カトリック Feed

2017年11月26日 (日)

王であるキリスト(祭)~権威主義について

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  今日は教会カレンダー最後の日曜日、「王であるキリスト」の祭日です。いよいよ次の日曜日から待降節が始まります。

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 権威主義は一般には独裁主義や専制主義を連想させ、「権威」は人を服従させ強制させる力=悪ととらえられているようです。しかしフランシスコ教皇様はこの「権威」についてこう話しておられます。

 「他人が正しく、かくあるべきことを実践できるよう助けるために、よい模範を示すことから権威ある者は生まれる。権威は一つの助けであるのに対し、その使い方を誤ると、圧迫的になり、人の成長を妨げ、不信と敵意の空気や、腐敗を生んでしまう」と。(2017.11.5 教皇による祈りの集い)

 つまり権威を誤って使った結果が独裁や専制です。権威自体は決して悪いことではないはずです。権威を悪く使おうと思っている人は権威を悪ととらえるし、権威を良いことに使おうと思っている人は権威は良いことととらえます。キリストの権威は良いものでしょう。教皇ヨハネ23世を見てください。私たちに良い模範を示された権威ある方です。

 権威を持っている人はそれを正しく使い、まわりの人達はそれを正しく理解して協力することが必要だと思います。権威を表すミトラや杖、祭服などを権威の象徴として毛嫌いするのも的外れなことです。

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教皇ヨハネ23世

2017年11月21日 (火)

聖マリアの奉献(記)

 今日はマリア様の奉献記念日。朝からマリア様について色々と想っています。

 お告げの祈りにある通り、「私は主のはしため、おことば通りになりますように」とこたえるマリア様。小さい頃から育まれた豊かな信仰心が自然とそう答えさせたのでしょう。何よりも主を信頼する心、いつもそういう心でいられる・・・私もそうありたい。

 不安になったり余計な心配をしたり、疑ったり怒ったり不満に思ったり・・・主を信頼していれば何もそのようなことで心を煩わすことはないのに。主への信頼が弱くなるのは祈りが足りないことと正比例。

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聖アンナと聖マリア

2017年11月14日 (火)

ミサは退屈?

CNNの記事からフランシスコ教皇様の話しとして、

・・・聖職者に対し「ミサでは心を高めるべきで撮影のために携帯電話を掲げないことを信者に教示すべきだ」と強調した。

また、信者だけでなく司教らも同じことをしているとして、「ミサはショーではない」といさめた。

「ミサは退屈」との不平については「神がそこにいる。神は退屈なのか?」と反論。さらに、一部の子どもの十字架を切って祈る方法がだらしないとし、適切な礼拝の方法を教えるべきだと主張した。

 ついに教皇様も我慢できなかったのでしょう。教皇様の気持ちよ~くわかります。私も以前「ミサは退屈だからミサを楽しくするにはどうしたらよいか?」などと本気で尋ねた人(聖職者)がいたのを知っています。「ミサが退屈だから教会を離れる人が増えた」とまで言っていたようです。でも以前のラテン語での長~いミサの時には教会を離れる人は今よりずっと少なかったと思います。つまり昔はミサの意味を皆はよく教えてもらい理解していたけれど、今は教えてもらっていないということかもしれません。

 教皇様が話されたのは11月8日水曜日の一般謁見の時です。その時のyou tubeを載せます。↓


YouTube: 2017.11.08 - General Audience

2017年11月13日 (月)

気になる祝福

 いつの頃からでしょうか、ごミサの聖体拝領の時に祝福が始まったのは・・・。ヴァチカンのごミサでは今も昔も無いので日本やアメリカなど数か国の特有なことかもしれません。

 私は聖体拝領の時の祝福は必要ないと思います。その理由はごミサの最後にみんな(信者もそうでない人もすべて)祝福をいただいているから。司祭はごミサの最後に「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」と言い、私たちは「アーメン」とこたえてます。

 理由があってご聖体をいただかない人に、しつこく祝福を受けに行くように勧めている方がおられます。よい心で勧めているのでしょうが本人が拒否しているのに何度も勧められればかえって目立ってしまい本人にとっては良い気持ちはしないでしょう。未信者の方が遠慮されている場合と違い、聖体拝領の意味をよくわかっている信者さんが聖体拝領をしないのには理由があるからで、そのことを考慮してそっとしておいてあげるのが良いのではないでしょうか。とにかくごミサの最後には祝福があるのですから。

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ごミサの最後に皆を祝福される教皇様

2017年11月 9日 (木)

ラテラン教会の献堂(祝)

 

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 今日はラテラン教会の献堂の祝日です。ラテラン教会と言ってもピンとこない方もおられるでしょう。

 ラテラン教会とはローマ司教座教会です。教皇様はローマ司教座の司教でもあります。ですからラテラン教会は「すべての教会の母」と呼ばれているのです。

 また今までに21回開かれた公会議の中で第9回から第12回までの4回の公会議はラテラン公会議としてここで開催されました。一番新しい第二ヴァチカン公会議しか知らずに、それだけが正しくてそれ以前の公会議は古くてもう無効だと思っている方がいるようですがとんでもない誤りです。すべての公会議は正しく有効です(東方教会は多くても第7回公会議までしか認めていませんが)。

 キリストは使徒たちの中からペトロを特別に選びました。そしてペトロはローマでキリストの代理者・首位権者として教座を定めました。ですからローマは使徒座と呼ばれます。ローマ教皇様は使徒たちの頭である聖ペトロの後継者です。つまり教皇様には教会全体を司牧・統治する全権があたえられているのです。

 ラテラン教会献堂を祝日とする重要性がわかっていただけたと思います。

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2017年11月 2日 (木)

死者の日

「わたしの父のみ旨とは、子を見て信じる人々にみな永遠の命を受けさせ、終わりの日に彼らを復活させることである 」。 (ヨハネ6:40)

 昨日の「諸聖人の祭日」に続いて今日は「死者の日」です。「諸聖人の日」が「死者の日」と違い祭日なのは、聖人たちはすでに皆天国にいるからですね。ですから「死者の日」の今日は霊魂の救いを必要としている亡くなった人達のために祈らなければなりません。

 亡くなった私や夫の家族また先祖の人達はもちろんのこと、今煉獄にいるすべての人のために祈ります。

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2017年10月31日 (火)

カトリックの国

 カトリックの国ポーランド。今も伝統を大切にして信仰を守り続けている国。聖マキシミリアノ・マリア・コルベや聖ヨハネパウロ二世教皇を育てた国です。

 現ポーランド首相の息子さん(Tymoteusz Szydlo)も司祭に叙階されました。

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初ミサ~荘厳で美しいです heart

2017年10月24日 (火)

十字架

 キリストの身体のないただの十字架。これはキリストの十字架ではありません。磔刑の道具でしかありません。

 キリストの身体のない十字架が祭壇に掲げられるようになった時、これをすすめた人の理由の一つとして「キリストが血を流し苦しんでいる姿のある十字架は残酷で、それを見る人は不快に感じる」というものでした。

 なんとも信じられないようなあきれた理由でした。十字架はただのシンボルとなり、キリストが十字架に磔にされた本当の意味をあらわさなくなりました。

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2017年10月23日 (月)

なぜカトリックか

 

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 キリストを信じる人はどれくらいいるのでしょう。カトリック、正教、プロテスタント、そしてどこにも属さない人。

 私がカトリックであり続けるのは、カトリックには秘跡があるからです。「洗礼」「堅信」「聖体」「ゆるし」「病者の塗油」「叙階」「結婚」この七つの秘跡ほど素晴らしいもの、希望を与えるものはありません。罪びとである私たちはキリストから何度でもその罪をゆるしてもらえます。ご聖体はキリストの特別なかたちでの現存です。それを直接いただける恵み。これらのことをよく知ればカトリックを離れるなんてありえません。

 よく「信仰に知識はいらない」といって、カテキズム(信仰教育)が軽視された時期がありました。しかしその結果が洗礼を受けた後に教会を離れてしまう人や離婚する人たちを増やしました。それは秘跡の本当の素晴らしさや罪とは結婚とはどういうものかをきちんと教えてもらっていなかったからでしょう。

 私は洗礼を受けて60年以上になりますが、いまだに日々学び教えられることばかりです。信仰の神秘は尽きることがありません。時には疑問を持ったり、絶望しかかったりすることもありましたが、それでも・・・カトリックであり続けます。きっと多くのカトリック信者さん方も私と同じだと思います。

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もしカトリックがなくなったら・・・私は正教に移るでしょう。

2017年10月15日 (日)

アビラの聖テレジア(大テレジア)

 今日は大テレジアの祝日。なのにごミサの説教でも触れられることなく、なんだか寂しいですね。アビラの聖テレジア大好きですheart

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(秋休み中ですが時々短くアップしてます)

2017年10月13日 (金)

General Audience ~ 日本からの巡礼団

 郡山司教様のブログを見て、早速ヴァチカンからのGeneral Audienceをチェック。可愛らしい双子ちゃんがいました。教皇様から祝福をいただけて幸せですね!

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2017年10月 4日 (水)

聖フランシスコ・アッシジ(記)

 

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 アッシジの聖フランシスコといえば「清貧」。清貧は物を持たないことではなく、物に執着しないこと。それを手ばなす時には執着せずに喜んで手放せることです。富や財産を自分の物と執着せず、主から預かったものと思い、持たない人と分かち合う人が清貧に生きる人だと思います。聖フランシスコとその後のフランシスコ会を支えたのは貧しい人達だけではなく、多くの富かな人々の金銭と祈りがあったことを忘れてはなりません。

 教会の中でよく質素に生活している人が豊かに暮らしている人を軽蔑するような言動を耳にしますが、私は賛成できません。それはまるで神を否定する無神論者と同じ、見せかけだけの平等です。貧しい人でも豊かな人でも、富に執着しない人が天に宝をつめる人です。貧しくても豊かでもお金や富に執着する人を主は喜ばないでしょう。

 諸事情によりしばらくブログをお休みします。秋休みかな?皆さん秋を満喫してくださいね!confident

2017年10月 2日 (月)

守護の天使(記)

 もう10月、今月はロザリオの月。そして今日は守護の天使の記念日です。

 守護の天使・・・皆さんは意識していますか?私たちが悪に傾かないように守り助けてくださる天使たちを。毎晩寝る前に守護の天使に感謝しなければいけませんね。

 思えばいつも守護の天使に守られてきた私です。あの時・・・あの時・・・そう、どんな時にも必ず導き守られました。それは事故にあわず、病気にならなかったということではありません。苦しみや涙がなかったという意味でもありません。悪から守られたということです。たとえ罪を犯しても回心する道へ導いてもらいました。

 守護の天使は無病息災のお守りではありません。主が私たち一人一人それぞれに天使をつけてくださったのは私たちが正しい道を歩むためです。これもまた主のいつくしみでしょう。

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2017年9月29日 (金)

聖ミカエル・聖ガブリエル・聖ラファエル大天使(祝)

 

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 三大天使の祝日です。殉教者の祝日とはまた違った華やかさを感じるのは私だけでしょうか。人間と違い神に近い天使たちは特別な力を持っています。

 悪魔を足で踏みつけている大天使ミカエル、日本の守護者でもあるので特に身近に感じます。

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 ところで話は全く変わりますが、最近世界各地での教皇様のごミサを見ていると、「主の祈り」の時に両手を広げ手のひらを上に向けて祈っている人達が目につきます。また隣の人と手をつないで祈っている人が多いのはアメリカ。イタリアでも手をつないで祈る人たちが増えているとか。日本国内でもちらほら。

 私は子供の頃教会学校で「主の祈りの時には両手を胸の前で合わせてお祈りしましょう」とシスターから教わりました。両手を広げて祈るのはミサを司式している司祭だけだと思っていました。

 私は祈る時に両手を開いたり手をつないだりするのは馴染めないので遠慮します。シスターは正しいことを教えてくださったと信じています。とはいえ、最近ではシスターの中にも主の祈りの時に両手を広げて祈る人たちもいます。noteなんでだろ~ なんでだろ~ なんでなんでだろ~?notes

2017年9月21日 (木)

聖マタイ使徒(祝)

Stmatthew_2聖マタイと天使:カラバッジョ

「マタイによる福音」とあるように、新約聖書の最初に載っている良い知らせを書いたのが使徒マタイです。

 マタイは人々から嫌われていた徴税人でした。そんな彼をイエズス様は呼びました。呼ばれたマタイはイエズス様にすぐに従いました。「この仕事が終わったら・・・」とか「ここを片付けてから・・・」とか言い訳をせずに、イエズス様から呼ばれるとすぐにすべてをおいて従ったのです。

Brugghenterhendrickthecallingofstma 聖マタイの召命:ブルッヘン

 マタイと対照的にイエズス様に従いたかったけれどそうできなかった人達もいましたね。自分の財産に執着があった人、亡くなった家族を葬ることを優先した人など。もしイエズス様があなたに声をかけられて「ついてきなさい」と言われたら、あなたならどうしますか?

 明後日23日はカテドラルザビエル教会でビアンネ助祭司祭叙階式があります。彼はイエズス様に呼ばれて「はい」と言って従った人です。司祭様たちは皆そうですね。改めて使徒職について考えさせられました。

2017年9月14日 (木)

十字架称賛の祝日

神は御独り子を与えたもうほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである。神のみ子を世に送られたのは、世をさばくためではなく世をすくうためである。(ヨハネ3:16-17)

 今日は十字架称賛の祝日。

 カテドラルの二階の聖堂と一階の小聖堂にキリストのご像のついた十字架(キリスト磔刑の十字架)を一日も早く置いてほしいと願うばかりです。

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カテドラルザビエル教会

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小聖堂

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Eyhlzeen1玉里カトリック教会     鹿屋カトリック教会

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国分カトリック教会   鴨池カトリック教会

Photo_3大口カトリック教会 他のカトリック教会にはあるのにな・・・キリストのいない十字架なんて・・・プロテスタントの教会みたいdespair

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 昨日は夫が突然「牧場に行こう!」と言い出したので、昼食を早めに済ませて高千穂牧場へ。ここちよい風があり、トンボが飛び回り、もう秋の気配です。

 牧場内を一巡りしたら、後はいつも通りただひたすら夫と対話。信仰のこと、カトリックのこと、子どもたちのこと、進化論にLGBT,体外受精等々・・・。そして美味しいものを食べて心も身体もいっぱいになりました。

Dscn1976_2こちらはお腹を満たしてくれた牧場のピザとサイコロステーキhappy01

2017年9月 8日 (金)

聖マリアの誕生

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 マリア様の誕生日。お父様は聖ヨアキム、お母様は聖アンナです。

 マリア様はご両親が年を取ってから授かったので、お二人とも毎日神様に感謝しながらマリア様を大切に育てられたと思います。神を愛し柔和で謙遜に育ったマリア様は、キリストの母となるように神から選ばれました。それは大きな喜びと共に、我が子の十字架を仰ぎ見るという苦しみも背負いました。

 マリア様は私たちのお母さんでもあります。マリア様に倣い、いつも神様に信頼して謙遜に生きたいものです。私はもっともっと謙遜をマリア様に倣わなければ。 confident

2017年9月 1日 (金)

典礼~大丈夫?

Photo_2(写真:Fr.Zのブログより)

 この写真を見て思わず笑ってしまいました。典礼をいい加減にしている教会はアメリカでも多いのでしょう。以前私の教会の主任司祭だったP神父様は「私の趣味は・・・典礼かな?」と言われたくらい、いつも典礼を勉強されて、私たちにも教えてくださいました。

 例えば、ミサの中での祈りやロザリオは言葉の意味をかみしめてゆっくりと唱えること。ロザリオは時間内に終わらない時は途中まででもよいのでゆっくりと。使徒信条の時、「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」の所では頭を下げるなど、大切なことを色々と教えてくださいましたが、神父様が移られた後はもう皆さん教わったことは忘れています。とても残念です。

 大阪では典礼委員会が定期的にあるそうです。おそらくそこではローソクも真直ぐにシャキッとしているでしょう。

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2017年8月29日 (火)

洗礼者聖ヨハネの殉教

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 洗礼者ヨハネの誕生ではなく殉教なので、やはりこの構図の絵かな。あまり気持ちの良いものではありませんが・・・。

 自分の罪を指摘されたから、その人を恨んで復讐する、典型的逆恨みですね。でも気をつけないと私たちも同じようなことを体験するのでは。本人のために悪いことを改めてもらおうという思いで言っても、逆に恨まれてしまうことってありますよね。洗礼者ヨハネほどではありませんが。とにかく相手の忠告は素直に聞くようにしましょう。

 さて本題に入って、洗礼者聖ヨハネと呼ばれる通り彼の活動の中心は「洗礼」でした。彼は人々に回心して神に心を向けるようにと説き、回心のしるしとして洗礼を授けました。回心の必要のないキリストにも洗礼を授けましたが、このことについては「主の洗礼」の時にあらためて書きます。

17polo_veroneseキリストに洗礼を授ける洗礼者聖ヨハネ  Paolo Veronese

 多くの預言者は迫害されました。預言者がキリストのみことば=真理を語り、改心を説くときにそれを受け入れることのできない人達が必ずいます。領主ヘロデ・アンティパスと彼の兄弟の妻ヘロデヤもそうでした。ヘロデとヘロデアの結婚をヨハネにとがめられて、二人はヨハネを憎みました。結果、ヘロデアの悪知恵でヨハネの首ははねられてしまいます。

 真理を語ると殺される・・・今の時代、殺されるとまではいかないとしても、真理を語ると批判、非難されたり、嘲笑されたりする時もあるでしょう。これはいつの時代にもありますが、特に近年それは顕著です。でも恐れずに真理を語りましょう!

2017年8月28日 (月)

St.Aurelius Augustinus

夜はふけて日が近づいた。だからやみに行われる業を捨てて、光のよろいをつけよう。昼のように慎んで行動しよう。酒盛り、酔い、淫乱、好色、争い、ねたみを行わず、主イエズス・キリストを着よ。よこしまな肉の欲を満たすために心を傾けることはするな。(ローマ人への手紙:13.12~14

  ある日アウグスティヌスが庭にいた時に、隣の家から子供のような声で「取って読め」という声が聞こえました。アウグスティヌスは、これを「聖書を開いて最初に見える言葉を読め」という神の命令だと思い、急いで部屋に引き返して聖書を開きました。最初に目に触れたところが上記の「ローマ人への手紙」の箇所でした。

 アウグスティヌスはこの頃、神のみ旨を行おうとする新しい意志と悪い習慣のうちに留まろうとする古い意志との争いに葛藤して、心は揺れていました。ところが このローマ人への手紙の一節を読み終わると、迷いはたちどころに消えて、心は平安に満たされました。 

 「主イエズス・キリストを着る人になりなさい」とよく言われます。「私のような人間にはむりです」と思う人は多いです。しかし聖アウグスティヌスはあれだけ堕落した生活をしていたのに、回心するとそれからは見事にキリストを着る人となりました。私たちも聖アウグスティヌスを見習い、キリストを着るものとなれるように聖アウグスティヌスの取り次ぎによって主に祈りましょう。

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   聖アウグスティヌスの祈り

主よ、み前にあやまちを告白します。

そのために受けた傷をも。

おかした罪の重さをはかれば、

その受けるべきものは大きいものを

そのために受ける苦しみは少ない。

おかしたことは大きいのに

そのために耐えるものは軽い。

罪の痛みをおぼえながらも

罪をおかすかたくなさは変わりません。

あなたのムチに打ちひしがれても

心のゆがみは変わりません。

にがい思いに苦しみながらも

かたい心のうなじは柔らかになりません。

悲しみに息も絶えだえになりながらも

行いにおいて自分をあらためもしません。

あなたが、時を許せば、いつまでもなおらず、

きびしく当たられれば、それを耐えられません。

こらしめの時、なおそうと悔やんでも

喉もと過ぎれば熱さを忘れます。

あなたが手を出されると、

すぐにします、と約束するのに、

その刀をひかれると

その約束を果たしません。

あなたが打てば

許してくださいと叫ぶのに

許されれば、また打たれるようなことを

してしまいます。

主よ、罰に値する自分の罪を悟らせてください。

もし、許されなければ、

滅びてしまうことを知っています。

全能の父なる神よ、

無から造られて、あなたに願う

わたしたちの願を聴き入れてください。アーメン。