためにご出現されたのか、そのメッセージが大切なのです。本物のメッセージはカトリックの教義に外れたことは言っていません。聖ファウスティナの日記を読んで、キリストが彼女を通して何を私たちに伝えたかったのかを学びたいと思います。そして秋田の聖母のメッセージもじっくりと読みます。このメッセージの中には、ある人たちにとってとても都合の悪いことが書かれているのかもしれません。

2016年1月19日 (火)

『拓』から ③

 聖書の読み方について聖ホセマリアは次のように言っています。

672  毎日数分間、新約聖書を読みなさい。そしてそのときには、もう一人の登場人物になって各々の場面の中に入り込み、そこでの出来事に参加しなさい。私はこう勧めた。それは、福音の教えを自分のものとし、それを生活の中で(実行する)ため、また、人々に(実行させる)ためである。

Photo_5 読むならフランシスコ会訳かバルバロ訳で

 まさか信者なのに聖書をただ飾っているだけ・・・という人はいないでしょう。coldsweats02 聖書は普通の本ではありません。「神のみことば」です。

 ですから小説のように最初から最後のページまで一通り読めば終わりではありません。期間内に読めばよいものでもありません。聖ホセマリアは「もう一人の登場人物になって…場面の中に入り込み…参加しなさい」と、具体的に教えています。忙しい、時間がないという理由でゆっくりと時間をかけて読まなければ、主のみことばを味わうことはできないでしょう。

 今年は一年間ゆっくり、じっくりと聖書を味わいたい、聖書を読む時間をもっと増やそうと思います。

2016年1月15日 (金)

『拓』から ②

564  あなたは自らを価値のない人間だと言うのか。それなら、価値のある人間になるよう努力すれば良いのではないか。

618  勉強をしない学生なんて、一体何の役に立つのか。

 人は皆自分の仕事を心を込めて精一杯することが大切です。赤ちゃんはよく食べてよく泣いてよく眠る、学生は勉強する、大人はそれぞれの職場で正直に働く、病気の人は良い患者でいるように努める、留置されている人はまじめに罪を償う。

 聖ホセマリアは当たり前のことを言っています。でもこの当たり前のことを邪魔しようとする悪い誘惑があります。私もこの誘惑に負けないように頑張るにゃん…ではなくて頑張ります。

Photo_2 写真:.ru より  「勉強してま~す」