ヘルプマーク
これはとても良いマークですね。お年寄りやお腹の大きな妊婦さんには気づいても、外見からだけではわからない人もいます。そんな人たちに席をゆずったり手を貸して上げられれば私も嬉しいです。
[ヘルプマークの説明]
ヘルプマークの対象となるのは、心臓や肺、腎臓、腸などの内臓や免疫機能に障害がある「内部障害」の人のほか、義足や人工関節を使っている人、がんや難病の患者、認知症の人、知的障害のある人、耳が不自由な人、それに妊娠初期の女性など、援助を必要とするあらゆる人たちです。
一見、健康そうに見えても、疲れやすい人や電車のつり革につかまる姿勢すらつらい人がいます。突然、意識を失って倒れることがあり、立っているだけで危険な場合もあります。
ヘルプマークはこうした人たちが身につけ、「事情を分かってほしい。そして、もしものときは助けてほしい」…そんな気持ちを伝える手段なのです。
⇧ こんな感じです。このマークをつけている人を見かけたら、若くあるいは健康そうに見えても助けが必要かもしれません。気をつけてあげましょう これを健康なのに悪用しようと思っている人、神様はすべてご存知ですからね、たとえあなたが神を信じていなくても!
今月の26日夜ローマを発った教皇様はミャンマーで今日まで過ごしバングラデッシュへと移られます。
ミャンマーは仏教国と言われますが、それでも国民の1.27%約66万人のカトリック信者がいます。日本の0.34%44万人よりずっと多いです。またキリスト教が伝えられたのは1511年で日本よりも38年も前でした。2011年には宣教500周年を迎えています。
29日にヤンゴン市のチャイカッサン・グラウンドでの教皇様のごミサには約15万人の信者がミャンマー各地から集まり、ある女性は1600kmもの距離を列車や路上に寝たりしながら一週間かけて来たそうです。
ミャンマーやバングラデッシュなどカトリック信徒の少ないところでは教皇様の訪問は大きな信仰の支えとなり希望の恵みとなります。
先週お墓参りに行きました。正直私はお墓参りをそれほど重要には考えていません。お彼岸やお盆そして死者の日にもお墓参りはしません。
その理由は毎日亡くなった家族や先祖のため、また煉獄で主の特別ないつくしみを必要としている人達のために祈っているからです。お彼岸やお盆、命日の時だけ思い出してお墓の前で祈っているわけではないので。今までお墓に入っていない人たちは世界中にどれ位いるのでしょう。戦争で、原爆で、強制収容所等で亡くなりお墓に入っていない人達・・・。
たまにしか行かないのでお墓には草や苔がはびこり墓誌の字もよく読めなくなっています。そこで今日はお天気も良く暖かいのでお墓の掃除に行ってきました。平日なので車も置けてゆっくりと掃除ができました。墓誌の苔を落として草を取り、隣の境の欠けたところにセメントをつめて、きれいになりました。古いお墓なのできれいといってもそれなりにです。そして作業はほとんど夫がしました。
〇〇家之墓でなくても合祀墓でもよいと思うのですが、どうするかは子どもたちに任せましょう。
今日は教会カレンダー最後の日曜日、「王であるキリスト」の祭日です。いよいよ次の日曜日から待降節が始まります。
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権威主義は一般には独裁主義や専制主義を連想させ、「権威」は人を服従させ強制させる力=悪ととらえられているようです。しかしフランシスコ教皇様はこの「権威」についてこう話しておられます。
「他人が正しく、かくあるべきことを実践できるよう助けるために、よい模範を示すことから権威ある者は生まれる。権威は一つの助けであるのに対し、その使い方を誤ると、圧迫的になり、人の成長を妨げ、不信と敵意の空気や、腐敗を生んでしまう」と。(2017.11.5 教皇による祈りの集い)
つまり権威を誤って使った結果が独裁や専制です。権威自体は決して悪いことではないはずです。権威を悪く使おうと思っている人は権威を悪ととらえるし、権威を良いことに使おうと思っている人は権威は良いことととらえます。キリストの権威は良いものでしょう。教皇ヨハネ23世を見てください。私たちに良い模範を示された権威ある方です。
権威を持っている人はそれを正しく使い、まわりの人達はそれを正しく理解して協力することが必要だと思います。権威を表すミトラや杖、祭服などを権威の象徴として毛嫌いするのも的外れなことです。
教皇ヨハネ23世
今日のごミサの最後に教会迫害についての話がありました。祝福前でしたので短い話しでしたがこういう話こそお説教の時にゆっくりと聞きたいでした。
平和な国にいると迫害は過去の歴史のひとこまとしか思えない人もいます。でも現に今教会迫害の国で苦しんでいる人達がいます。ベトナムや中国、北朝鮮等々。ロシアやポーランドなど東ヨーロッパの国々もソ連の共産主義に支配されていたころは迫害されていました。ただ今日聞いたベトナム教会のヴァチカンに対する態度はポーランドのそれとは少し違うようです。「従順」という言葉で片付けていましたが・・・。
丁度明後日は「王であるキリスト」その次の日曜日から待降節にはいります。クリスマスを迎える準備の一つとして迫害されている教会のために毎日祈りましょう。すべての教会がキリストの降誕を祝う喜びの鐘を鳴らすことができますように。
唐芋(さつま芋)はブームの品種ばかりが店頭に並んでいます。指宿の道の駅では「安納芋」ばかり。JAやCOOPでも安納芋が半分以上を占めて、残りは「紅はるか」や「紅あずま」、「シルクスイート」など。
昔は唐芋といえば黄金千貫でした。そう、焼酎の原料です。品種改良が進みさつま芋の甘さはどんどん増すばかり。今では黄金千貫は人気は無く、ほとんどが焼酎の原料として作られるだけとなりました。
ところが偶然に「黄金千貫」を道の駅で見つけました。2袋しかなかったので2つとも買ってしまいました。お芋は大好きなのでどの品種でも食べますが、甘~い安納芋よりは甘くはないけれど香りが良い黄金千貫が好みです。お芋の天ぷらには黄金千貫が一番!
CNNの記事からフランシスコ教皇様の話しとして、
・・・聖職者に対し「ミサでは心を高めるべきで撮影のために携帯電話を掲げないことを信者に教示すべきだ」と強調した。
また、信者だけでなく司教らも同じことをしているとして、「ミサはショーではない」といさめた。
「ミサは退屈」との不平については「神がそこにいる。神は退屈なのか?」と反論。さらに、一部の子どもの十字架を切って祈る方法がだらしないとし、適切な礼拝の方法を教えるべきだと主張した。
ついに教皇様も我慢できなかったのでしょう。教皇様の気持ちよ~くわかります。私も以前「ミサは退屈だからミサを楽しくするにはどうしたらよいか?」などと本気で尋ねた人(聖職者)がいたのを知っています。「ミサが退屈だから教会を離れる人が増えた」とまで言っていたようです。でも以前のラテン語での長~いミサの時には教会を離れる人は今よりずっと少なかったと思います。つまり昔はミサの意味を皆はよく教えてもらい理解していたけれど、今は教えてもらっていないということかもしれません。
教皇様が話されたのは11月8日水曜日の一般謁見の時です。その時のyou tubeを載せます。↓
いつの頃からでしょうか、ごミサの聖体拝領の時に祝福が始まったのは・・・。ヴァチカンのごミサでは今も昔も無いので日本やアメリカなど数か国の特有なことかもしれません。
私は聖体拝領の時の祝福は必要ないと思います。その理由はごミサの最後にみんな(信者もそうでない人もすべて)祝福をいただいているから。司祭はごミサの最後に「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」と言い、私たちは「アーメン」とこたえてます。
理由があってご聖体をいただかない人に、しつこく祝福を受けに行くように勧めている方がおられます。よい心で勧めているのでしょうが本人が拒否しているのに何度も勧められればかえって目立ってしまい本人にとっては良い気持ちはしないでしょう。未信者の方が遠慮されている場合と違い、聖体拝領の意味をよくわかっている信者さんが聖体拝領をしないのには理由があるからで、そのことを考慮してそっとしておいてあげるのが良いのではないでしょうか。とにかくごミサの最後には祝福があるのですから。
ごミサの最後に皆を祝福される教皇様
今日はラテラン教会の献堂の祝日です。ラテラン教会と言ってもピンとこない方もおられるでしょう。
ラテラン教会とはローマ司教座教会です。教皇様はローマ司教座の司教でもあります。ですからラテラン教会は「すべての教会の母」と呼ばれているのです。
また今までに21回開かれた公会議の中で第9回から第12回までの4回の公会議はラテラン公会議としてここで開催されました。一番新しい第二ヴァチカン公会議しか知らずに、それだけが正しくてそれ以前の公会議は古くてもう無効だと思っている方がいるようですがとんでもない誤りです。すべての公会議は正しく有効です(東方教会は多くても第7回公会議までしか認めていませんが)。
キリストは使徒たちの中からペトロを特別に選びました。そしてペトロはローマでキリストの代理者・首位権者として教座を定めました。ですからローマは使徒座と呼ばれます。ローマ教皇様は使徒たちの頭である聖ペトロの後継者です。つまり教皇様には教会全体を司牧・統治する全権があたえられているのです。
ラテラン教会献堂を祝日とする重要性がわかっていただけたと思います。
[オプスデイ:『生きるための教育』~子育て~]より抜粋
子育てという仕事は、結局のところ、子供たちが善いことを「したいと思う」ように育てるということです。
・・・ 子供たちがあらゆるものを身に着け、彼らのわがままに屈して望みを叶えることなど全く必要のないことです。反対に、手放すこと、待つことを学ばせるべきです。事実、人生には、待つことのできるものが数多くあり、また必然的に待つべきことが多いものではありませんか。聖ホセマリアは、このことをまたとない明確さで、こう語っています。「お金に寛大すぎてはなりません(…)。子供たちに、つつましい生き方、少しスパルタ式の生き方を学ばせることです。つまり、キリスト者としての生き方ができるようにすることです。難しいことですが、勇気を出さなければなりません。つつましく生きるよう躾けることの大切さを納得しなさい。さもないと、元も子もなくしてしまいます」。・・・
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・・・希望は両親にとって極めて必要な徳です。子供の教育は大きな喜びであると同時に、決して小さいとは言えない悩みや心配が伴います。いずれにせよ、失敗したという思いをいつまでも引きずってはなりません。逆にいつも楽観的に、信仰と希望を持ってやり直すことができるのです。努力が実らないことはありません。たとえ、なかなか目標に達しないとか、結果が表れないとか思えても、必ず実りはあるものです。父親母親であることに終わりはありません。子供には、大きくなり独立した後でも両親の祈りと愛情がいつも必要です。聖マリアはカルワリオでイエスを一人きりにはなさらなかったのです。最後まで献身し犠牲を捧げられた聖母の模範は、神が両親に託されたこの素晴らしい務めに光を照らします。生きるための教育、それは愛の仕事です。(Opus Dei H.P. 2017.9.15)
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幼子のように信頼してすべてをゆだねる(Osservatore Romano[Bologna])
「幼子のようにならなければ・・・」というイエズス様のことばを文字通り受け取って、幼い子が自分の我を通そうとしてわがままを言ったり、自由勝手気ままに行動していることを良いことのように見ている放任主義の大人達がいますが、それは間違いでしょう。「幼子のように」という意味をはきちがえていると思います。親を信頼しきっている子どもと同じように私たちも父である神を信頼しきって、親を心から信頼する子どものような飾らない素直な心でおごり高ぶることのないように、それがイエズス様の言っている「幼子のように」という意味だと思います。
キリストを信じる人はどれくらいいるのでしょう。カトリック、正教、プロテスタント、そしてどこにも属さない人。
私がカトリックであり続けるのは、カトリックには秘跡があるからです。「洗礼」「堅信」「聖体」「ゆるし」「病者の塗油」「叙階」「結婚」この七つの秘跡ほど素晴らしいもの、希望を与えるものはありません。罪びとである私たちはキリストから何度でもその罪をゆるしてもらえます。ご聖体はキリストの特別なかたちでの現存です。それを直接いただける恵み。これらのことをよく知ればカトリックを離れるなんてありえません。
よく「信仰に知識はいらない」といって、カテキズム(信仰教育)が軽視された時期がありました。しかしその結果が洗礼を受けた後に教会を離れてしまう人や離婚する人たちを増やしました。それは秘跡の本当の素晴らしさや罪とは結婚とはどういうものかをきちんと教えてもらっていなかったからでしょう。
私は洗礼を受けて60年以上になりますが、いまだに日々学び教えられることばかりです。信仰の神秘は尽きることがありません。時には疑問を持ったり、絶望しかかったりすることもありましたが、それでも・・・カトリックであり続けます。きっと多くのカトリック信者さん方も私と同じだと思います。
もしカトリックがなくなったら・・・私は正教に移るでしょう。