夏休みの子どもたちへ
「聖年と子どもの練成会」での酒井司教様のごミサでのお話しです。大阪(高松)教区では何十年もこの練成会が続いているそうです。子どもたちの親もリーダーも昔参加した事があるとか・・・素晴らしいですね。こうして親から子へと信仰がつながり、これからもずっとつながっていくのでしょう。子どもの信仰教育の大切さがよくわかります。
司教様のお話も子どもたちに向けた易しい言葉で、心の糧となるお話でした。自分の子どもや孫たちにこのお話を見せてあげたら良いと思いますよ。![]()
「聖年と子どもの練成会」での酒井司教様のごミサでのお話しです。大阪(高松)教区では何十年もこの練成会が続いているそうです。子どもたちの親もリーダーも昔参加した事があるとか・・・素晴らしいですね。こうして親から子へと信仰がつながり、これからもずっとつながっていくのでしょう。子どもの信仰教育の大切さがよくわかります。
司教様のお話も子どもたちに向けた易しい言葉で、心の糧となるお話でした。自分の子どもや孫たちにこのお話を見せてあげたら良いと思いますよ。![]()
聖コルベ神父様と聖母を切り離すことはできません。神父様の聖母に対する愛がどれほど深いかはその生涯を見ればわかります。
コルベ神父様の生涯はあまりにも有名ですし、長崎でも働いておられたので皆さんよく知っているでしょう。
神父様がまだ子どもの時に聖母が現れ、17歳でコンヴェンツァル聖フランシスコ会で初誓願、3年後の20歳の時にマキシミリアノの名前にマリアの名前を加えてマキシミリアノ・マリア・コルベとなりました。23歳の時に6人の仲間と「汚れなき聖母の祭壇」の前で[汚れなき聖母の騎士会]を作り、28歳の時に「無原罪の聖母の騎士」を出版しました。
47歳の時にゲシュタポに逮捕されてから後のことは知らない人はいないでしょう。8月14日餓死室で亡くなり、翌15日聖母の被昇天の日に遺体は焼かれました。
聖母から必ず天国に行けると約束され、仕事机の上には聖母像、そしていつも不思議のメダイの祈りを唱えていた聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父様は聖母を深く愛し、また聖母からも深く愛された方でした。
聖母の手にはコルベ少年が両方欲しいと言った白(純潔)と赤(殉教)の冠、聖コルベ神父様の手には囚人番号16670が縫い付けられた囚人服、そして背景には日本で働いた証の富士山と殉教した強制収容所アウシュビッツの鉄条網が描かれています。
自分の欠点を嘆くのではなく、汚れなき聖母を完全に信頼しなさい。そうすれば、聖母ご自身がそれらをより大きな善へと変えてくださるでしょう。聖マクシミリアノ・マリア・コルベ
聖母の被昇天
マリア様は普通の人ではなく、神キリストの母です。ですから亡くなった後、魂も体も共に神によって天にあげられました。これがカトリック教会の教えです。
羊たちを見捨てて去ろうとしている羊飼いのために祈りましょう。自分の過ちに気づき回心して、良い羊飼いとして戻ってきますように。
教皇レオ14世の司祭のための祈り
主イエスよ、
良き羊飼い、歩みを共にしてくださる方、
今日、わたしたちはすべての司祭を、
特に、危機的状況にある司祭たちをあなたに委ねます。
孤独がのしかかる時、
疑念が心を曇らせ
疲れが希望に勝るように感じられます。
彼らの闘いと傷をご存じである方、
あなたの無条件の愛を彼らに再び確信させてください。
自分を役人や孤高の英雄としてではなく、
愛された子、謙遜にして尊い弟子、
あなたの民の祈りに支えられた牧者として彼らに感じさせてください。
優しい御父よ、
共同体として司祭たちをいたわることをわたしたちに教えてください:
裁くことなく彼らに耳を傾け、
完璧さを求めずに感謝し、
言葉と行いをもって神の国を告げ知らせるという
洗礼の使命を彼らと分かち合い、
寄り添いと誠実な祈りをもって共に歩むことを教えてください。
いつも支えてくれる人たちを、わたしたちも支えられますように。
聖霊よ、
われわれの司祭たちに福音の喜びを再び燃え上がらせてください。
健全な友情、兄弟的な支援のネットワーク、
物事が期待通りにいかない時の、多少のユーモア、
そして常に自らの召命の美しさを見出す恵みを彼らにお与えください。
彼らがあなたへの信頼と、
謙遜で寛大な心であなたの教会に仕える喜びを決して失うことがありませんように。
アーメン。
1945年8月9日長崎市松山町(今の平和公園)上空で原子爆弾が炸裂しました。一瞬のうちに約7万4千人の命が奪われました。その数以上の重軽傷者・・・その後も原爆症で苦しむ人たち。
この日を体験した故糸永真一司教様のブログ記事が鹿児島教区報8月号に載っています。
(カトリック鹿児島教区報より抜粋)
そして最後に「聖母被昇天を祝いつつ、その取り次ぎによって日本宣教の発展と世界平和を祈りながらミサをささげたいと思う」。と結んでいます。
原爆被害の象徴として知られる長崎・浦上天主堂の「被爆マリア像」は戦後30年間、北海道北斗市のトラピスト修道院に安置されていた。
応召した野口嘉右エ門神父(2004年に91歳で死去)が、壊滅した天主堂のがれきの中から奇跡的に見つけ出し、修道院に持ち帰った。自室の机や労働する裁縫室などに置き、毎日祈りを捧げていた。(朝日新聞記事より)
カイヅカイブキの木 ⇧
教会にカイヅカイブキという木が2本あります。信徒のKさんが伐採した部分の木を使ってとても素敵な写真立てを作り、バザーに提供してくださいました。
あまりにも立派な写真立てにただただ「素晴らしい!」。3個も買ってしまいました。Kさんは木工のプロですね。Kさんに感謝! またこのような写真立てや花台等の木工作品を出品されたら必ず買います。
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今日は司祭の模範であり、アルスの司祭として有名な聖ヨハネ・マリア・ビアンネ司祭の記念日です。
自分の十字架について不平を言ってはなりません。それこそが、あなたを天国へと導くものなのですから。 聖ヨハネ・マリア・ビアンネ
司祭は自分のために司祭なのではありません。彼は自分自身に赦しを与えません。彼は自分自身に秘跡を授けることはありません。彼は自分のためではなく、あなたのために司祭なのです。 聖ヨハネ・マリア・ビアンネ
すべての司祭のために祈りましょう。
教令は、聖職者および信徒に対し、聖ピオ十世司祭兄弟会の「分裂」に加わらないようにと注意を促し、それに加わった者は、その事実によって自動的に破門となる、と警告している。(Vatican News)
聖ピオ十世会に所属する司教6人が破門されたとした。また、極めて異例なこととして、聖ピオ十世会に「正式に所属する」信者らも「分裂者とみなされ、破門される」と宣言。同時に、同会を離れる人々については、「心からの愛情」をもって再び受け入れるとした。(BBC)
カトリック中央協議会に菊池枢機卿様からの文章が載っています。是非一読ください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2026/07/09/38945/
私はいままで聖ピオ十世会については好意的にみてきました。それはヴァチカンとの関係が良くなるようにお互い歩み寄り努力をしていると思っていたからです。しかし1か月前に教皇様の承認なしに司教叙階を行ったことは本当に残念でした。もはやヴァチカンとの関係を修復する気持ちがないことははっきりしました。教皇様に従っている私はこれからも教皇様に従います。これからも教皇様に従わず、今のごミサを認めないのなら、SSPXは新しいプロテスタントの一派となってしまうのでしょうか?破門されたということはSSPX派の誕生?
私はいつも教皇様に従うオプスデイをこれからも信頼し続けます。
聖ホセマリア・エスクリバー神父様の教えです。小寺神父様がわかりやすく話してくださいます。
YouTube: 仕事は神様の贈り物~仕事の聖化を考える~(2026年7月10日)
暑い日が続きます。知らず知らずのうちにカリカリしている私です。運転中、買い物中にもちょっとしたことでイラッとしてしまいます。普段ならニコッとできることがムスっとして、文句をポツリ。暑さのせいにしていますが、やはり私自身の問題です。主はいつもそばにいて私を見ていることを私は忘れているからです。
それにしても夜になっても室温33℃、クーラー無しでは眠れません。

聖使徒大ヤコブ
今日は聖ヤコブ使徒の祭日です。スペインのコンポステラも猛暑の中世界中からの巡礼者で賑わっていることでしょう。
私も頑張ってタルタ・デ・サンティアゴを作り、聖人伝を読んで聖ヤコブの神のために生きた信仰の歩みを振り返りたいと思います。
今日は明治生まれで94歳で亡くなった私の祖母の霊名記念日です。今でも家庭祭壇の前で祈っている祖母の姿が思い浮かびます。昔の人たちはよく祈っていましたね。特にお告げの祈りとロザリオの祈りは必ず毎日。
このシーンを Gen Verde が歌っています。⇩
YouTube: Giovedì Santo 2020 - "Perchè molto hai amato" - Gen Verde
多宗教の国(カトリック20~25%)レバノンでの新司祭の叙階式・祝賀会・初ミサの模様です。叙階式は本当に素晴らしいです。そこにはキリストの光があふれています。そこに集まった人々には信仰・希望・愛が満ちあふれています。
YouTube: An Entire Village Celebrates a New Priest in Lebanon 🇱🇧✝️
昨日の朝のブログに自分がいつも高慢の罪に縛られていることについて書きました。その後司教様の話を聞き、ごミサに与り説教を聞き帰宅しました。
何とも言えない心のもやもや感・・・聖書、聖ホセマリア神父様の本、アブリ神父様の本、カテキズムなどを読んでいくうちに、様々な考えが頭をよぎりやがて徐々に心は落ち着きました。
おかしな話ですが、先ず主が私に幼児洗礼を授けてくださったことを感謝しました。当然のことですが、幼児は洗礼を受ける時に打算や思惑など一切ありません。やがて子どもは教会学校で神様や教会・お祈りについての話しを聴き、それを素直に受け入れます。子どもの素直な心にまかれた正しい信仰の種は育ち続けます。途中で倒れたり、枯れかけても必ずまた起き上がります(少なくとも私はそうでした)。
幼児は本当に可愛いですね![]()
告解の準備(糾明)をしている時に、必ず高慢の罪が最初に浮かびます。高慢の罪から様々な悪が生じて、自分を主から遠ざけています。
先ずは他人を批判しない、特に『聖職者の方々を絶対に批判しない』これは私の高慢の罪を一つ遠ざける方法だと気づきました。それには努力も必要です。
オプスデイのホームページに載っている『神のいつくしみの秘跡:ゆるしの秘跡について』の「罪」の箇所を読みました。
罪
自らの罪を認めること、罪人であることを知ることこそ、改心の第一歩です。もちろん、この神との和解の第一歩もゆるしの秘跡において、最終的に罪の赦しを得るまでの歩みと同じように、神の恩恵なしには踏みだせないものです。
しかし、恩恵は自然を無効にすることも破壊することもありません。ということは、恩恵に協力する義務があるということです。何もかも全面的に主にお任せするのではなく、わたしたち一人ひとりが協力しなければならないのです。すなわち、差しのべられた御手に届くことが出来るように、わたしたちが努力しなくてはならないということです。勉強や読書、あるいは知識のある人の援助を得て、キリスト教倫理の根本的な考えを会得しなければなりません。実際には罪でないことを罪であると考えたり、反対に確かに神の法に不従順であるものを、神を侮辱することにはならないと考えたりしないためです。自らの過失を知ることさえできないのであれば、改心の第一歩を踏みだすことはできません。
神を憎んで重大な悪を行うときのみ、罪が成立すると考える人がいるようですが、間違っています。罪が成立するために、神と対決するという具体的な意図は必要ありません。実際には、罪とは神の法に反する、背くと知りながら考えたり行ったりすることです。従って、法を知りながらその法を守らないなら、罪を犯したことになります。
言い換えると、罪とは突然天から降って湧いてくるようなものではなく、三つの条件が満たされた時、罪が成立します。
(1)ある考えや思い、言葉や望み、行いや怠りが、重大な事柄(悪)であること。
(2)(1)が神を侮辱するものであることを充分に自覚していること。
(3)意図的に承諾して、実行に移すこと。
このような状況を、それぞれ、対象、意識(知識)、同意(承認)と呼びます。この三つの条件がそろった時、個人の罪が成立します。それは、悪を悪と知りつつ、主を侮辱すると分かっていながら、その悪を望むからです。
こういう状況にあってのみ罪を犯すのであれば、神の掟を知らない方がいいと、考えるのは誤りです。知ろうとする努力がないところから生じる無知は、過失から出たものです(過失ある無知と言えます)。従って、過失から生じた無知だけでなく、その無知が原因となって犯した全ての罪の責任を負わねばならないことになり、主のお言葉がぴったり当てはまります。「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは、聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない』」(マタイ13・14)。
YouTube: 20260703「聖ホセマリア記念ミサ2026~信仰の土台は「神の子」の自覚~
私は「神の子」であるという自覚 : 主の祈りを唱える時「天におられるわたしたちの父よ・・・」私たちは神に「お父さん」と呼びかけます。
私は「罪人」であるという自覚 : 拝領前に「神よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と信仰告白をします。
確かに私たちは罪人ですが神の子どもなのです。そしてマリア様も私たちの母となってくださいました。私たちを母としていつも護ってくださっています。私たちも良い子どもでいなければなりませんね。
「ペトロ岐部司祭叙階400年記念」ポスターより
1603年から1639年(徳川家康・秀忠・家光)にかけて、(現在の)鹿児島、福岡・大分、長崎、広島、大阪、京都、東京、新潟の各教区で188名の方が殉教しました。司祭をはじめ武士、農民、町人身分を問わず、また一家全員幼子も一緒に殉教した家族もありました。
詳しく学びたい方は『ペトロ岐部と187殉教者 歴史・巡礼ガイド』が参考になります。⇩
私たちはこの殉教をただ単に過去の出来事ととらえるのではなく、殉教者の流した熱い血に感謝して、彼らの信仰に倣うことが必要だと思います。
迫害のない時にはキリストを忘れてしまいがちです。家庭では親は子どもにキリストよりも他の事を優先するような態度をとり、またそう教えてしまいます。「殉教」とは何なのか、その意味することをこの機会に家庭で話し合ってみたらどうでしょう。
YouTube: QUO VADIS (2001) Full HD
聖ペトロと聖パウロといえばすぐにこの映画「クオ・ヴァディス」が思い浮かびます。原作はポーランドのノーベル賞作家ヘンリク・シェンケヴィチの小説『クオ・ヴァディス:ネロの時代の物語』です。
キリスト教徒への迫害がひどくなったローマを発って、アッピア街道を歩いているペトロに近づいてくるキリスト。ペトロは驚いて、ひざまづいて尋ねました。
ペトロ:Quo vadis, Domine? ( 主よ、どこに行かれるのですか?)
キリスト:あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう。
それを聞くとペトロはすぐにローマへと引き返しました。そして捕らえられて殉教します。
この映画は素晴らしい作品です。キリスト教を知っている人も知らない人も一度は観てほしい映画です。観ることができる機会がほとんどないので、できることなら教会で上映会をしてもらえたらと思っています・・・がやはり無理かな?
今日は聖ホセマリア・エスクリバーの記念日です。小寺神父様が「身体の神学」の特別編として、聖ホセマリアの教えを通して話されています。私でも理解できるわかりやすいお話しです。
YouTube: オンラインクラス「身体の神学(特別編)」(2026年6月24日)
毎日聖ホセマリア神父様に天主への執り成しを願い祈ります。でもいつも同じ熱意を保てないことがしばしばあります。時にはその火が消えそうになることも・・・。そんな時には聖ホセマリア神父様が書かれた『道』を読んだり、このような講座を聞くことによってふたたび力をもらいます。
私は数年間聖ホセマリア神父様に執り成しを願ってきたことが一つあります。それは自分のためではなく、主にとっても良いことだと思うのですが、なかなかかないません。そんな時にオプスデイの神父様が「旧約の創世記で、17歳のヨセフが夢の中で主から啓示されたことは20年後に実現されました。私たちがいくら良いことを願っても主はすぐに与えてくださるわけではありません。主がよいと思われた時に適うのです。ですから落胆せずに願い続けなさい」という話を聞きました。この話を聞き『あきらめてはいけない、主は必ずいつか報いてくださる』と悟りました。それと同時に私は聖書をさっと軽く読むだけで、深く味わって読んでいなかったことにも気づかされました。