死者記念ミサの説教
大阪高松教区の死者記念ミサの説教です。いつものことながら良い説教で、皆さんにも聞いてもらいたいと思います。
この説教を聞いて、私の姉が亡くなった時のことを思い出しました。姉は11歳になったばかり、私はまだ6歳でした。母は信仰の深い人でしたが、その母が姉の身につけていた物を手に取るたびに涙を流していた姿をはっきりと思い出します。
大阪高松教区の死者記念ミサの説教です。いつものことながら良い説教で、皆さんにも聞いてもらいたいと思います。
この説教を聞いて、私の姉が亡くなった時のことを思い出しました。姉は11歳になったばかり、私はまだ6歳でした。母は信仰の深い人でしたが、その母が姉の身につけていた物を手に取るたびに涙を流していた姿をはっきりと思い出します。
先日友人からYouTubeの良い説教のブログを教えてもらいました。先ずその日のごミサの聖書の朗読箇所が読まれ、その後司祭の説教があります。
ここで紹介するのは10月27日年間第30主日のごミサの説教です。ベルナルド・オンダップ神父様の説教は動画の11:00頃に始まります。
YouTube: カトリック✝️年間第30主日(2024.10.27 B年)
日本オブレート会のベルナルド・オンダップ神父様の説教をもっと聞きたい方はこちらのリンクへ⇩
11月は死者の月です。1日は「諸聖人の祭日」、2日は「死者の日」です。
条件を満たせばお墓参りは免償を受けられます。ただしこの免償は煉獄の霊魂のためにのみで、お墓参りをした人や、生きている人のためではありません。また1日から8日の間に行えば全免償、それ以外の日は部分免償になります。免償を受けるには条件がありますから注意してください。
2025年は聖年です。12月24日聖ペトロ大聖堂の「聖なる扉」が開かれます。聖年はフランシスコ教皇様が特別免償を与えてくださいます。免償を受けるために巡礼を計画されている方もおられるでしょう。
聖年を迎える準備をしている今、丁度よい機会なので免償について少し学んでみてはいかがですか?主からのお恵みを受け取らないのはもったいないと思いませんか?昔、学校で習った免罪符のような間違った教えをそのまま信じ続けている方は特に。 (*ˊᵕˋ*)
聖年のマスコット
今日は31日。ロザリオの聖母の月は終わり、明日からは死者の月の始まりです。最後にロザリオの聖母の聖歌を2曲。一緒に歌ってマリア様を賛美しましょう。
以前病院で働くファシリティドッグについて書きました。実は入院患者さんに癒しを与えるのは犬だけでなく、お馬さんもいました。
私は馬に触ったことがないので最初はビビってしまうかもしれませんが、あの可愛いおめめで見つめられたらきっとなでてしまうでしょうね。
約2週間前の9日(水)に、パウロ袴田巌さん(88)の再審無罪判決は、静岡地検が上訴権(控訴)を放棄したことによって、無罪が確定しました。
あの日、このニュースを聞いた時には、言葉にならない喜びがこみ上げてきました。やっと無実が認められ、身も心も自由を得られたのだと思うと、胸にぐっとくるものがありました。
パウロ袴田さんが洗礼を受けられたのは1984年のことだそうです。その頃の心境については毎日新聞の記事に書かれています。
・・・袴田さんが獄中で書いた日記や手紙をまとめた書簡集には、82年に収容先の東京拘置所で記した当時の心境が残されている。
この頃から、袴田さんは拘置所内で神父の教誨(きょうかい)を受けるようになり、面会などでも神にすがるような言葉を頻繁に使うようになった。「古今東西、宗教が人間を支えた部分は大きい。それは謙虚な気持ちで合掌し、信ずるものを得るところに大きな救いがあるからだ」。袴田さんは84年10月の日記で、信仰する理由をこうつづっている。そして、同年12月24日に洗礼を受けてカトリック信者になった。(毎日新聞2019年12月15日記事より)
フランシスコ教皇様が来日された時の東京ドームでのごミサに(2019年11月25日)パウロ袴田さんと御姉様を招待されました。
酒井司教様の短い説教ですがとても良い内容のお話しでした。最後に「私たちも教会の仕事をする時に良いことばかりではなく、傷つくこともあります。それでも(教会のために働いて)教会を愛さなければならない」というお話を聞いて、その通りだと思いました。
教会を愛することで傷ついたり嫌な思いをした人は、もう教会の仕事はしたくないと思うかもしれません。でも教会を愛し続けてほしいです。主は必ず慰めてくださるはずです。
「ゆるしの秘跡」について、とても詳しく書かれています。司牧する立場(ゆるしを与える司祭)のために書かれていますが、逆にゆるしを受ける信者のためにもとても必要なことが書かれています。
ゆるしの秘跡の実践にあたってでは、・長所も短所もある司祭の人間的な側面が特に重要となる秘跡 ・容易ではない聴罪司祭の任務 ・告白の義務 、またゆるしの秘跡における特殊ケースでは、・良心に確信の持てない人 ・無実の聴罪司祭を教会の権威者に訴えた人 ・神法ならびに教会の教えに反する活動を行っている人 等が書かれています。
このように私たち信徒も知っておいた方が良い内容なので是非とも一読してみてください。
最後に私が常々感じていたことが書かれていましたので、そこを抜粋します。
(5)一部の聴罪司祭によって犯される「過失」の例
ⓔ 常に優しすぎる態度
聴罪司祭が常に優しすぎる態度をとってしまうこともしばしばあります。時にそれは甘えをゆるす優しさであり、神のあわれみを授けたいという、「熱意」からではなく、告白者との衝突への恐れからくる偽りの優しさ、あるいは自分はよい司祭だと思われたい虚栄心によるものであることがあります。また単に優しいだけというのは、無責任な態度でもあると言えます。・・・主の寛大さが捻じ曲げられ誤った方法で過剰に強調される事態が発生するのです。聴罪司祭のこういった態度は告白者に霊的な恩恵をもたらすどころか、かえってその心を歪ませてしまうことになります。
酒井司教様のカテキズム講座で『ゆるしの秘跡と内的法廷』が紹介されていました。私は以前この本を買ったのですが、司牧者のための本だという気がして、本棚に飾ってありました。 改めて読んでみると「なるほど」と学ぶことばかり。
この本の初めにこう書いてあります。
・・・多くの司牧者にとって、教会の掟や法規は福音から遠い世界のものという印象が持たれていることでしょう。イエス・キリストは愛とゆるしを説いているにもかかわらず、なぜ、教会にはこのような法や掟があるのかと。確かにイエスは、「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)と命じている一方で、「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:18)とも言われています。また思い皮膚病が癒された人に、「行って司祭に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために捧げて、人々に証明しなさい」(マルコ1:44)と語り、共同体社会に復帰するための規定や手続きについても疎かにしてよいとは教えていません。・・・本当に神に立ち帰ることを決意し罪をゆるされた信仰者は、深い信仰による喜びに満たされるはずです。・・・人間の心を変えられる神が与える光・導き・恵みに対する人間の側の応答としての信仰の実践という努力が必要なのです。・・・(東京教会管区裁判所長官 稲川保明神父)
内赦院について
内的法廷の内容は破門に値する犯罪行為の具体的内容や聖職志願者・聖職者の不適格、婚姻の無効、ミサの挙行義務等についてとそれらに対しての内赦院の解決法が書かれています。
終わりに「・・・内赦院がいつくしみの裁判所(tribunal misericordiae)とも呼ばれているのは、永遠の救いを得られない状況にある信者のために、神と教会と和解できるよう手助けをするのが内赦院の主な任務だからです。・・・内赦院は、信者が他の信者の不正を罰してもらうための訴えを起こす裁判所ではないのです。・・・」
今まであまり知らなかった内赦院について、その重要性と必要性がよくわかりました。次回はこの本に書かれている「ゆるしの秘跡」について少し書きたいと思います。
王室衛兵に心無い言葉をあびせたり、攻撃的あるいは馬鹿にするような態度をとる人、またルールを守らない人たちに対して彼らは厳しい対応をします。それは当然のことですね。でも彼らは本当にとても心優しい人たちです。そうでなければこのような大切な仕事は務まりません。お馬さんたちもよくわかっているようです。
ヴァチカンで働くスイス衛兵も全く同じですね。
YouTube: When Royal Guards Break Character & Show Emotional Moments of RESPECT!
今年は英国も特に暑い夏でした。暑い日も雪の日も馬上でじっと王室を守っている彼らの忍耐には頭が下がります。人馬一体となって仕事をしている彼らにご加護を!またスイス衛兵たちにも聖母マリア様のご加護を!
毎日ロザリオを繰りながら祈る時間は心が落ち着きます。特にロザリオの祈りは聖書の場面が描かれているので、どんな人にとっても易しい祈りです。
ロザリオの祈りはゆっくりと唱えたいですね。言葉の意味を考える間もなく、自分が何を祈っているのかわからないような・・・そんな早口な祈りにならないように気をつけましょう。
カトリック岐阜教会のロザリオの祈りを手本にして、時々動画を見ながら一緒に祈っています。少し早くなりかけたり、文語が混ざったりしていますが、それはそれで自然で良いですよね。私はいつもは文語で祈っていますが、口語で祈る時には文語が混ざってしまうことが時々あります。
YouTube: ロザリオの祈り(栄えの神秘)カトリック岐阜教会
今日は溝辺(鹿児島空港近く)にある「聖血礼拝修道会聖ヨゼフ修道院」で三名のシスターの終生誓願式が行われます。
遠いヴェトナムから来られ、観想修道院の中で労働と深い祈りの生活を続けてこられました。そしてついに今日、生涯この修道院の中ですべてを主に捧げる誓願を立てます。
どの教会もシスター方の祈りによって支えられています。特に観想修道会のシスター方の祈りは大きな力です。私たちはシスター方の祈りをとても必要としています。そして私はシスター方のために祈ります。
カテキズムをよく知っている人は問題ないのですが、よく知らない人は「ゆるしの秘跡は必要ない」という間違った考えを信じてしまうかもしれないので、意を決して書くことにしました。これはとても大切なことだと思います。
「長い間教会から離れていた人がごミサに与った時に、ゆるしの秘跡を勧めると、次からはもうその人は来なくなる可能性があるので、私はゆるしの秘跡無しにご聖体を授けています。何年も教会から離れていた人でも皆同じです。その人たちにずっと私はゆるしの秘跡はしないでご聖体を授けてきました。それはご聖体はキリストの愛だからです」と、確信をもって司祭様は話されました。同じように「聖体拝領の前の準備はいらない」という司祭様もおられました。確かにキリストは無限の愛であり、すべての人を救いたいと願っておられます。でもその人が救われるためにそれが正しいやり方なのでしょうか?「それは神様にしかわからない」と言われればそれまでですが、少なくともカトリック教会には教会の教えがあり、私たちはそれに従って信仰生活をしています。
① ゆるしの秘跡というキリストの愛の恵みを信徒が受ける機会を奪っているのでは?
「ゆるしの秘跡」もキリストの愛・キリストの恵みです。こんなに罪深い私の罪を赦してくださるのですよ。罪を告白するまではドキドキします。話すのは恥ずかしいと思うこともあります。でもキリストに罪をゆるされた後のあの心の平安・喜びは特別なものです。まさにキリストのいつくしみ・愛を実感できます。ですから司祭様はゆるしの秘跡の意味がよくがわかっていない人にはこの素晴らしい秘跡の恵みについてよく説明して、自らゆるしの秘跡を望むまでご聖体拝領は待ってもらうべきではないでしょうか。秘跡すべてはキリストの愛・恵みです。慌てなくてもキリストはいつも待っておられます。
② もし信徒が大罪を犯したままでご聖体をいただくことになると、信徒にご聖体=キリストの体に対して罪を犯させることになります。
「・・・主日およびその他の守るべき祝日には、信者はミサにあずかる義務をゆうする。・・・決められた祭日にはミサに与ることは義務であると教会の掟に書いてあります。・・・重大な理由があってあずかれなかったり、自分の主任司祭から免除を受けた場合はこの限りではありません。この義務を故意に守らない者は、大罪を犯します。(カテキズム:2180-2181)
「ふさわしくないままで主のパンを食べ、その杯を飲んだりする者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります」(一コリント11:27-28)
・・・大罪を犯したことを意識している人は、聖体拝領の前にゆるしの秘跡を受けなければなりません。(カテキズム:1385)
・・・エウカリスチアは大罪をゆるすためのものではありません。大罪をゆるすのはゆるしの秘跡です。エウカリスチアは、教会との完全な交わりを保っている人々のための秘跡です。(カテキズム:1395) *エウカリスチア(聖体)
教皇様方も「長い間教会を離れていた人はまずゆるしの秘跡を受けてからご聖体をいただきなさい」と、必ず言うはずです。それはその人が神と和解することだからです。それを司祭様が邪魔してはいけません。
司祭様の別の話では、教会を離れている理由として「私のような者(罪深い)は教会に行く資格はない」と言っているとのこと。ならば簡単です。ゆるしの秘跡を受ければよいのです。
・・・回心すれば神のゆるしが与えられると同時に、教会との和解がもたらされます。(カテキズム:1440)
イエスは・・・そのゆるしの効果をもお示しになりました。すなわち、罪によって神の民の共同体から遠ざけられていた罪びとを、再びもとの共同体に迎え入れてくださいました。(カテキズム:1443)
「医者が必要とするのは健康な人ではなく、病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイ9:12-13)
10月はロザリオの聖母の月ですね。しばらくブログを休み、ゆっくりと信仰生活、典礼などについて考える時間が持てました。特に酒井司教様の信仰養成連続講座「カテキズム」をもう一度初めから聞いたことは何よりの信仰養成になりました。この講座はまだ続くので、これからも続けるつもりです。
ブログを再開しようか迷っていた時に、小寺神父様の「オプス・デイ創立記念」を見ました。それでブログ再開する決心がつきました。
YouTube: 10月2日オプス・デイ創立記念『信徒の聖性』~聖性の社会的側面~(2024年9月27日)
少しでも聖母に倣う生活に近づけるよう、日々ロザリオを祈りながら過ごしたいと思います。すべてを主に信頼して
以前、私は外食する時に周りに人がいても「父と子と聖霊のみ名によってアーメン」と十字架のしるしをすると書きました。
フランシスコ教皇様はインドネシア訪問の時に、様々な宗教の人々との会合に出席され、最後に祝福(ベネディクション)を与えられました。教皇様曰く、「祝福は常にすべての宗教に有効です。なぜなら祝福は常に愛のしぐさであり、普遍的なものだからです」と。そして祝福が始まり、「神が一人一人を祝福してください。あなたの家族を祝福してください。あなたの現在も未来も祝福してください。アーメン。」と言って終わりました。???「父と子と聖霊のみ名によって」も十字架のしるしもない教皇様の祝福でした。以前にも教皇様はユダヤ教のラビに会われた時に首からかけておられた十字架をサッシュの中に隠されましたね。
これらを見て私は自分が他宗教の人の前で十字を切ることは間違いだと責められているような気持になりました。キリストを信じない人たちの前で十字を切るのは配慮のない良くない行為なのでしょうか?
教会は跪いたらだめ、ご聖体は手で受けるように、他宗教の人に配慮してその人たちのいるところでは十字架のしるしはしない、みことばのわかちあい、・・・私は教会から徐々に締め出されているような気持になります。
「みことばのわかちあい」やシノドス的な(共に歩む)教会になるために「霊における会話」が、本当に散らされた羊たちを集め、教会の危機を救うことになるのでしょうか?カトリック教会が「みことばのわかちあい」を始めだしてしばらく経った頃からごミサに与る信徒は減り始めました。
フランシスコ教皇様が薦めている「霊における会話」がとても素晴らしいとの声を聞いたので、『シノドスハンドブック』を読みました。
その中の「霊における会話」のプログラムとシートを読みました。最後の方に「教会内のさまざまな立場の人が同じテーブルで分かち合い、平等に発言する機会と、こころ静かに相手の話を聞く機会が与えられる」と、きれいな言葉で結んでいましたが、最終的には「最終的な合意の際に、真っ向から対立する意見があるような場合、審議・決断する人たちは、対立意見があることを充分理解した上で、決断することが求められます。グループのメンバーも、決断する人たちを信頼しながらゆだねることが重要です。この意味では、疑いのこころではなく、「霊」の導きにこころを開かせてもらえるような、信頼できる雰囲気づくりは必要になるでしょう。」と、書かれていました。「決断する人たちを信頼しながらゆだねることが重要・・・」だそうです。私には無理な気がします。信仰心が足りないのかもしれません。
ブログはしばらくお休みします。
近頃は人や物の名前がすっと出てこないことがよくあります。また正座をしようとすると足が痛くてできなくなりました。老いとはこういうものかと実感しています。
頭がしっかりしているうちに、認知症でも受け入れてくれる施設等を調べています。
夫のいない私は一人で生活できなくなったら施設で面倒を見てもらうつもりでいます。どこでも主が与えてくださる場所が私の住処です。と、子どもたちにも伝えてありますが、言うだけではなく一筆書いておいた方が良いですね。
とは言っても、今は一人で生活できるので、できるだけ怪我や事故に気をつけて、規則正しい生活を心掛けています。 車の免許も高齢者講習を受けたので更新できます。
久しぶりにコーヒーゼリーと蒸し菓子を作りました。やはり手作りは美味しいです。たまには血糖値を気にしながらでも、脳へのエネルギー注入のために甘い物をいただきましょう。今日はマリアの聖名の祝日ですね。私のお祝いの日で~す。
来年2025年は聖年です。フランシスコ教皇様は聖年公布の大勅書「希望は欺かない」を出されました。初めて「希望は欺かない」と耳にした時にはどういうことなのか理解できませんでしたが、小寺神父様の説明を聞いて納得しました。この「希望」は一般でいう希望ではなく、キリスト信者の希望=復活・永遠のいのちを意味していました。
YouTube: 2025「聖年」希望は欺かない(2024年9月6日)
大勅書「希望は欺かない」はカトリック中央協議会のホームページで読めるので,早速読んでみます。
小寺神父様が最後に教えておられるお祈り
聖マリア、私たちの希望、主のはしため
Sancta Maria, spes nostra, ancilla Domini
YouTube: CARDINAL FRANCIS ARINZE INSULTS FEMINISTS
アリンゼ枢機卿様はいつもユーモアを交えてわかりやすくカトリックの教えを話されます。フェミニストは天主を「母」と呼びたいようですが・・・。面白いですね、このような質問。
アリンゼ枢機卿様は説明の中で、肉体のない天主は男性でも女性でもないが、聖書の中ではっきりとキリストは「御父」と呼びかけていると、説明しています。
アリンゼ枢機卿様の説明の中で「御父は肉体を持っていない」と言っていることは、当たり前のことですが、これが当たり前と思っていない人もいるようです。聖母マリア様は人間ですから肉体があります。キリストも人間の子として生まれたので肉体があります。でも聖霊と御父には肉体はないと、カテキズムで習いました。ですから、あるマザーの御父の姿を見てその姿を絵に描いたという話はどうも・・・私は信じられません。まだ光が見えて声が聞こえたのなら信じたかもしれませんが。(信じる信じないは各自の自由ですが、押し付けてはいけませんね)
因みにアリンゼ枢機卿様はナイジェリアの出身です。そう、あのごミサの出席率94%の国です。善き牧者がいるから羊たちは散らずにまとまっているのですね。納得です。
聖ヨハネパウロ二世教皇様の「主の祈り」です。よくラテン語で唱えておられましたね。教皇様のラテン語での「天使ミサ」も懐かしいです。
ベネディクト十六世教皇様もラテン語ミサをよく立ておられました。
ヴァチカン聖堂内に響く聖歌隊のラテン語の祈りは美しく荘厳でした。
YouTube: JPII Sings the Pater Noster
教皇様お二人のごミサです。
YouTube: Liturgia Eucarística - Papa São João Paulo II
YouTube: Messa Corpus Domini 2010 (3 giugno). Benedetto XVI
ベネディクト16世教皇様のごミサもラテン語です。私が特に見てもらいたいのは、ご聖体拝領の場面です。1:17:00 頃から 1:23:00 頃までです。前教皇様の時まではこうだったのですよ。知らない方も多いでしょう。ご聖体拝領とはキリストご自身を拝領することですから、この姿こそふさわしいと思うのですが、皆さんはどう思いますか?
夫が亡くなって約8か月になりました。語り合う相手がいなくなった寂しさを、時が経てばたつほど感じます。語る相手は他にいても、やはり夫とは違います。
私が二十代の初め(教皇はパウロ6世)の頃、第二ヴァチカン公会議での変更が盛んに行われ始めた頃です。
私はその改革ブームに乗って、ヴェールはしない、ご聖体は手で受けることが進歩的でカッコイイと思い、ヴェールを被るのをやめ、積極的に手でご聖体をいただくようになりました。服装も普段着こそが清貧だと勘違いして、いつも着古したジーンズにTシャツで教会へ行きました。多くの司祭はローマンカラーを外して、信徒と同じような服装だったので、時々「あなたは司祭様ですか?」と、確かめなければならない時もありました。バンドが演奏するミサはノリノリで、今思えばミサの意味はどうでもよく、ただ自分が楽しんでいただけだった気がします。
そんな私の間違った考えを正してくれたのが夫でした。「愛するキリストに会いに教会へ行くのに、その格好でいいの?結婚式に招待されて行く時に普段着で行く?デートの時相手のために綺麗にしていくでしょう?服を持っていないのならわかるけれど・・・」「よく考えて。ご聖体とは何?」「主キリストを崇拝するなら腰をかがめて跪くのは自然なことだと思わない?」等々。
私はヴェールを被る意味をよく理解しておらず、ヴェールの必要性がわかっていませんでした。またご聖体はキリストの体・特別なパンであるという認識が希薄でした。ご聖体をまるで普通のパンと同じように手で受けていました。キリストの体だからこそ普通のパンと同じように手で受けるのではなく、舌で直接受けるのがふさわしいと理解しました。
私は周りの人がどんな服装でミサに与ろうと、ヴェールを被らなくても、ご聖体を手で受けようともかまいません。これらは強制されてすることではなく、それぞれの人の心の在り方だからです。ですから私はキリストへの崇拝の気持ちが、ごミサに与る時には普段着ではなく、ヴェールを被り、ご聖体は舌で受け、ご聖体顕示の時には跪くという形を自然と取らせます。そうせずにはいられないのです。
教会が禁止しない限り私は続けます。(できれば聖変化の時にも跪きたい:普通のパンとぶどう酒がキリストの聖体と聖血に変わる瞬間ですよ!)
夫はこれらの他にも聖書の解釈や典礼について、ヴァチカン内での問題等々、様々なことを教えてくれました。
夫が教えてくれたことに共感して、私と同じような気持ちでご聖体を舌で受ける人が増えると嬉しいです。
さて、先月も色々なことがありました。特に信仰の面では試練でした。何故?どうして?と思うことが多く、こんな時にこそ夫がいてくれたら・・と思いました。幸い聖母マリア様、ヨセフ様、守護の天使に祈ることで乗り超えることができました。そして今は聖ホセマリアに一つの祈願をしています。聖ホセマリアに執り成しを願い主に届いたことは何度もありました。おそらく今度の執り成しの願いも適うと思います。なぜならそれは主のみ旨に適う善いことだと思うからです。
https://www.youtube.com/shorts/0DbGVDWU2Hs
⇧
二人の聖人のショート動画。自分の心が折れそうになる時にこれを見ると、本当に心が温かくなり励まされる思いがします。自分自身には厳しく謙遜で、他の人には優しく誠実である聖人たちを模範としなければ!