「イエズスの聖心」の信心は17世紀にフランスで広まりました。聖マルガリタ・マリア・アラコクがキリストからの啓示を受けたことに始まります。
彼女にキリストは茨に巻かれ十字架を戴き炎に燃え立つご自分の心臓を示して「人々を愛するために多くの苦悩をしのんだ私の心。しかし彼らは冷淡で、受けた恵みを忘れ、私の心はこの世の罪で傷つけられています」と言われ、彼女にその償いを命じられました。
その償いとは、聖心の特別な祝日を定め、毎月の最初の金曜日に聖体拝領をして、毎木曜日の晩の聖時間を守り、家庭を聖心に捧げることです。
初金のごミサに与りたくても学生や勤めている人には難しいです。6月は「イエズスの聖心の月」です。初金のごミサに与ることができなくても、いつもイエズス様の愛を理解し、敬い、聖心を生きるように、キリストの恵みに感謝して過ごすことが償いとなるでしょう。
今日は聖トマス・モア殉教者の日。聖トマス・モアについては学校の歴史の授業で習ったので皆さんよく知っているでしょう。英国宰相の彼は国王ヘンリー8世が離婚したいためにローマカトリック(離婚を禁じている)から離れ英国教会の首長になろうとしたことに反対したために、ロンドン塔に監禁され処刑されました。彼が殉教する前に言った言葉は有名です。「私は国王の忠実な僕として、しかしその前に、まず第一に神の忠実な僕として死んでいきます」。
カトリック=キリストの教えに忠実であろうとすると、主の教えか、人間の望みか選ばなければならない時があります。曖昧であってはいけません。
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同性愛の傾向がある人達も同じです。私が今まで書いてきたことで誤解をしている人がいるかもしれません。
はっきりしておきたいのはカトリックは同性愛者に不寛容ではないということです。カトリックでは同性愛の傾向があること自体は罪ではありません。同性愛的傾向があるからと言って聖体拝領ができないのではありません。聖体拝領はできます。ただし同性愛の生活をしていたら別です。つまり同性同士で性関係を持ったり、同棲していたりしたら聖体拝領はできません。このような生活は罪の状態です。これは異性間でも同じです。大罪を犯したり罪の状態にいる人は聖体拝領はできません。
カトリック信者の中にも同性愛の人はいますし、自ら選んで善い信仰生活をしようと努力している素晴らしい人はたくさんいます。
ここに一冊の本があります。この本の序文を書いたサラ枢機卿が司教や司祭に是非読んでもらいたいと言っています。(日本語訳を望む!)
ご聖体訪問をするたびに一人で教会の庭の草取りをしている方を見かけます。帽子を深くかぶりマスクのようなもので顔を覆っているのでどなたかわかりません。先週声をかけたところようやくわかりました。
彼女は「これ(草取り)は私の祈りですから」とごく自然に答えられました。すばらしい信仰ですね(だからといって「皆さん草取りをしましょう」と言う意味ではありませんよ)。自分の仕事を祈りに変えられる素晴らしさです。久しぶりに信仰の人を見ました。
丁度今日の福音と重なりました。「他人の前でよい業を行って人に見せびらかさぬように気をつけよ。そんなことをすれば天にまします父からの報いはいっさい受けられぬ。だから施しをするときには、偽善者の人が尊敬を受けようとして会堂や町でするように、自分の前でらっぱをならすな。・・・」(マテオ6:₁~₂)人に良く思われたいがために善行をする人は沢山います。その人達は他人から評価されることを喜びとします。また他人から悪く思われたくないから仕方なくする人も。しかし彼女は違います。私も彼女を見習わなければと思いました。
オプス・デイのホームページに載っている属人区長オカリス神父様の今月の手紙は「家庭」について書かれていました。
カトリックの教えでは「男性と女性の異性が結ばれるのが結婚」です。しかし世の中は同性の結びつきを異性間の結婚と同じに考え、同性の結びつき=結婚という法律を作る国や州が出てきています。多くの人達はそれを進歩的と言っているようです。
このような風潮の中でオカリス神父様は私たちに励ましの手紙を書いてくださっています。それはまさにパウロが各地の教会の信徒たちに手紙を書き励ましたのに似ています。
オプスデイ属人区長オカリス神父様の手紙より抜粋
多くの人は、男性と女性が一致するために神が計画された結婚を、時代遅れ・・・単なる一つのモデルに過ぎないと考えています。しかし私たちは希望で満たす必要があります。家族についての真理の光は、神が人の心に刻まれたものですから、嵐の最中にあっても、道は、常に開かれていくのです。
・・・聖ホセマリアの言葉「キリスト者の仕事、それは豊富な善で悪を溺れさせることである。それは、否定的なキャンペーンをしたり、何々反対を叫んだりすることではない。そうではなくて、楽観に溢れ、若さと喜びと平和に満ちて、肯定をモットーに生きることである。すべての人を、すなわちキリストに付き従う人も、キリストを見放している人や彼を知らぬ人も、理解する心で見ることである。とは言え、理解するとは、不介入や無関心な態度をとることではなく、行動することである」。多くの家庭が遭遇している、また家族制度自体にも見られる困難を嘆いて、落ち着きや不屈の精神を失うことなく、強さと専門性を持って、キリスト者の家庭を守り促進するよう努めましょう。これは私たちだけの問題ではなく、神に関わることであり、代々に関わることでもあります。家庭も結婚も聖性の道です。・・・聖性への召し出し、それは幸せです。家庭は愛が生まれる場です。私たちが築いたり築かなかったりということ以前に、家庭には神の愛が私たちの人生に最初に現存する場なのです。・・・「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(1ヨハネ4,19)。父性と母性は、私たち一人ひとりが誰であるかを、神の贈物であり、愛の実りであることを教えてくれます。家族生活で起こり得る多くの困難の最中で、他の人々は神の贈物であることを自覚し、知ることで、彼らをもっと愛するよう仕向けられます。そして社会は、いつも、この無条件の愛を必要としています。・・・
オカリス神父様の手紙は続きますが、前半の部分で十分に伝わるでしょう。「世の風潮を嘆き憤るのではなく、神の賜物を信じて、家庭は神の愛が現存してることを信じて生きなさい。結婚も聖性の道であることを自覚すればそこには愛が生まれます」と。私はオカリス神父様の手紙を読んで励まされました。
「キリストの聖体の祝日」は三位一体の祭日後の木曜日に祝われていましたが、近年日曜日に移動しました。
今日初聖体を受けられた子どもたちおめでとうございます。一生心に残る日となるでしょう。きっとイエズス様について沢山お勉強したと思います。
ご聖体の中にはイエズス様が特別なかたちでおられます(現存しています)。そう信じている子は聖櫃(せいひつ)にはイエズス様がいらっしゃることを知っているので、その前でお祈り(イエズス様とお話)をするでしょう。きっと聖櫃の前を通る時にもイエズス様に頭を下げてあいさつをするでしょう。
また長い間ごミサに与らなかったり(主日のミサに病気などの特別な理由がないのに行かないのは罪)、大きな罪を犯したときには必ずゆるしの秘跡を受けてからご聖体をいただきましょう。そうしないとイエズス様に対してもっと大きな罪を犯してしまうことになりますから。お父さんやお母さんがこれらのことを忘れていたら教えてあげましょうね。
アブリ神父様は「機会があればいつも秘跡のうちにおられるイエズスを、短時間でもよいから訪問して尊敬しよう。カトリック教会のそばを通るときは、短い賛美の祈りをとなえ、主にあいさつしよう」と勧めています。
聖ホセマリアも同じことを言っています。「主のおすまいとしての教会の屋根や塔が遠くに見えたとき、・・・主はそこで待っておられる」。「聖体訪問をやめてはならない。いつもの祈りのあとで、聖櫃にいますキリストに、日々の心配ごとを打ち明けよ。そうすれば、信仰生活を続けるための光と励ましを受けるであろう」。
聖体の祝日に子どもが初聖体をする教会が多いです。初聖体は特別に嬉しいものです。様々な国での初聖体の模様を!
フィリピンとヴェトナム
おまけ:初聖体お祝いケーキ
チャールズ・ポープ司教様の書かれた現代の8つの誤りは勿論教会内の誤りについてです。
今は「神の慈悲はすべての人にある」と言われていますが、本当は「悔い改めた人には誰にでも神の慈悲がある」。愛と優しさについても、優しさだけが愛なのではなくて優しさは愛の一部。だから何でも肯定するのではなく時には叱責、罰も愛である。また寛容や普遍主義の誤解、人類中心主義などについて書かれていて、どれも「その通り!」と、頷いてしまいます。
新しいイエズス会の総長様は「悪魔はいない」と話されたとか・・・。これは9つ目の誤り?
アメリカでは同性愛者カップルにご聖体を授ける司教もおられるとか
教会のために聖霊の恵みをもっともっと祈らなければと・・・。また教皇様や高位聖職者の方々のためにも祈りましょう。私たちを教え導く方たちですから。
郡山司教様のブログにおもしろいことが書いてありました。カトリック婦人連合を女性連盟と改名した理由についてです。
改名した人たちの理由に司教様も失笑したとか。読んでみて私もちょっとあきれました。キリストの教えを知っているカトリックの人がこんなことを言うとは。世のフェミニストと同じ。
婦人の「婦」は女+箒(ほうき)、箒を手にして掃除をする人という差別的イメージを与えるのでふさわしくないというもの。しかし司教様が調べたところ本来の意味は「箒は掃除のためではなく、酒を含ませて廟(祭儀を行うところ)を清めるためのもの」で、婦とはその役を担っている女性のことだそうで、「婦人」は差別どころか女性の地位と役割を明確に表すものとか。
私はそもそもカトリックの人が女性が箒をもって掃除するすることを差別的なこととしてとらえていること自体理解できません。箒で掃除することは立派な仕事です。会社や学校、病院等で働く女性の仕事だけに価値があるのでしょうか?フェミニストたちは何でも「差別差別」と声高に言います。それは彼女たち自身が一番女性を貶めていることに気付いていないのでしょうか。
カトリックの中に「女性の司祭がいないのは女性差別」と騒ぐシスターや女性信徒がいます。女性の司祭がいないのは差別ではありません。理由は別です。そもそもカトリックの中に女性差別はありません。キリストは差別そのものを否定しています。それどころ女性の地位を高めました。神の母となった聖母マリア、キリストが復活後に初めて姿を現したのはマグダラのマリア。サマリアの女性とキリスト等々。
話がずれてしまいました。要するに「婦人」でいいのです。婦人会が箒をもって掃除をしてお茶の準備や片付けをしても差別ではないのです。何でも差別と言うのはやめましょう。
パドヴァの聖アントニオはとても有名で、しかも人気のある聖人なので、そのご絵や聖像も沢山あります。聖アントニオの遺骨まで写真になっているのにはちょっとびっくり。
幼きイエズスを抱いているご像の多い聖アントニオは1195年ポルトガルのリスボンで生まれ、司祭になりたくてアウグスチノ会に入りました。その後モロッコで殉教したフランシスコ会員に憧れてフランシスコ会に移り、念願のモロッコへ派遣されました。しかしそこで病気になりポルトガルに帰ることに。ところが彼が乗った船は強風に流されてイタリアへ。
フランシスコ会とドミニコ会の集会の時にフランシスコ会の上長から突然説教をするように命じられます。そしてその説教こそが神から彼に与えられたタラントでした。彼の素晴らしい説教は多くの人の心に響きました。彼の説教を聴くために、どの町でも大勢の人が集まりました。パドヴァでは大聖堂に人が入りきれなくて町一番の広場に移ってもまだ足りなかったそうです。
彼の説教によって回心した人は数知れず、また贅沢な暮らしをしていた大司教の前でも説教し、大司教は恥じて生活を改めました。
初めはモロッコで殉教したフランシスコ会員に憧れてフランシスコ会に移り、モロッコへ行きましたが、そこは主のみ旨の場所ではありませんでした。主は彼をイタリアのパドヴァへと導きました。
聖アントニオの一生は典礼聖歌52番の祈りのようです。
神の計らいは限りなく 生涯わたしはその中に生きる
聖霊降臨に続いて三位一体の祭日。聖霊は御父と御子と切り離しては考えられないので、聖霊降臨のときにも三位一体については少しだけふれました。
カトリックの教えは不変です。しかしその教え方には色々あります。現代はどのような教え方をしているのかわかりませんが、昭和三十年代から四十年代の頃、私が子どもの頃はアブリ神父様の書かれた『カトリック教理』テキストに載っているように説明されていたと思います。
三位一体というのは、神には父と子と聖霊の三つのペルソナがあるが、それらのペルソナはまたそれぞれ唯一の神である。
世の初めに、神のほかには何も生きていなかった。神は生命そのものであるから、いつも生きておられたし、いつまでもいきられる。神は唯一であるが、ペルソナは三つある。この神の三つのペルソナは、父、子、聖霊である。この各ペルソナは、それぞれ全知、全善、至聖、全能である。すべてにおいて、三つのペルソナはそれぞれみなひとしい。この三つの神のペルソナは、また、一つの、同じ神である。この三つのペルソナのある唯一の神を、至聖なる三位一体という。・・・唯一の神性のうちに三つのペルソナがあるということは、キリスト教信仰の最大の真理である。・・・父なる神は私たちを造られ、子なる神は私たちをあがない、そして聖霊は私たちに、神の生命をあたえられる。
難しい言葉もありますが、当然神父様やシスターが理解を助けるためにわかりやすい説明で補ってくださいました。
「三位一体」は聖霊の恵みによって信じることができます。聖霊の恵みを祈りましょう。
久しぶりにケーキを作りました。お腹がすいて何かおやつはないかな~と見回しても何もなし。ならば手作りカッテージチーズを使ってチーズケーキを作ることに。これは作るのに疲れない(バターを使わないので)、簡単、すぐできる。
カッテージチーズは温めた牛乳1ℓにレモン果汁(ポッカレモン)を60cc入れてかき混ぜ、10分位放置してふきんでこす。このカッテージチーズ200g.(より少なくても大丈夫)砂糖80g.、卵3個、小麦粉大匙5、生クリーム200cc、レモン果汁大匙2をよく混ぜて型に流して焼くのですが、私はもっとチーズの風味が欲しいので、ゴルゴンゾーラを小さく切って加えます。この量はお好みで。ゴルゴンゾーラの独特な風味と塩味がたまりません。170度のオーブンで50分焼きます。冷めてから冷蔵庫で冷やした方が美味しいですよ。
小麦粉が少なく卵が多いのでプディングに近い食感です。
今日も軽~い話題です。先月初めにアランドロンが俳優業を引退するというニュース見ました。「えっ!八十云歳でまだ映画に出ていたの?」と、正直びっくりぽん。
その昔、彼の出ている映画はほとんど見ました。彼のファンだったわけではなく、たまたま彼の共演者たちのファンだったからです。リノ・ヴァンチェラ、ジャン・ギャバン、ジャン・ポール・ベルモンド、モーリス・ロネ、モニカ・ヴィッティ、C.C、オルネッラ・ムーティ等々。
当時彼は文句なしに二枚目、ハンサム、イケメンでした。いや、イケメンは彼に失礼ですね。今は誰にでもイケメンと言っていますから。
人間とは不思議なもので二枚目なら必ず惹かれるかというとそうではないのです。人間の魅力は外見だけではないから。アラン・ドロンとリノ・ヴァンチェラが共演した『冒険者たち』はヒロイン(ジョアンナ・シムカス)の選択通りヴァンチェラの方が魅力的でした。
下の写真は向かって左がジャン・ギャバン、右がリノ・ヴァンチェラです。リノ・ヴァンチェラの方が真中のアランドロンよりず~っとシブくてカッコイイですね。(私の母はジャン・ギャバン派でしたが)
先週の土曜日は聖チャールズ・ルワンガ(St.Charles Lwanga 1865~1886)と同志殉教者の記念日でした。
日本ではあまり知られていないこの殉教者達は1885年11月から1887年1月の間に殉教しました(カトリック22人、聖公会23人)。
ウガンダには1879年カトリックの信仰が伝えられました。初めは自由に信仰できたのですが、カトリックに反対の王が後継者となるとカトリックに対して激しい攻撃を始まりました。理由の一つはキリスト教徒が王の同性愛をとがめたことです。キリスト教徒は名乗り出るように言われ、小姓頭のルアンガをはじめ15人が自らすすんで名乗り出ました。当然棄教するように脅されましたが、彼らは殉教を選びました。ルワンガ21歳、最年少ギジトは13歳でした。ムシロに包まれて火をつけられる殉教は京都でのシスターたちの殉教と同じです。この他にも様々な方法で殉教しました。
1920年、教皇ベネディクト15世は彼らを列福、1964年パウロ6世は列聖しました。「殉教者の血はキリスト教信者の種子」といいます。彼らの流した血は多くのカトリック信者を生みました(2015年ウガンダのカトリック信者数は総人口の41.9%)。
2015年11月フランシスコ教皇様はウガンダを訪問されて、殉教者たちの列聖50周年記念のミサを司式されました。
五旬祭の日が来て彼らが一緒に集まっていると、突然、天から激しい風が吹いてくるような音が聞こえて、彼らの座っていた家に満ち、火のような舌が現れ、分かれておのおのの上に止まった。すると、彼らはみな聖霊に満たされ、霊の言わせるままにいろいろの国のことばで話し始めた。(使徒行録2;1~4)
使徒行録に書かれている聖霊降臨の場面です。「聖霊に満たされた」とありますが、「聖霊」とは一体どういうものでしょう。「聖霊」だけ取り上げても十分ではないでしょう。「聖父と聖子と聖霊」三位一体の神、その聖霊を通していつも御父と御子キリストに結ばれています。
聖霊の働きについて『聖霊降臨までの10日間の祈り』の中から抜粋します。
・使徒言行録(2;1~4)を読むとき、いろいろの民族の中に教会を発展させはじめられた神の偉大な力を感じます。従順と十字架上でのご死去とそのご復活によって、キリストが死と罪に対して得られた勝利を、神ははっきりとお示しになったのです。復活の栄光の証人となった使徒たちは、聖霊の力を自らのうちに感じました。新たな光が彼らの知性と心を開いたのです。
・剛毅の霊である聖霊は彼らを確固たる自信に満ちた大胆な人間に変えました。
・聖霊降臨は、過去の思い出でもなく、歴史のかなたに残された教会の黄金時代でもありません。私たち一人ひとりのもつ惨めさや罪を超えた、今日の、そしてあらゆる時代の教会の現実の姿なのです。…(主は)ご復活とご昇天の後、私たちを聖化するために、永遠の御父と一緒に、聖霊をお遣わしになったのです。
・教会における聖霊の存在と働きかけによって、神のお与えになる平和と喜び、そして、永遠の至福を垣間見ることができるのです。
・使徒信条を唱えるとき、全能の神と、ご死去ののち復活された御子イエス・キリスト、生命の主であり与え主である聖霊への信仰を宣言します。そして「一」「聖」「公」「使徒継承」の教会は、聖霊によって生命を与えられたキリストの神秘体であると、信仰告白します。…聖霊降臨のもたらす神からの勝利と喜びと平和の使徒は、すべてのキリスト者の考え方、受け止め方、そして生き方の確固とした基礎であるべきなのです。
・聖霊とは、キリストがこの世で獲得された聖化の業を行うために、キリストから遣わされた霊なのです。
・もし聖霊がおいでにならぬなら、主イエスよと呼びかけることはできない。…もしも聖霊がおいでにならないとすれば、信頼をもって祈ることはできないだろう。…もし聖霊がおいでにならなかったとすれば、教会には、英知の言葉も知識の言葉もないだろう。…もし聖霊がおいでにならなければ、教会は存在していないだろう。
・聖霊の賜物の中でも、すべてのキリスト者にとって特に必要なものが一つあると言えるでしょう。それは上智の賜物です。上智の賜物によって、神を知り、そして味わうにつれ、この世の事柄を正しく判断できるようになるからです。
・三位一体の神の第三のペルソナを愛し、心の底から励まし叱責する神の霊感に耳を傾けましょう。
・聖霊に従って生きるとは、信仰・希望・愛をもって生きることに他なりません。…信仰の教えに精通するまで黙想すること、ご聖体においてキリストと出会うこと、匿名の祈りではなく、神と、顔と顔を合わせた個人的な対話をすること、私たちの生活は根本的にこのような内容をもたなければなりません。
・皆、同じ洗礼を受けました。神からの賜物や各人それぞれの状況が、文字通り種々様々であったとしても、神の賜物を分配する聖霊は一つであり、信仰も希望も愛も同一のものなのです。…「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(一コリント3;6)
・聖霊との交わりーそして聖霊を通して御父と御子との交わりーを深め、慰め主なる御方と親しくなる生活様式を定めるために、一般的にではありますが、次の三つの基本的な事柄に留意しなければなりません。すなわち、素直、祈りの生活、および十字架との一致です。
・キリスト者の生活は、唯一にして三位なる神との絶え間ない対話を必要とします。聖霊のお招きになる親しい交わりとはその対話のことです。…私たちを聖化してくださる聖霊としばしば交わる習慣を持つようにしましょう。
・キリスト者が聖霊の力を強く自分の中に経験するとき、自己の挫折することはなくなるはずです。その挫折とは、実は個人的惨めさにも拘らず、あらゆる場所でキリストの忠実な証人として、再び立ち直るようにという招きにほかならないからです。
最後に聖ホセマリア・エスクリバーの『道』から
57 もっとひんぱんに聖霊と付き合いなさい。<知られざる偉大な方>である聖霊、彼こそ聖化する御方である。あなたが神の聖殿であることを忘れてはならない。慰め主は霊魂の中心においでになる。聖霊に耳を傾け、その霊感に素直な心で従いなさい。
昨日5月30日は聖ジョアン・オブ・アークの日でした。と言われてもすぐにわからない方も多いでしょう。聖ジャンヌ・ダルクといえばわかりますね。何度か映画にもなっています。
1412年に生まれ12歳(13歳?)の時に「神の声」を聴きフランスのためにイギリスと戦いました。1430年に捕虜となり1431年1月から異端審問が開始され5月30日火刑に処せられました。その時彼女は19歳。
私はなぜ彼女が聖人なのか、しかも多くの聖人達の中で特に人気があるのかずっと不思議に思っていました。なぜなら彼女は戦争に勝つための兵士でした。戦争をする人が聖人?
しかし最近になって乙女ジャンヌ・ダルクが聖ジャンヌ・ダルクであると理解できるようになりました。
彼女がフランスを救いなさいと言う「神の声」を聴いた時にはどんなにか驚き恐れたことでしょう。しかし彼女は主を信頼して聖母マリアのように神の言葉に従いました。
また戦場でも彼女は人を殺すことはせず、「イエズス マリア」と書かれた旗を持って先頭に立ち、部隊を鼓舞して兵士の士気を高めました。
そして彼女が聖人たる所以の一つが異端審問です。
異端審問は司法権のないコーション司教をはじめ彼女に敵対する人ばかりでの審議、神学的質問の罠(しかし彼女は見事に答えています)、裁判記録の改ざん、彼女が字の読めないことを利用して「無罪判決の証書」と偽って、「魔女認定の証書」にサインまでさせ、彼女を無理矢理魔女にしてしまったのです。
教皇の裁判を望んだのに却下され、神の声も聞こえず、不安や悩みにくるしめられました。しかし再び大きな救いと勝利を約束する神の声を聞きました。火刑の前に告解をした司祭に「今晩私は神の恵みによって天国にいるでしょう」と言いました。火刑は神が約束された勝利と救いの国への旅立ちでした。
火刑(1431年)から25年、カトリック教会は間違いを正しました。1456年教皇カリストゥス3世のもと復権裁判で無罪を宣告。1909年教皇ピウス10世から福者に、1920年教皇ベネディクト15世から列聖されました。彼女はフランスの守護聖人でもあります。かつては「教会の長女」とまで呼ばれていたフランスの現状を見ると聖ジャンヌ・ダルクの執り成しを祈らずにはいられません。
「主の昇天」の祭日です。文字通りキリストが天にあげられた日です。
主の昇天は、キリストが亡くなり復活した後40日目の事でした。伝統的には復活の主日から40日目(復活の主日を1日目と数えて)の木曜日(今年は5月25日)に祝ってきました。しかし、日本のように信徒が少なく、木曜日に集まることが難しい国では、第二バチカン公会議後「主の昇天の祭日は、復活節第七主日に移す」ことができるようになりました。本当は今日復活節第七主日ではなく、キリストは復活後40日目に昇天されたことを心にとめておきましょう。
復活したキリストと共に弟子たちは40日間も共に生活していたのです。なんと羨ましい!そして弟子たちはキリストが天に昇って行くのをはっきりと見たのです。それは聖書に書かれている通り。
キリストは残された弟子たちを放っておきませんでした。残された使徒たちには聖霊がくだり、常に聖霊に満たされて聖霊の導きによって宣教しました。そしてキリストは特別なかたちでご聖体に現存されています。キリストはいつも弟子たちと共に、そして私たち一人一人と共にいてくださるのです。
まさにこれらを実感する祭日が主の昇天の後続きます。聖霊降臨、三位一体、キリストの聖体です。とても大切で意味深いこれらの祭日をそれにふさわしい心で迎えたいと思います。
来月6月26日は聖ホセマリアの記念日です。今年も記念ミサが行われます。
東京・京都・西宮・長崎の4都市であります。近くにお住まいの方、またその方面へ出かける予定のある方は是非ごミサに与ることをお薦めします。東京ではローマ教皇庁大使のチェノットゥ大司教様の司式です。わたしも与りたいのですが長崎でも遠いのであきらめます。
聖ホセマリアの『道』を初めて読んだ時、大きな衝撃でした。「名ばかり信者」で生ぬる~い生活をしていたわたしの目を覚ましてくださったのが聖ホセマリアです。それ以来オプスデイを信頼し聖ホセマリアの教えを皆に伝えたいという思から、このブログにも度々聖ホセマリアのことばを載せています。
今日から聖霊降臨の日までの10日間の祈りの冊子があります。聖ホセマリアの祈りと説教によって成っています。
最初はいつもこの「はじめの祈り」から始まります。
はじめの祈り
聖霊よ、来てください。あなたの掟を知るために私の知性を照らしてください。敵の計略に対してわたしの心を強め、私の意思を燃え立たせてください。あなたの声を聞いたのに、後で…、明日、と言いながら、頑なに抵抗したくありません。今、始めます!明日は来ないかもしれませんから。
真理と知恵の霊、知識とよき勧めの霊、よろこびと平和の霊よ!あなたがお望みのことを、お望みのゆえに、お望みのように、お望みの時に…、私も望みます。
この祈りは聖霊降臨の日までだけではなく、いつも続けたい祈りです。特に最後の「あなたがお望みのことを、・・・私も望みます」は私にとって射祷です。