2017年2月20日 (月)

朝食にいかが?

 絹ごし豆腐とホットケーキミックス粉、卵と少しの砂糖があれば電気釜で簡単にできるケーキ?を作りました。簡単すぎて・・・でも味はそれなりです。甘さ控えめなので軽食やブランチに。

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ホットケーキミックス粉  150g.

絹ごし豆腐        200g.

卵            1個

砂糖(又は蜂蜜)     大匙2~3(好みで)

 ボウルに卵一個をといて砂糖を混ぜ、絹ごし豆腐も加えて混ぜます。なめらかになったらホットケーキミックス粉を加えて混ぜます。電気釜の内側に油(バター、マーガリン、サラダオイル等)を塗り、生地を入れます。普通に炊飯します。1回では焼けないので2回繰り返します。後はお皿に出して「いただきま~す」wink

2017年2月18日 (土)

お花教室

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 久しぶりのお花教室。今日は祭壇のお花当番でした。先生が生けてくださったお花をそのまま祭壇に飾りました。

 今日の花材は桃、カラー、麦、スイートピー、ドラセナです。桃の節句をイメージして丸くふくよかなイメージで。

 ・カラーや麦はすっと真っすぐに伸びているので生ける時には直立型に。

 ・「桃の先枯れ」という言葉があり、枝の先の方が枯れていても切らずにそのまま生かす。

 ・陽方と陰方(日が当たっていた方と陰になっていた方)があり、陽方は左に陰方は右に。

 ・直立型の「型」と「形」の違いについて。簡単に言えば「型」は決まったかたちで「形」は自由なかたち。

 「型」はパターン、手本などで「芝居の型」や「型にはまる」等、「形」は「物の姿やかたち」「形状」です。ですから華道・書道・茶道・舞踊・声楽何事もすべてはまず「型」を学び、それから自由な形へと発展する。「型」をしっかりと身に着けていればより自由なかたちが創造できるでしょう。

 そういえばピカソの若い頃のデッサンは素晴らしいです。デッサン力があるからこそ自由な線も生きているのでしょう。また水墨画を習っていた人が最初は線ばかりひいて(描いて)いたと言っていました。線を描くことによって水墨画の基礎(力の入れ具合や水の含ませ具合による墨の濃淡や線の太さなど)を学んだのでしょう。そういえば柔道、剣道、空手もまず型から。型がしっかりとできるようになってから組手を始めます。

 お花の話からどんどん横道にそれてしまいました。これから少しずつ暖かくなり、お花も増えてきます。🌸~春よ来い、早く来い~♪tulip

2017年2月 8日 (水)

福者ユスト高山右近

 高山右近の歴史をわかりやすい紙芝居でどうぞ。


YouTube: 【高山右近】 紙芝居1 ・右近の誕生~右近、高槻城主となる


YouTube: 【高山右近】 紙芝居2 ・領民を愛する右近~二十六聖人の殉教


YouTube: 【高山右近】 紙芝居3 ・再び大禁教の嵐~右近召天・右近像

2017年2月 7日 (火)

列福式

 

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  今日ユスト高山右近の列福式が大阪で執り行われました。ヴァチカンからフランシスコ教皇代理として教皇庁列聖庁長官アンジェロ・アマート枢機卿様がいらして司式されました。会場に行けない人のためにはYouTubeで中継もされました。https://www.youtube.com/watch?v=d96PSEkMqHo

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 教区の諏訪神学生の姿や郡山司教様も見えました。ミサの途中にはオプスデイの日本総代理新田神父様も。そしてなんと最後にオプスデイの酒井神父様の姿が・・・司会をされていたのですね。通りでどこかで聞いたようなお声だと思いました。

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2017年2月 5日 (日)

心の貧しい人

 先月の第4主日のミサの朗読箇所は真福八端でした。そのなかで「心の貧しい人」について幸田司教様は次のようの意味のことを話されています。

福音的な貧しさとは、ただの貧乏や貧困とは違いキリストの貧しさにあずかることです。・・・・福音のイメージで言えば、5つのパンと2匹の魚を大群衆で分かち合う世界。そこにはわずかなたまものについての感謝と賛美。神への信頼。兄弟姉妹への思いやり。そして分かち合いがあります。・・・ただの貧しさではなくて、キリストの貧しさにならう貧しさ。それをマタイは「心の貧しさ」というのです。・・・貧しいこと自体が良いのではありません。普通は贅沢や無駄を避け、単純質素な生活をすることが清貧と思ってしまいますが、福音的な貧しさはそうではありません。(『毎日がクリスマス』2017年1月29日)

 その後『トマさん祈りの部屋』にも丁度この箇所について書かれていました。トマさんは以下のように解説しています。

・・・最初の「心の貧しい人は幸いである」は広く知られています。しかし、その意味していることは案外知られていません。キリスト信者でも誤解していることがあります。結びに「天には大きな報いがある」との言葉があるので、勘違いしやすいのです。「この世は苦しいことが多いが、天国で報われるから、辛抱して、我慢しなさい」という解釈が、その代表です。・・・もし天国の報いのために、この世の苦しみを我慢するだけなら、キリスト教は哀れな宗教になってしまいます。・・・イエスが高らかに宣言しているのは、この世でも幸せになり、あの世で幸せがマックスになる約束です。この世の苦しみを我慢するのではなく、苦しみや悲しみでも消え失せない幸せをイエスが拓きました。・・・それは、この世で既に天国の喜びが始まる道です。・・・この世が望む幸せ(、富、権力、快楽、安楽な生活、苦しみがない人生)は、崩れやすい上に、確実に死によって終わりを迎えます。虚しいものです。これとは全く別の道を拓いたイエスに倣うように、人々を招きました。・・・心が貧しいとは、この世の富に執着しないことです。苦しみは執着から生まれるからです。反対に天国に富を積むとは、徳を積むことです。この世の苦しみは悪ではなく、イエスと結ばれる道に高められました。イエスと共に生きる人は、苦しみが取り去られるのではなく、苦しみを愛する心に変えられます。こうして、イエスを信じて共に生きる人は、この世に生きながらにして、既に天国の喜びを生き始めています。それは天国で完成されます。だから、天国の報いを受ける人は、すでにこの世でも幸せを生きています。それが天国へ入る「印」なのです。■
*年間第4主日ミサ説教より

 財産への執着、健康・若さ・美への執着、安楽への執着・・・様々な執着を断ち切れば苦しみから解放されます。だから聖人たちは「病気や苦しみも神からの恵み」と言えたのでしょう。

 わたしが思うに確かにキリストの貧しさにならう生き方をされた「心の貧しい人」が聖マザーテレサや聖ホセマリアです。

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2017年2月 2日 (木)

Candelaria

Candelaria

 カンデラリア=聖燭祭は「主の奉献」の祝日です。日本ではイエズス様が生まれてから40日後に神殿に奉献したので「主の奉献」と言って祝いますが、ヨーロッパでは昔から「Candelaria」又は「マリアの清めの祝日」と呼ばれています。

 その時神殿にいたシメオンが救い主イエズスを抱き、神に感謝したのが「シメオンの歌」です。教会の祈りをされる方ならよくご存じでしょう。

神よ、いまこそ あなたは おことばのとおり、

しもべを安らかに行かせてくださる。

わたしは この目で あなたの救いを見た。

あなたが万民の前に備えられた救い、

諸国の民を照らす光、

あなたの民イスラエルの光栄。

 去年も書きましたが、フランスではこの日クレープを食べます。その理由は去年のブログをご覧ください。

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(写真:googleより)

 今日クリスマスの片づけをする人もいます。主の公現ではなく主の奉献までクリスマスを祝う国は結構あります。我が家もできるだけ長くお祝いしたいので、今日馬小屋やツリーを片付けます。でもクレープは食べません。かわりにバタークリームケーキをいただきます。

Photo_2いつもの山崎屋さんのバタークリームケーキです。happy01

2017年1月29日 (日)

Benediction

 You Tube で美しいBenedictionを見ました。


YouTube: Litany of the Sacred Heart (long version)

 聖歌「O salutaris」、イエズスの聖心の連願、聖歌「Tantum ergo」、そして祝福へと続きます。

 私の教会でも毎月第3日曜日にはBenedictionがあります。その時に「O salutaris 」は歌いますが「Tantum ergo」 ではなく「栄光から栄光へと」という歌を歌います。歌詞はかえてありますがこのメロディーはクリスマスソングのIt came upon the midnight clearなので、私はご聖体よりクリスマスを連想してしまいます。 やはりBenediction といえばTantum ergo ですね。年配の方なら私と同じ気持ちでしょう。  

2017年1月28日 (土)

聖トマス・アクィナス

 『神学大全』は読んだことはなくても一度は耳にしたことがあるでしょう。勿論聖職者の方々は勉強したでしょう。聖職者でなくても哲学で勉強された方も多いと思います。

 私はこの通りの頭なので読んでも自力では理解できません(先生が説明しても理解できないのですがcoldsweats01)。時々夫や息子たちから「トマスはこう言っている・・・」とわかりやすく教えてもらうくらいです。そのわずかな情報からでも聖トマス・アクィナスがいかに素晴らしい神学者であるかわかります。彼がDoctor Angelicus と呼ばれるのも納得できます。

 『定期討論集』にある「悪について」「真理について」「霊魂について」や「聖書注解」はどのような内容なのか興味があります。私でも理解できるように易しく解説された本はないのでしょうか?あれば是非読んでみたいです。


YouTube: Renee Fleming sings "Panis Angelicus" by Cesar Franck

 ルネ・フレミングが歌う「Panis Angelics」です。皆さんよくご存知の通りこの歌の作詞は聖トマス・アクィナスですね。いつ聞いても美しい歌です。

2017年1月25日 (水)

聖パウロの回心

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 聖パウロの回心の話はあまりにも有名で、それについては毎年ブログにも書いています。そこで今回は回心から離れて、私の好きなパウロの言葉を載せたいと思います。

愛には偽りがあってはなりません。

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りに励みなさい。

あなたがたを迫害する者の上に祝福を願いなさい。祝福を願うのであって、のろいを求めてはなりません。

悪に負けてはなりません。むしろ善をもって悪にかちなさい。

主イエズス・キリストを身にまといなさい。

十字架の教えは、滅びてしまう者にとっては馬鹿らしいことですが、救いの道を歩いているわたしたちにとっては神の力です。

この世の命だけに生きる人は、神の霊に関することを愚かしいとして受け入れません。また、悟ることもできません。神の霊に関することは、その霊の働きがあってこそ判断を下されるからです。

わたしたちは、「見えるもの」にではなく、「見えないもの」にこそ目を注いでいます。「見えるもの」はこの世かぎりのものですが、「見えないもの」は永遠に続くものだからです。

神に愛された子として、神に倣う者となりなさい。

主があなたがたを心からゆるしてくださったように、あなたがたもそうしなさい。

2017年1月20日 (金)

気づかされたこと

 平日ミサに与るようになって、何となく傲慢になっているような自分に気づかせてくれたのがトマさんのこの文です。

ミサに「行く」ことが大切なのではなく、ミサを通してイエスと人格的な交わりに至ることが大切なのです。これが信仰の根本であり中心です。この交わりはミサの時だけではありません。むしろ、その後が肝心です。イエスと一つになって生活をし、イエスと同じ心で仕事をすることです。ミサにおけるイエスとの交わりを一日中続けることを、「ミサを生きる」と言います。ミサに行くことが大切なのではなく、ミサを生きることが大切なのですね。(「トマさん祈りの部屋」より)

 日曜日以外も平日のミサに行く人のすべてが良い信者、信仰の篤い信者とは限らず、ミサを生きている人こそが信仰篤い良い信者なのですね。病気で臥せっていて教会に行くことが出来ずに司祭に来てもらい聖体拝領をしている人達がおられます。かえって病者の中にこそミサを生きている信仰篤い人がおられます。

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イシドロ・ソルサノやアレクシア・ゴンサレスのようにミサを生きる人にならなければ・・・heart

2017年1月18日 (水)

ミサ曲

 宗教音楽といえば今まではグレゴリオ聖歌ばかり聴いていたのですが、近頃はバッハやモーツアルト、ベートーベンなどの宗教音楽を聴いています。

 ミサ曲の場合はラテン語、イタリア語、ドイツ語・・・どの言葉でも歌詞の内容(意味)は同じ(キリエ、グロリア、クレド・・・)なのでよくわかり聴きやすいのです。

 今回手に入れたCDは教皇ヨハネパウロ二世が1985年にヴァチカンの聖ペトロ大聖堂であげた荘厳ミサの実況版です。『モーツアルトの戴冠式ミサ曲』指揮はカラヤン、ウイーンフィルの演奏です。私の好きなキャスリーン・バトルも歌っています。


YouTube: Mozart - Coronation Mass - Karajan 1985

 キャスリーン・バトルの歌声の素晴らしいこと!


YouTube: Misa de la Coronación W. A. Mozart (KV 317)

 * カラヤンはオーストリア人でした。私の勘違いでドイツ人と書きましたが、(ナチ党員だったり?)ベルリンフィルで活躍していたのでドイツ人と思いこんでいました。訂正します。

2017年1月15日 (日)

落羽松

 ある冬の一日藺牟田池に出かけました。この池に来ると必ず立ち止まり眺めるのが「落羽松(ラクウショウ)」です。一般には「ヌマスギ」と呼ばれています。この木の根(膝根)は呼吸をするために地上に出ています。水が少ない時にはもっと根が見えるのですが、今回は水に隠れてしまっていて見える根は少ないでした。それでも神秘的な眺めです。

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Dscn1383落羽松と膝根

 大きな椿の木が一本だけ花を咲かせていました。赤、ピンク、絞りと色とりどりの花をつけた木はそこだけが暖かそうでした。

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 たまに自然の中に出かけて冷たい空気を吸い、緑や水や水鳥を眺めて熱くなった頭をクールダウン。せっかく冷ました頭ですが、帰りに温泉に入って温めました。これで頭はより休めたかもしれません。久しぶりに船津温泉でサウナに入りました。冬の温泉はホコホコになりプチ贅沢した気分です。

2017年1月12日 (木)

生命の価値

 今日は菊地司教様の「年頭司牧書簡2017」で相模原市津久井やまゆり園での事件に触れて書かれた一文です。

わたしたちキリスト教の信仰に生きる者にとって、生命の価値を量る権利は、神にしかありません。わたしたち人間にではなく、その人間に生命を与えられた神、生命の創造主である神にしかありません。

どの生命が生存して良いのか、どの生命が生存する価値があるのか。そんなことを判断する権利を神はわたしたちに与えておられません。

 菊地司教様も書いておられますが「犯行に及んだ青年の考え方とまたそれを支持する人もわずかですがいるということの衝撃」は言葉になりません。この人達の闇の部分はどのようにして彼らの心に育ったのでしょうか?

 人間の驕り、神の被造物でしかない人間が神の代わりになろうとする時、このような闇が生まれるのかもしれません。人間は神の前でもっと謙遜になるべきでしょう。そしてそのことを小さい頃から教え育てなければ・・・心の教育の大切さを改めて考えています。

Photo創世記

 菊地司教様も郡山司教様も相対主義への警告、そして神様の前で私たち人間はもっと謙遜になりなさいと言っておられます。

2017年1月10日 (火)

司教の年頭教書

 元旦の「神の母聖マリアの祝日」に郡山司教様のごミサに与りました。その時に司教様は話したいことは年頭教書に書いたので・・・ということで、説教は主任司祭でした。

 改めて年頭教書を読みました。私たち信徒のために書かれた良い教えです。すべての信徒の皆さんが読んでいることを願います。年頭教書の題は「ともに暮らす家を大切にしましょう」。教書の中で三つのキーワードが心に残りました。以下司教様の教書より。

 一つは「貧しい者の教会」です。これは豊かな人を排除する意味ではなく、神様の前では、誰もが小さく罪深い者で、神なしに生きられない存在であると素直に認める心で生きている人々の集まりだということ。

 そして、そんな私たちがいつの間にか世俗化、物質主義、消費主義、相対主義にあきらめに似た静観主義に陥ってしまっている状態はまさに「イデオロギー植民地主義」。

 知らず知らずのうちに、福音の価値観を置き去りにするほど「束の間文化」に絡めとられ、教会の内にも外にも広がる「束の間文化」が信仰に対する無関心を生んでいる。

 福音の価値観を生きるために、まず家庭の中からラウダート・シ(教皇の回勅:ともに暮らす家を大切に)の精神を生きることから始めて欲しい。

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 郡山司教様は教皇の回勅『ラウダート・シ』を読むことを強く薦めておられます。私ももう一度じっくりと読んでみようと思います。(回勅はもっと安価にして誰でも手に取れるようにしてほしいです)

 今年も郡山司教様が私たち信徒を確かなキリストの救いの道へと導いてくださいますように。

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2017年1月 9日 (月)

主の洗礼

 マタイによる福音書

 さて、イエズスは洗礼を受けるために、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところにおいでになった。しかし、ヨハネはそれを思いとどまらせようとして、「わたくしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたくしのところにおいでになったのですか」と言った。しかし、イエズスはこれに答えて、「今は、止めないでください。このように、なすべきことをすべて果たすのは、わたしたちにとって正しいことです」と仰せになった。そこで、ヨハネは譲ってお言葉どおりにした。イエズスは洗礼を受けるとすぐ、水からお上がりになった。すると、みるみる天が開けて、神の霊が鳩のように自分の上に下って来るのをごらんになった。そのとき、天から、「これはわが愛する子、わが心にかなう者である」という声がした。(マタイ3;13~17)

 マルコによる福音書

そのころ、イエズスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになった。イエズスは水の中からあがると、天が開け、「霊」が鳩のように自分の上に降って来るのをごらんになった。そして、天に声がした。「あなたはわが愛する子、わが心にかなう者である」。(マルコ1;9~11)

 ルカによる福音者

民が皆洗礼を受けていたころ、イエズスも洗礼をお受けになった。そして、祈っておられると、天が開け、聖霊が、目に見える鳩のような姿で、イエズスの上に降り、天からは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という声がした。(ルカ2;19~20)

 ヨハネによる福音書

その翌日、ヨハネはイエズスが自分の方に来られるのを見て、こう言った。「見るがよい。世の罪を除く神の子羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方は、わたしよりも偉大である。わたしより先に存在しておられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしもこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに知られるようになるために、わたしは、水で洗礼を授けに来たのである」。そして、ヨハネはこう証言した。「私は、『霊』が鳩のように天から降り、この方の上に留まるのを見た。わたしもこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、こう言われた。『霊がある人の上に降って留まるのを、お前は見る。その人こそ聖霊によって洗礼を授ける者である』と。わたしはそれを見た。それでわたしは、この方こそ神の子であると証しているのである」。(ヨハネ1;29~34)

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 イエズスの洗礼の場面は四福音書すべてに書かれています。それがどれだけ印象深い出来事であったのかがわかります。「イエズスの上に聖霊が鳩のように降って留まった」と、四福音記者は記しています。神は聖父・聖子・聖霊の三位一体であるとわかります。

 私たちも聖霊による洗礼によって新しく生まれ、主につながります。ですから誕生日よりも洗礼(霊名)記念日を大切にして祝います。

2017年1月 6日 (金)

主の公現

Cimg6482 我が家の可愛い小さな馬小屋にも博士たちが来ました。

 今日は主の公現(日本では8日日曜日)です。3人の博士たちも幼子キリストを拝みにはるばるとベツレヘムの馬小屋までやって来ました。

 つい食べ物の話になってしまいますが、主の公現の日に食べるお菓子でフランスの「ガレット・デ・ロワ」は有名です。この日を祝うお菓子は他の国にも勿論あります。スペインの「ロスコン・デ・レジェス」、ポルトガルの「ボーロ・レイ」、ギリシャの「ヴァシロピタ」、アメリカの「キング・ケーキ」。何れも三人の博士が王であるキリストを拝みに来た事にちなんだお菓子です。

 ギリシャでは特に切り方に特徴があり、最初の一切れは聖父に、次は聖子イエズス様に、次はマリア様に、そして貧しい人のためにと切り、次に年長の人の分から順に切るそうです。各家庭で若干の違いはあるそうですが、最初の一切れを神様のために切るのはどの家庭も同じとか。

 この切り方はクリスマスケーキにも使えますね。最初は聖父と聖子イエズス様のために、次はマリア様、ヨセフ様、羊飼い、クリスマスを祝えない人のために、最後に自分たちのために。とても意味のあることだと思います。

 我が家のロスコン・デ・レジェスです。

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 膨らみ過ぎて輪の形になりませんでした。happy02 でも味はgoo~d!クリームをはさまなくても美味しい、ほんのり甘~いパンです。

2017年1月 1日 (日)

新年おめでとうございます

 

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 新年と神の母聖マリアの祝日おめでとうございます。 2017年元旦は皆様はどのように過ごされていますか?

 「一年の計は元旦にあり」と諺にもあるように、一年の目標を決めて、最初の日の過ごし方を大切にしなければ。

Dscn13022017年1月1日 カテドラル・ザビエル教会

 ということで、今朝はカテドラルへ。イエズス様に新年のご挨拶heart01 娘もカテドラルに来ていて一緒にごミサに与りました。

 「文句を言わず、怒らずに笑顔で主に感謝して毎日を過ごす」これが今年一年私が心がけること。言葉で言うと簡単なようですが行うは難しです。特に私の性格からするとつい・・・言ってしまいそう。

 皆さんは何か目標をたてましたか?実践できますように!happy01

Photo今年は酉年ですぴー。どうして猫年はないのかにゃん!

2016年12月31日 (土)

Te Deum

 大晦日。今年一年の恵みに感謝して、世界の多くの教会では晩課とTe Deumの祈リがあります。

5_2The Vespers and the Te Deum(2015.12.31) 昨年のヴァチカンでの晩課とテ・デウム

   Te Deum

すべてのものの主、神よ、
あなたを たたえて歌う。
永遠の父よ、
世界は あなたを あがめとうとぶ。

神の使い、力あるもの、
ケルビムもセラフィムも 
絶えることなく 
高らかに賛美の声をあげる。

聖なる主、聖なる主、
すべてを治める神、
あなたの栄光は 
天地をおおう。

ともに 声を合わせ、
あなたを ほめ歌う。
救いを告げた預言者の群れ、
けだかい使徒と殉教者。

世界に広がる教会も 
あなたを たたえる。
偉大な父、まことのひとり子、
あかしの力・聖霊を。

栄光に輝く王、
勝利のキリストよ、
とこしえに あなたは 
父のひとり子。

すべての人の救いのために、
おとめから生まれ、
死にうち勝ち、
信じる者に神の国を開かれた。

父の右に座し、
すべてを さばくために、
栄光のうちに 
ふたたび来られる。

とうとい血に あがなわれた 
わたしたちを ささえてください。
諸聖人とともに 
とわのいのちを喜ぶことができるように。


[神よ、あなたの民を救い、
 従う者を祝福し、
 いつまでも
 高め、導いてください。

 日ごとに感謝をささげ、
 世々に あなたの名を ほめたたえる。
 わたしたちを きょうも、
 罪から お守りください。

 神よ、豊かな あわれみを わたしたちに。
 あなたに寄り頼む わたしたちに。
 あなたにかけた わたしの希望は 
 とこしえに ゆるがない。]

 ところでこの「テ・デウム」の祈りは今の『カトリックの祈り』の本には載っていません。昔の『公教会祈祷文』にはあります。どうして省いたのか???

 来年は教会を離れている多くの人達が秘跡の恵みに気づき、回心して教会に戻ってきますように。

 また教皇様のために祈りましょう。2017年も教会の教え=主(神)の教えが守られますように。

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2016年12月30日 (金)

聖家族

 毎年12月30日は「聖家族の祝日」です。せめて家庭内では和解といつくしみの愛を持って平和でありたいものです。お互いに許し合い、理解しようと努め、そして何よりも相手のために祈ること。

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 私たちは「主の祈り」を毎日唱えています。「・・・み心が天に行われるとおり地にも行われますように・・・」とは、まず主のみ心を私たちが家庭で行わなければならないということではないでしょうか。「主の祈り」を無意識に唱えるのではなく、その意味を深く考え、実行する決意を持たなければそれは口先だけの祈りとなります。

 31日一年最後の日は「Te Deum」(感謝の祈り)をします。しないのは日本だけ?勿論ヴァチカンでも夕方5時(日本時間1日午前1時)から「Celebration of the Vespers and the Te Deum」があります。


YouTube: Te Deum Laudamus - Catholic Gregorian Chant Hymns

2016年12月28日 (水)

忘れてはいけない祝日

 今日28日は「幼子殉教者」の祝日です。マタイによる福音書では2章16節から18節に記されています。

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 「ヘロデはベツレヘムとその地方全体にいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺させた」とあるようにそれは残酷な悲しい出来事でした。しかしこの幼子たちがキリストのために命を落とした最初の殉教者であることはとても意味のあることです。ですから私たち教会は幾世紀もの間この出来事を忘れずにいます。

  と、書きましたが、日本ではあまり知られていませんね。みんなお正月の準備で頭がいっぱいなのか。せめてカトリックの信者くらいはこのことに心にとめましょう。クリスマスの後の降誕節には聖ステファノの殉教、聖ヨハネ使徒祝日、この幼子殉教そして聖家族と大切な日が続きます。