聖木曜日(主の晩餐)
カトリック教会で最も大切な「聖なる過ぎ越しの三日間」が今晩の「主の晩餐のミサ」から始まります。
今日聖木曜日は主の晩餐と呼ばれるように、主イエズスが12人の弟子たちと共に過ごす晩餐を記念します。
この晩餐の時に主イエズス・キリストは「このパンはわたしの体、この葡萄酒は私の血」であり、再びわたしが来るときまでこれを行うようにと定められました。
主イエズスは死に渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてから手で分け、そしてこう言われました。「これはわたしの体、あなたがたのためのものである。わたしを思い出すために、このように行いなさい」。食事が終わってから、主は杯についても同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約である。これを飲むときはいつでもわたしを思い出すために、このように行いなさい」。実に、あなたがたはこのパンを食べ、この杯を飲むときはいつでも、主がおいでになるときまで、その死を告げ知らせるのです。(コリント人への第Ⅰの手紙 11:24-26)
そして主イエズス・キリストは自ら弟子たちの足を洗いました。
さて、イエズスは、弟子たちの足を洗い終わり、上衣を着て、再び食事の席に着くと、仰せになった。「あなたがたにしてやったことがわかるか。あなたたちは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。そのとおりだからである。それで主であり、先生であるこのわたしが、あなたたちの足を洗ったからには、あなたたちも互いに足を洗い合わなければならない。わたしのしてやったとおりに、あなたたちもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネによる福音書 13:12-15)
ご聖体には特別なかたちで主イエズス・キリストが現存しておられます。信じていればご聖体=イエズス様の前で跪くのは自然なことでしょう。
なぜご聖体を立ったままで、しかも手で受けるように変えてしまったのでしょうか?(ずっと昔手で受けていた時は今のように直接手にのせるのではなく、白い布を手に広げてその上にのせていたそうです)ご聖体を特別ないのちの糧ではなく、普通の食べ物と同じ扱いにしてしまいました。私はご聖体(キリスト)を立ったままで素手に受けるように変えた人達の意図が未だにわかりません。
ご聖体についてもう一つ。司祭様方はご聖体を顕示して町中を回り、人々はキリストが共にいてくださることに勇気づけられて祈っています。聖堂に顕示されたご聖体の前でも祈っています。人々はご聖体にキリストを見て、キリストに祈ります。
ところでとても違和感をおぼえる動画を見ました。それはヘリコプターで空からご聖体の祝福をしている光景です。キリストを見てキリストに祈りそして祝福をいただくことがご聖体顕示だと思うのです。しかし何も気づいていない人々に空からまとめてご聖体で祝福するのはちょっと違うような気がしました。それはまるでご聖体でおまじないをしているようにも見えました。司祭様は良い心でそれをされたのはよくわかりますが、カトリック信者以外の人からは誤解されそうです。(これはあくまでも私個人の感想です)