阪神・淡路大震災あれから今日で29年、いつまでも忘れることはありません。亡くなられた多くの方たち、身体だけでなく心にも傷を負われた方々、そしてその後亡くなられた方々のために祈ります。
いつ襲ってくるかわからない自然災害、多くの人の命を奪う災害に備えることは大切です。物資を備えたり、避難訓練はもちろんのこと、心の準備をしておくことも大切です。
私の夫は今月10日に帰天しました。夫はいつ死が訪れてもよいように準備をしていました。ゆるしの秘跡を大切にして、ご聖体をいただけることを何よりの喜びとしていました。ですから夫も私も心を乱すことなく主のみ旨を受け入れることができました。
「いつも主のいつくしみに感謝して、聖母マリア様の保護を願いなさい」は夫の口癖でした。主が私に夫を与え、共に支え助け合って生きてこられたことを主に感謝します。これからも夫のことば通り、いつも主のいつくしみに感謝して、聖母マリア様の保護を願いながら信仰生活を続けたいと思います。
主よ、あなたが望むことを愛します。
12月31日の聖家族の日の夜から、1月1日の神の母聖マリアの祭日の日の朝まで病院の待合室で過ごしました。夫の救急搬送、緊急手術、先生方からは「難しい」と言われ、覚悟を決めました。
『人は必ず死ぬのだから、今がその時と主が決められたのだ』と思い、夫の罪がすべて赦されて夫の霊魂が守護の天使と共に天に帰れるように祈りました。また意識がある時に病者の塗油、祝福を受けて夫も天の国へ行く準備ができていたと思います。
しかしまだその時ではなかったようです。治療を続けた結果ICUを出て救急病棟に移りました。しかしまだ予断を許さない状況です。主のみ旨ははかり難いものです。
先生方とスタッフの皆さんの働きには感謝しかありません。皆さんに主のご加護を祈ります。
こんな状態だったので、ラジオを聴くこともなく能登半島地震も後になって知りました。被災されたすべての方が絶望することなく、希望をもって困難を乗り越える力を主に願いました。
年間第34週王たるキリストの祭日です。いよいよ次の主日から待降節が始まります。
この一年を振り返ってみると反省する事ばかりです。でもそれ以上に主に感謝することが沢山ありました。年齢を重ねるにつれて主に生かされているという思いが益々強くなります。主の恵みは私自身の病気や怪我、誤解されること、不安や不信を通しても与えられました。
フランシスコ教皇様の言動に不信を抱いた時、逸脱したミサを捧げる司祭の姿を見た時、教会が教えてきた聖書の解釈と違う自分の解釈を話す司祭の説教を聞いた時・・・どんな時にも主から離れることなく道に迷わなかったのは私の守護の天使 Gratiaが共にいてくれたおかげです。守護の天使Gratiaにも感謝!
鹿児島市出身の参議院議員村田きょう子さん。彼女は私の同級生Sさんの娘さんです。Sさんは優秀でとても優しく思いやりがあり、明るくてユーモアたっぷりの楽しい方です。ですから娘さんもお母さんに似ているのでしょう。画面からその性格がよく伝わります。
村田きょう子さんはこれからますます活躍が期待される議員さんだと思います。きょう子さんのおかげで私も国政に関心を持ち始めました。
読売新聞オンラインの一年以上前の記事ですが、こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)の最初の子についての記事がありました。読んでいて赤ちゃんポストがあって本当によかったとつくづく思いました。そして今も続いているこの制度を是非これから先も続けてほしいです。赤ちゃんポストに反対の人こそこの記事を読んでもらいたいです。
読売新聞オンラインの記事のリンク先⇩
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220326-OYT1T50289/
赤ちゃんポストを批判する人もいますが、そういう人はどちらかと言えば男性が多いような気がします。『ポストは安易に捨て子を助長する』などと見当違いな理由をあげています。女性はどんな事情であろうとできれば生んで育てたいと思う人が大半だと思います。安易に手放す人なんていません。最後の最後の選択肢なのです。だって生むまで10か月間自分のおなかの中で育てたのですから。この気持ちは男性にはわからないでしょう。
こうのとりのゆりかごのおかげで助かった命があることは事実です。他府県にもこの制度ができることを願います。
*私は子ども(赤ちゃん)を捨てるという言葉が嫌いです。人間を物と同じに見ています。せめて手放すと言ってほしいです。手放すとは誰かに託すという意味が込められていますから。そして「ポスト」という言葉を「捨てるところ」という意味にとり批判している人もいますが、「ポスト」の役目は「気持ちを誰かに届ける」ことです。
私は外国語が苦手でいつも夫に助けられています。外国語音痴の私がよく外国語の記事やブログを載せているのを不思議に思われるでしょう。それは携帯のグーグルレンズのおかげです。
グーグルレンズは物の名前がわからない時によく使いますが、翻訳機能もあります。[レンズ]のアプリを開いて[翻訳]をタップし、翻訳したいテキストを写すと日本語に翻訳されます。便利ですね。私のブログで翻訳の付いていない外国語で書かれた文章にはこの機能を試してみてください。
でもいくら便利と言ってもグーグル翻訳は正確でない時があるので使う時には注意しましょう。
[Fr.Z's Blog より]
From CNA:
Pope Francis on women deacons: ‘Holy orders is reserved for men’
Pope Francis reaffirmed the impossibility of women becoming priests, or even modern Church deacons, in an interview for a book released Tuesday in Italy.
以前聞いたことがあるのですが、「司祭が男性でなければならない理由は簡単です。なぜならミサの聖変化の時にキリストは司祭を通して『これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである』と言われます。キリストは割礼を受けた紛れもない男性です。ですから司祭も男性なのです」と話されていました。確かにその通りです。フランシスコ教皇様もはっきりと女性司祭はないと言われています。キリストは男性です。ですから司祭職も男性なのです。女性司祭を望む人たちへ:「この問題いい加減終わりにしましょう!教会内に分裂の種をまくのは止めましょう!」
今年は当たり年、何が当たりかというと電気製品の故障・寿命です。浄化槽のポンプに始まり部屋の電灯、エアコン2台、WiFiルーター、カーナビ、洗濯機、ついでに自転車のライトに目覚まし時計、ラジオも調子がとても悪くて新しく買うか思案中です。
こんな時もありますね。かわりに大きな台風が直撃しなかったので良しとしましょう。「思い煩うことなかれ!何事も主に感謝!」です。そう、良いことも悪いこともいつも感謝!それが主のみ旨だから。たとえ悪いことを喜んで受け入れることができなくても、受け入れられるように努めましょう。
ところで酒井司教様たちはサンティアゴ巡礼中です。勿論徒歩で。私くらいの年齢の方も参加しておられます。素晴らしい!⇩
パチャママの次はホピ族のカチーナ人形 が登場! ┐(-。ー;)┌
アメリカの外交官シンディ・マケインさん(故ジョン・マケイン氏の妻)からヴァチカンへの贈り物だそうです。
この血の付いたナイフを持っている人形、どう見ても良いものには見えませんが、贈り物がなぜこれなのか?もう全く意味が分かりません。パチャママの様に祭壇に置いたりしないことを祈ります。
私は最近ため息ばかりついています。見捨てられているアフリカの国々、一方では自ら戦争を続ける一国への多額の援助、カトリックの教えをゆがめようとする人々、そしてこの人形、・・・なんだか本当にむなしい気持ちになります。祈っても祈っても世の中は悪化する一方ですが、それでも祈り続けなければなりません。・・・でも祈りに集中できません。
平均寿命54歳、病院に体温計も薬もない──中央アフリカで続く、世界が目を向けない深刻な人道危機
Fr.ZのブログにEmber Days についての記事がありました。私は知らなかったのですが今日はその日ですね。最後の方に日本に関係あることが書かれています。日本ではポルトガル語から日本語になった言葉があるのはよく知られています。
With the arrival of mid-September, and the Feast of the Exaltation of the Cross (14 Sept) we come around again to our Ember Days. The September Ember Days this year are today, Wednesday 20 Sept, Friday 22 and Saturday 23.
Observance of Ember Days is very ancient, going back in the Roman Church to at least Gelasius I (496) who speaks of four times a year. Leo the Great (+461) preached about three times. Pope Callixtus I (+222) laid down fasting laws. The Ember Days correspond, roughly, to changes of seasons.
Keep in mind that Ember Days were times of penance. Perhaps you could fast and abstain for some good intention on these days.
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Fun fact.
In the 16th c. Spanish and Portuguese missionaries settled in Nagasaki, Japan. From their interest in inculturation and out of sensitivity for the ways of the people, they tried to make meatless meals for Embertide, which is a fast time. They started deep-frying shrimp. The Japanese ran with and developed it to perfection. This is “tempura,” again from the Latin term for the Ember Days” Quatuor Tempora“.
I think I’ll get some tempura on Friday. (Fr.Z’s Blog)
ワールドユースデイリスボン大会も閉会し、世界中から集まった若者たちはそれぞれ自国へ帰って行きます。日本から参加した若者も今帰国の途についている人達がいるでしょう。
私はこの大会に参加した若者の中から主の召命に応える人が沢山でることを祈ります。特に私の教区はもうすぐ助祭となる神学生の後に続く人はいません。神学生が一人もいない教区なんて・・・信徒の皆さんはこの重大な問題にさえ無関心です。このワールドユースデイに参加した若者たちが帰国後自分の信仰の恵みをまわりの若者に伝えることにより、その信仰の炎はより大きく広がり、主の呼びかけに応える若者が現れることを願います。
教会のために召し出しを願う祈り
いつくしみ深い神よ、
▴あなたの民を顧み、イエズス・キリストのために
生涯を捧げる司祭、修道者の召命をお与えください。
聖霊の恵みと力に支えられて、
多くの青年があなたの招きに応え、
あなたの愛に強められて、兄弟に奉仕する心を
与えられますように。主キリストによって、アーメン。
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神よ、わたしは、あなたの国の証人となる人々が、
数多く出るように祈ります。▴キリスト信者の心に
聖霊の息吹を注ぎ、あなたの招きの声を強く響かせ、
召し出しに応える清らかな愛を燃え立たせてください。
さまざまな立場で、自分の召し出しを考えている人々が、
あなたの呼びかけにすすんで応えることができるように
してください。教会の母マリアよ、わたしたちの願いを
聞き入れ、あなたの子イエズスに取り次いでください。
アーメン。
YouTube: 恐れずに語る…十字架のしるしをすることから
25日主日のごミサの説教です。この中で酒井司教様が勧めていたことは、かねてから私が思っていたことだったのでうれしくなりました。
それは外食をする時にも十字架のしるしをすることです。私はよく牧場などに出かけて、外でお弁当を食べますが、その前には必ず十字架のしるしと食前の祈りをします。勿論レストランなどのお店でも同じです。主に感謝をすることは当たり前ですから。
そういう私も数年前までは人前で十字架のしるしをするのは恥ずかしいという思いがありました。でも何かのドラマで見たのか本で読んだのか記憶は定かではありませんが『恥ずかしいと思うのは悪いことをした時、良いことをするのに恥ずかしく思うことはない』という文言がありました。『食前の祈りをしたり、十字架のしるしをするのは悪いことではない。なにも恥ずかしく思うことではないし、自分の信仰をあらわすのは当たり前のこと』との思いがわいてきて、スッと吹っ切れていつでもどこでも十字架のしるしと食前の祈りをすることができるようになりました。ですから病院の待合室で他の人たちがいてもロザリオを祈る前に十字架のしるしをします。
また司教様の説教の中で、ある信者さんがカテドラルの中に入って真っ先に「さすが大阪教区、磔刑の十字架がある」と、言った話しには耳が痛いです。私の教区カテドラルの正面には磔刑の十字架はありません。キリストのいないただの木の十字架です。いつイエズス様の姿を十字架上で見られるのか・・・私は20数年もの間待ち続けています。
ごミサの後に酒井司教様の霊名(聖パウロ)のお祝いがありました。なかなか面白いご挨拶でしたね。
聖母の月も今日で最後、一昨日は「教会の母聖マリアの記念日」そして今日は「聖母の訪問の祝日」です。毎日聖母のご加護に感謝しながら過ごしています。幸いなことに今は夫婦仲よく穏やかに過ごしていますが、この状態がいつまで続くかはわかりません。
「認知症」とは本当はどういうものなのか、知っているようで本当はよくわかっていませんでした。だんだんと自分や夫にも関係してくることと思い『ボケ日和』という本を買って読みました。
認知症と言っても加齢による単なる脳の老化からアルツハイマー型認知症のように病気が原因のこともあります。何れにせよ早く専門医に診てもらうことが大切なようです。薬で進行を遅らせたり、症状を和らげたりできるからです。
初期の頃は家族でも気づきにくいこともあるようですが、おかしいなと思ったら「物忘れ外来」や「認知症外来」へ早めに連れて行くことが大事だそうです。『年のせいだ』とか『まだ大丈夫だろう』と思わず、早めの診察・治療を受けましょう。
この本を読んで、『そういえばあの人はひょっとして初期の認知症だったのかも…』と、思える人が2~3人いました。もしあの時に認知症が原因だったとわかっていたら、私はもっと違った態度をとれたのにと後悔しています。
私自身に認知症の疑いが出た時には、迷わずに病院での診察・治療を受けられるように夫に頼みました。そして時期が来たら施設に入れてほしいということも伝えました。夫も同じ考えです。認知症が原因で家族に亀裂が入ってしまうこともあるようですから、子どもたちにもそう伝えておこうと思います。
以前施設での認知症患者への虐待というニュースもありましたが、加害者はほんの一握りの人で、ほとんどの職員は毎日一生懸命に入所者のために働いておられると思います。私は職員の皆さんを信じてお任せするつもりです。
結局認知症になるかどうかは自分ではまったくわかりません。もしその時が来たら素直に受け入れる(しかない?)。認知症にならなくても、周りにいる認知症の方やその家族を理解して、明るく優しい気持ちで接するようにしたいと思います。
自分が両親の年になるとつくづく思います。私が若い頃一時期祈りを忘れた頃がありました。でもその間も親は私のために祈ってくれていたことを。私が祈りを忘れても守護の天使と親の祈りで護られていたのですね。
聖モニカも息子アウグスティヌスのために祈り続けました。親なら自分のことより子どものために祈るのは当たり前のこと・・・。でもその当たり前のことに気づいていない親もいます。子どものことを嘆くばかりで、その子のために祈らない。祈りの力は私たちの想像を超えるものです。子どもたちのために祈れば、主はその祈りに報いてくださいます。
ということで、今日は夫に誘われて藺牟田池へ行きました。いつもの通り池のまわりをロザリオをしながら一周しました。
絶滅危惧種のベッコウトンボを1匹だけ見ました。ラッキー!
朝の空腹時の血糖値がなんと156!!! (゚o゚;)~ ガーン ! なぜ?なぜ?・・・やはり昨日のストレスが原因か?帰宅後無意識のうちにしょっちゅう口に何かを入れていたのかもしれません。(入れていたのですね。)ストレスとは恐ろしい~!(ストレスのせいではなく私の意志の弱さのせいですが)
気を取り直して、今日は間食を一切しないことにします。食後のデザートもなし・・・かも。
さて、私の思い書きたいことはたくさんあるのですが、書くのは難しいですね。誤解なく真意が伝わるかどうか・・・。
教会を離れてしまった人たちについて。この人たちの教会に来なくなった理由や原因が実は私たちにあることに気づいていないのではないでしょうか。
教会から離れてしまった人たちを呼び戻そうとしてあることを考えますが、そもそもそのことが教会を離れる原因であることに気づいていないのです。例えば教会での役目(仕事)が負担だけれど「No」といえない。ところが役目を与えればその人はそのために教会に来るようになると思っている人がいます。ますますその人にプレッシャーをかける事になります。またある人は陰で中傷(悪口を言われる)されたことが原因かもしれません。そもそも私たちが教会に行くのは先ずごミサに与るためであって、掃除や諸活動のためではないということです。当たり前ですが陰口や悪口などのおしゃべりをするためでもありません。
病人は別として、ごミサが嫌で(信仰の迷い、喪失)来られないのか、それとも様々な活動や人間関係が嫌で来られないのかを知ることは大切です。それを知るにはまず神父様がその人の話しを聞いてあげることでしょう。そして原因が諸活動であるならば私たちがその人の希望を考慮し、人間関係なら私たちが回心してその人を迎えてあげるべきです。自分は嫌なこともやりたくないことも教会のため、キリストのために喜んでしているというのは本当に立派です。素晴らしい信仰だと思います。でもその信仰心を相手にも同じように求めるのはいかがなものでしょうか。
「何事も皆が平等にしなければならない」という考えには疑問を持ちます。世間一般ではそうであっても教会ではそうあってほしくありません。聖パウロはローマ人への手紙で書いています。
・・・神がおのおのに分け与えてくださった信仰の度合いに応じて自分を評価し、程よく見積もるようにしなさい。私たちの体には多くの部分があるが、それらの部分がすべて同じ働きをしていないのと同様に、大勢のわたしたちも、キリストにおいて一つの体であり、一人びとり互いの部分なのです。わたしたちは与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、・・・奉仕の賜物であれば奉仕し、また教える人は教え、励ます人は励まし、施しをする人は惜しみなく施し、つかさどる人は心を尽くしてつかさどり、慈善を行う人は快く行うべきです。(ローマ人への手紙12章3節~8節)
庭の一角が空いたので何か木を植えたいと思い春の木市へ出かけました。
ミモザは綺麗ですが根の張りが弱く台風で倒れたことがあるので却下。イペーも我が家の土には合わないらしく枯れてしまいました。数十年前モクレンの木がありとてもよく育っていたのですが、電話線に引っかかるというので切ってしまいました。今空いている所は電話線も電線もなく、なんといってもモクレンの花の咲いた樹形はとても美しいのでモクレンを植えることに決めました。
さてそこで花は何色にしよう?夫と話し合うのですがこれがなかなか決まりません。真白、クリーム色、黄色、紫色、桃色それとも赤・・・。そして買ったのがこれです。
白モクレンとバルカンです。実をいうと木市にあったのは白が数本と白以外は紫が1本そしてこのバルカンが1本だけでした。やはりモクレンは秋の木市の方が豊富に出るのかもしれません。
とにかく根付いてくれますように。( ◜◡◝ 人
日々いろいろなことが起きます。嬉しいことなら良いのにちょっと心が重くなることも。
「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さない。口から出るものこそ人を汚すのである」。(マタイ15章11節~12節)
そうですね。何気なく話したことが大ごとになったり、誤解を生んだり・・・さんざんです。こんな時に聖ホセマリアの言葉が頭に浮かびます。
・せいぜい時間の無駄にしかならないような無益な思いは、遠くへ投げ捨ててしまいなさい。
(すぐに投げ捨てます。)
・あなたのエネルギーと時間は神のものであり、道端で吠えかかる犬に石を投げたりして、無駄にしてはならない。無視しなさい。
(気にせずに無視します。)
・心の痛みは神の愛の試金石であることを忘れてはならない。
(忘れません。)
・信心に凝り固まった人と信心深い人との違いは、聖人ぶった人と本物の聖人との違いに等しい。
(信心に凝り固まった人にはならないように気をつけます。)
・神の御母は慎みのこの上ない模範である。聖ヨセフにさえ、あの神秘を明かさなかった。あなたに欠けている慎みを聖母にねがいなさい。
(聖母に倣い慎みを身につけます。)
これからは余計なおしゃべりはしないように気をつけます。主も聞いておられるのですから。これからも主に信頼して、主が望むことを愛します。