クロアゲハが今年も飛んでいました。庭の柚子の木とシークワーサーの木に卵を産んでいたのかもしれません。
でもせっかく産まれた卵も今年は蝶になって飛び立つことはできないかもしれません。何故なら柚子とシークワーサー二本とも伐採することにしたからです。木が無くなればクロアゲハも庭に来なくなるでしょうね。ちょっと寂しい気もします。
毎年たくさんの実をつけてくれていた柚子とシークワーサーですが、手作りのジャムや柚子酒を喜んでいた夫が亡くなると作る甲斐もなくなり、私一人では棘のある枝の選定など管理しきれなくなりました。木の剪定だけでなく庭の草刈りも夫がいつもしてくれていました。あらためて亡き夫に感謝!
春と秋に「木市」が始まると、わくわくしながら夫と二人で出かけていたあの頃が懐かしいです。
他にもここに書きたいことは沢山あるのに、暑さで頭の中がぼ~として考えがまとまりません。頭をスッキリさせるために欲しいのが冷たくて苦味の効いたコーヒーです。冷たいコーヒーのことを何と呼びますか?
昔は関東では「アイスコーヒー」関西では「レイコー」や「コールコーヒー」でしたが、今では「アイスコーヒー」が全国制覇しているようです。レイコーやコールコーヒーは死滅したのかと思っていましたが・・・なんと京都のイノダコーヒー店のカタログに「コールコーヒー」の文字が!
懐かしいですね。学生の頃京都の喫茶店でアルバイトをしていた時に、京都ではアイスコーヒーをコールコーヒーと呼ぶことを知りました。『おしゃれだな~』と思ったものです。「コールコーヒー」の響きの方がなぜか好きです。
多宗教の国(カトリック20~25%)レバノンでの新司祭の叙階式・祝賀会・初ミサの模様です。叙階式は本当に素晴らしいです。そこにはキリストの光があふれています。そこに集まった人々には信仰・希望・愛が満ちあふれています。
YouTube: An Entire Village Celebrates a New Priest in Lebanon 🇱🇧✝️
昨日の朝のブログに自分がいつも高慢の罪に縛られていることについて書きました。その後司教様の話を聞き、ごミサに与り説教を聞き帰宅しました。
何とも言えない心のもやもや感・・・聖書、聖ホセマリア神父様の本、アブリ神父様の本、カテキズムなどを読んでいくうちに、様々な考えが頭をよぎりやがて徐々に心は落ち着きました。
おかしな話ですが、先ず主が私に幼児洗礼を授けてくださったことを感謝しました。当然のことですが、幼児は洗礼を受ける時に打算や思惑など一切ありません。やがて子どもは教会学校で神様や教会・お祈りについての話しを聴き、それを素直に受け入れます。子どもの素直な心にまかれた正しい信仰の種は育ち続けます。途中で倒れたり、枯れかけても必ずまた起き上がります(少なくとも私はそうでした)。
幼児は本当に可愛いですね![]()
告解の準備(糾明)をしている時に、必ず高慢の罪が最初に浮かびます。高慢の罪から様々な悪が生じて、自分を主から遠ざけています。
先ずは他人を批判しない、特に『聖職者の方々を絶対に批判しない』これは私の高慢の罪を一つ遠ざける方法だと気づきました。それには努力も必要です。
オプスデイのホームページに載っている『神のいつくしみの秘跡:ゆるしの秘跡について』の「罪」の箇所を読みました。
罪
自らの罪を認めること、罪人であることを知ることこそ、改心の第一歩です。もちろん、この神との和解の第一歩もゆるしの秘跡において、最終的に罪の赦しを得るまでの歩みと同じように、神の恩恵なしには踏みだせないものです。
しかし、恩恵は自然を無効にすることも破壊することもありません。ということは、恩恵に協力する義務があるということです。何もかも全面的に主にお任せするのではなく、わたしたち一人ひとりが協力しなければならないのです。すなわち、差しのべられた御手に届くことが出来るように、わたしたちが努力しなくてはならないということです。勉強や読書、あるいは知識のある人の援助を得て、キリスト教倫理の根本的な考えを会得しなければなりません。実際には罪でないことを罪であると考えたり、反対に確かに神の法に不従順であるものを、神を侮辱することにはならないと考えたりしないためです。自らの過失を知ることさえできないのであれば、改心の第一歩を踏みだすことはできません。
神を憎んで重大な悪を行うときのみ、罪が成立すると考える人がいるようですが、間違っています。罪が成立するために、神と対決するという具体的な意図は必要ありません。実際には、罪とは神の法に反する、背くと知りながら考えたり行ったりすることです。従って、法を知りながらその法を守らないなら、罪を犯したことになります。
言い換えると、罪とは突然天から降って湧いてくるようなものではなく、三つの条件が満たされた時、罪が成立します。
(1)ある考えや思い、言葉や望み、行いや怠りが、重大な事柄(悪)であること。
(2)(1)が神を侮辱するものであることを充分に自覚していること。
(3)意図的に承諾して、実行に移すこと。
このような状況を、それぞれ、対象、意識(知識)、同意(承認)と呼びます。この三つの条件がそろった時、個人の罪が成立します。それは、悪を悪と知りつつ、主を侮辱すると分かっていながら、その悪を望むからです。
こういう状況にあってのみ罪を犯すのであれば、神の掟を知らない方がいいと、考えるのは誤りです。知ろうとする努力がないところから生じる無知は、過失から出たものです(過失ある無知と言えます)。従って、過失から生じた無知だけでなく、その無知が原因となって犯した全ての罪の責任を負わねばならないことになり、主のお言葉がぴったり当てはまります。「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは、聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない』」(マタイ13・14)。
YouTube: 20260703「聖ホセマリア記念ミサ2026~信仰の土台は「神の子」の自覚~
私は「神の子」であるという自覚 : 主の祈りを唱える時「天におられるわたしたちの父よ・・・」私たちは神に「お父さん」と呼びかけます。
私は「罪人」であるという自覚 : 拝領前に「神よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と信仰告白をします。
確かに私たちは罪人ですが神の子どもなのです。そしてマリア様も私たちの母となってくださいました。私たちを母としていつも護ってくださっています。私たちも良い子どもでいなければなりませんね。
「ペトロ岐部司祭叙階400年記念」ポスターより
1603年から1639年(徳川家康・秀忠・家光)にかけて、(現在の)鹿児島、福岡・大分、長崎、広島、大阪、京都、東京、新潟の各教区で188名の方が殉教しました。司祭をはじめ武士、農民、町人身分を問わず、また一家全員幼子も一緒に殉教した家族もありました。
詳しく学びたい方は『ペトロ岐部と187殉教者 歴史・巡礼ガイド』が参考になります。⇩
私たちはこの殉教をただ単に過去の出来事ととらえるのではなく、殉教者の流した熱い血に感謝して、彼らの信仰に倣うことが必要だと思います。
迫害のない時にはキリストを忘れてしまいがちです。家庭では親は子どもにキリストよりも他の事を優先するような態度をとり、またそう教えてしまいます。「殉教」とは何なのか、その意味することをこの機会に家庭で話し合ってみたらどうでしょう。