« 2024年8月 | メイン | 2024年10月 »

2024年9月

2024年9月13日 (金)

困惑

 以前、私は外食する時に周りに人がいても「父と子と聖霊のみ名によってアーメン」と十字架のしるしをすると書きました。

 フランシスコ教皇様はインドネシア訪問の時に、様々な宗教の人々との会合に出席され、最後に祝福(ベネディクション)を与えられました。教皇様曰く、「祝福は常にすべての宗教に有効です。なぜなら祝福は常に愛のしぐさであり、普遍的なものだからです」と。そして祝福が始まり、「神が一人一人を祝福してください。あなたの家族を祝福してください。あなたの現在も未来も祝福してください。アーメン。」と言って終わりました。???「父と子と聖霊のみ名によって」も十字架のしるしもない教皇様の祝福でした。以前にも教皇様はユダヤ教のラビに会われた時に首からかけておられた十字架をサッシュの中に隠されましたね。

 これらを見て私は自分が他宗教の人の前で十字を切ることは間違いだと責められているような気持になりました。キリストを信じない人たちの前で十字を切るのは配慮のない良くない行為なのでしょうか?

 教会は跪いたらだめ、ご聖体は手で受けるように、他宗教の人に配慮してその人たちのいるところでは十字架のしるしはしない、みことばのわかちあい、・・・私は教会から徐々に締め出されているような気持になります。

Photo

 「みことばのわかちあい」やシノドス的な(共に歩む)教会になるために「霊における会話」が、本当に散らされた羊たちを集め、教会の危機を救うことになるのでしょうか?カトリック教会が「みことばのわかちあい」を始めだしてしばらく経った頃からごミサに与る信徒は減り始めました。

5

 フランシスコ教皇様が薦めている「霊における会話」がとても素晴らしいとの声を聞いたので、『シノドスハンドブック』を読みました。

 その中の「霊における会話」のプログラムとシートを読みました。最後の方に「教会内のさまざまな立場の人が同じテーブルで分かち合い、平等に発言する機会と、こころ静かに相手の話を聞く機会が与えられる」と、きれいな言葉で結んでいましたが、最終的には「最終的な合意の際に、真っ向から対立する意見があるような場合、審議・決断する人たちは、対立意見があることを充分理解した上で、決断することが求められます。グループのメンバーも、決断する人たちを信頼しながらゆだねることが重要です。この意味では、疑いのこころではなく、「霊」の導きにこころを開かせてもらえるような、信頼できる雰囲気づくりは必要になるでしょう。」と、書かれていました。「決断する人たちを信頼しながらゆだねることが重要・・・」だそうです。私には無理な気がします。信仰心が足りないのかもしれません。bearing

Photo

 ブログはしばらくお休みします。

307

2024年9月12日 (木)

老化

 近頃は人や物の名前がすっと出てこないことがよくあります。また正座をしようとすると足が痛くてできなくなりました。老いとはこういうものかと実感しています。

 頭がしっかりしているうちに、認知症でも受け入れてくれる施設等を調べています。

 夫のいない私は一人で生活できなくなったら施設で面倒を見てもらうつもりでいます。どこでも主が与えてくださる場所が私の住処です。と、子どもたちにも伝えてありますが、言うだけではなく一筆書いておいた方が良いですね。

 とは言っても、今は一人で生活できるので、できるだけ怪我や事故に気をつけて、規則正しい生活を心掛けています。confident 車の免許も高齢者講習を受けたので更新できます。good

Photo

 久しぶりにコーヒーゼリーと蒸し菓子を作りました。やはり手作りは美味しいです。たまには血糖値を気にしながらでも、脳へのエネルギー注入のために甘い物をいただきましょう。今日はマリアの聖名の祝日ですね。私のお祝いの日で~す。 lovely

2024年9月 9日 (月)

「希望は欺かない」

 来年2025年は聖年です。フランシスコ教皇様は聖年公布の大勅書「希望は欺かない」を出されました。初めて「希望は欺かない」と耳にした時にはどういうことなのか理解できませんでしたが、小寺神父様の説明を聞いて納得しました。この「希望」は一般でいう希望ではなく、キリスト信者の希望=復活・永遠のいのちを意味していました。

2025「聖年」希望は欺かない(2024年9月6日)
YouTube: 2025「聖年」希望は欺かない(2024年9月6日)

 大勅書「希望は欺かない」はカトリック中央協議会のホームページで読めるので,早速読んでみます。

Rgd0005746c

 小寺神父様が最後に教えておられるお祈り

 聖マリア、私たちの希望、主のはしため

 Sancta Maria, spes nostra, ancilla Domini

2024年9月 8日 (日)

アリンゼ枢機卿


YouTube: CARDINAL FRANCIS ARINZE INSULTS FEMINISTS

 アリンゼ枢機卿様はいつもユーモアを交えてわかりやすくカトリックの教えを話されます。フェミニストは天主を「母」と呼びたいようですが・・・。面白いですね、このような質問。

  アリンゼ枢機卿様は説明の中で、肉体のない天主は男性でも女性でもないが、聖書の中ではっきりとキリストは「御父」と呼びかけていると、説明しています。

 アリンゼ枢機卿様の説明の中で「御父は肉体を持っていない」と言っていることは、当たり前のことですが、これが当たり前と思っていない人もいるようです。聖母マリア様は人間ですから肉体があります。キリストも人間の子として生まれたので肉体があります。でも聖霊と御父には肉体はないと、カテキズムで習いました。ですから、あるマザーの御父の姿を見てその姿を絵に描いたという話はどうも・・・私は信じられません。まだ光が見えて声が聞こえたのなら信じたかもしれませんが。(信じる信じないは各自の自由ですが、押し付けてはいけませんね)

 因みにアリンゼ枢機卿様はナイジェリアの出身です。そう、あのごミサの出席率94%の国です。善き牧者がいるから羊たちは散らずにまとまっているのですね。納得です。lovely

2024年9月 6日 (金)

主の祈り(Pater Noster)

 聖ヨハネパウロ二世教皇様の「主の祈り」です。よくラテン語で唱えておられましたね。教皇様のラテン語での「天使ミサ」も懐かしいです。

 ベネディクト十六世教皇様もラテン語ミサをよく立ておられました。

 ヴァチカン聖堂内に響く聖歌隊のラテン語の祈りは美しく荘厳でした。


YouTube: JPII Sings the Pater Noster

5888

教皇様お二人のごミサです。


YouTube: Liturgia Eucarística - Papa São João Paulo II


YouTube: Messa Corpus Domini 2010 (3 giugno). Benedetto XVI

 ベネディクト16世教皇様のごミサもラテン語です。私が特に見てもらいたいのは、ご聖体拝領の場面です。1:17:00 頃から 1:23:00 頃までです。前教皇様の時まではこうだったのですよ。知らない方も多いでしょう。ご聖体拝領とはキリストご自身を拝領することですから、この姿こそふさわしいと思うのですが、皆さんはどう思いますか?

2024年9月 1日 (日)

夫が教えてくれたこと

  夫が亡くなって約8か月になりました。語り合う相手がいなくなった寂しさを、時が経てばたつほど感じます。語る相手は他にいても、やはり夫とは違います。

 私が二十代の初め(教皇はパウロ6世)の頃、第二ヴァチカン公会議での変更が盛んに行われ始めた頃です。

 私はその改革ブームに乗って、ヴェールはしない、ご聖体は手で受けることが進歩的でカッコイイと思い、ヴェールを被るのをやめ、積極的に手でご聖体をいただくようになりました。服装も普段着こそが清貧だと勘違いして、いつも着古したジーンズにTシャツで教会へ行きました。多くの司祭はローマンカラーを外して、信徒と同じような服装だったので、時々「あなたは司祭様ですか?」と、確かめなければならない時もありました。バンドが演奏するミサはノリノリで、今思えばミサの意味はどうでもよく、ただ自分が楽しんでいただけだった気がします。

 そんな私の間違った考えを正してくれたのが夫でした。「愛するキリストに会いに教会へ行くのに、その格好でいいの?結婚式に招待されて行く時に普段着で行く?デートの時相手のために綺麗にしていくでしょう?服を持っていないのならわかるけれど・・・」「よく考えて。ご聖体とは何?」「主キリストを崇拝するなら腰をかがめて跪くのは自然なことだと思わない?」等々。

 私はヴェールを被る意味をよく理解しておらず、ヴェールの必要性がわかっていませんでした。またご聖体はキリストの体・特別なパンであるという認識が希薄でした。ご聖体をまるで普通のパンと同じように手で受けていました。キリストの体だからこそ普通のパンと同じように手で受けるのではなく、舌で直接受けるのがふさわしいと理解しました。

 私は周りの人がどんな服装でミサに与ろうと、ヴェールを被らなくても、ご聖体を手で受けようともかまいません。これらは強制されてすることではなく、それぞれの人の心の在り方だからです。ですから私はキリストへの崇拝の気持ちが、ごミサに与る時には普段着ではなく、ヴェールを被り、ご聖体は舌で受け、ご聖体顕示の時には跪くという形を自然と取らせます。そうせずにはいられないのです。

 教会が禁止しない限り私は続けます。happy01(できれば聖変化の時にも跪きたい:普通のパンとぶどう酒がキリストの聖体と聖血に変わる瞬間ですよ!)

 夫はこれらの他にも聖書の解釈や典礼について、ヴァチカン内での問題等々、様々なことを教えてくれました。

 夫が教えてくれたことに共感して、私と同じような気持ちでご聖体を舌で受ける人が増えると嬉しいです。heart

Flower_rose_line_1834

 さて、先月も色々なことがありました。特に信仰の面では試練でした。何故?どうして?と思うことが多く、こんな時にこそ夫がいてくれたら・・と思いました。幸い聖母マリア様、ヨセフ様、守護の天使に祈ることで乗り超えることができました。そして今は聖ホセマリアに一つの祈願をしています。聖ホセマリアに執り成しを願い主に届いたことは何度もありました。おそらく今度の執り成しの願いも適うと思います。なぜならそれは主のみ旨に適う善いことだと思うからです。

26_2