YouTube: 聖ホセマリア・エスクリバー 「20世紀の人」。日本語字幕
『ゆるしのための九日間の祈り』より
主よ、あなたはよくご存じです。私がしばしば、他の人たちの否定的な面、私を不快にすること、理解できない、耐えられないと感じること、いやな思いになることにまず目を留めてしまうことを、こうして、他の人たちのことを悪く考え、悪口を言うという悪い習慣を身に着けているのです。主よ、このような惨めな私に、いつくしみの目を注いでください。たとえ私がそれにふさわしくない者とはいえ、聖ホセマリアの取り次ぎによって、相手の言い訳を考え、ゆるすことができる心を与えてくださるように願います。
四旬節中私自身のために特に祈っているのが『聖ホセマリア・エスクリバーへのゆるしのための九日間の祈り』です。前書きに、「この冊子は、心から人をゆるすことを通して、まことの平和の人となれるように、聖ホセマリア・エスクリバーの取り次ぎを通して、神の恵みを求めるものです。」と書いてあります。
聖ホセマリアの言葉は私の心に素直に入り、主にゆるしを願う気持ちになります。また、他人をゆるすことができるように主に助けを求める気持ちにもなります。四旬節中に心の平和を得てご復活祭をむかえられますように。
九日間だけでなく、四旬節中ずっと繰り返して祈ります。勿論『病者のための祈り』も併せて祈ります。今病気で苦しんでいる人達も心の平和が得られますように!
昨日のお花教室はユキヤナギ、グズマニア、ガーベラ、スターチスを生けました。お花を習い始めてから約3年が経ちました。
しかし私の生け花の腕がいかに上達していないか下の写真でよくわかります。①は私が生けた作品で②は先生が手直しというか生けなおしてくださった作品です。先生はとても良く教えてくださるのに、私のセンス不足のせいでなかなか上達しません。
①
②
でも下手だからこそ習う意味や価値があるのです。上手ければ習う必要はないですからね。これからも頑張るにゃん!![]()
それにしてもグズマニアの赤い色は強く元気づけてくれる色ですね。四旬節に入り何となく縮こまっていた私ですが、背筋がスッと伸びるような気持ちになりました。
YouTube: Pope Francis - Penitential Procession and Holy Mass 2019-03-06
灰の水曜日のごミサ。ご聖体拝領(ビデオ 1:31:00頃から)では司祭は舌に授けていました。手を出しても司祭は舌に置いています。今でも舌で受けるのが正式なのです。手に授けるのは特別な許可があるからです。ヴァチカンのごミサでは司祭はご聖体を舌に授けるように指導されているようです。
ヨーロッパの人はよく歩きながら祈りますね。特にロザリオを繰りながら庭や回廊を歩いているのを見たことがあります。
私の夫も歩きながらロザリオを祈るのが好きです。特にお気に入りの場所が藺牟田池。冬は土日以外だと人はほとんどいません。池はロザリオを繰りながら一周するのに丁度良い距離です。石段も坂もない遊歩道は祈りながら歩くのにピッタリ。
夫はよく一人で出かけますが、たまには私もつきあいます。二人でロザリオを唱えながら歩くと、自分の反省すべきことが色々と浮かんできます。逆に様々な恵みにも気付かされます。夫婦でこういう時間を持てることを主に感謝!
藺牟田池:この池の湖畔をぐるっと一周します。約4キロ。お薦めのコースです。
今日はポーランドの守護聖人聖カシミロ(カジミェシュ・ヤギェロンク:Kazimierz Jagiellończyk)の日です。1458年ポーランド国王カシミロ4世とオーストリア皇女エリーザベトの次男として生まれた彼は25歳の若さで亡くなるまで祈りと善行に務めました。
よくご聖体訪問をし、教会が閉まっている時でも戸扉の前に跪いて祈り、孤児や寡婦、虐げられている人、貧しい人達を助け多くの国民に愛されました。また父である国王は神聖ローマ皇帝フリードリヒの娘クニグンデと結婚させようとしましたが彼はそれを断り独身でいることを望みました。
1484年彼が25歳で亡くなった後、彼を尊敬している多くの人々は彼の取り次ぎを祈り奇跡もおきました。
聖カシミロは特に聖母マリア様を崇敬し貞潔の徳を重んじました。また聖母を讃えるラテン語の詩を作りました。
YouTube: Gorczycki | Omni die dic Mariae [á 4; Resonans con tutti]
聖カシミロの書いた聖母賛歌はとても長いもので、その一部が歌われています。
我が家では猫はペットという考えなので、人間のような待遇はしません。よほどのことがない限りペット病院も縁がありません。しかし、今回ばかりは病院へ連れて行きました。
夕霧の片方の目が飛び出してきたのです。手術で目を取り出すか、このままにしておくか?結局このままにしておくことにしました。10日間毎日抗生剤をエサに混ぜて与え、1日に3回目に軟膏を塗ってあげることになりました。
ところが夕霧が外ネコでよその家(どの家かはわかりません)でも可愛がられていることを忘れていました。今日は朝薬を塗ってもらった後姿が見えなくなりました。1日3回の目薬なのに・・・。もしその家の人が病院へ連れて行って手術を受けさせたらどうしよう
心配しても仕方のないこと、なるようにしかならないのですが。「夕霧早く帰っておいで!」
夕霧です。薬で進行を止めるぞ!
YouTube: Il Volo Music Evolution 2009-2017
ハンサムで歌のうまいジャンルカ(Gianluca)、ムードメーカーで歌のうまいイニャツィオ(Ignazio)、三人の中でも特に歌のうまいピエロ(Piero)。彼ら三人揃ってこそ歌に厚みと深みが増します。クラシックからナポリ民謡、ポップスまで歌いこなすIl Voloは5月に来日予定。横浜・東京・大阪、聴きに行ける方は是非私の分まで楽しんできてください。
それにしてもイニャツィオはどうして刺青をしたのでしょう…とても残念 ![]()
今日は聖ペトロ使徒座の祝日です。聖ペトロ使徒の祝日は6月29日にあります。では「使徒座」の祝日とは何でしょうか?
聖ザベリオ宣教会のジョヴァンニ・デリア神父様が「使徒座」について説明されています。(尼崎カトリック教会のホームページより)
・・・日本語で “座” と訳されていますが、もともとの言葉は “カテドラ” です。この言葉の意味は、先生が座わって教えている場所という意味です。だから聖ペトロのカテドラと言えば、ペトロの教える使命を強調しています。聖ペトロは、イエスキリストからこの使命を特別にいただきました。・・・
先日フランシスコ教皇様はアメリカの大司教(元枢機卿)の聖職位をはく奪しました。明後日からは全世界の司教協議会会長によって「未成年者保護」をテーマとする会合がバチカンで開催されます。
そんな中、菊地大司教様のブログで、亡くなられたお二人の教区司祭についてのお話があり、その中で「司祭」として生きることについて書かれている文を読みました。
「司祭」として生きることは、いわゆる職業としての司祭を務めることなのではなく、司祭を生きることそのものであります。「これとこれの、定められた業務を果たせば司祭がつとまる」のではなく、その生涯をかけて、最後の瞬間まで司祭を生きるのだと思います。その司祭を生きる人生は、自分のためではなく、主のために、さらにはすべての人のために、生き、死んでいく人生です。(『司教の日記』2019年2月16日)
とても重い言葉です。改めて司祭職は単なる職業ではないこと、司祭は死ぬ瞬間まで司祭として生きなければならないことを認識しました。
そのためにも私たちは司祭のために祈らなければ、祈りで支えなければいけないと思いました。
教皇庁聖職者省「司祭のための祈り」
主イエスよ。
あなたは至聖なる聖体のうちにおられ、
あなたの司祭を通してわたしたちの間で永遠に生きておられます。
あなたの司祭のことばが、ひたすらあなたのことばとなり、
彼らの行いがあなたの行いとなり、
彼らの生き方があなたの生き方を真に示すものとなりますように。
司祭が神の民を代表して神に語り、
神の民に語りかけ、
勇気をもって奉仕し、
あなたのみ心のままに教会に仕えることができますように。
司祭が現代において永遠の神をあかしし、
あなたに従って歴史の道を歩み、
すべての人のために善を行うことができますように。
司祭がその務めを忠実に行い、
召命と使命を熱心に果たし、
司祭としてのあるべき姿をはっきりと現し、
与えられたたまものを喜びをもって生きることができますように。
聖母マリアに祈ります。
御子に最後まで従われたように
いつまでもあなたの司祭とともにいてください。アーメン。
さて、今頃の時期は来年度の役員決めが話題にのぼり始めている教会もあるでしょう。毎年のことですがこれだけはやめてほしいことがあります。
それは「あなたはまだしていないから」とか「順番だから」と、さもそれが正論だと言わんばかりに押しつけること。これは間違ったやり方だと思います。そして「どうしてできないの?」と理由をしつこく聞くこと。まるで学校のPTAの役員決めの時と同じ。教会の中だからこそ世間のこの悪習はやめましょう。
「だったら役員は決まらない」と言う人がいるかもしれません。でも本当にそうでしょうか?学校と違い教会はキリストを信じる人たちの集まりです。皆さん『できることなら教会のために何かしたい』と思っている、そういう人達ばかりだと思います。今はできなくても時期が来たらしようと思っている人、できるかどうか考える時間の必要な人、家族の理解・協力が必要な人、人それぞれに様々な事情があります。『自分ができたのだからあの人もできるはず』ではなく『自分ができてもあの人にはできない事情がある』ということをわかってあげるのがキリスト者でしょう。
もう少しイエズス様を信頼してみてはどうでしょうか。聖霊の働きを信じて、聖リタに取次ぎを祈っても良いでしょう。必ず主は道(よい解決策)を示してくださるはずです。