「トマさん祈りの部屋」のトマさんの話しにはいつも教えられます。自分の目が見えるように、耳が聞こえるようになった気分です(TomaPさんのブログではありません。お間違えの無いように)。
今日読んだのは大分教会でのカテキズムの勉強会での話です。題は『自由と道徳』とありますが、自由と信仰のお話です。
以下その話の抜粋
人間は善と悪、どちらでも選択できる自由が与えられています。・・・信仰は個人の自由から導き出されます。だから、自由の考え方が違えば、同じ「信仰」という言葉を用いても、中身は正反対になることもあります。・・・それが信仰のあり方にも現れています。神を信じて祈りますが、祈りの中身は、自分の願い(欲望)が叶うことだけです。聞いてもらえなければ、別の神を探して願います。こうして、自分に都合の良い神を信仰することになります。その典型が「ご利益(りやく)」信仰です。・・・最近増えているのが、社会生活(仕事や人付き合い)に疲れ、そこから逃げ出して自分にとって居心地がいい場所として宗教に頼るケースです。苦しみから逃げ、「癒し」だけを求めて信仰に入るのです。信仰が自分中心になっています。それは無責任でセンチメンタルな信仰です。
キリスト教的な自由とは、自分勝手でわがままな自由ではありません。自由とは『選択できること』が前提ですが、選択が自由の本質ではありません。自由の本質は「自分から善を選択すること」です。・・・選択自体に価値が有るなら、選んだ後は「選べない」ので不自由になります。しかしそうではなく、幸せになります。それは選んだ善を愛し続けるからです。「愛する」とは、「善を連続して選び続けている状態」です。
このような自由から生まれる信仰は、最高の善である神を選び、愛することです。自分が神の望みに応えて変わっていく努力をします。・・・その結果、信仰を通して「ゆるすこと」「仕えること」「苦しみを受け入れること」ひいては「自分の望みを捨てて、神に従うこと」になっていきます。苦しみから逃げるのではなく、乗り越えます。悲しみがあるのに、心に平和が戻ります。これこそが真の信仰の姿です。(2017/04/08 大分教会カテキズム勉強会「自由と道徳」より)
洗礼を受けてもすぐに教会から離れてしまう人の原因の一つが、何を求めて信仰に入ったかではないでしょうか。「癒し」だけをもとめて洗礼を受け、苦しみや悲しみを乗り越えることができないとしたら・・・。
カシァ(Cascia)の聖リタは妻、母親である私たちにとってとても身近な聖人です。
彼女は夫の暴力に苦しめられました。しかし彼女は夫と別れるのではなく、夫の回心のために祈り続けました。ついに夫は回心しましたが、それまでの政敵によって殺害されました。息子たちは復讐に燃えましたが彼女は息子たちのために祈り、彼らの復讐を思いとどまらせたのです。しかしその息子達も死に彼女は結婚前から望んでいた修道会に入りました。
自分一人ではどうすることもできない苦しい時は相手のために祈ることを聖リタは教えてくれました。自分を苦しめる人を許しその人のために祈る、とても難しいことですが聖リタは身をもって私たちにしめしてくださいました。聖リタに倣いましょう。
フランシスコ教皇様はやっとメジュゴリエの聖母出現について答えられられました。それは私が思っていた通りの答でした。「メジュゴリエに疑問」!
[以下ポルトガル訪問後の教皇特別機上5月13日CNSの記事より抜粋】
ファティマ訪問後の機上で、メジュゴリエでの最初の聖母出現の証言について調査が進行している中、教皇フランシスコは5月13日、ボスニア・ヘルツェゴビナの村でマリアが現れ続けているとする主張には疑いを抱いていると明言した。・・・
カミッロ・ルイーニ枢機卿が率いる調査委員会の報告に言及し、「その報告では疑問が呈されていますが、個人的には、私はさらに疑っています」と教皇は記者団に語った。
「私は母としての聖母が好きなのです。私たちの母です。電報局長のように予告した時間にメッセージを送ってくる聖母ではありません」
「これはイエスの母ではありません」と教皇は続ける。「そして、こうした出現の主張には大切な価値はありません。(81年6月にメジュゴリエでマリアを目撃したと主張する6人の若者たちのうち3人は今も聖母が毎日現れ続けていると言い、他の3人は、今は年に一度だけ現れるとしている。)
メジュゴリエ信奉の方は目を覚ましてください。フランシスコ教皇様もはっきりと否定しておられるのですから。
聖母のご出現が本物であるか偽物であるかを見極めることは難しいことです。わたしも当然できないことです。でも疑わしいと思う決め手はあります。それは
① 聖母のメッセージの内容
② メッセージを受けた人のその後の生き方
この2点です。メッセージの内容は今までのカトリックの教えに反していないこと。メッセージを受けた人はその後すべてをキリストに捧げる生き方をしている。ルルドとファティマは問題ありませんがメジュゴリエは残念ながらどちらにもひっかかります。神学校で勉強していない平信徒の私でもわかることです。
「〇〇さんには毎日聖母が現れます」とすごいことのように話される人がいます。毎日聖母が現れることが素晴らしいのでも無く、価値あることでもありません。聖母が現れなくても聖なる生き方をされている方はたくさんおられます。毎日聖母が現れる・・・だから何?
弱い人々のために (バルバロ神父)
キリストは、「弱い人々」のために来た。それは真実である。そのためにキリストは、「神のあわれみ」をわれわれに教えた。しかしキリストは一度も、人間の弱さをあおったことはない。むしろ「自分の生命を救いたいなら、それをすてよ」と教えたではないか。キリストにとって死は、「恐るべき最後」ではなくて、新しい生命へのかど出であり、それが、キリスト教の中心である「よみがえり」の意味となるのである。
サルトルの無神論的実存主義の結論が「すべてはナンセンス」であるということをここで皆考えてみてはどうであろうか。サルトルの考えでは、神もなく、来世もなく、すべては無意味な、その混沌の中で、人間は自分の力で自分を救わねばならないのである。人間のことを、この世だけで解決するのが、その思想の根本である。こう考えてくれば、たしかにふみ絵も、人間の作ったばかばかしいものであるから、それをふんでもかまうまい、無意味なことなのだから。
しかし、こうなれば、もうキリスト教ではなく他の宗教である。もうキリスト教はない。
* * * * * * * * * *
小説『沈黙』に対するバルバロ神父様の考えです。神父様の考えはよくわかります。今、特に映画公開後バルバロ神父様と同じような意見は言えない雰囲気です。それはあまりにも「人間の弱さ」をあおるような話しをする信徒や司祭が多いからです。
今月25日の聖人パッジの聖マリア・マグダレナは重病・精神的苦痛・絶望への誘惑・多くの耐え難い苦しみを受けましたが、彼女は「死よりも苦しみを」と祈りました。テクラ橋本やパッジのマリア・マグダレナのような人がいたことを忘れてはなりません。
今月初めに五つ子ちゃんが生まれました。お母さんは花子、お父さんはトラ次郎です。お母さんとお父さんの遺伝子をしっかり受け継いでいる毛並みです。
花子がお出かけの間にこっそり写しました。にゃんとかわゆす
まだ目も見えないのでおとなしいですが、5匹がよちよち歩き出すと花子は目が離せなくなります。カラス、たぬき、イタチなどの天敵に一番怖いのが車。子育て頑張れ花子!
命の誕生といえば必ず死があります。猫などの動物とは違い人間は死が必ず訪れることを知っています。ですから自分の死について、またその準備について考える人もいるでしょう。
昨日はIさんの葬儀がありました。Iさんは思いやり深くて、特にとても謙遜な方でした。
他人の葬儀に参列すると、自分の葬儀について考えてしまいます。そのことを夫に話すと「そんなことは心配しなくてもいいよ。いくらああして欲しい、こうして欲しいと言っても、あなたは死んでいて自分の思い通りには何もできないのだから残った人に任せなさい」といわれました。確かにその通りです。今思いわずらっても仕方ありません。葬式より死までどう生きるかが大切なのですから。とはいってもつい色々と考えてしまう私です。
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)
これは先週金曜日の福音、そして今日の福音も同じ箇所が読まれています。「キリストを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と、キリストははっきりと言っています。
そしてイエズスは弟子たちに言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。
これがキリストの教え=キリスト教です。この言葉を無視するならその教えはもはやキリスト教ではありません。
話は全く違いますが、わたしはある歌が大好きで、この歌を作られた方にお会いした時にその方が「これは自分の作った作品の中で特に好きな歌なので歌集では18番(十八番おはこ)にしました」と言われました。確かに歌集では18番目になっています。
私は大好きなこの歌を口ずさむたびに少しひっかかるところがあります。その箇所とは出だしのところ。
キリストのように神から生まれて~ と言う歌詞です。キリストは三位一体の神、私たちは神の被造物なのでこの歌詞は明らかに不自然。ここ以外の歌詞と曲はとても良いのに。わたしが気にしすぎでしょうか?何も気にせずにさらっと歌えばよいのか、勝手にここだけ歌詞を変えようか・・・たいしたことではないのですが悩んでいます。
今日13日はポルトガルのファティマで三人の子どもに聖母がご出現されて100年。
ファティマではその中の二人フランシスコとヤシンタがフランシスコ教皇によって列聖されました。
三人の牧童は聖母から「人々が肉欲や傲慢などの罪から回心しないままでいると永遠の地獄へと行く。そして人々が生活を改め罪を悔い改めないなら、さらに大きな戦争が起き(第二次世界大戦のこと)、沢山の人が死に、そしてその多くの人が地獄に落ちてしまう。また教皇暗殺の危機もある」と告げられました。教皇庁はこれらのお告げに対して、人々は回心してよく告解をして罪を避けて敬虔な生活を送るように、ロシアを聖母に奉献し、世界の平和のためにロザリオを唱え、毎週主日に聖体拝領をするようにと勧めました。
マリア様がロザリオの祈りの各連の終わりに付け加えるようにと依頼された祈りが「ファティマの祈り」です。
ファティマの祈り
ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より護り給え。また、すべての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。アーメン (文語)
主イエス・キリスト、私たちの罪を許して下さい。私たちを滅びから救い、すべての人々、ことにおん憐れみを最も必要としている人々を天国に導いて下さい。アーメン。(口語)
O my Jesus, forgive us our sins, save us from the fires of hell, lead all souls to Heaven, especially those most in need of Thy mercy. Amen.(英語)
Domine Iesu, dimitte nobis debita nostra, libera nos ab igne inferiori,perduc in caelum omnes animas, praesertim eas, quae misericordiae tuae maxime indigent. Amen.(ラテン語)
あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。(ヨハネ10:26~30)
今日の福音箇所です。キリストははっきりと言われます。「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。・・・わたしと父は一つである」。
キリストを信じて彼の羊となるということは、キリストを信じて洗礼を受けることです。そして信じてキリストの羊の群れの仲間になることは父のみ旨でもあるのです。
韓国では羊の群れがまた増えました。去年は8万6千人強増えて約574万人に。これは総人口の10.9%にあたるそうです。日本では?御父はキリストを信じなくても、その群れに入らなくても良いとは言っていないのに、まるでそう言っているかのようなことを耳にします。「『信じる人は救われる』『踏み絵を踏まない人は救われる』と言うのは原理主義者、なぜなら御父はすべての人を救われるから」とまで言う司祭がいます。これではキリストを信じて洗礼を受けて羊の群れに加わる意味はなく、今まで通りの生活を続けていれば良いことになります。
御父はすべての人が救われることを望んでいます。しかし「キリストを信じる人に永遠のいのちを与える」と、はっきり言っています。
すべての人が滅びることがないように永遠の命を受けてほしい。特に自分が大切に思う人に。信者の親が自分の子どもに幼児洗礼を望むのは、親自身が最高の物、一番良いと信じているもの、永遠のいのちを愛する者に与えたいからです。
京都国立博物館で開館120周年記念特別展「海北友松(かいほうゆうしょう)」が今月21日まで開催されています。
昨晩のラジオの放送で知りました。そもそも京都国立博物館が開館したのが明治30年(1897年)、その目的は当時廃仏毀釈で破壊される優れた寺の作品を寺から預かり守り保存するためだったそうです。
海北友松は武将海北綱親の息子で父が戦死した後禅門に入り、絵の才能を見出され狩野派の絵師となり、その後狩野派を離れ独立しました。 放送では海北友松と展示作品について学芸部長山本英男氏のわかりやすい解説があり、それを聴いていると作品を見に行きたくなりました(勿論無理ですが)。
友松については葉室麟さんが小説を書いているので、それを読みます。
この展覧会は今までにない大規模なもので、これだけの作品が一堂に会することは今までなく、おそらくこれからもないとのこと。見に行ける方は是非!
聖ホセマリアは聖書が語っていること以上の話はしません。すべて聖書が語っていることをもとにわかりやすく、丁寧に話しています。
だからこそ世界中の多くの人が彼に引き付けられ、彼の話を聴きたいと思うのです。私も聖ホセマリアの『道』をくり返し読みます。特に信仰について疑問を持つ話を聞いた時や、信仰心が萎えてきた時には必ず読みます。
例えば、近年「煉獄を見た、苦しむ霊魂を見た」「霊魂が救われて天へ上るのを見た」「私は聖霊降臨を体験した」などと言う人の多いこと。極めつきは新興宗教教祖の元妻がカトリックの洗礼を受けた後エルサレムに行って「自分の後ろに聖霊が降臨している写真」というものをアップしたこと。???聖ホセマリアは書いています。
362 私には奇跡はいらない、福音書にある奇跡だけで充分だ。それよりもむしろ、義務を遂行し、神の恩寵に応えるあなたが欲しい。
384 迷うな!あなたの判断がぐらつくのを見て、書き送った。・・・「悪魔はたびたび気品のある仮面、時には霊的な仮面までつけてしのび入るのです。」
と、私がいくら書いても多くの人は『道』を読もうとはせずに、奇跡を求め、奇跡の話に心奪われるのです。
昨晩読んだ『道』から一つ、
309 神の正義にはどれほどの憐みがあふれていることか。人間の裁判で罪を自白すると罰せられる。神の裁きで告白すれば赦される。聖なる告解の秘跡を賛美しよう。
「トマサン祈りの部屋」から(2017/04/23大分教会、復活節第二主日・英語ミサ説教)
ある小学生が詩を書きました。『もし、ぼくが神様だったら・・(略)・・みんなをしあわせにする。でも、不幸な人がいっぱいいる。それは、神様がいないからです。』
これが世間一般の考えでもあるでしょう。でも、キリストは真っ向から反対して言います。「見ないで、信じる者になりなさい」神様はいます。・・(略)・・カトリックが教える救いとは、人間の望み通りになることではありません。イエスと共に苦しみ、イエスと一緒に復活することです。「私に従いたい者は、自分の十字架を取って私に従え!」とイエスは教えています。
繰り返しますが、望みが叶うから信じるのではありません。群衆の一人がイエスに言いました。「十字架から降りてみよ。そしたら信じる」と。イエスは降りませんでした。だから、あの人は信じませんでした。自分の願いが実現しないと信じない人です。私たちは逆です。イエスが十字架から降りないから信じるのです。私の代わりに十字架に残られたからです。それが復活したイエスの手と足に釘の傷跡が残された理由です。救いの印であり、信じる印です。・・(略)・・信仰は、神の望み通りに自分の生き方を変えることです。神様が苦しみという十字架を取り去り、人間が楽をすることではありません。その反対です。困っている人がいたら、神ではなく自分が助けるのです。貧しい人がいたら、神ではなく自分が持ち物を差し出します。あの小学生は「もし、僕が神様だったら」と書きましたが、「もし」ではなく、その通りなのです。神が人のうちに居て、一人ひとりが神のように振舞うことが信仰の生き方です。・・(略)・・復活したイエスは「見えない」けど、あなたと共に生き、働いています!アーメン■
大分教会の信者さんたちは幸せですね。いつもこのような良い説教が聴けるのですから。「トマさん祈りの部屋」はいつも私の信仰の間違いを正し、教え、励ましてくれます。
「見ないで信じる者になりなさい」見て信じることしかできない人が、見ないで信じる者となれますように。アーメン。
「聖堂は祈る場所。聖櫃にはキリストが特別なかたちで現存しています。聖櫃のある聖堂ではおしゃべりは慎みましょう」
子どもでもわかることを今更大の大人に言わなければならないなんて恥ずかしいのですが、これが現実。特にごミサの前に普通にお喋りをしているあの騒々しさ。静かに祈りながらごミサを待つ教会が普通ですが、そうでない教会もあるのです。
聖堂は集会室ではありません。おしゃべりをしたければ聖堂の外でお願いします。外で一週間の出来事、友達や家族について気のすむまでおしゃべりをして、聖堂に入ったら静かに。大切な用事がある時には小声で手短に。大人の常識が今や常識でなくなっています。
聖堂に入ったら静かに祈りましょう。静かに静かに静かに
教皇様はエジプトに行かれました。先程ごミサの中継が終わりました。
YouTube: 2017.04.29 - Celebration of Holy Mass
(ごミサが始まるのは26:30頃からです)
このごミサで福音朗読はもちろんですが入祭や聖体拝領の独特の節まわしの聖歌を初めて耳にしました。これは祈りです。聖歌は正に祈りであると実感しました。アレルヤ唱は現代ポップス調でミサ全体に合わないような、祈りというよりノリのいい音楽・・・残念。
テロで犠牲者が多く出ているエジプト。パパ様の訪問はエジプトのキリスト教徒にとって特別な恵み、苦難に耐える信仰の恵みでしょう。エジプトの平和のために祈りましょう。
今日はヨーロッパの守護聖人、シエナの聖カタリナ(カテリーナ)おとめ教会博士の記念日です。
キリストから宝石の冠と茨の冠とを差し出され、その場でひざまずき、茨の冠の方を選んだ聖カタリナ。彼女はピサで聖痕も受けています。
ドミニコ会の第三会員であった彼女は裕福な家庭に生まれました。幼い頃からキリストの花嫁になることを決め、親が薦める結婚には見向きもしませんでした。彼女の禁欲の行は有名です。隠遁生活をやめた後は病人や貧しい人達のために働きました。また彼女は囚人たちのために信仰の教えを説き多くの死刑囚が回心しました。彼女は地獄、煉獄、天国などの多くの幻視も受けた聖女です。
「私は十字架に磔にされたキリストによってどんな事でも行えます。なぜなら、キリストはご自分の被造物に対し、彼らが耐えられない重荷は置かれないと知っているからです。」(シエナの聖カタリナ)
今時こんなことが大事?私は知りませんでした。皆さんは知っていましたか?
ローマ教皇に謁見する時は黒の服と黒のベールが決まりだそうです。しか~し「白の特権」というものがあり、スペイン王妃、ベルギー王妃、ルクセンブルグ大公妃、モナコ大公妃、リヒテンシュタイン公妃、サヴォイア家(イタリア王国の王家)プリンセスは白い服と白いベールを身に着ける特権があるそうです。特権のない人が白い服や白いベールを身に着けて教皇に謁見すると無知だと非難されるとか。ただし非難するのは教皇庁や特権のある人ではなくて、なぜかジャーナリストや庶民ですね。
何色の服を着ていようと教皇様は全く気になさらないでしょう。カトリックの教えとも関係のないことです。特権好きの特権階級のお話でした。おしまい。