ゆるしの秘跡
カテキズムをよく知っている人は問題ないのですが、よく知らない人は「ゆるしの秘跡は必要ない」という間違った考えを信じてしまうかもしれないので、意を決して書くことにしました。これはとても大切なことだと思います。
「長い間教会から離れていた人がごミサに与った時に、ゆるしの秘跡を勧めると、次からはもうその人は来なくなる可能性があるので、私はゆるしの秘跡無しにご聖体を授けています。何年も教会から離れていた人でも皆同じです。その人たちにずっと私はゆるしの秘跡はしないでご聖体を授けてきました。それはご聖体はキリストの愛だからです」と、確信をもって司祭様は話されました。同じように「聖体拝領の前の準備はいらない」という司祭様もおられました。確かにキリストは無限の愛であり、すべての人を救いたいと願っておられます。でもその人が救われるためにそれが正しいやり方なのでしょうか?「それは神様にしかわからない」と言われればそれまでですが、少なくともカトリック教会には教会の教えがあり、私たちはそれに従って信仰生活をしています。
① ゆるしの秘跡というキリストの愛の恵みを信徒が受ける機会を奪っているのでは?
「ゆるしの秘跡」もキリストの愛・キリストの恵みです。こんなに罪深い私の罪を赦してくださるのですよ。罪を告白するまではドキドキします。話すのは恥ずかしいと思うこともあります。でもキリストに罪をゆるされた後のあの心の平安・喜びは特別なものです。まさにキリストのいつくしみ・愛を実感できます。ですから司祭様はゆるしの秘跡の意味がよくがわかっていない人にはこの素晴らしい秘跡の恵みについてよく説明して、自らゆるしの秘跡を望むまでご聖体拝領は待ってもらうべきではないでしょうか。秘跡すべてはキリストの愛・恵みです。慌てなくてもキリストはいつも待っておられます。
② もし信徒が大罪を犯したままでご聖体をいただくことになると、信徒にご聖体=キリストの体に対して罪を犯させることになります。
「・・・主日およびその他の守るべき祝日には、信者はミサにあずかる義務をゆうする。・・・決められた祭日にはミサに与ることは義務であると教会の掟に書いてあります。・・・重大な理由があってあずかれなかったり、自分の主任司祭から免除を受けた場合はこの限りではありません。この義務を故意に守らない者は、大罪を犯します。(カテキズム:2180-2181)
「ふさわしくないままで主のパンを食べ、その杯を飲んだりする者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります」(一コリント11:27-28)
・・・大罪を犯したことを意識している人は、聖体拝領の前にゆるしの秘跡を受けなければなりません。(カテキズム:1385)
・・・エウカリスチアは大罪をゆるすためのものではありません。大罪をゆるすのはゆるしの秘跡です。エウカリスチアは、教会との完全な交わりを保っている人々のための秘跡です。(カテキズム:1395) *エウカリスチア(聖体)
教皇様方も「長い間教会を離れていた人はまずゆるしの秘跡を受けてからご聖体をいただきなさい」と、必ず言うはずです。それはその人が神と和解することだからです。それを司祭様が邪魔してはいけません。
司祭様の別の話では、教会を離れている理由として「私のような者(罪深い)は教会に行く資格はない」と言っているとのこと。ならば簡単です。ゆるしの秘跡を受ければよいのです。
・・・回心すれば神のゆるしが与えられると同時に、教会との和解がもたらされます。(カテキズム:1440)
イエスは・・・そのゆるしの効果をもお示しになりました。すなわち、罪によって神の民の共同体から遠ざけられていた罪びとを、再びもとの共同体に迎え入れてくださいました。(カテキズム:1443)
「医者が必要とするのは健康な人ではなく、病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイ9:12-13)