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2023年6月 4日 (日)

三位一体の主日(祭)

 今月は「聖心の月」ですね。特に16日の「イエズスの聖心」の祭日には『イエズスの聖心の連願』を唱えましょう。

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  聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会

 よく一般には(学校でも教えられますが)「ユダヤ教・イスラム教・キリスト教は唯一の神を信じている」と言われています。確かに八百万の神ではなく唯一の神です。しかしそれは同じ概念の神ではありません。

 キリスト教の神は「三位一体」です。私は八百万の神と混同しないように「神」ではなく、以前カトリック教会が使っていた「天主」をできるだけ使うようにしています。多くの日本人は「神」と言えば「八百万の神」、山の神や水の神あらゆる物にやどっている神を思い浮かべるからです。このことは岩下壮一神父様も『カトリックの信仰』の中で書いておられます。カトリックでは山や水や木はすべて神の被造物であって、それらは神の現れ(汎神論)ではありません。最近では信者の中にも汎神論的な間違った考えの方がちらほら・・・。気をつけましょう。

 私たち信徒は神の「三位一体」を頭で理解しようとはしないで、ただ信じればよいのです。無理矢理三位一体を何かに例えて説明しようとすると、それは異端的な考えに陥る可能性があるからです。私たちは完全に理解できなくても知ることはできます。『カトリック教会のカテキズム』232~265に書かれています。

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聖ホセマリアの御ミサにおいて実現する至聖三位一体との交わりについて

       (オプスデイH.Pより抜粋)

「口よ、歌え、光栄ある聖体を。尊き母の御子・万民の主が、世の贖いのために流されたこの聖い御血の秘義を」と、聖なるホスチアの前で、信者が昔から絶えず唱い続けてきた訳がよくわかります。隠れておいでになる神を恭々しく礼拝しなければなりません。ご聖体は童貞マリアからお生まれになったイエス・キリストご自身、苦しみを受け、十字架につけられた御方、御脇腹を刺し貫かれ、血と水とを流したイエス・キリストご自身であるからです。

これこそ、聖なる宴、キリストご自身を糧として受ける宴ですが、そこでは、主のご苦難が記念されるだけでなく、人が主と共に親しく神と交わり、来世の栄光の保証を受けます。教会典礼のこの短い賛歌の中に、主の熱烈な愛の歴史のクライマックスが要約されているのです。

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三位一体の神はご聖体という得も言われぬ方法を通して、人間にその愛を注ぎ続けられます。ご聖体は犠牲であると共に秘跡であると、昔カトリック要理で習ったものです。秘跡としては、聖体拝領と祭壇上の宝物、つまり聖櫃の宝物として示されます。世界中の聖櫃に現存するキリストの御体のために、教会は特に聖体の大祝日を定めました。

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奉献の後の、指の清めのすぐ後で、司祭は次のように祈ります。「聖なる三位一体の神、わたしたちの主イエス・キリストの受難、復活、昇天の記念としてささげるこの供え物をお受けください」、そしてごミサの終わりには、聖三位一体に尊敬を表す素晴らしい祈りを唱えます。「聖なる三位一体の神、しもべであるわたしの奉仕のわざをこころよくお受けください。値打ちのないわたしが敢えてみ前にお捧げするこのいけにえをお喜びください。御いつくしみによって、わたしとわたしが捧げたすべての人々のために快くお受け入れください」。

繰り返し申しますが、ごミサは三位一体の神の働きであって人間の働きではないのです。ごミサをたてる司祭は、自分の体や声をお貸しすることによって主のみ旨に仕えますが、自分の名においてではなく、キリストのペルソナとキリストのみ名において振る舞うのです。

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ミサにおいて、聖三位一体ご自身が教会に与えられますから、ごミサによって私たちは信仰の主要な秘義に導かれることになります。こうして、ごミサはカトリック信者の霊的生活の中心であり根源であることがよくわかります。ごミサはすべての秘跡が目指す秘跡です。洗礼において与えられ、堅信によって強められ成長した恩恵の生活は、ごミサによって絶頂に達するのです。「ご聖体にあずかることによって、聖霊が私たちを神化してくださっていると感じます。ごミサにおいて聖霊は、洗礼の時のようにただ単にキリストに同化させるだけでなく、私たちをキリストに結びつけ、完全にキリスト化させてくださるのです」と、エルサレムの聖キリルスは述べています。

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ある信者にとってごミサは、社会の因襲とまでは言わなくても、単なる外面的な儀式に過ぎず、またある人はごミサについて極めて貧弱な考えしか持っていない、と私が述べても、別に変わったことを言っていることにはならないでしょう。私たちの心は全く哀れなもので、神がお与えになった最も偉大な賜物にさえも慣れてしまうのです。ごミサ、今捧げるこのごミサには、繰り返して申し上げますが、聖なる三位一体の神が特に介入なさいます。この深い愛に応えるために、心身共に、すべてを捧げる必要があります。神に耳を傾け、神に話しかけ、神を見、神を味わうのです。そして言葉に言い尽くせないときには、元気を出し、全人類に向かって主の偉大さを称え、「口よ、うたえ、光栄ある聖体を」と歌うのです。

(聖ホセマリア・エスクリバー『知識の香』84ー87)

 ということで、私は簡単にごミサを中止したり無くしてはいけないと思います。(`•︵•´) !

 これら諸々のことで先週は心乱れていたせいか、連絡網である方に連絡するのをすっかり忘れてしまいました。catface