今映画『国宝』が大ヒットしているようですね。今まで歌舞伎に触れることのなかった若者にも刺激を与えているようです。歌舞伎を広めるためにもとても良いことだと思います。團十郎さんもぼたんさんや新之助さんに観るよう薦めたとか。
私は小学生の頃から日本舞踊(藤間流)を習っていたので、歌舞伎が大好きです。学生時代京都に住んでいた時にはよく南座へ歌舞伎を観に行きました。でも京都を離れると同時に歌舞伎鑑賞も遠のいてしまいました。
ちなみに昭和40年代の頃は三之助(六代目市川新之助・四代目尾上菊之助・初代尾上辰之助)にとても人気がありました。私はなぜか六代目市川染五郎(現:二代目白鸚)ファンでしたが。ここ田舎で歌舞伎ファンの中学生は私くらいだったかもしれません。
映画『国宝』も観たいですが、やはり歌舞伎舞踊や歌舞伎の舞台を観たいですね。
今読んでいる本は『教会ラテン語への招き』です。
第二ヴァチカン公会議までミサはラテン語であげら、グレゴリオ聖歌もよく歌われていました。あの魅力的で神への崇拝に満ちた素晴らしいラテン語ミサが今は消えてしまいそうになっています。
ラテン語ミサの歴史とその素晴らしさを再発見するためにこの本を読み始めました。そして読み進むにつれて、フランシスコ教皇様のラテン語ミサ(トリエントミサ)に制限を加えた理由がますます私には理解できなくなりました。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ではないですがS・・・が嫌いな人たちはS・・・のラテン語ミサ(トリエントミサ)まで嫌いという感情を教皇様に訴えて、このような制限が出されたとしか思えないのです。
今はラテン語でのミサのあげ方を知らない司祭がほとんどでしょう。ラテン語を必修科目として教えていない神学校が多いからだと思います。ですからラテン語ミサが制限されようが自分にはまったく関係ないと無関心な司祭・司教様が多いのでしょう。
でもラテン語ミサをあげられないことは皆さん気づいていないかもしれませんがとても大きな問題だと思います。この本を読んで私も気づかされました。何百年も続いてきた素晴らしいラテン語ミサ(トリエントミサ)とグレゴリオ聖歌を今こそ見直すべきですね。私はレオ14世教皇様に期待しています。
6月26日は聖ホセマリア帰天50周年でした。ホセマリアの教えについて小寺神父様が話しておられます。家庭や仕事それとも教会・・・悩み苦しんでいる方にお勧めします。よいお話しです。
YouTube: Toccata in d minor by J. S. Bach 😍 #organ #music #church
教会の典礼音楽と言えばパイプオルガンですね。大聖堂に響き渡るパイプオルガンの音はまさに私たちを天上の世界にいるような心地にさせてくれます。
とは言え、パイプオルガン奏者は少ないです。その中でも若干27歳の
YouTube: Playing at St. Peters Basilica in Rome (with Swiss Guards!)
イエズスも弟子たちもその婚礼に招かれていた。ぶどう酒がなくなりかけたので、母はイエズスに、「ぶどう酒がありません」と言った。すると、イエズスは母にお答えになった。「婦人よ、このことについて、わたしとあなたとは考えが違います。わたしの時はまだ来ていません」。(ヨハネ2:3~4)
この箇所での説教で「私の時」についての説明はよくありますが、「お母さん」ではなく「婦人よ」と呼びかけている違和感については、わかりやすい説明を聞いたことがありませんでした。そしてフルトン・シーン司教様の話しを聞いてやっと納得しました。聖書を読む時にはただ読むだけでなく、正しい理解に導いてくれる人が必要だとつくづく思いました。ではその司教様のお話はこちらから⇩
久しぶりに教皇様のごミサのDVDを観ました。1985年6月29日聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日にヴァチカンの聖ペトロ大聖堂でヨハネパウロ2世により挙行された荘厳ミサです。
モーツアルトの戴冠式ミサがカラヤン指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン学友協会合唱団、そして4人のソリストによって、荘厳ミサの式次第に沿って見事に演奏されました。
荘厳ミサをヨハネパウロ2世教皇様はラテン語であげられ、信徒の皆さんはご聖体は舌で受けていましたね。わずか40年前のことです。当たり前だったことが、今はそのことを批判する人達さえ現れる世の中になりました。嘆かわしいことです。
YouTube: ライヴ録音 1985 モーツァルト 戴冠式ミサ WPO&カラヤン
やはり小寺神父様のお話は分かりやすく、学びになります。たしかにすべての信者が信仰の神秘であるご聖体を受け入れているのかというと疑問がありますね。特に洗礼の準備の勉強を始めようと思っている方は是非見てみてください。
YouTube: 信仰の神秘「ご聖体」(2023年6月9日)
酒井司教様を始めオプス・デイの聖職者の方々の典礼のお話は正確で、教会の教えから全く外れることなく、安心して学べます。やはり神学校での教えがしっかりしているからでしょう。
今日は聖ペトロ岐部司祭と187殉教者の記念日です。
今日は聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日です。私たちは災害や苦しみに合うと、主の愛を疑ったり簡単に主への信頼を失ったりしてしまうことがあります。そして後からそんな自分の信仰の弱さを嘆きます。
聖ペトロと聖パウロはもっと強い信仰を持つことを教えてくれます。私たちはまたヨブ記に書かれていることからも学ばなければなりません。
YouTube: 【聖書を考える】 #23 ヨブ記と善悪の問題 【ガエタノ・コンプリ】
家族が不慮の事故にあったり、災害で亡くなったり、戦争に巻き込まれたり、自分自身も重い病気にかかった時に、人たちは何故?どうして私がこんなに苦しまなければいけないのか?と嘆き、神を恨んだり神などいないと信仰を失う人もいます。
ヨブ記ではヨブを通して神は私たちに教えています。コンプリ神父様のお話を参考にして、もう一度ヨブ記をゆっくりと読んでみましょう。心の苦しい錘が少しでも軽くなることを願います。
YouTube: Fathers of Mercy - The Life of Venerable Cardinal Francis-Xavier Nguyễn Văn Thuận #shorts
ヴェトナムで投獄されて、13年間服役した当時大司教であったフランシスコ・ザビエル・グエン・ヴァン・トゥアン枢機卿様についての話しです。この事実を知って考えました。
今はキリストが現存するご聖体を信じないで単なるシンボルと見たり、ミサを軽視している人たちが思っている以上に増え続けています。何故でしょう?
私が思うには、心の糧のご聖体を肉体の糧の食べものと同じように手で受けるようになり、どちらも同等に(シンボルのように)思う人が増えたからではないでしょうか。心の糧であるご聖体は特別なものだからこそ特別に舌で受けるのです。「これはキリストのからだ」だと意識します。聖トマス・アクィナスもご聖体は司祭以外手で触れてはいけないと言っているではありませんか。
枢機卿様に倣い私たちももっともっとミサを愛せるように、主に助けを願います。
今日は4人の子どもたちの初聖体でした。初めてイエズス様をいただいた気持ちはどうだったのでしょうか?
私の場合は正直その時どんな気持ちだったのかは思い出せません。でもきっととても嬉しかったと思います。なぜなら初聖体までとてもわくわくしていたことは覚えているからです。母から「天にまします・・」や「めでたしせいちょう・・」そして「ねがわくは父と子と・・」の祈りを教えてもらい覚えました。覚えることが楽しかったのです。自分も大人の人と同じように祈れることがとても誇らしくもあり嬉しかった。そして初聖体の時に大人の人と同じようにヴェールを被れた嬉しさは特別でしたね。あの頃は教会学校といえばシスターが先生でした。懐かしいです。
初聖体のお祝いに赤いガラスのロザリオを買ってもらいました。母に促されて、七田神父様からロザリオを祝福していただいた時のこともはっきりと覚えています。その時に初めて「祝福」を知りました。そしてロザリオの祈り方も母やシスターから教わりました。
神父様やシスターのお話を聞いて、素直にただ信じていたあの頃の自分を思い出すと、今の自分がちょっと恥ずかしくなります。まさにキリストが言われた「あなたたちは心を入れかえて幼子のようにならなければ、天の国には入れない」(マタイ18;3)とはこのことですね。
19日木曜日はご聖体の祭日。ポーランドのリヘン村でも聖体行列がありました。初聖体の子どもたちも行列しています。
昨日は聖霊降臨でした。小寺神父様や酒井司教様も言っておられるように、聖霊はいつも私たちの心の中におられ、働き続けています。
「〇〇なら聖霊は来ないよ」とか「〇〇だから聖霊を呼びましょう」等、人間の意志によって聖霊を操る(?)ようなことを耳にすると、とても残念な気持ちになります。聖霊を呼び寄せる集まりなどを見ると『それはちょっと違うよな~』と違和感を覚えます。
キリストは復活されてから40日目に天へ昇り、50日目には聖霊の派遣を約束された通り、弟子たちは聖霊に満たされました。
キリストは以前「弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊、その方がすべてのことをあなたたちに教え、わたしが言ったことすべて思い出させてくださる」と言われました。そしてキリストが言われた通り、弟子たちは今までのすべてのことの意味を悟りました。さらに聖霊に満たされた弟子たちは聖霊が言わせるままに様々の国のことばで話し始め、様々な国へ力強く宣教を始めました。
今も聖霊は私たちに働き続けています。いつも聖霊の働きに気づき、主が望まれることを行い、愛することができますように。アーメン。
小寺神父様のお話を聞こうと思うことも聖霊の働きですね。
YouTube: 浦上教会に寄贈された鐘に関する記者会見 カトリック長崎大司教区 (2025年5月15日)
先月、アメリカのカトリック信者から浦上教会に寄贈された鐘についての記者会見が開かれました。この会見を聞いて、寄贈されるまでに様々な出来事や思いがあったことを知りました。
7月17日の鐘の祝福式が楽しみですね。そして8月9日公式に祈りの鐘の音が鳴り響く予定です。
今日は主が復活されてから40日目、主が昇天された日です。第二ヴァチカン公会議までは木曜日に祝われていました。しかし、その後主の昇天の祝日は復活節第七主日に移されました。その理由は仕事や学校のある人たちは週日に集まるのが困難だからです。
主が復活された後に弟子たちは様々な経験をします。以前主を知らないと答えた使徒ペトロも大きく変わり、その篤い信仰によって最後には十字架上で殉教します。
主は天に昇られましたが、主はご聖体の中で私たちと共におられます。昇天される前のように主はあらゆる場所に現存されています。
主が昇天される前に弟子たちに言われました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」これは弟子たちだけではなく私たち信徒にも言われている使徒的使命だと思います。天に昇られた主は、天で私たちを待っておられます。主のもとに行くために使徒的使命を果たせるように聖霊の恵みを願いましょう。