傷つくことを恐れてはいけない
酒井司教様の短い説教ですがとても良い内容のお話しでした。最後に「私たちも教会の仕事をする時に良いことばかりではなく、傷つくこともあります。それでも(教会のために働いて)教会を愛さなければならない」というお話を聞いて、その通りだと思いました。
教会を愛することで傷ついたり嫌な思いをした人は、もう教会の仕事はしたくないと思うかもしれません。でも教会を愛し続けてほしいです。主は必ず慰めてくださるはずです。
酒井司教様の短い説教ですがとても良い内容のお話しでした。最後に「私たちも教会の仕事をする時に良いことばかりではなく、傷つくこともあります。それでも(教会のために働いて)教会を愛さなければならない」というお話を聞いて、その通りだと思いました。
教会を愛することで傷ついたり嫌な思いをした人は、もう教会の仕事はしたくないと思うかもしれません。でも教会を愛し続けてほしいです。主は必ず慰めてくださるはずです。
「ゆるしの秘跡」について、とても詳しく書かれています。司牧する立場(ゆるしを与える司祭)のために書かれていますが、逆にゆるしを受ける信者のためにもとても必要なことが書かれています。
ゆるしの秘跡の実践にあたってでは、・長所も短所もある司祭の人間的な側面が特に重要となる秘跡 ・容易ではない聴罪司祭の任務 ・告白の義務 、またゆるしの秘跡における特殊ケースでは、・良心に確信の持てない人 ・無実の聴罪司祭を教会の権威者に訴えた人 ・神法ならびに教会の教えに反する活動を行っている人 等が書かれています。
このように私たち信徒も知っておいた方が良い内容なので是非とも一読してみてください。
最後に私が常々感じていたことが書かれていましたので、そこを抜粋します。
(5)一部の聴罪司祭によって犯される「過失」の例
ⓔ 常に優しすぎる態度
聴罪司祭が常に優しすぎる態度をとってしまうこともしばしばあります。時にそれは甘えをゆるす優しさであり、神のあわれみを授けたいという、「熱意」からではなく、告白者との衝突への恐れからくる偽りの優しさ、あるいは自分はよい司祭だと思われたい虚栄心によるものであることがあります。また単に優しいだけというのは、無責任な態度でもあると言えます。・・・主の寛大さが捻じ曲げられ誤った方法で過剰に強調される事態が発生するのです。聴罪司祭のこういった態度は告白者に霊的な恩恵をもたらすどころか、かえってその心を歪ませてしまうことになります。
酒井司教様のカテキズム講座で『ゆるしの秘跡と内的法廷』が紹介されていました。私は以前この本を買ったのですが、司牧者のための本だという気がして、本棚に飾ってありました。 改めて読んでみると「なるほど」と学ぶことばかり。
この本の初めにこう書いてあります。
・・・多くの司牧者にとって、教会の掟や法規は福音から遠い世界のものという印象が持たれていることでしょう。イエス・キリストは愛とゆるしを説いているにもかかわらず、なぜ、教会にはこのような法や掟があるのかと。確かにイエスは、「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)と命じている一方で、「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:18)とも言われています。また思い皮膚病が癒された人に、「行って司祭に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために捧げて、人々に証明しなさい」(マルコ1:44)と語り、共同体社会に復帰するための規定や手続きについても疎かにしてよいとは教えていません。・・・本当に神に立ち帰ることを決意し罪をゆるされた信仰者は、深い信仰による喜びに満たされるはずです。・・・人間の心を変えられる神が与える光・導き・恵みに対する人間の側の応答としての信仰の実践という努力が必要なのです。・・・(東京教会管区裁判所長官 稲川保明神父)
内赦院について
内的法廷の内容は破門に値する犯罪行為の具体的内容や聖職志願者・聖職者の不適格、婚姻の無効、ミサの挙行義務等についてとそれらに対しての内赦院の解決法が書かれています。
終わりに「・・・内赦院がいつくしみの裁判所(tribunal misericordiae)とも呼ばれているのは、永遠の救いを得られない状況にある信者のために、神と教会と和解できるよう手助けをするのが内赦院の主な任務だからです。・・・内赦院は、信者が他の信者の不正を罰してもらうための訴えを起こす裁判所ではないのです。・・・」
今まであまり知らなかった内赦院について、その重要性と必要性がよくわかりました。次回はこの本に書かれている「ゆるしの秘跡」について少し書きたいと思います。
王室衛兵に心無い言葉をあびせたり、攻撃的あるいは馬鹿にするような態度をとる人、またルールを守らない人たちに対して彼らは厳しい対応をします。それは当然のことですね。でも彼らは本当にとても心優しい人たちです。そうでなければこのような大切な仕事は務まりません。お馬さんたちもよくわかっているようです。
ヴァチカンで働くスイス衛兵も全く同じですね。
YouTube: When Royal Guards Break Character & Show Emotional Moments of RESPECT!
今年は英国も特に暑い夏でした。暑い日も雪の日も馬上でじっと王室を守っている彼らの忍耐には頭が下がります。人馬一体となって仕事をしている彼らにご加護を!またスイス衛兵たちにも聖母マリア様のご加護を!
毎日ロザリオを繰りながら祈る時間は心が落ち着きます。特にロザリオの祈りは聖書の場面が描かれているので、どんな人にとっても易しい祈りです。
ロザリオの祈りはゆっくりと唱えたいですね。言葉の意味を考える間もなく、自分が何を祈っているのかわからないような・・・そんな早口な祈りにならないように気をつけましょう。
カトリック岐阜教会のロザリオの祈りを手本にして、時々動画を見ながら一緒に祈っています。少し早くなりかけたり、文語が混ざったりしていますが、それはそれで自然で良いですよね。私はいつもは文語で祈っていますが、口語で祈る時には文語が混ざってしまうことが時々あります。
YouTube: ロザリオの祈り(栄えの神秘)カトリック岐阜教会
今日は溝辺(鹿児島空港近く)にある「聖血礼拝修道会聖ヨゼフ修道院」で三名のシスターの終生誓願式が行われます。
遠いヴェトナムから来られ、観想修道院の中で労働と深い祈りの生活を続けてこられました。そしてついに今日、生涯この修道院の中ですべてを主に捧げる誓願を立てます。
どの教会もシスター方の祈りによって支えられています。特に観想修道会のシスター方の祈りは大きな力です。私たちはシスター方の祈りをとても必要としています。そして私はシスター方のために祈ります。
カテキズムをよく知っている人は問題ないのですが、よく知らない人は「ゆるしの秘跡は必要ない」という間違った考えを信じてしまうかもしれないので、意を決して書くことにしました。これはとても大切なことだと思います。
「長い間教会から離れていた人がごミサに与った時に、ゆるしの秘跡を勧めると、次からはもうその人は来なくなる可能性があるので、私はゆるしの秘跡無しにご聖体を授けています。何年も教会から離れていた人でも皆同じです。その人たちにずっと私はゆるしの秘跡はしないでご聖体を授けてきました。それはご聖体はキリストの愛だからです」と、確信をもって司祭様は話されました。同じように「聖体拝領の前の準備はいらない」という司祭様もおられました。確かにキリストは無限の愛であり、すべての人を救いたいと願っておられます。でもその人が救われるためにそれが正しいやり方なのでしょうか?「それは神様にしかわからない」と言われればそれまでですが、少なくともカトリック教会には教会の教えがあり、私たちはそれに従って信仰生活をしています。
① ゆるしの秘跡というキリストの愛の恵みを信徒が受ける機会を奪っているのでは?
「ゆるしの秘跡」もキリストの愛・キリストの恵みです。こんなに罪深い私の罪を赦してくださるのですよ。罪を告白するまではドキドキします。話すのは恥ずかしいと思うこともあります。でもキリストに罪をゆるされた後のあの心の平安・喜びは特別なものです。まさにキリストのいつくしみ・愛を実感できます。ですから司祭様はゆるしの秘跡の意味がよくがわかっていない人にはこの素晴らしい秘跡の恵みについてよく説明して、自らゆるしの秘跡を望むまでご聖体拝領は待ってもらうべきではないでしょうか。秘跡すべてはキリストの愛・恵みです。慌てなくてもキリストはいつも待っておられます。
② もし信徒が大罪を犯したままでご聖体をいただくことになると、信徒にご聖体=キリストの体に対して罪を犯させることになります。
「・・・主日およびその他の守るべき祝日には、信者はミサにあずかる義務をゆうする。・・・決められた祭日にはミサに与ることは義務であると教会の掟に書いてあります。・・・重大な理由があってあずかれなかったり、自分の主任司祭から免除を受けた場合はこの限りではありません。この義務を故意に守らない者は、大罪を犯します。(カテキズム:2180-2181)
「ふさわしくないままで主のパンを食べ、その杯を飲んだりする者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります」(一コリント11:27-28)
・・・大罪を犯したことを意識している人は、聖体拝領の前にゆるしの秘跡を受けなければなりません。(カテキズム:1385)
・・・エウカリスチアは大罪をゆるすためのものではありません。大罪をゆるすのはゆるしの秘跡です。エウカリスチアは、教会との完全な交わりを保っている人々のための秘跡です。(カテキズム:1395) *エウカリスチア(聖体)
教皇様方も「長い間教会を離れていた人はまずゆるしの秘跡を受けてからご聖体をいただきなさい」と、必ず言うはずです。それはその人が神と和解することだからです。それを司祭様が邪魔してはいけません。
司祭様の別の話では、教会を離れている理由として「私のような者(罪深い)は教会に行く資格はない」と言っているとのこと。ならば簡単です。ゆるしの秘跡を受ければよいのです。
・・・回心すれば神のゆるしが与えられると同時に、教会との和解がもたらされます。(カテキズム:1440)
イエスは・・・そのゆるしの効果をもお示しになりました。すなわち、罪によって神の民の共同体から遠ざけられていた罪びとを、再びもとの共同体に迎え入れてくださいました。(カテキズム:1443)
「医者が必要とするのは健康な人ではなく、病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイ9:12-13)
10月はロザリオの聖母の月ですね。しばらくブログを休み、ゆっくりと信仰生活、典礼などについて考える時間が持てました。特に酒井司教様の信仰養成連続講座「カテキズム」をもう一度初めから聞いたことは何よりの信仰養成になりました。この講座はまだ続くので、これからも続けるつもりです。
ブログを再開しようか迷っていた時に、小寺神父様の「オプス・デイ創立記念」を見ました。それでブログ再開する決心がつきました。
YouTube: 10月2日オプス・デイ創立記念『信徒の聖性』~聖性の社会的側面~(2024年9月27日)
少しでも聖母に倣う生活に近づけるよう、日々ロザリオを祈りながら過ごしたいと思います。すべてを主に信頼して