今日の福音:ヨハネ6章35節
イエズスは仰せになった。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、もはや決して渇くことがない。」
今日の福音の通り、私はイエズスを信じています。私の洗礼は私が新しく生まれた日です。
以前S神父様が説教で「洗礼日が信者にとっては本当の誕生日です。自分の洗礼日を知っていますか?」と言う問いに私は『霊名日ならわかるけれど、洗礼日は・・・』。そう、自分の洗礼日を覚えていませんでした。以前息子に調べてもらい手帳に書いていたのですがそのまま忘れていました。帰宅後早速確認したら3月26日。これを機会に子供達にもそれぞれの洗礼日を教えました。
教皇様から洗礼を受ける赤ちゃん、可愛い~
誕生日を祝うのもよいけれど、やはり洗礼日も大切な日です。今年は過ぎてしまったけれど、来年からは3月26日もお祝いしましょう。でも、もしかして・・・四旬節中?2019年の灰の水曜日は3月6日でご復活祭は4月21日。確かに3月26日は毎年四旬節中の可能性が高いです。
皆さんは自分の洗礼日を覚えていますか?誕生日と同じようにお祝いしていますか?
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極楽鳥花:一日後⇩
三日後⇩
次の花が出てきて咲きました。
今日のお花教室、春バラの季節らしくこのような盛花になりました。
(カメラのせいか、写す角度が悪いのかいつも実物とは違って写ります)
花材はストレリチア、カラー、ミニバラ、ブルースターです。今日は教会の大きな花器を借りて生けました。
ストレリチアは別名「極楽鳥花」。すっと真直ぐに伸びた茎と変わった形の鮮やかな花(まるで鳥の頭のよう)、そして大きな葉。いかにも南アフリカ原産の植物らしく色鮮やかです。でも不思議と花瓶よりも盛花で映えるお花ですね。(写真ではすごく丈が高くバランス悪く見えますが、実際にはもう少し低いです。黄色いミニバラもなぜか左の花だけ以上に大きく写っています。)
広い花器の時にはそれに合わせてお花も広く生けた方が良いと教わりました。せっかくの広がりをお花が止めてしまっては花器の美しさまでだめにしてしまいますね。今日はお花だけでなく花器とのバランスも大切だと習いました。
実は私はまだ花器の良し悪しがわかりません。他の生徒さん方はわかるようで「これは良い花器」「これは生けやすそう」とか言われます。私も生ける回数が増えればきっと花器の良さもわかるようになるでしょう(たぶん )。
ところで背景にあるのは神父様のカズラとストラです。かけてあったので記念に一緒に写しました。(A神父様、無許可で載せてごめんなさい(*_ _)人 ) 復活祭から続く白いカズラ良いですね。喜びが続いています。
いつも教えられることばかりのブログ『トマさん祈りの部屋』ですが、住人のトマさんがやっと巡礼から帰ってこられてブログを更新されました。私は早速読みながら「そうそう、そうなのよ」と肯いてばかり。
ローマの名もない教会でさえその荘厳な作りに心打たれたことが書かれていました。そして教会の中で祈っていて、これは当時の人々の信仰の証であると気づいたそうです。
「建築家、彫刻家、画家、石工、大工、音楽家、多くの人達が自分の技を生かして主を讃え主に栄光を帰しました。貧しい信徒も建設費用の寄付を捻出して主を讃えました。工事の人達は汗水たらして主の家を作ることに喜びを感じました。それらが一つに集まって大聖堂が完成しました。大理石でできているように見えて、本当は人々の神への愛で出来ているのです」とトマさんは書いています。
私も全く同感です。フランスに住んでいる日本人の方も書いておられました。当時は天の国=神の国を教会に再現したかったのだと。荘厳な大聖堂や壮麗な教会は主を信じる人達たちの信仰の証であると。
そしてトマさんは「キリストは『福音を信じ、全世界に伝えなさい』と言っているように、心の中で信じるだけでは証されません。次の世代に信仰を伝えることもできません。迫害がない今、私たちは愛と慈しみの行いによって証できます。『出かけて行きましょう!』」と書いておられます。
今日は神のいつくしみの主日(白衣の主日)です。この白衣とは復活祭の洗礼式の時に「白い衣を受けなさい。あなたは新しい人となり、キリストを着る者となりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい」と言われた「白い衣」のことです。この時に女性はヴェールを被せてもらいます。(男女とも同じ白い衣を着る教会もあります)ヴェールはただの飾りではありません。
復活節中は信仰生活の初心者?でしたが今日は一人前となり白い衣を脱ぐのです。白い衣が取れてもキリストを着て、キリストに従って歩み続けるという気持ちでヴェールは被り続けます。しかし残念なことに第二ヴァチカン公会議以降被らない人が増えました。 実は私も被らない時期がありました。それが進歩的でカッコイイと思っていたのです。でもそれは間違った考えだと悟りました。私は今ではヴェールが好きで被ります。
ごミサの時に女性だけがヴェールを被るのは「女性差別だ」「単なる古い習慣」「自分を着飾るためのもの」と様々に批判する人はいますがその批判はあたっていません。
私のヴェールはご聖体への尊敬と礼拝の気持ちをあらわすためです。ですからごミサの時(聖櫃のあるところ)とご聖体の前で被ります。納骨堂で祈る時や行列(聖体行列の時は別)の時には被りません。
私はヴェールを被る時に女性差別だと思ったことはまったくありません。それどころかむしろ素晴らしい恵みを与えられているような気持ちです。意味なくただの習慣として被ったこともありません。自分のために着飾るというよりもイエズス様のためにきれいなヴェールを被ります。
ヴェールを被るのは悪いことではありません。それどころか正しくて良いことだと思います。カトリック教会ではカトリックの洗礼を受けている女性だけが被ることのできるヴェールです。洗礼の時の「キリストを着てキリストに従う」ことを思いおこして次のごミサからあなたも被ってみてはいかがですか?
⇧ ヴェールを被ると可愛い子がより可愛いくなりますね
ヴェールも色々⇩
* 最近ではスパンコールのついたものやピンク等のカラーのものまであるようです。ヴェールの意味をよく考えたうえでどれを身に着けるかはご自分で決めたらよいでしょう。
久しぶりに美しい音楽を聴きました。「天使にショパンの歌声を」です。
ショパンだけでなくモーツァルト、リスト、ベートーベンなど様々な曲を合唱やピアノで聴かせます。アリス役のライサンダー・メナード本人がピアノを弾いていますが、これも素晴らしい!カトリックの女子高の話なので宗教音楽もあり私は大満足。
ただしこれは音楽に関して。シスターたちの修道院生活や信仰については物足りないでした。主を信頼してマリア様の「おことば通りになりますように」と受け入れるのではなく「私たちの力でかえましょう」と言う話は修道院経営の学校以外なら「素晴らしい!」となるのですが。勿論努力は必要です。何もせずに祈るだけではだめです。しかし結果は素直に受け入れなければ。次の赴任地に行くことも喜んで受け入れるのが神に仕える修道者・・・。
修道院総長のやり方は別として、言っていることにも一理あります。というよりもこの総長と同じ決断をせざるおえない修道会は今たくさんあります。教会、修道院、幼稚園、学校が次々と閉鎖されています。この映画では総長はただお金にしか興味がなく、意地悪でそうしているようにしか見えません。しかし現実には自分の好みだけで判断する総長はいません。いつも修道会全体のことを考えています。その責任の重さと苦労は私たちにはわからないでしょう。
兎に角美しい音楽を聴きたい方にはお薦めの映画です。
主の受難の日をなぜ "GOOD FRIDAY"と呼ぶのでしょうか? 調べてみると元々は古い言葉で"Godes Friday "(God's Fridayの意味)だったのが、だんだんと変化して"Good Friday" となったそうです。ここで私の新説を・・・キリストは十字架の死によって私たちが犯した罪の罰を贖ってくださいました。つまり私たちから見ればそれはよいこと=goodです。でもこの説は私の考えなので真に受けないでください。
他に「偉大な金曜日」と呼ぶ国もあるようですが日本語の「聖金曜日」が一番良い呼び名だと思います。"Good Friday"と呼ぶ国では"God's Friday"に変えた方が良いと思うのですが。
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今日は大斎・小斎そして十字架の道行き。午後3時に十字架の道行きをします。教会ではごミサはなく、言葉の典礼(聖書朗読・受難の朗読・盛式共同祈願)と十字架の礼拝があり、そして最後にまじわりの儀(聖体拝領)があります。(*鹿児島ザビエル教会H.Pの案内に[3月30日(金)主の受難のミサ19:00]とありますがミサではありません)
キリストの十字架の死、私たちのために苦しまれ十字架にかけられたキリスト。キリストはこれほどまでわたしたちを愛してくださっている・・・それなのに私は・・・。
聖なる過ぎ越しの三日間、最も大切な三日間が始まります。
午前中は一年間使う聖香油のごミサがあり、司祭様方は叙階の時の司祭の約束を更新されます。聖香油のごミサを水曜日に行う(小教区が遠い司祭のため)教区もあります。離島の多い私の教区も水曜日です。
主の晩餐のごミサでは洗足式もあります。イエズス様は弟子たちの足を洗いました。教皇様が枢機卿様や司教様方の足を洗い、司教様は司祭様方の足を洗うのが無理なく自然だと思います。それだけでイエズス様の意向は十分に伝わります。(現実は違いますが)
「主の小羊の食卓に招かれた者は幸い」という司祭の呼びかけに私たちは「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちのかて、あなたをおいて、だれのところに行きましょう」とこたえ信仰告白をします。皆が主の食卓にひとつに集う、私も招かれている、この大きな恵み、なんと素晴らしいことでしょう。
キリストはロバに乗ってエルサレムへ、人々はヤシの葉を手に歓喜します。
受難の主日、今日から聖週間が始まります。受難の月曜日、受難の火曜日、受難の水曜日そして聖なる三日間と続きます。特に今週は十字架のキリストを意識しながら過ごさなければ。そしてご復活祭をふさわしい心で迎えることができますように。
ところで枝の主日は英語でPalm Sundayと言いますが、palmとはヤシのことですよね。でも日本の南の方ではヤシよりもソテツ(cycads・ソテツ科)が多いせいかヤシの葉の代わりにソテツの葉を準備する教会が多いです。またカトリック聖歌では「~棕櫚(シュロ)の葉を手に持って~」と歌いますが、棕櫚もヤシ科なのでこちらを使っても良いかと。
私の教会でもソテツを使いますが、この葉は固くてとがっているので痛いです。棕櫚の葉ならこれほど痛くないのですが。隣町の教会ではオリーブの枝を用意していました。これなら痛くなくていいです。ロシアやウクライナにはヤシの木はないのでネコヤナギを使います。これもなかなか良いですね。
多分これがヤシの葉 ⇧
ネコヤナギを祝福する正教会の大主教 ⇧
子どもはみんな可愛いな~ ⇧⇩
多分棕櫚の葉で作った十字架 ⇧
こんなpalmもあります。みんなおめかしして可愛い
今日3月19日は聖ヨセフの祭日です。この他に5月1日労働者聖ヨセフの日もあります。
聖ヨセフは生まれた日も亡くなった日もわかりません。殉教したわけでもなく奇跡をおこなったわけでもありません。しかしその生涯は誰にも真似できない素晴らしいものでした。
キリストの養父になることを神から告げられ、それを素直に受け入れ、そしてどんな時にも主を信頼して、聖母マリアとキリストを守りました。
家族を守るたくましい父親像と共に、その深く強い信仰心は正に義の人。聖ヨセフの最後は聖マリアとキリストに看取られたように、わたしも聖マリアとキリストの名を呼びながら最後を迎えることができるように聖ヨセフの取り次ぎを祈ります。