十字架称賛の祝日
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである (ヨハネ3:16)
昨日の第一朗読「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しをねがえようか」(シラ書27:2~4) そして「わたしの天の父も、もしあなたたち一人ひとりが、自分の兄弟を心から赦さないならば、あなたたちに同じようになさるであろう」(マタイによる福音書18:35)
昨日の年間弟24主日のS神父様の説教はとても良いお話でした。
S神父様は「『赦す』ことと『愛』はキリストの教えの柱です。今は自然環境・地球環境を守ることがキリスト=教会の教えかのように言われていますが、そうではありません。空気や水、海や森をきれいに保とうとすることは人間として当たり前のことです。それはキリストの教えとは別のことです。いくら綺麗で美しい自然環境であっても、そこに住む人間の心の中が清く善くなければ・・・それがより大切です。」と話されました。(神父様の話をうまく要約できていないので皆さんに真意が伝わればよいのですが…)
私もその通りだと思います。やっと正論を聴けた思いがします。この事に気づいておられる人たちは結構いるのではないでしょうか。
トマさん(小寺神父様)は「ゆるす」ことについて『トマさん祈りの部屋』でこう書いておられます。
・・・「ゆるせない」とは、どんな心でしょうか?それは、相手を縛って放さない状態です。憎しみで結ばれているのです。だから、ゆるすとは、忘れることではなく、相手を解放することです。負の絆を解くことです。
・・・(借金をゆるす主人のたとえ話で)ゆるすと、貸していたお金は戻ってきません。でも、自分の心を縛っていたお金から解放されるのです。ゆるすとは、相手を手放すことであり、自分を縛っているものを手放すことでもあるのです。「目には目を、歯には歯を」の復讐で心を満たそうとしても、際限がなく満たされません。相手を無条件で手放していないのです。
・・・心を縛られたくないなら、無条件で相手を手放すことです。相手の心の闇を思いやるのです。それが出来なければ、「主よ、ゆるすことが出来るように助けてください」と必死に願うことです。その願いも出ないなら「願うことができるようにしてください」と祈るのです。
これがキリストの教えですね。