なんと悲惨な状況でしょう。今回の豪雨で亡くなられた方が88名、重体の方が4名、行方不明の方が58名、こんなに痛ましい災害になるとは・・・。言葉もありません。
絶望と不安の中におられる方々に希望と安心を届けるには、私たちはどうしたらよいのでしょうか。とにかく祈りと共に何かしなければ・・・。
タイで洞窟に取り残されている少年たちの救出も始まったようです。救助する方々を含め全員の無事を祈ります。
嬉しいニュースと共にとても悲しいニュースが多い今月。これ以上悲しいニュースが続きませんように。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9.12-13)
Fr.Rupnik 作
今日の福音を読んで、改めて自覚しました。 わたしは罪人であるということです。自分は犯罪を犯さず、正しく生きようとしていてもやはり正しい人ではなく罪人だということ。
おそらくこの箇所を読んで、「私は罪人ではなく正しい人だから、キリストは必要ない」と思った人もいるでしょう。洗礼を受けない理由にする人もいるかもしれません。しかし人を殺したり盗んだり、法を犯すことだけが罪ではありません。他人を妬んだり嫉妬したり、疑ったり、うわさしたり、誹謗中傷したり、怠けたり、ごまかそうとしたり、自分のするべきことをしなかったり、快楽に夢中になったり・・・それらはすべて罪です。ですから私たちはすべて罪人です。すべての人には主が必要なのです。そのことに多くの人が気づきますように。
今日の聖書朗読個所を読むたびに理解できないのです。どなたかすっきりと納得のいく説明をしてくださいませんか?
やがて、イエズスが向こう岸のガダラ人の地方にお着きになると、悪霊に憑かれた二人の男が墓場から出てきてイエズスに出会った。・・・・・そこで、悪霊どもはイエズスに願って言った、「もしわたしたちを追い出されるなら、あの豚の群の中に入れてください」。そこで、イエズスは「行け」と仰せになると、悪霊どもは出ていって、豚の中に入った。すると豚の群れはみな崖から湖へ雪崩落ち、おぼれ死んでしまった。豚飼いたちは逃げて町に行き、悪霊に憑かれた者のことなど一切を告げ知らせた。すると、町じゅうの人がイエズスに会いに出てきて、イエズスに会うと、この地方から立ち去るように願った。(マタイ8:28-34)
・悪霊は豚そのものの中に入ったのか、それとも群れの中に入ったのか?
・なんのために悪霊は豚の中または群れに入り、そして豚を湖で溺死させたのか?その後悪霊はどうなったのか?単にユダヤ人が豚を不浄のもの(豚は食べない)としているという理由だけでは足りません。
・悪霊を追い出してくれたイエズスをなぜこの地方から立ち去るよう願ったのか?他の悪霊につかれている人の助けを願わないのか?それとも悪霊に命令できるイエズスを悪霊の頭と思ったのか?しかし、もし悪霊の頭と思ったのなら皆イエズスを恐れて隠れ、わざわざ会いに来ないのでは?
聖書に書かれていることで意味のないことはないと思うのです。この箇所も意図があり書かれていると思うのです。それとも私の考えすぎでしょうか。
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トマは言った、「わたしはその手の釘の後を見、自分の指をその釘の跡に入れてみなければ、また、自分の手をその脇腹に入れてみなければ、決して信じない」。(ヨハネ20.25)
疑り深いトマでしたが、イエズス様の復活した姿を目の当たりにし、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰宣言します。そして聖トマはインドへと布教して最後は南インドで殉教したと伝えられています。
キリストはトマに仰せになった、「あなたは、わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人たちはさいわいである」。(ヨハネ20.29)
これは聖トマだけに向かって言った言葉ではありません。当然わたしたちにも向けられたものです。
「見なければ信じない」という人が「見なくても信じる」ことのできる人となれますように、聖トマに主への取り次ぎをお祈りします。
YouTube: Pope Francis – Holy Mass with Blessing of Pallia 2018-06-29
29日聖ペトロと聖パウロの祭日にはいつもの通りヴァチカンでごミサとパリウムの祝福が行われました。そして前日枢機卿会議で叙任された新しい枢機卿様方も参加されました。勿論前田万葉枢機卿様、そして菊地功大司教様の姿もありました。
聖イレネオ司教は、司教ポリカルポ(使徒聖ヨハネから直接学んだ)に学び、聖ヨハネの信仰を受けつぎました。
今日のごミサではマタイ福音書7章21-27節が朗読されました。とても興味深い個所です。説教でよいお話を聞きました。
「私たちはいつも『やろう!やろう!』と言って行いますが、どんなに善い行いであっても、信仰によってでも、それが主のみ旨ではなく自分が良いと思ってしている、あるいは自分の満足のためにしているのであれば、それは天の国に通じる道ではない」と。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入るのである。その日には、多くの者がわたしに言うだろう、『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか』。『その時、わたしは彼らにはっきり言おう、『わたしはお前たちをまったく知らない。悪を行う者ども、わたしから離れされ』」。(マタイ7:21~23)
主はずいぶん厳しい言葉を言っておられます。私たちも気付かないうちに彼らのようになってしまっているのかもしれません。私たちが何かをする時に、良いことをしていると思い(本当は自分の満足のためにしている)、あるいは便利さや手軽さに惑わされたりしていないでしょうか?本当にこれは主のみ旨なのかよく祈ってからしているでしょうか。今日の説教で私自身も反省しました。
主が望むことを、望む時に、望む故に、私も望みます。アーメン
今日は聖ホセマリア様が亡くなられた日、記念日です。ブログ『トマさん祈りの部屋』にこの事について書かれていました。
大分教会では濱口司教様の司式で記念ミサが捧げられました。そのごミサでオプスデイ日本地域代理ロペス神父様が説教され、トマさんがそれを抜粋して載せておられます。その一部を紹介します。
神は日常生活の中で私たちを待っているのです。イエスはペトロの船に乗り込み、漁に出ようと頼みました。それがペトロのいつもの仕事だったのです。聖ホセマリアは、この箇所を何度も黙想して、世界中で同じことが今も繰り返されていると強調しました。信者の多くはいつもの仕事と家庭生活に殆どの時間を費やしています。そこでイエスは待っています。そこでイエスと出会うのです。
でも多くの人が誤解しています。神様のために何か捧げようと思っても、仕事や家族の世話に忙しくて、それに力と時間を使い果たし、あきらめてしまうのです。聖ホセマリアは「諦めるな!」と繰り返します。私たちは仕事と日常生活を通して、神に仕え、神に出会い、神を愛することが出来るのです!当たり前の中に神は隠れておられます。それを各自がいつもの場所で発見することです。
聖となるために聖職者になる必要はありません。「聖性は、日常の雑事から離れ、たくさん祈る時間がある人だけのもの」だと考えがちですが、そうではありません。・・・あなたの夫、妻を愛し、大切にすることで、聖となりなさい。あなたの兄弟姉妹に奉仕するために、誠実に腕を振るって働くことで聖となりなさい。子供たち、孫たちに、イエスに倣うにはどうしたらいいかを、辛抱強く教えることで、聖となりなさい。社会の利益を図るために働き、自己の利益を捨てることで、聖となりなさい。(ラモン・ロペス・モンデハル神父様の説教より)
この説教を読んで私もまた力が湧いてきました。聖ホセマリアに「諦めるな!聖となれるように頑張りなさい!」と言われているようです。夫や子どもたちのために頑張ります!
CNNのニュースに出ていた記事です。
(CNN) ローマ法王フランシスコがこのほどイタリア・ローマ市内で行った講演で、障害をもつ子どもを産まないための人工妊娠中絶を、ナチス・ドイツの優生思想になぞらえた。
講演はイタリアの家族協会代表を対象に16日に行われた。フランシスコ法王はこの中で、真の家庭は男性と女性で構成されるというローマ・カトリック教会の教えも強調している。
法王の発言内容は、事後にローマ法王庁が確認した。それによると、障害をもつ子どもの中絶については、「妊娠初期に子どもが健康か、それとも何かあるかの検査を行い、まず最初に『追いやってしまおう』と提案するのがファッショナブルだと、あるいは少なくとも普通だと聞いた」と発言した。
その上で、「私はそのことに苦痛を感じる。前世紀には、ナチスが民族浄化のために行った行為に関して全世界が憤った。現代の我々はそれと同じことをしている。ただしより綿密な方法で」と語った。
民族浄化を掲げて健康な子どものみ出産を認めたナチスの思想は優生思想と呼ばれ、身体的、精神的障害をもつ人の妊娠中絶や不妊手術も行われた。
フランシスコ法王は家族の多様化にも言及し、「神のイメージにおける人間の家族とは男性と女性であり、それが唯一だ。男性と女性は神を信じていないかもしれない。だが互いに愛し合い、結婚によって結ばれる。たとえ信仰はなくても、彼らは神のイメージの中にある」と語っている。
教皇様は家族についてもはっきりと述べられました。ところがカトリックも参加している今年12月刊行予定の『新共同訳聖書』にはジェンダーの人に配慮して「父」を「親」に、「妻」を「伴侶」と訳しているそうです。聖書は小説とは違います。プロテスタントのことは知りませんが、カトリックがこれに同意するとは・・・。
「神様は、天国の入り口に立っておられて、頭を下げながら、やってくる人々を迎えておられる。『すみません。大変な旦那をあげてしまってホントにごめんなさい』」離婚した女性に対する神様の言葉だという。
私はこれを読んでジョークだと思いました。ところがどうやらM司教様が思い描く神様のいつくしみの姿で真面目な話らしいのです。
ということは私が死んで神様の前に立っても、神様は私に「あなたの犯した罪は私の配慮が足りなかったせいです。ごめんなさい」と言われるのでしょうか?そう言われても私は嬉しくありません。そうではなく「あなたが心から悔い改めて償いをはたしたのであなたの罪を赦します」と言われる方がどれだけ嬉しいことか。「主のいつくしみに感謝します」と素直に答えるでしょう。
M司教様は神様のいつくしみについて『放蕩息子のたとえ話』を使って話したようです。しかしその解釈は少し違うのではないでしょうか。私が理解する限り、謝ったのは父親ではなく息子の方でした。あれほどまでに悔い改めて自分の所に帰ってきた息子の姿を見て父は喜び許したのです。父が悔い改めた息子を喜んで許すことが愛、いつくしみではないでしょうか。
聖パウロの「ローマの人々への手紙」(2章4節)にも書かれています。「神の慈しみはあなたを悔い改めに導くためのものである」と。
以前にも書きましたが今は亡き小平神父様は『沈黙』の感想で「なんと人間に都合のよい神をつくり出していることか」と書かれていました。正にそのような考え方が広がろうとしているように感じます。神が人に謝ったり、キリストが話した教えと違うことを言ったことにしたり(たとえ話の解釈)・・・。キリストは人間の姿でこの世に来られましたが神です。
神は私たち人間を神に似せて創られました。逆にギリシャ神話の神々や日本神話の神々と同じように人間に似せた神をつくってはいけません。神は私たちを創造され、私たちは神の栄光をあらわし賛美するために創られたのではありませんか。
ヨハネによる福音書 12章47-48節
わたしの言葉を聞いて、それを守らない人がいても、わたしはその人を裁かない。わたしが来たのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。
山野内倫昭被選司教と、大阪教区、ホセ・アベイヤ、酒井俊弘両被選司教の叙階式の日程が決まりました。おめでとうございます。
山野内倫昭被選司教
日時: | 2018年9月24日(月・祝)午前11時00分より |
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場所: | 浦和明の星学園 ジュビリホール 336-0926 さいたま市緑区東浦和6−4−19(地図はこちら。) |
ホセ・アベイヤ、酒井俊弘両被選司教
日時: | 2018年7月16日(月・祝)午前11時00分より |
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場所: | 大阪教区カテドラル聖マリア大聖堂 540-0004 大阪市中央区玉造2−24−22 (地図はこちら。中心のマークが聖マリア大聖堂) |
酒井神父様の叙階式に行きたいのですが、無理ですね。you tubeで叙階式の動画が見られますように。
ロシアNOWのサイトで「イラクサ」の料理が載っていました。イラクサが食べられる?写真を見ると確かにイラクサです。調べてみると、
[日本の「イラクサ」は Urtica thunbergiana で、ヨーロッパや北米のセイヨウイラクサ Urtica dioica(英名:Stinging nettle)も「イラクサ」と訳されることが多いが、日本に野生するイラクサとは別種である。] と、書かれていました。でも写真を見ると同じものに見えます。
⇩ロシアのイラクサ ⇩日本のイラクサ
セイヨウイラクサはビタミンが豊富で、ロシアではスープにしたりジャムにしたり様々な料理に使っているようです。日本のイラクサではダメなのでしょうか?
若い葉を取りよく洗って湯でてから料理に使うそうです。そして忘れてはいけないのが、葉を採取する時の手袋です。
今月の花材は オオデマリ(枝)、リアトリス(紫色)、デルフィニュウム(青色)、ガーベラ(橙色)、ギボシュです。
2本のオオデマリは角度が同じにならないように、そして2本の間に空間をつくる。ガーベラの花の向きに注意すること。またギボシは3枚同じところから出ているように(自然に)生ける。やはり私はまだ平面的にしか見ていません。先生が手直ししてくださると立体的になります。左右だけでなく奥行きも考えなければ。毎回学ぶことが沢山あり、楽しいです。
先生の説明によると「ギボシュ」は橋の欄干に飾ってある「擬宝珠(ぎぼし)」の形に似ていることからそう呼ばれているそうです。「擬宝珠」は伝統的な建築物の装飾で神社、寺院の階段、廻縁の高欄、橋の欄干などにあります。牛若丸と弁慶が出てくる京都五条の橋の欄干に擬宝珠があります。
五条橋の擬宝珠 ⇧ 京の五条のはしの上~大の男の弁慶は~長い薙刀ふりあげて~牛若めがけて切りかかる~
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イエズスの聖心(みこころ)の祭日には主イエズス様の無限の愛を思い起こして、その聖心をたたえます。その一つとして「イエズスの聖心の連祷」を唱える人は多いでしょう。
『カトリックの祈り』の本にも「イエズスの聖心の連願」が文語体で載っています。私は文語体の祈りが好きです。イエスではなくてイエズス、神ではなくて天主、・・・給え、等々。
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唯一の天主なる聖三位 ▴われらをあわれみ給え
慈しみと愛とに充ち満ちているイエズスの聖心・・・・・
えいちと知識とのすべての宝を含めるイエズスの聖心・・・・・
われらの罪のあがないなるイエズスの聖心・・・・・
御身に希望し奉る者の救いなるイエズスの聖心・・・・・
諸聖人の楽しみなるイエズスの聖心・・・・・
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