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2017年5月

2017年5月31日 (水)

St.Joan of Arc

 昨日5月30日は聖ジョアン・オブ・アークの日でした。と言われてもすぐにわからない方も多いでしょう。聖ジャンヌ・ダルクといえばわかりますね。何度か映画にもなっています。

 1412年に生まれ12歳(13歳?)の時に「神の声」を聴きフランスのためにイギリスと戦いました。1430年に捕虜となり1431年1月から異端審問が開始され5月30日火刑に処せられました。その時彼女は19歳。

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 私はなぜ彼女が聖人なのか、しかも多くの聖人達の中で特に人気があるのかずっと不思議に思っていました。なぜなら彼女は戦争に勝つための兵士でした。戦争をする人が聖人?

 しかし最近になって乙女ジャンヌ・ダルクが聖ジャンヌ・ダルクであると理解できるようになりました。

 彼女がフランスを救いなさいと言う「神の声」を聴いた時にはどんなにか驚き恐れたことでしょう。しかし彼女は主を信頼して聖母マリアのように神の言葉に従いました。

 また戦場でも彼女は人を殺すことはせず、「イエズス マリア」と書かれた旗を持って先頭に立ち、部隊を鼓舞して兵士の士気を高めました。

 そして彼女が聖人たる所以の一つが異端審問です。

Reynzrzr1異端審問の間監禁されていた塔・火刑された場所に建つ像

 異端審問は司法権のないコーション司教をはじめ彼女に敵対する人ばかりでの審議、神学的質問の罠(しかし彼女は見事に答えています)、裁判記録の改ざん、彼女が字の読めないことを利用して「無罪判決の証書」と偽って、「魔女認定の証書」にサインまでさせ、彼女を無理矢理魔女にしてしまったのです。 

 教皇の裁判を望んだのに却下され、神の声も聞こえず、不安や悩みにくるしめられました。しかし再び大きな救いと勝利を約束する神の声を聞きました。火刑の前に告解をした司祭に「今晩私は神の恵みによって天国にいるでしょう」と言いました。火刑は神が約束された勝利と救いの国への旅立ちでした。

 火刑(1431年)から25年、カトリック教会は間違いを正しました。1456年教皇カリストゥス3世のもと復権裁判で無罪を宣告。1909年教皇ピウス10世から福者に、1920年教皇ベネディクト15世から列聖されました。彼女はフランスの守護聖人でもあります。かつては「教会の長女」とまで呼ばれていたフランスの現状を見ると聖ジャンヌ・ダルクの執り成しを祈らずにはいられません。

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2017年5月29日 (月)

新司祭

 ワールドユースデイ・ポーランドのブログを書いた時、ポーランドのベアタ・シィドヴォ(Beata SzydȽo)首相の息子ティモテウシュさんが神学生だということは書きました。昨日5月28日に彼の叙階式があり、めでたく司祭になりました。

Photo写真:PRAWy.Pl より

 初ミサは6月4日にクラクフの聖十字架教会でトレント式で挙げられる予定だそうです。トレント式ミサ!!なんて素晴らしいlovelyさすがポーランドですね。

2017年5月28日 (日)

主の昇天

 「主の昇天」の祭日です。文字通りキリストが天にあげられた日です。

 主の昇天は、キリストが亡くなり復活した後40日目の事でした。伝統的には復活の主日から40日目(復活の主日を1日目と数えて)の木曜日(今年は5月25日)に祝ってきました。しかし、日本のように信徒が少なく、木曜日に集まることが難しい国では、第二バチカン公会議後「主の昇天の祭日は、復活節第七主日に移す」ことができるようになりました。本当は今日復活節第七主日ではなく、キリストは復活後40日目に昇天されたことを心にとめておきましょう。

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 復活したキリストと共に弟子たちは40日間も共に生活していたのです。なんと羨ましい!そして弟子たちはキリストが天に昇って行くのをはっきりと見たのです。それは聖書に書かれている通り。

 キリストは残された弟子たちを放っておきませんでした。残された使徒たちには聖霊がくだり、常に聖霊に満たされて聖霊の導きによって宣教しました。そしてキリストは特別なかたちでご聖体に現存されています。キリストはいつも弟子たちと共に、そして私たち一人一人と共にいてくださるのです。

 まさにこれらを実感する祭日が主の昇天の後続きます。聖霊降臨、三位一体、キリストの聖体です。とても大切で意味深いこれらの祭日をそれにふさわしい心で迎えたいと思います。

2017年5月26日 (金)

聖ホセマリア記念ミサ

 来月6月26日は聖ホセマリアの記念日です。今年も記念ミサが行われます。

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 東京・京都・西宮・長崎の4都市であります。近くにお住まいの方、またその方面へ出かける予定のある方は是非ごミサに与ることをお薦めします。東京ではローマ教皇庁大使のチェノットゥ大司教様の司式です。わたしも与りたいのですが長崎でも遠いのであきらめます。

 聖ホセマリアの『道』を初めて読んだ時、大きな衝撃でした。「名ばかり信者」で生ぬる~い生活をしていたわたしの目を覚ましてくださったのが聖ホセマリアです。それ以来オプスデイを信頼し聖ホセマリアの教えを皆に伝えたいという思から、このブログにも度々聖ホセマリアのことばを載せています。

Photo聖ホセマリアに取次ぎを願う祈り 

 今日から聖霊降臨の日までの10日間の祈りの冊子があります。聖ホセマリアの祈りと説教によって成っています。

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最初はいつもこの「はじめの祈り」から始まります。

はじめの祈り

 聖霊よ、来てください。あなたの掟を知るために私の知性を照らしてください。敵の計略に対してわたしの心を強め、私の意思を燃え立たせてください。あなたの声を聞いたのに、後で…、明日、と言いながら、頑なに抵抗したくありません。今、始めます!明日は来ないかもしれませんから。

 真理と知恵の霊、知識とよき勧めの霊、よろこびと平和の霊よ!あなたがお望みのことを、お望みのゆえに、お望みのように、お望みの時に…、私も望みます。

 この祈りは聖霊降臨の日までだけではなく、いつも続けたい祈りです。特に最後の「あなたがお望みのことを、・・・私も望みます」は私にとって射祷です。

2017年5月25日 (木)

パッジの聖マリアマグダレーナ

 

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 今日はパッジの聖マリアマグダレーナの日です。フィレンツェの名門パッジ家に生まれた聖女は修道会に入ってから重病にかかり精神的にも絶望の誘惑や苦痛を受けました。

 彼女は苦しむ煉獄の霊魂の救いのためにただひたすら祈り続けました。そして1590年の聖霊降臨の祝日、彼女の精神的な試練苦しみは突然終わりました。

 聖女のように苦しみを煉獄で苦しむ人の救いのために捧げることは病気で苦しむ人にしかできない善行です。寝たきりになって「私は何もできない」と嘆くのではなく、あなたにしかできないことがあるのことに気づいてください。主が与えたものにはすべてに意味があります。

2017年5月23日 (火)

信仰の姿

 「トマさん祈りの部屋」のトマさんの話しにはいつも教えられます。自分の目が見えるように、耳が聞こえるようになった気分です(TomaPさんのブログではありません。お間違えの無いように)。

 今日読んだのは大分教会でのカテキズムの勉強会での話です。題は『自由と道徳』とありますが、自由と信仰のお話です。

 以下その話の抜粋

人間は善と悪、どちらでも選択できる自由が与えられています。・・・信仰は個人の自由から導き出されます。だから、自由の考え方が違えば、同じ「信仰」という言葉を用いても、中身は正反対になることもあります。・・・それが信仰のあり方にも現れています。神を信じて祈りますが、祈りの中身は、自分の願い(欲望)が叶うことだけです。聞いてもらえなければ、別の神を探して願います。こうして、自分に都合の良い神を信仰することになります。その典型が「ご利益(りやく)」信仰です。・・・最近増えているのが、社会生活(仕事や人付き合い)に疲れ、そこから逃げ出して自分にとって居心地がいい場所として宗教に頼るケースです。苦しみから逃げ、「癒し」だけを求めて信仰に入るのです。信仰が自分中心になっています。それは無責任でセンチメンタルな信仰です。

 キリスト教的な自由とは、自分勝手でわがままな自由ではありません。自由とは『選択できること』が前提ですが、選択が自由の本質ではありません。自由の本質は「自分から善を選択すること」です。・・・選択自体に価値が有るなら、選んだ後は「選べない」ので不自由になります。しかしそうではなく、幸せになります。それは選んだ善を愛し続けるからです。「愛する」とは、「善を連続して選び続けている状態」です。

 このような自由から生まれる信仰は、最高の善である神を選び、愛することです。自分が神の望みに応えて変わっていく努力をします。・・・その結果、信仰を通して「ゆるすこと」「仕えること」「苦しみを受け入れること」ひいては「自分の望みを捨てて、神に従うこと」になっていきます。苦しみから逃げるのではなく、乗り越えます。悲しみがあるのに、心に平和が戻ります。これこそが真の信仰の姿です。(2017/04/08 大分教会カテキズム勉強会「自由と道徳」より)

 洗礼を受けてもすぐに教会から離れてしまう人の原因の一つが、何を求めて信仰に入ったかではないでしょうか。「癒し」だけをもとめて洗礼を受け、苦しみや悲しみを乗り越えることができないとしたら・・・。

17最高の善である神 主イエズス・キリスト

2017年5月22日 (月)

望みなき者の保護者

 

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 カシァ(Cascia)の聖リタは妻、母親である私たちにとってとても身近な聖人です。

 彼女は夫の暴力に苦しめられました。しかし彼女は夫と別れるのではなく、夫の回心のために祈り続けました。ついに夫は回心しましたが、それまでの政敵によって殺害されました。息子たちは復讐に燃えましたが彼女は息子たちのために祈り、彼らの復讐を思いとどまらせたのです。しかしその息子達も死に彼女は結婚前から望んでいた修道会に入りました。

 自分一人ではどうすることもできない苦しい時は相手のために祈ることを聖リタは教えてくれました。自分を苦しめる人を許しその人のために祈る、とても難しいことですが聖リタは身をもって私たちにしめしてくださいました。聖リタに倣いましょう。

2017年5月20日 (土)

「メジュゴリエに疑問」あたりまえでしょう

 フランシスコ教皇様はやっとメジュゴリエの聖母出現について答えられられました。それは私が思っていた通りの答でした。「メジュゴリエに疑問」!

[以下ポルトガル訪問後の教皇特別機上5月13日CNSの記事より抜粋】

 ファティマ訪問後の機上で、メジュゴリエでの最初の聖母出現の証言について調査が進行している中、教皇フランシスコは5月13日、ボスニア・ヘルツェゴビナの村でマリアが現れ続けているとする主張には疑いを抱いていると明言した。・・・

カミッロ・ルイーニ枢機卿が率いる調査委員会の報告に言及し、「その報告では疑問が呈されていますが、個人的には、私はさらに疑っています」と教皇は記者団に語った。

「私は母としての聖母が好きなのです。私たちの母です。電報局長のように予告した時間にメッセージを送ってくる聖母ではありません」

「これはイエスの母ではありません」と教皇は続ける。「そして、こうした出現の主張には大切な価値はありません。(81年6月にメジュゴリエでマリアを目撃したと主張する6人の若者たちのうち3人は今も聖母が毎日現れ続けていると言い、他の3人は、今は年に一度だけ現れるとしている。)

 メジュゴリエ信奉の方は目を覚ましてください。フランシスコ教皇様もはっきりと否定しておられるのですから。

 聖母のご出現が本物であるか偽物であるかを見極めることは難しいことです。わたしも当然できないことです。でも疑わしいと思う決め手はあります。それは

① 聖母のメッセージの内容

② メッセージを受けた人のその後の生き方

 この2点です。メッセージの内容は今までのカトリックの教えに反していないこと。メッセージを受けた人はその後すべてをキリストに捧げる生き方をしている。ルルドとファティマは問題ありませんがメジュゴリエは残念ながらどちらにもひっかかります。神学校で勉強していない平信徒の私でもわかることです。

 「〇〇さんには毎日聖母が現れます」とすごいことのように話される人がいます。毎日聖母が現れることが素晴らしいのでも無く、価値あることでもありません。聖母が現れなくても聖なる生き方をされている方はたくさんおられます。毎日聖母が現れる・・・だから何?

33ファティマの聖母の前で祈られるフランシスコ教皇

2017年5月19日 (金)

弱い人々

弱い人々のために (バルバロ神父)

 キリストは、「弱い人々」のために来た。それは真実である。そのためにキリストは、「神のあわれみ」をわれわれに教えた。しかしキリストは一度も、人間の弱さをあおったことはない。むしろ「自分の生命を救いたいなら、それをすてよ」と教えたではないか。キリストにとって死は、「恐るべき最後」ではなくて、新しい生命へのかど出であり、それが、キリスト教の中心である「よみがえり」の意味となるのである。

 サルトルの無神論的実存主義の結論が「すべてはナンセンス」であるということをここで皆考えてみてはどうであろうか。サルトルの考えでは、神もなく、来世もなく、すべては無意味な、その混沌の中で、人間は自分の力で自分を救わねばならないのである。人間のことを、この世だけで解決するのが、その思想の根本である。こう考えてくれば、たしかにふみ絵も、人間の作ったばかばかしいものであるから、それをふんでもかまうまい、無意味なことなのだから。

 しかし、こうなれば、もうキリスト教ではなく他の宗教である。もうキリスト教はない。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 小説『沈黙』に対するバルバロ神父様の考えです。神父様の考えはよくわかります。今、特に映画公開後バルバロ神父様と同じような意見は言えない雰囲気です。それはあまりにも「人間の弱さ」をあおるような話しをする信徒や司祭が多いからです。

Photo_3京都大殉教:テクラ橋本とその子どもたち

  今月25日の聖人パッジの聖マリア・マグダレナは重病・精神的苦痛・絶望への誘惑・多くの耐え難い苦しみを受けましたが、彼女は「死よりも苦しみを」と祈りました。テクラ橋本やパッジのマリア・マグダレナのような人がいたことを忘れてはなりません。

2017年5月16日 (火)

良くなりました

 主任司祭が替わられて約1ヶ月経ちました。色々と変わりましたが中でも私が嬉しいのは祭壇です。

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 以前のA教会の祭壇と今の祭壇の違いがわかりますか?そう、十字架が移っているのです。向かって祭壇の右側から聖櫃の上の左側に移りました。本当は中央にあるのが理想なのですが、それでも以前よりずっと良いです。聖櫃と十字架を共に仰ぎ見ながら祈れるのです。素晴らしいと思いませんか?A神父様に感謝!

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 後は聖書朗読の後に侍者が「神に感謝」ではなくて「神の(み)ことば」と言ってくれれば、もう何も言うことはありません。

2017年5月15日 (月)

生と死

 今月初めに五つ子ちゃんが生まれました。お母さんは花子、お父さんはトラ次郎です。お母さんとお父さんの遺伝子をしっかり受け継いでいる毛並みです。

 花子がお出かけの間にこっそり写しました。にゃんとかわゆすlovely

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 まだ目も見えないのでおとなしいですが、5匹がよちよち歩き出すと花子は目が離せなくなります。カラス、たぬき、イタチなどの天敵に一番怖いのが車。子育て頑張れ花子!

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 命の誕生といえば必ず死があります。猫などの動物とは違い人間は死が必ず訪れることを知っています。ですから自分の死について、またその準備について考える人もいるでしょう。

 昨日はIさんの葬儀がありました。Iさんは思いやり深くて、特にとても謙遜な方でした。

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 他人の葬儀に参列すると、自分の葬儀について考えてしまいます。そのことを夫に話すと「そんなことは心配しなくてもいいよ。いくらああして欲しい、こうして欲しいと言っても、あなたは死んでいて自分の思い通りには何もできないのだから残った人に任せなさい」といわれました。確かにその通りです。今思いわずらっても仕方ありません。葬式より死までどう生きるかが大切なのですから。とはいってもつい色々と考えてしまう私です。catface

2017年5月14日 (日)

♪キリストのように♪

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)

 これは先週金曜日の福音、そして今日の福音も同じ箇所が読まれています。「キリストを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と、キリストははっきりと言っています。

 そしてイエズスは弟子たちに言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。

 これがキリストの教え=キリスト教です。この言葉を無視するならその教えはもはやキリスト教ではありません。

      fish  fish  fish  fish  fish  fish

 話は全く違いますが、わたしはある歌が大好きで、この歌を作られた方にお会いした時にその方が「これは自分の作った作品の中で特に好きな歌なので歌集では18番(十八番おはこ)にしました」と言われました。確かに歌集では18番目になっています。

 私は大好きなこの歌を口ずさむたびに少しひっかかるところがあります。その箇所とは出だしのところ。

note キリストのように神から生まれて~note と言う歌詞です。キリストは三位一体の神、私たちは神の被造物なのでこの歌詞は明らかに不自然。ここ以外の歌詞と曲はとても良いのに。わたしが気にしすぎでしょうか?何も気にせずにさらっと歌えばよいのか、勝手にここだけ歌詞を変えようか・・・たいしたことではないのですが悩んでいます。

Dscn1600_3「キリストのように」楽譜(写りが悪いですが)

2017年5月13日 (土)

ファティマの聖母

 今日13日はポルトガルのファティマで三人の子どもに聖母がご出現されて100年。

 ファティマではその中の二人フランシスコとヤシンタがフランシスコ教皇によって列聖されました。

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 三人の牧童は聖母から「人々が肉欲や傲慢などの罪から回心しないままでいると永遠の地獄へと行く。そして人々が生活を改め罪を悔い改めないなら、さらに大きな戦争が起き(第二次世界大戦のこと)、沢山の人が死に、そしてその多くの人が地獄に落ちてしまう。また教皇暗殺の危機もある」と告げられました。教皇庁はこれらのお告げに対して、人々は回心してよく告解をして罪を避けて敬虔な生活を送るように、ロシアを聖母に奉献し、世界の平和のためにロザリオを唱え、毎週主日に聖体拝領をするようにと勧めました。

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 マリア様がロザリオの祈りの各連の終わりに付け加えるようにと依頼された祈りが「ファティマの祈り」です。

ファティマの祈り 

ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より護り給え。また、すべての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。アーメン (文語)

主イエス・キリスト、私たちの罪を許して下さい。私たちを滅びから救い、すべての人々、ことにおん憐れみを最も必要としている人々を天国に導いて下さい。アーメン。(口語)

O my Jesus, forgive us our sins, save us from the fires of hell, lead all souls to Heaven, especially those most in need of Thy mercy. Amen.(英語)

Domine Iesu, dimitte nobis debita nostra, libera nos ab igne inferiori,perduc in caelum omnes animas, praesertim eas, quae misericordiae tuae maxime indigent. Amen.(ラテン語)

2017年5月10日 (水)

カトリックの教え

 先日A神父のヴェトナムの神学校時代の話を聞いて、神学校はそうあるべきだと感心したのですが、今日Fr.Zのブログで、こんな写真がありました。

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6写真:ブログFr.Zより

 神学校で枢機卿様がテーブルサービスをしているところです。Burke枢機卿様のような?Burke枢機卿様ならありえることです。

2017年5月 9日 (火)

わたしの羊

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あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。(ヨハネ10:26~30)

 今日の福音箇所です。キリストははっきりと言われます。「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。・・・わたしと父は一つである」。

 キリストを信じて彼の羊となるということは、キリストを信じて洗礼を受けることです。そして信じてキリストの羊の群れの仲間になることは父のみ旨でもあるのです。

 韓国では羊の群れがまた増えました。去年は8万6千人強増えて約574万人に。これは総人口の10.9%にあたるそうです。日本では?御父はキリストを信じなくても、その群れに入らなくても良いとは言っていないのに、まるでそう言っているかのようなことを耳にします。「『信じる人は救われる』『踏み絵を踏まない人は救われる』と言うのは原理主義者、なぜなら御父はすべての人を救われるから」とまで言う司祭がいます。これではキリストを信じて洗礼を受けて羊の群れに加わる意味はなく、今まで通りの生活を続けていれば良いことになります。

 御父はすべての人が救われることを望んでいます。しかし「キリストを信じる人に永遠のいのちを与える」と、はっきり言っています。

 すべての人が滅びることがないように永遠の命を受けてほしい。特に自分が大切に思う人に。信者の親が自分の子どもに幼児洗礼を望むのは、親自身が最高の物、一番良いと信じているもの、永遠のいのちを愛する者に与えたいからです。

2017年5月 6日 (土)

海北友松展

 

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 京都国立博物館で開館120周年記念特別展「海北友松(かいほうゆうしょう)」が今月21日まで開催されています。

 昨晩のラジオの放送で知りました。そもそも京都国立博物館が開館したのが明治30年(1897年)、その目的は当時廃仏毀釈で破壊される優れた寺の作品を寺から預かり守り保存するためだったそうです。

 海北友松は武将海北綱親の息子で父が戦死した後禅門に入り、絵の才能を見出され狩野派の絵師となり、その後狩野派を離れ独立しました。 放送では海北友松と展示作品について学芸部長山本英男氏のわかりやすい解説があり、それを聴いていると作品を見に行きたくなりました(勿論無理ですが)。

 友松については葉室麟さんが小説を書いているので、それを読みます。

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 この展覧会は今までにない大規模なもので、これだけの作品が一堂に会することは今までなく、おそらくこれからもないとのこと。見に行ける方は是非!

2017年5月 4日 (木)

聖ホセマリア~『道』

 聖ホセマリアは聖書が語っていること以上の話はしません。すべて聖書が語っていることをもとにわかりやすく、丁寧に話しています。

 だからこそ世界中の多くの人が彼に引き付けられ、彼の話を聴きたいと思うのです。私も聖ホセマリアの『道』をくり返し読みます。特に信仰について疑問を持つ話を聞いた時や、信仰心が萎えてきた時には必ず読みます。

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 例えば、近年「煉獄を見た、苦しむ霊魂を見た」「霊魂が救われて天へ上るのを見た」「私は聖霊降臨を体験した」などと言う人の多いこと。極めつきは新興宗教教祖の元妻がカトリックの洗礼を受けた後エルサレムに行って「自分の後ろに聖霊が降臨している写真」というものをアップしたこと。???聖ホセマリアは書いています。

362 私には奇跡はいらない、福音書にある奇跡だけで充分だ。それよりもむしろ、義務を遂行し、神の恩寵に応えるあなたが欲しい。

384 迷うな!あなたの判断がぐらつくのを見て、書き送った。・・・「悪魔はたびたび気品のある仮面、時には霊的な仮面までつけてしのび入るのです。」

 と、私がいくら書いても多くの人は『道』を読もうとはせずに、奇跡を求め、奇跡の話に心奪われるのです。weep

 昨晩読んだ『道』から一つ、

309 神の正義にはどれほどの憐みがあふれていることか。人間の裁判で罪を自白すると罰せられる。神の裁きで告白すれば赦される。聖なる告解の秘跡を賛美しよう。

2017年5月 2日 (火)

トマさんの説教

「トマサン祈りの部屋」から(2017/04/23大分教会、復活節第二主日・英語ミサ説教)

ある小学生が詩を書きました。『もし、ぼくが神様だったら・・(略)・・みんなをしあわせにする。でも、不幸な人がいっぱいいる。それは、神様がいないからです。』

 これが世間一般の考えでもあるでしょう。でも、キリストは真っ向から反対して言います。「見ないで、信じる者になりなさい」神様はいます。・・(略)・・カトリックが教える救いとは、人間の望み通りになることではありません。イエスと共に苦しみ、イエスと一緒に復活することです。「私に従いたい者は、自分の十字架を取って私に従え!」とイエスは教えています。

 繰り返しますが、望みが叶うから信じるのではありません。群衆の一人がイエスに言いました。「十字架から降りてみよ。そしたら信じる」と。イエスは降りませんでした。だから、あの人は信じませんでした。自分の願いが実現しないと信じない人です。私たちは逆です。イエスが十字架から降りないから信じるのです。私の代わりに十字架に残られたからです。それが復活したイエスの手と足に釘の傷跡が残された理由です。救いの印であり、信じる印です。・・(略)・・信仰は、神の望み通りに自分の生き方を変えることです。神様が苦しみという十字架を取り去り、人間が楽をすることではありません。その反対です。困っている人がいたら、神ではなく自分が助けるのです。貧しい人がいたら、神ではなく自分が持ち物を差し出します。あの小学生は「もし、僕が神様だったら」と書きましたが、「もし」ではなく、その通りなのです。神が人のうちに居て、一人ひとりが神のように振舞うことが信仰の生き方です。・・(略)・・復活したイエスは「見えない」けど、あなたと共に生き、働いています!アーメン■

 大分教会の信者さんたちは幸せですね。いつもこのような良い説教が聴けるのですから。「トマさん祈りの部屋」はいつも私の信仰の間違いを正し、教え、励ましてくれます。

 「見ないで信じる者になりなさい」見て信じることしかできない人が、見ないで信じる者となれますように。アーメン。

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