今日は神のいつくしみの主日(白衣の主日)です。この白衣とは復活祭の洗礼式の時に「白い衣を受けなさい。あなたは新しい人となり、キリストを着る者となりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい」と言われた「白い衣」のことです。この時に女性はヴェールを被せてもらいます。(男女とも同じ白い衣を着る教会もあります)ヴェールはただの飾りではありません。
復活節中は信仰生活の初心者?でしたが今日は一人前となり白い衣を脱ぐのです。白い衣が取れてもキリストを着て、キリストに従って歩み続けるという気持ちでヴェールは被り続けます。しかし残念なことに第二ヴァチカン公会議以降被らない人が増えました。
実は私も被らない時期がありました。それが進歩的でカッコイイと思っていたのです。でもそれは間違った考えだと悟りました。私は今ではヴェールが好きで被ります。
ごミサの時に女性だけがヴェールを被るのは「女性差別だ」「単なる古い習慣」「自分を着飾るためのもの」と様々に批判する人はいますがその批判はあたっていません。
私のヴェールはご聖体への尊敬と礼拝の気持ちをあらわすためです。ですからごミサの時(聖櫃のあるところ)とご聖体の前で被ります。納骨堂で祈る時や行列(聖体行列の時は別)の時には被りません。
私はヴェールを被る時に女性差別だと思ったことはまったくありません。それどころかむしろ素晴らしい恵みを与えられているような気持ちです。意味なくただの習慣として被ったこともありません。自分のために着飾るというよりもイエズス様のためにきれいなヴェールを被ります。
ヴェールを被るのは悪いことではありません。それどころか正しくて良いことだと思います。カトリック教会ではカトリックの洗礼を受けている女性だけが被ることのできるヴェールです。洗礼の時の「キリストを着てキリストに従う」ことを思いおこして次のごミサからあなたも被ってみてはいかがですか? ![]()
⇧ ヴェールを被ると可愛い子がより可愛いくなりますね ![]()
ヴェールも色々⇩

* 最近ではスパンコールのついたものやピンク等のカラーのものまであるようです。ヴェールの意味をよく考えたうえでどれを身に着けるかはご自分で決めたらよいでしょう。
久しぶりに美しい音楽を聴きました。「天使にショパンの歌声を」です。
ショパンだけでなくモーツァルト、リスト、ベートーベンなど様々な曲を合唱やピアノで聴かせます。アリス役のライサンダー・メナード本人がピアノを弾いていますが、これも素晴らしい!カトリックの女子高の話なので宗教音楽もあり私は大満足。
ただしこれは音楽に関して。シスターたちの修道院生活や信仰については物足りないでした。主を信頼してマリア様の「おことば通りになりますように」と受け入れるのではなく「私たちの力でかえましょう」と言う話は修道院経営の学校以外なら「素晴らしい!」となるのですが。勿論努力は必要です。何もせずに祈るだけではだめです。しかし結果は素直に受け入れなければ。次の赴任地に行くことも喜んで受け入れるのが神に仕える修道者・・・。
修道院総長のやり方は別として、言っていることにも一理あります。というよりもこの総長と同じ決断をせざるおえない修道会は今たくさんあります。教会、修道院、幼稚園、学校が次々と閉鎖されています。この映画では総長はただお金にしか興味がなく、意地悪でそうしているようにしか見えません。しかし現実には自分の好みだけで判断する総長はいません。いつも修道会全体のことを考えています。その責任の重さと苦労は私たちにはわからないでしょう。
兎に角美しい音楽を聴きたい方にはお薦めの映画です。
主の受難の日をなぜ "GOOD FRIDAY"と呼ぶのでしょうか? 調べてみると元々は古い言葉で"Godes Friday "(God's Fridayの意味)だったのが、だんだんと変化して"Good Friday" となったそうです。ここで私の新説を・・・キリストは十字架の死によって私たちが犯した罪の罰を贖ってくださいました。つまり私たちから見ればそれはよいこと=goodです。でもこの説は私の考えなので真に受けないでください。
他に「偉大な金曜日」と呼ぶ国もあるようですが日本語の「聖金曜日」が一番良い呼び名だと思います。"Good Friday"と呼ぶ国では"God's Friday"に変えた方が良いと思うのですが。
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今日は大斎・小斎そして十字架の道行き。午後3時に十字架の道行きをします。教会ではごミサはなく、言葉の典礼(聖書朗読・受難の朗読・盛式共同祈願)と十字架の礼拝があり、そして最後にまじわりの儀(聖体拝領)があります。(*鹿児島ザビエル教会H.Pの案内に[3月30日(金)主の受難のミサ19:00]とありますがミサではありません)
キリストの十字架の死、私たちのために苦しまれ十字架にかけられたキリスト。キリストはこれほどまでわたしたちを愛してくださっている・・・それなのに私は・・・。
聖なる過ぎ越しの三日間、最も大切な三日間が始まります。
午前中は一年間使う聖香油のごミサがあり、司祭様方は叙階の時の司祭の約束を更新されます。聖香油のごミサを水曜日に行う(小教区が遠い司祭のため)教区もあります。離島の多い私の教区も水曜日です。
主の晩餐のごミサでは洗足式もあります。イエズス様は弟子たちの足を洗いました。教皇様が枢機卿様や司教様方の足を洗い、司教様は司祭様方の足を洗うのが無理なく自然だと思います。それだけでイエズス様の意向は十分に伝わります。(現実は違いますが)
「主の小羊の食卓に招かれた者は幸い」という司祭の呼びかけに私たちは「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちのかて、あなたをおいて、だれのところに行きましょう」とこたえ信仰告白をします。皆が主の食卓にひとつに集う、私も招かれている、この大きな恵み、なんと素晴らしいことでしょう。
キリストはロバに乗ってエルサレムへ、人々はヤシの葉を手に歓喜します。
受難の主日、今日から聖週間が始まります。受難の月曜日、受難の火曜日、受難の水曜日そして聖なる三日間と続きます。特に今週は十字架のキリストを意識しながら過ごさなければ。そしてご復活祭をふさわしい心で迎えることができますように。
ところで枝の主日は英語でPalm Sundayと言いますが、palmとはヤシのことですよね。でも日本の南の方ではヤシよりもソテツ(cycads・ソテツ科)が多いせいかヤシの葉の代わりにソテツの葉を準備する教会が多いです。またカトリック聖歌では「~棕櫚(シュロ)の葉を手に持って~
」と歌いますが、棕櫚もヤシ科なのでこちらを使っても良いかと。
私の教会でもソテツを使いますが、この葉は固くてとがっているので痛いです。棕櫚の葉ならこれほど痛くないのですが。隣町の教会ではオリーブの枝を用意していました。これなら痛くなくていいです。ロシアやウクライナにはヤシの木はないのでネコヤナギを使います。これもなかなか良いですね。
多分これがヤシの葉 ⇧
ネコヤナギを祝福する正教会の大主教 ⇧
子どもはみんな可愛いな~
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多分棕櫚の葉で作った十字架 ⇧
こんなpalmもあります。みんなおめかしして可愛い![]()
今日3月19日は聖ヨセフの祭日です。この他に5月1日労働者聖ヨセフの日もあります。
聖ヨセフは生まれた日も亡くなった日もわかりません。殉教したわけでもなく奇跡をおこなったわけでもありません。しかしその生涯は誰にも真似できない素晴らしいものでした。
キリストの養父になることを神から告げられ、それを素直に受け入れ、そしてどんな時にも主を信頼して、聖母マリアとキリストを守りました。
家族を守るたくましい父親像と共に、その深く強い信仰心は正に義の人。聖ヨセフの最後は聖マリアとキリストに看取られたように、わたしも聖マリアとキリストの名を呼びながら最後を迎えることができるように聖ヨセフの取り次ぎを祈ります。
先週あったお花教室の花材はサクラ、ラナンキュラス、ソリコダ、ゴットです。自然の桜はまだ咲いていませんが、生け花用はもう葉が出てきています。桜の愛らしい花を見ると「もう春だな~」と感じます。庭の馬酔木も咲き始めました。
教室の後は年に一度の昼食会。今回は四旬節中にあたりちょっと気が引けたのですが、先生へのお礼の会なので参加することにしました。19日には聖ヨセフのお祝いもするので四旬節中であることを意識してそれなりに楽しめばよいかなと。しかし「ちょっとそれはどうかな~」というような話しも耳に入り・・・それを笑顔で受け止める自分が嫌で、帰宅後はちょっと落ち込みました。でも先生がこの会食を喜んでくださったのならそれで良しとしましょう。
初めての「四季御膳桜花」。普通のお宅をお店にしたお食事処でした。それにしても皆さんよく色々なお店を知っておられます。私はほとんど外食をしないので知りません。
3月は「ひな膳」。前菜は蓬豆腐など。メインにはたらの芽やフキノトウの天ぷら、肉の餡を道明寺粉で包み桜の葉で巻いた蒸し物など春の香りがいっぱい。デザートは抹茶のムースフルーツ添えと珈琲。勿論この他にえびの天ぷらやカルパッチョ、ちらしずしやアオサの吸い物など色々とありました。美味しくて完食。お腹いっぱいになりました(四旬節中だということを忘れていませんか? ヾ(_ _*)反省)。
これからも先生の教えに素直に耳を傾けて、花や緑を愛しながら学び続けようと思います。
私が初聖体の時から舌でいただいていたご聖体を手でいただき始めたのはいつの頃からでしょう。そうしたのはご聖体拝領が舌から手に変更されたと思っていたからです。しかし本当はそうではなく、手で受けてもよいという特別な許可があり、舌で受けるのが本来の姿なのだと知りました。
私は手でご聖体を受け取る仕草に違和感があります。それはよく取り皿がない時に「手皿で失礼します」と漬物や茶菓子を手にいただくことを連想するからです。ご聖体を普通の食べ物と同じように手にいただく・・・。
各国での教皇様のごミサを見ていると国によって大きく違います。韓国や日本人などアジアの国では手で、中南米やアフリカでは舌で受ける人が多いようです。日本では手で受けるように教えられ、舌で受ける人はほとんどいません。でも世界中では舌で受けている人達はたくさんおられます。ならば以前と同じように私も舌で受けていいはず!そうわかった時から何の違和感もなく舌で受けることにしました。普通の食べ物とは違う、キリストの御体・ご聖体をいただくのだから、特別な敬意をもっていただきたいのです。手皿では失礼だと感じるので。
勿論これは私自身が感じることで、他の人も同じとは思いません。ご聖体拝領をどんな形式でいただくにせよ、その心が大切です。キリストの御体という認識と敬意が。