一昨日は2月22日ニャンニャンニャンで「にゃんこの日」でした。我が家のねこたちは毎日庭を駆け回っています。
俊成 ⇧
花子、紫改めスミレ、業平、俊成4匹とも元気だにゃん。スミレはつややかな黒毛の美人。業平はモデル並みのハンサム。俊成は足が短くコロコロしたキュートな子、そして花子は子どもたちに狩りを教える優等生ママです。
先日のこと、何気なく外を見ると花子が食事中・・・いや・・・違う、花子じゃない!「お前は誰?」私と目が合っても食べ続けるにゃんこ。ということは、野良ではなくどこかのお家の飼い猫。最近エサがすぐなくなると思っていたら、どうやら犯人はこのにゃんこ。⇩
我が家の四匹とケンカしなければ遊びに来てもいいよ!(夫は「ダメ!」と言っています)
そこでイエズスは、「では、あなたたちはわたしを何者だと言うのか」と仰せになった。すると、シモン・ペトロが、「あなたは生ける神の子、メシアです」と言った。これに答えて、イエズスはペトロに仰せになった。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこのことを示したのは人間の知恵ではなく、天におられるわたしの父である。それではわたしもあなたに言う。あなたはペトロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。よみの国の門も、これに勝つことはできない。わたしはあなたに天の国のかぎを授けよう。あなたが地上でつなぐものは、天においてもつながれ、あなたが地上で解くものは、天においても解かれるであろう」。(マタイ16.15-19)
ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ.30-32)
今日の福音の一部です。この箇所を読むたびに思います。キリストが罪人を招いたのは悔い改めさせるためだということを。罪人を招いたことばかりに重点を置き、その目的を無視してはキリストの教えは意味を成しません。私たちがそうしようとすると「その人を裁いている」と言われますが、そうではありません。人を裁くのは主のみです。それはその人が間違いに気づくように諭す為です。
灰の水曜日: バジリカ聖アンセルム~聖サビーナ教会行列、フランシスコ教皇様によるごミサ、灰の式です。
YouTube: Pope Francis- Stational rite and Holy Mass 2018-02-14
いよいよ今年も四旬節が始まります。
今日は満18歳から満60歳未満の人は大斎を、満14歳以上は小斎を守らなければなりませんが、私のまわりでは60歳以上の方も病気でない限り大斎を守られているようです。大斎・小斎の意味がよくわかっておられる方は年齢には関係なく実践なさるのでしょう。
復活の主日までに良い準備ができますように、まず祈ること。そして祈り、次も祈る・・・何をするにしても行う前に祈ることを心がけます。
では40日間皆様も良い準備ができますようにお祈りいたします。そして特に教皇様のために祈ります。離婚、再婚者…LGBT…中国のカトリック教会…ユダヤ教…イスラム教…等々・・・教皇様が聖霊の助けによって判断し、そしてキリストの教えを忠実に私たちに伝えて、正しい道に導いてくださいますように。
今月の11日は「世界病者の日」です。それでトマさんのブログに書かれていたことを思い出しました。
「トマさん祈りの部屋」から:トマさんが障害者施設マクシミリアンの園で障害者について話されたことの一部です。
・・・聖ホセマリアは「病人は家族の宝物」と強調していました。・・・障害者は神から選ばれた人たちです。イエスが十字架を背負って人々を救ったように、神は社会を救うために十字架を背負った人を世に送るのです。世話をしてもらわなければ生きていけない存在が、私たちに助け合って生きることを教えてくれます。・・・未熟な社会は自分ファーストですが、成熟した社会は人々が連帯し苦しみをシェアし、大きな家族のような共同体になるのです。障害者は可哀想な人々ではなく、神のメッセージを受けた預言者です。また夫婦に生まれる赤ちゃんのように、社会に生まれる希望の存在です。だから、彼らに感謝をして接しましょう。
毎回トマさんの話に一人頷いています。以前障害のある娘さんを何年もの間監禁して死なせた不幸な事件がありました。残念なことにまだまだ障害を隠そうという考えの人や障害者に対して偏見を持っている人はいます。「障害者は可哀想な人ではなく神から選ばれた人」と、皆が思えるような成熟した社会になりますように。
YouTube: Témoignage de Sophie
以前にも紹介したビデオです。これを見れば聖ホセマリアのことばは真実だとわかります。
ごミサが楽しければ大人も子どもも教会へ来ると思い・・・・
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教会は笑いにつつまれる・・・・でもいつか
ある人達は教会の外にはもっと面白いことがあるのを思い出して・・・
教会に残ったのは真理をよくわかっている人達だけ・・・
歌って踊りたいのならパーティーやコンサートに行けばいい。
おもしろい話を聞きたいのなら漫才を見ればいい。
マスクプレイ(人形劇)を楽しみたいのなら「劇団飛行船」を見に行けばいい。
十字架上でご自分をいけにえとしてささげられたキリストの御体と御血がパンと葡萄酒の特別な形態で現存するごミサに与りたければ教会へ行くでしょう。
忘れてはいけません、「ごミサの中心はキリスト」です。
ダビデが踊ったのは人々のためではなく主への賛美と感謝のため。自分の楽しみのためでもなく群衆を喜ばすためでもありません。歌うのも同じ、人達に聴かせるためではなく主への賛美と感謝でなければ。ごミサは世間一般の集まりや会とはまったく違うでしょう。ヴァチカンでの教皇様のごミサで笑いはありません。
2月2日 主の奉献(聖燭祭・Candelaria)ミサ:聖ペトロ大聖堂
今日は「日本26聖人殉教者」の祝日です。当時の信徒たちはなぜ危険を冒してまで教会の秘跡に与ろうとしたのでしょうか。当時の信徒たちと今の私たちは一体何が違うのでしょうか。
今日は主の奉献の祝日(Candelaria)です。
律法によれば初子はすべて神のもので神に奉献するよう決められていました。そこでヨセフとマリアも律法を守り、マリアの40日の清めの期間(出産した女性は40日目に清めの式を行う)が終わると、初子イエズスをささげるためにエルサレムの神殿へ向かいました。そこで出会ったのがシメオンとアンナです。
シメオンと言えば頭に浮かぶのは「教会の祈り」で毎晩寝る前に祈る「シメオンの歌」です。
神よ、いまこそ あなたは おことばのとおり、
しもべを安らかに行かせてくださる。
わたしは この目で あなたの救いを見た。
あなたが万民の前に備えられた救い、
諸国の民を照らす光、
あなたの民イスラエルの光栄。
Candelariaとは聖燭祭=主の奉献のことです。ロウソクの祝日ともいわれています。ヨーロッパやアメリカの教会では今日のごミサで信徒が持って来たロウソクを祝福してもらえます。⇩
(写真:Fr.Zより)
家庭では窓辺にたくさんのロウソクを飾ります。
「世界平和の日」の1月1日に教皇様が配るように望まれた「焼き場に立つ少年」の写真カードです。
これは1945年アメリカの従軍カメラマンジョー・オダネル氏が撮った写真で、この少年が誰か、その後どうなったかはわからないそうです。
戦争は残酷です。勝った国の人も負けた国の人も、そして巻き込まれた国々の人も、すべての人達が苦しみ、悲しみ、痛みを負いました。
憎むのは相手や相手の国ではなく戦争です。相手の国を憎むよりも共に戦争をくり返さないように努力すべきではないでしょうか。自分に起こった悲劇が他の人にまた起きないように。キリストが自身を十字架につけた人たちを赦したように、私たちはそう簡単にはできなくてもそうするように努力すべきです。それがキリストを信じる人の生き方でしょう。
原爆を投下した人やアメリカを責めるのではなく、二度とこのような犠牲者が出ないように核兵器その物の廃絶を訴えている長崎・広島の原爆犠牲者の方々の意識は高く立派だと思います。
過去を変えることはできません。しかし未来は自由につくることができます。平和な未来を望むならそれを実現するために努力することが大切だと思います。
使徒行録の中で聖パウロは自分の回心について語っています。
わたし(パウロ)は、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。ダマスコにいるキリスト者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するためにダマスコへ出かけました。
ダマスコに近づいた時、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。
『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。
『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われた。
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アナニアは言いました。「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」(使徒行録22:3~16)
サウロ(聖パウロ)はキリストの声を聞き、回心して、自分が今まで迫害してきた人達が信じているキリストについて宣教し始めました。しかしキリストを受け入れないユダヤ人たちにとってはサウロは裏切者です。彼らから何度も命を狙われたようです。
主はサウロ(聖パウロ)を選ばれました。この聖パウロの回心の箇所を読むたびに主の計らいは私たちの考えの及ばない素晴らしいものだと思います。
神の計らいは限~りなく生涯わたしはその~中に生きる~~
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大寒の今日は暖かな一日でした。以前から夫は温泉に行きたがっていたので出かけました。いつもの船津温泉家族湯です。
何といってもここにはサウナがついているのが魅力です。夫はこのサウナが目当て。何度も入っていました。
温泉は体の芯まで温まり、帰宅後は二人共すやすや( ˘ω˘ ) ( ˘ω˘ )
夫は外でお酒は飲まない、外食しない、美食家ではない、ゴルフやパチンコなどしない、ほとんど何も買わない(欲しがらない)、質素な生活が好き。ですからこの家族湯は夫にとっては唯一のささやかなぜいたくですね。
ところで今年の「灰の水曜日」は2月14日、そうSt.Valentine's Day 。早々に「チョコレートは無し」宣言をしました。![]()
タイに行っておられる司教様のブログに「拝聴すべきみ言葉」と言うお話が書かれていました。タイではみ言葉の時には司祭も子供も大人も皆胸の前で手を合わせて拝聴するとありました。鹿児島教区でもそうしようと呼びかけたら冷笑を買うだろうか・・・と。
えーっ!冷笑する人がいるのですか?手を合わせてみことばを聞くことは当たり前だと思っていました。手を合わさなくてもせめて祈りの姿勢で、そして冊子は閉じて。
以前にもそれについて詳しく書かれているカトリック荻窪教会学校新聞『こもれび』の「いっしょに学ぼうミサのこと」を載せました。今日はもう一度載せます。皆さんよ~く隅から隅まで読んでくださいね。
ついでに白浜司教様が典礼勉強会で奉納行列の時には座るように、それは行列であってまだ奉納ではない。その後の奉納の時に起立するように。そうすることによってメリハリをつけて奉納がよりはっきりと現されると。でもね、せっかく白浜司教様が指導してくださっても神父様方や典礼委員の皆さんには伝わっていないのですよ。残念 ![]()
どうでもよいことなのですが、アメリカの刑事ドラマを見ていて気づいたのです。
よく主人公が家のドアを蹴破って入るシーン、これって日本では無理ですよね。少なくとも我が家のドアは蹴破れません。もし蹴破ろうとしたら足を骨折するかも。
なぜなら我が家の玄関ドアは外に開くから。蹴破れるのはアメリカやヨーロッパのように内側に開くドア。
ホテルの部屋のドアは日本でも内側に開くようです。外開きにするとたまたま廊下を通っている人に当る可能性があるから。台風の時には玄関ドアは外開きの方が安全ですね。
どちらのドアにしても良い点悪い点があるでしょう。本当にどうでもよいことでした。![]()
こちらは内、外、両開き、便利だにゃん。(誰のお家か知りません)
YouTube: Pope Francis Holy Mass Baptism of the Lord 2018-01-07
主の公現の日、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂で行われた赤ちゃんの洗礼式です。ウ~ンかわゆす!
赤ちゃんの洗礼はいつ見ても可愛くて、心を和ませてくれます。赤ちゃんを中心にお父さんお母さんそしてお兄ちゃんやお姉ちゃんの愛に包まれた幸せいっぱいな家族を見ると、本当に心が温まります。
今日は主の洗礼。「なぜ神の子、罪のないイエズスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのか?」疑問を持つ人もいるでしょう。
私たちの洗礼は洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた」と人々に語ったように、自分の罪を悔い改め、回心のしるしとしての洗礼でした。
イエズスは勿論罪はありませんし、回心する必要もありません。イエズスの洗礼は「・・・イエズスも洗礼を受けられたが、そのとき祈られると、天は開け、聖霊ははとのような形をとってその上に下り、『あなたはわたしの喜びとする私の愛する子である』言う声が天から聞こえた。(ルカ3;21~22)」と聖書に記されているように、イエズスが神の子としてはっきりと現されるためでした。そしてイエズスが神の子として神のメッセージを伝える預言者としての活動をはじめることをはっきりとあらわしています。
主の洗礼:Giotto