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2018年6月18日 (月)

気にかかること

「神様は、天国の入り口に立っておられて、頭を下げながら、やってくる人々を迎えておられる。『すみません。大変な旦那をあげてしまってホントにごめんなさい』」離婚した女性に対する神様の言葉だという。

 私はこれを読んでジョークだと思いました。ところがどうやらM司教様が思い描く神様のいつくしみの姿で真面目な話らしいのです。

 ということは私が死んで神様の前に立っても、神様は私に「あなたの犯した罪は私の配慮が足りなかったせいです。ごめんなさい」と言われるのでしょうか?そう言われても私は嬉しくありません。そうではなく「あなたが心から悔い改めて償いをはたしたのであなたの罪を赦します」と言われる方がどれだけ嬉しいことか。「主のいつくしみに感謝します」と素直に答えるでしょう。

 M司教様は神様のいつくしみについて『放蕩息子のたとえ話』を使って話したようです。しかしその解釈は少し違うのではないでしょうか。私が理解する限り、謝ったのは父親ではなく息子の方でした。あれほどまでに悔い改めて自分の所に帰ってきた息子の姿を見て父は喜び許したのです。父が悔い改めた息子を喜んで許すことが愛、いつくしみではないでしょうか。

 聖パウロの「ローマの人々への手紙」(2章4節)にも書かれています。「神の慈しみはあなたを悔い改めに導くためのものである」と。

 以前にも書きましたが今は亡き小平神父様は『沈黙』の感想で「なんと人間に都合のよい神をつくり出していることか」と書かれていました。正にそのような考え方が広がろうとしているように感じます。神が人に謝ったり、キリストが話した教えと違うことを言ったことにしたり(たとえ話の解釈)・・・。キリストは人間の姿でこの世に来られましたが神です。

 神は私たち人間を神に似せて創られました。逆にギリシャ神話の神々や日本神話の神々と同じように人間に似せた神をつくってはいけません。神は私たちを創造され、私たちは神の栄光をあらわし賛美するために創られたのではありませんか。

ヨハネによる福音書 12章47-48節

わたしの言葉を聞いて、それを守らない人がいても、わたしはその人を裁かない。わたしが来たのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。

わたしを拒み、私の言葉を受け入れない人には、裁くものがある。私の語った言葉、それが、終わりの日にその人を裁く。The_last_judgement