あなたがより多くのことをより深く知るほど、もしあなたが聖なる生活を営まないならば、それだけ厳しく裁かれるだろう。(『キリストにならう』bot )
知らないでしてしまうのと知っていてするのとでは大きな違いがあります。特に罪に関して。日曜日に特別な理由(病気や仕事など)がない限りごミサに与らなければなりません。そのことを知っていてごミサに与らないのは小罪ではなく大罪です。
そして大罪を犯したことを意識しているカトリック信者は、ご聖体拝領の前に罪を告白してゆるしの秘跡を受けなければなりません。
数年前のこと、A神父様が準備ができていない(数年ぶりに教会へ来てゆるしの秘跡を受けていない)とわかっている信徒にご聖体を授けませんでした。それを見てある信徒は「なんて厳しい神父様。やっとごミサに来たのにご聖体をあげないなんて。あの人がかわいそう」と批判し、受けられなかった本人も怒ったそうです。
A神父様にしてみればその人が重ねて大罪(=ご聖体に対する瀆聖)を犯さないようにとの優しさからそうしたのですが、批判した信徒も本人もそのことがわかっていなかったようです。A神父様も前もって本人に説明しておくべきでした。
準備無しにご聖体を望む人誰にでも簡単に授けるのはその人に「ご聖体に対する瀆聖」の大罪を犯させることになります。しかし今は誰にでもその人が望むならご聖体を授ける司祭が実際におられるから、逆にA神父様を非難するような信徒が増えてきたのかもしれません。
司祭はほとんどの場合その人の準備ができているかどうかはわかりません。ですから信徒自身が気をつけなければなりません。どんな時にご聖体拝領は控えた方が良いか司祭は信徒に説明し、信徒は学ばなければ、また同じようなことが起こるかもしれません。
私たちはたまには『カトリック教会のカテキズム』を読み直し、忘れてしまっていたことを思いだす必要があるでしょう。私もよく忘れてしまったことや解らないことがあればカテキズムを出して確認したり、解っている人に聞いたりしています。
聖書の勉強会や、信心会はよくありますが、公教要理の勉強は洗礼・堅信の前にするだけです。毎日聖書を読むようにカテキズムも毎日でなくてもたまには読みましょう。
今日は聖ルカ福音記者の祝日
秋ですね~
以前切った庭の木から枝ならぬキノコがにょきにょき。ちょっと気味が悪いです。いくら秋の味覚はキノコといってもこれは食べられませんね。
もう一つの話題は、とうとう「イ・ペー」の苗木を手に入れました。しかも一鉢たったの200円!指宿道の駅でパンを買おうと入ったところ、左手に植物が並んでいました。その中に「イ・ペー」の名札が! 値段を見て即購入決定
夫には事後報告。夫も喜んでくれました。
イ・ペーの苗木
寒さに弱いので冬を越してから地植えにします。
何年位したら花が咲くのかな?楽しみです。
はやく大きくなってこんな風に咲いてね。
とは言え、あまり物に執着してはいけませんね。トマス・ア・ケンピスも言っています。
人間や被造物に自分の希望を置く人は空しい人である。我々の主、イエズス・キリストへの愛のゆえに他人に仕え、この世で貧しいものと思われることを恥じてはならない。あなた自身を頼らず、神にあなたの希望を置きなさい。(『キリストにならう』bot)
アビラの聖テレジアの記念日。私にとっては祝日のようなものです。
カトリックの聖人たちの中には素晴らしい女性たちが沢山います。*キリスト教は男女平等、男女共に神様の被造物。ですから女性の聖人も沢山います。その中でも私が好きな聖人がアビラの聖テレジア、イエズスの聖テレジア、大テレジアとも呼ばれています。(*女性司祭がいないのは女性が低くみられているからではありません。全く別の理由です。)
シエナの聖カタリナの強さと同じく聖テレジアの強さにとても惹かれます。真理のためならどんな妨害や障害にも怯まず、どんな相手にも怯まずにキリストだけを信じて立ち向かう強さ。私には無いからこそ、なお一層憧れます。
何事も心乱すことなく
何をも怖れるな
すべては過ぎ去り
神のみかわらず
忍耐はすべてをかちとる 神をもつ者には
欠けるものなく 神のみにて足りる
-アビラの聖テレジア-
進んで尋ねなさい。そして聖人たちの言葉を静かに聞き、年長者たちの話を不満に思うな。なぜならその話には根拠があるからである。(『キリストにならう』bot より)
今日教皇パウロ六世をはじめ7名の列聖式がありました。ロメロ大司教様については菊地大司教様のブログで紹介されていますのでそちらをご覧ください。http://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/
パウロ6世教皇様については説明はいらないでしょう。第二ヴァチカン公会議を聖ヨハネ23世教皇様から引き継ぎました。パウロ6世教皇様については書きたいことがありますが時には沈黙することも必要でしょう。
教皇パウロ6世 オスカル・ロメロ大司教
YouTube: Pope Francis - St Peter's Square - Holy Mass with Canonizations and Angelus - 2018-10-14
今月の20日(土)に東京カテドラルで荘厳ミサがあります(フェイスブックからの情報)。荘厳ミサなので勿論グレゴリオ聖歌とラテン語ミサです。素晴らしい!!!
そして主司式は菊地功大司教様、共同司式は駐ローマ教皇大使ジョセフ・チェノットゥ大司教様です。14時40分から諸聖人の連禱があり、15時から荘厳ミサが始まります。
少し前までは荘厳ミサをあげることがまるで悪いことのように言われ、悲しい思いをしました。でも徐々にその誤解もとけてきました。長い間ラテン語ミサをあげなかったために、ラテン語をあまりできない神学生やラテン語ミサをあげることのできない司祭もいるでしょう。でもできる司祭はもっとラテン語ミサをあげてほしいです。私は荘厳ミサは大好きですがラテン語はできません。でももしラテン語ミサをあげてくださるなら喜んで勉強します。
Fr.Z's Store
YouTube: Himno Oficial de la JMJ Panamá 2019 - Hágase en mí, según tu palabra
2019年ワールドユースデーパナマ大会公式テーマソングです。日本語バージョンもあるのですが、やはりスペイン語の方が曲と歌詞がぴったり合っていて良いのでスペイン語版を載せました。
最近思うことが色々あります。・・・ワールドユースデーの意味とあり方とか・・・。教皇ヨハネパウロ2世が始めた大会ですが初めはよい考えだと思いましたが、徐々に私が考えていることとずれがでてきたような気がします。うまく言葉にできないのですが。何か微妙に違うような・・・。そう感じているのは私だけではないと思います。
あなたたちのうち、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりにへびを与える父親が、いったいいるだろうか。また、卵を求めているのに、さそりを与える者がいるだろうか。このように、あなたたちは悪い者であっても、自分の子どもたちに、良い物を与えることを知っている。まして、天の父が自分に求める者に聖霊をくださらないことがあるだろうか。(ルカ11章11~13節)
今日の福音朗読は有名な「求めなさい、そうすれば与えられるであろう。・・・たたきなさい、そうすれば開かれるであろう。・・・」に続く言葉です。
今日のこの聖書の箇所をまさに今日体験しました。本当に不思議です。主は私のことをよく知っておられます。ですから主が望まれることを素直に受け入れて毎日を過ごすことが大切。主の恵みに感謝します。
昨日司教叙階式がありました。中野裕明新司教様おめでとうございます。
入祭の歌「シオンよ喜べ」に始まり、朗読は「使徒パウロのコリントの教会への手紙9章19節から23節」と「ヨハネによる福音10章11節から16節」。
司教叙階の儀は「聖霊の続唱」に始まり『使徒座任命書』の朗読、説教、受階者の約束そして連願が祈られました。按手、叙階の祈り、塗油、・・・・・司教座への着座、司教団への受け入れと続きました。
奉納の歌は「神に向かって(典礼聖歌35番)」、拝領の歌は「マラナタ」「めぐみのパン」「主はわれらの牧者」そして英語の歌「Power of love」も。
祝典(各あいさつ)の後中野裕明新司教様からの祝福がありました。閉祭の歌は「テ・デウム」(カトリック聖歌12番・日本語)で叙階式は無事に終わりました。
中野裕明新司教様の紋章
Quaerite autem primum regnum Dei et justitiam eius
まず、神の国とその義を求めよ(マタイ6章33節)より
QUAERITE PRIMUM REGNUM DEI(まず、神の国を求めよ)
手を広げるキリスト=愛、はかり=正義、鳩=平和、聖書=真理、背景の赤色=聖フランシスコ・ザビエルの情熱、青色=海と、神との対話に沈黙する祈り。十字架についている五つの赤い点=キリストの十字架での五つの傷
とても良い紋章ですね。特に中野新司教様がmottoとしている言葉「QUAERITE PRIMUM REGNUM DEI」「まず、神の国を求めよ」。私たちキリスト者にとっても、大切な言葉だと思います。
*youtubeで動画を探したのですがまだのようです。
今呼んでいる本がこちら。⇩
岡本神父様の『良い音楽は神の姿を映し出す』。ひと口に音楽といってもそのジャンルは広く、音楽について書かれた本も教科書に載っているような有名な曲ばかりに偏っています。
しかしこの本は神父様が書かれているので宗教音楽が中心。最近ミサ曲にはまってしまった私にピッタリの内容でした。
グレゴリアン聖歌は勿論のことアンブロジオ聖歌など中世音楽から東方教会の聖歌、バロックではモンテヴェルディやバッハ、ペルゴレージなどについて。古典派はハイドンやモーツァルトなどを、ロマン派のシューベルト・ショパン・ヴェルディ・グノー、・・・20世紀はフォーレやドビュッシー等の宗教音楽について書かれています。
とても興味深く読んでいます。特に中世音楽については学校でも習った記憶がないくらい何も知りません。今まではただグレゴリアン聖歌をCDで聴くだけでした。
宗教音楽には天主に対する深い崇敬を感じます。特にグレゴリアン聖歌の素晴らしさ、それはまさに祈りです。教会のごミサで再び普通にグレゴリアン聖歌が歌われることを切に望みます。教会の合唱団やオルガニストの方達もそれを望んでおられると思います。
ツイートbot『キリストにならう』より、私も同感する文章を。
・すべての人間は生まれつき知ることを望んでいる。ところで神への怖れのない知識が何の役に立つだろうか。神に仕える卑しい農夫は、自分をないがしろにして天体の軌道を測る傲慢な哲学者よりもはるかに優れている。
・また類と種に関する(哲学の)議論がわれわれに何の関係があるだろう。永遠の御言葉が語ることを聴く人は雑多な意見から解放される。
2018年若者がテーマのシノドスが始まりました。イエズス会のJ.M司祭の言動、また教皇様の杖・・・教会内に分裂を生み出そうとする悪魔の不穏な空気が・・・。
私はシノドスが例えどの様な結果になっても、「永遠の御言葉が語ること(=聖書)を聴く人は雑多な意見から解放される」の通り、気にせずにキリストの教えに従います。
大天使ミカエル、シノドスに参加する教皇、司教、すべての人々を悪魔からお守りください。シノドスが悪に支配されることがありませんように。アーメン。
今日はアッシジの聖フランシスコの日です。アッシジの聖フランシスコについてはカトリック信者に限らずよく知られているので説明は省きます。
アッシジの聖フランシスコの平和を求める祈り
フランシスコ教皇様は10月のロザリオの月にあたり、ロザリオの聖母への祈りに加えて大天使聖ミカエルへの祈りも願われました。
「大天使聖ミカエルへの祈り」はヴァチカン公会議まではよく祈られていました(日本では『大天使聖ミカエルに向う祈り』の方)。教皇様が祈るようにと言われても今日本では「大天使聖ミカエルへの祈り」を知らない人が多いでしょう。
大天使聖ミカエルへの祈り
大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを護り、悪魔の凶悪なる謀計(はかりごと)に勝たしめ給え。天主のかれに命を下し給わんことを伏して願い奉る。あゝ天軍の総帥、霊魂をそこなわんとてこの世をはいかいするサタンおよびその他の悪魔を、天主の御力によりて地獄に閉込め給え。アーメン。
至聖なるイエズスの聖心、われらをあわれみたまえ(この部分を3回繰り返す)
大天使聖ミカエルに向う祈り(日本でよく祈られていた)
天軍の栄えある総帥、大天使聖ミカエルよ、かつて悪魔の大軍が全能なる天主に反きし時、御身は『たれか天主にしくものあらん』と叫び、あまたの天使を率いてかれらを地獄の淵に追い落とし給えり。故に公教会は御身をその保護者となし、特に日本公教会は、御身をその守護者と崇め奉る。願わくは霊戦に当りてわれらを助け、悪魔を退け給え。われらをして御身にならいて、常に天主に忠実ならしめ、その御旨を尊み、その御戒めを守るを得しめ給え。かくてわれら相共に天国において、天主の御栄えを仰ぐに至らんことを。御身の御取次によりて天主に願い奉る。アーメン
ヴァチカン公会議後「大天使聖ミカエルへの祈り」が軽視されたのと同じように「告白の祈り」からも大天使聖ミカエルは消えました。「全能の天主、終生童貞なるマリア、大天使聖ミカエル、・・・」と始まる祈りだったのに、今は「全能の神と、兄弟の皆さんに・・・」です。また私が子どもの頃はこの告白の祈りの時に「これわがあやまちなり、わがあやまちなり、わがいと大いなるあやまちなり。」と、自分の胸を打ちながら祈ったのをよく覚えています。
新しい回心の祈りとなってから大天使聖ミカエルだけでなく洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、諸聖人が消え、胸を打つところもなくなりました(日本だけ?)。どんどん祈りが簡単に短くなるのはまるで「長い祈りは大変だから簡単に短くした方が楽でしょう」という悪魔のささやきのようにも聞こえます。またロザリオの祈りも速い!「何をそんなに急いでいるの?」と言いたくなります。祈りの言葉の意味をよく黙想しながら祈りたい。もっとゆっくりと祈りましょうよ。
最近息子がツイートbotを始めました。トマス・ア・ケンピス『キリストにならう』を自分で日本語訳しながらのツイートbot。なかなか良いです。その中から印象に残ったものを。
・長生きを望むばかりで、よく生きることに心を用いないのもまた空しい。
・自分をよく知る人は自分を低く評価し、人からの賞賛も喜ばない。
・現世のみについて気を使い、来世の事柄に備えないのもまた空しい。
・あなたよりも博識で法律に通じている人が多くいるのに、どうしてあなたは人よりも優れた人だと思おうとするのか。
・自分自身を何ものでもないと思い、常に他人について高く評価することは、大きな知恵であり完全さである。
ITやAIはどんどん進化するばかり。私はとてもついて行けません。ツイート+bot??? botとはロボットのことだそうです。ITやAIは正しく利用すれば素晴らしいです。ただそれを悪用するととんでもないことになります。
だから科学の世界にこそ哲学が必要なのです。どんな機械でもそれを動かすのは人間。その人間がどういう考えを持っているのか、どういう考え方をしているのかが大切です。
(哲学中~人間について考えています。)
いよいよロザリオの月になりました。今月は小さき聖テレジアの記念日に始まり、守護の天使、アッシジの聖フランチェスコ、そして中野神父様の司教叙階式、聖ヨハネ23世教皇、大聖テレジア、聖マルガリタ・M・アラコク、聖ルカ福音記者、御受難会の創立者十字架の聖パウロ、聖ヨハネ・パウロ2世教皇と喜びの日が続きます。いつもより多め?にロザリオを祈ることにしましょう。
ところで、私たちが聖母像に向かってロザリオを唱えていると、いまだに「偶像崇拝だ」と言う人がいるようです。もう少し(もっと)カトリックについて学べばそれは偶像崇拝でないことがよくわかるでしょう。勉強不足ですね。
5月の聖母の月と、今月のロザリオの月はマリア様に関する月なので、なんとなく優しく柔和な気持ちになります(気持ちだけで・・・口は相変わらず
)。ところで他の月も特別な呼び名があるのをご存知ですか?
3月は「聖ヨセフの月」、6月は「聖心の月」、11月は「死者の月」ですね。店頭にはもうハロウィン商品が並び始めましたが、あなたがカトリックならハロウィンで騒ぐのではなく11月1日に諸聖人、2日にはすべての死者のために祈りましょう。私はハロウィンでの大人のバカ騒ぎが嫌いです 。ばか騒ぎをする大人が嫌いなのではなく、大人のばか騒ぎが嫌いなので、誤解のないように。![]()
今日の福音から~ヨブ記1章21節
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主が与え、主がお取りになった。主の名は祝されますように」。
昨日の怒りも台風と共に過ぎ去りました。聖母に倣うには努力が必要です。今度NHK受信料徴収の人が来たら忍耐忍耐で沈黙して、相手があきらめるまでじっと待つことにします。
YouTube: Il Volo & Massimo Ranieri - Quando L' Amore Diventa Poesia
実は私の怒りが収まったのは上記の曲を見つけたことにもよるのです(単純
)。私の好きなマッシモ・ラニエリが「Quando L'amore diventa poesia」をIl Volo と一緒に歌っている動画。ラニエリは年をとりましたが歌の上手さは変わりません。大好きな曲を久しぶりに聞きました。
NHKから委託を受けた会社の社員が来ていきなり「こちらに引っ越されたのは最近ですか?」と、トンチンカンな質問をする。「ずっとここに住んでいますよ」と答えると「いえ、引っ越してきていることになっている」「いつ引っ越してきたのですか?」と。ここで少しむっときてしまう。
そしてその人は「受信料を払っていないので云々・・・」。私が「我が家にはテレビもワンセグのついたものもありません」と答えると、ずっと前に来た人(年配の方)は「わかりました。また利用するようになった時にはお知らせください」と言って帰ったのですが、今回の人(若者)は違いました。我が家にはTVもワンセグのついた機器も無いと言っているのに(事実ありません)、「説明を云々・・・」。私は「テレビもワンセグも無いから払いません」と言ってもしつこい、しつこい、しつこい。まるで私がウソを言っているような感じです。
ついに私の怒りが爆発して「NHKさんしつこいですよ!!」と言ってドアを閉めました。お昼の12時半、昼食時に来て、相手の話すことをきちんと聞かず、マニュアル通りに一方的に話そうとするNHK受信料徴収員。
少し前にも別な人?が来てその時には息子が、その前は夫が対応したようですがやはりしつこかったと言っていました。夫と息子は私のようには怒らなかったようですが(人間ができている!)。
でも一番悪いのはNHKなのです。見ている人から受信料を取りたければ受信料を払う人だけが見られるようにスクランブルをかけたらよいのです。テレビを見てもNHKは見ていないという人もいるのですから。
我が家にも以前はテレビがありきちんと受信料は払っていました。衛星放送を見ていた時にはその料金も払っていました。しかし今は全く見ていないし見る機器も持っていないのに毎回上記のようなやり取りでイライラするのはおかしいです。私が持っていないことを証明するのは無理です。だから私がテレビやワンセグでNHKを見ているとNHKさんが証明を試みたらどうですか?そうしたら無いことが証明できるでしょう。
大都市ではその筋の人ではと思われる人が徴収に来て、怖くて断れないと言う話を聞いたことがあります。NHKの印象を悪くしている一因ですね。
私怒っています!