クリスマス深夜ミサ
ロシア正教会ではユリウス暦に基づいて1月7日がクリスマスです。モスクワのカテドラルでキリルモスクワ総主教様によるクリスマス深夜ミサの模様です。今年もプーチン大統領の姿が見えますね。
カトリックと違い正教会ではミサの間はずっと立ったままです。そしてかつてはカトリックもそうであったように、天主への崇拝・賛美が荘厳な形で行われています。アメリカではカトリックから正教会に改宗する若者(特に男性)が増えているとか。わかる気がします。
ロシア正教会ではユリウス暦に基づいて1月7日がクリスマスです。モスクワのカテドラルでキリルモスクワ総主教様によるクリスマス深夜ミサの模様です。今年もプーチン大統領の姿が見えますね。
カトリックと違い正教会ではミサの間はずっと立ったままです。そしてかつてはカトリックもそうであったように、天主への崇拝・賛美が荘厳な形で行われています。アメリカではカトリックから正教会に改宗する若者(特に男性)が増えているとか。わかる気がします。
YouTube: O Come All Ye Faithful from Classic Hymns Christmas album #christmas #carol #mass
主の公現の祭日。3人の博士たちは神の御子キリストを拝むために、それぞれ遠い国からエルサレムを目指しました。幼子キリストがいる小屋にたどり着くと、3人の博士はそれぞれに黄金・乳香・没薬を捧げました。
この日、神の栄光はキリストにおいて現れ、すべての人に救いの光が輝きました。飼い葉桶に寝ている幼子は正に神の子キリストです。私たちも博士たちと同様に膝をかがめて拝みましょう。
神の母聖マリア様の祭日おめでとうございます!!
12月24日聖ペトロ大聖堂の聖なる門が開き、聖年が始まりました。今年はそれに加えて聖トマス・アクィナス生誕800年の記念の年でもあります。
まれにみる文化教養にあふれた「天使的博士」聖トマス・アクィナスは、多くを著し、教え、特に哲学・神学の分野で才能を示しながら、その知性と明晰さで際立つ一方で、熱心な信仰をもって神の神秘を求め観想していた。(教皇フランシスコ)
今年はもっともっと主キリストを愛したい!そのためにも聖トマス・アクィナスの知識をより良く理解できる恵みを主に願います。
神の母である聖マリアさま、今年は私たちがあなたの徳と謙遜に倣い、許し合い助け合って平和を築いていけますように、あなたの祝福を願います。
今日は聖家族の日です。家族皆が聖家族を手本として、また目標としている家庭はバラバラになることはありません。どんなにつらい時や苦しい時、かえってそんな時にこそお互い慰め合い助け合うものです。
フランシスコ教皇様は「家庭」について三つのことばが必要と話しておられます。
「いいですか」「ありがとう」「ごめんなさい」ということばは、家庭生活を円満で平和なものにする道を切り開くことばにほかなりません。それは単純なことばですが、実際に言うのはそんなに簡単ではありません。このことばには大きな力があります。多くの問題や試練に直面しても家庭生活を守る力です。もし、それらが失われたら、亀裂が入り始め、すべてが崩壊することすらあります。
何でも自分の思い通りにしようとせず、「いいですか」と、相手の気持ちや考えを尊重すること。してもらったことを当然当たり前と思うのではなく「ありがとう」と感謝をすること。そして喧嘩になったらどちらが正しい、悪い、勝ち負けとは関係なく「ごめんなさい」とできるだけ早く謝りましょう。だって喧嘩はお互いの心や体を傷つけあう事だからです。特に「ごめんなさい」はカトリック信者の特技?のはず。なぜなら私たち信者は次の聖書の話を知っているからです。「・・・キリストは七の七十倍までも(=無限に)ゆるしなさいと言われました。・・・あなたたちが心からゆるさないなら、天の父も同じようにあなたたちをゆるさない。」(マタイ18:21-35)
そして教皇様は次のようにも話しておられます。
大げんかになったことがありますか。それはよいことではありませんが、それが本当に問題なのではありません。問題なのは、その気持ちのまま次の日を迎えることです。けんかをしたとしても、家族と仲直りしないで一日を終えないようにしましょう。
昨日は救い主キリストのご降誕(クリスマス)をお祝いしました。でもこれからもクリスマスのお祝いは続きます。イエズス様を拝みに3人の博士たちがはるばるベツレヘムにやって来ます(主の公現)。そしてマリア様とヨセフ様は幼子キリストが生まれて40日後エルサレムの神殿に捧げます(主の奉献)。それはマリア様の清めの祝日でもあります。
降誕節は主の洗礼の前までですが、国によっては主の奉献までお祝いします。その国ではこの日にクリスマスの飾りを片づけます。
ですから我が家の玄関の扉にはお正月を過ぎてもずっとクリスマスのリースが飾られています。けっして外すのを忘れたのではなく、故意に飾っているのです。
今日は聖ステファノ殉教者の祝日です。聖ステファノは最初の殉教者。そして28日は聖なる幼子殉教者の祝日です。
聖ステファノの殉教
『ご降誕』 ザンパロ神父(ザベリオ宣教会)作
わたしたちの救い主イエズス・キリストがお生まれになりました。マリア様ヨセフ様おめでとうございます!さて、イエズス様に何をプレゼントとしましょうか? イエズス様が喜ばれるものって何でしょう?
愛・いつくしみ・ゆるし・和解・平和・・・私はイエズス様に「ありがとう」と言う感謝の気持ちを贈ります。私たちのために生まれてきてくださり「ありがとう」と。
YouTube: Campana sobre campana | Campanas de Belén - Villancico | Música Navidad | Música Navideña
皆さまもイエズスさまの光を受けて、幼子イエズス様とマリア様、ヨセフ様、守護の天使と共に平和であたたかなクリスマスをお過ごしください。
フェルナンド・オカリス属人区長様からのクリスマスメッセージです。私はオプス・デイのメンバーではありませんが(霊的生活への神様の呼びかけがないので )、聖ホセマリア神父様を崇敬しています。そしてその教えを受け継いでいる歴代の属人区長様方を尊敬しています。属人区長様方の優しくあたたかなほほえみとお話しはいつも私の心に安らぎと平和を与えてくださいます。
YouTube: Felicitación de Navidad del prelado del Opus Dei (2024): la esperanza que no defrauda
先日見たドラマの司祭様が「信仰とは希望の確信なり」と言っていました。決して欺くことのない確かな希望を持っている人は幸いです。そして私も持っています。 主に感謝!
12月18日フランシスコ教皇様はコンピエーニュの女子跣足カルメル会修道女、福者アウグスチノの聖テレジアと同志15名の修道女たちを列聖されました。
フランス革命時代には多くの司祭やブラザー、シスターは信仰に対する憎悪、迫害のために殺されて、殉教しました。
1794年7月17日断頭台で処刑された女子跣足カルメル会の16人の修道女たちはフランス革命によって殉教した多くの人たちの代表として聖人の列の加えられたのだと私は思います。
パリオリンピックの開会式の時、マリーアントワネット王妃が自分の首を持った姿はフランス革命の恐ろしい闇を見ているようでした。またあの演出を素晴らしいと言う人々を見ると、革命時代と変わらぬ傲慢な人間の姿を見る思いがしました。
でもこうして彼女たちが列聖されたことは、かつて「フランスは教会の長女」と言われてきた信仰がまた少しずつ戻ってきている証のようで、本当に嬉しいです。再び「フランスは教会の長女」と言われる日が来ますように。
参考までに、今回の列聖は通常の手続き(奇跡や科学的調査)や列聖式を行わずに、quipollens canonizatio(同等の列聖)という形式で列聖されました。これは聖性と英雄的徳の名声が長い間証明され、教会ですでに崇敬が行われていた人物に対して一定の条件のもとに行われる形式で、すでに1700年代(教皇ベネディクト14世)頃から行われているそうです。
昨日紹介したヴァイオリニストダニエル・ロザコヴィッチさんのヴァイオリンケースの中を注目してください。イコンがあります。それも何枚も。これを見るだけで彼の心の美しさが伝わります。彼の演奏が人の心を打つはずです。
子どもの頃から天才と呼ばれた彼の少年時代の演奏がいくつかYouTubeにアップされていますが、今日はモーツァルトで楽しみましょう。
YouTube: Daniel Lozakovich -W.A.Mozart Violin Concerto in G Major.
YouTube: Réouverture de Notre-Dame de Paris : Daniel Lozakovich sur "Aria de la 3ème Suite" de Bach
ノートルダム大聖堂の修復が終わり、コンサートが開かれました。ピアノ演奏ではあのラン・ランさんがサン・サーンスのピアノ協奏曲を、そしてヴァイオリンではダニエル・ロザコヴィッチさんがバッハの第3組曲のアリアを演奏しました。特にロザコヴィッチさんのヴァイオリンの調べは大聖堂の中に溶け込むようで、何とも言えない神々しさを感じました。
ある人はコメントに「世界で最も美しい大聖堂のひとつで、神に触れた優雅な瞬間…これこそが聖なるものの化身だと私は信じています。フランスは永遠であり、永遠にキリスト教徒であり、教会の長女であることを決して忘れないようにしましょう。私たちの共和国は世俗的ですが、フランスの鼓動と DNA はキリスト教です。・・・ますます醜くなっているこの世界では、このような時代を超越した瞬間は魂にとって良いことです。」と書いています。
本当にそうですね。あのオリンピックの開会式とは正反対のフランスの心に触れたような気がします。彼のヴァイオリンを聴いて、久しぶりに心洗われる思いがしました。
今日はGaudete Sunday 喜びの日曜日です。イエズス様のご降誕はもうすぐ・・・なぜか明るい希望に照らされているような気持ちになります。教会の帰りにピンクのバラを買って家に飾ることにしましょう!
グアダルペの聖母の前で祈られる教皇様方(パウロ6世、フランシスコ、ベネディクト16世、ヨハネパウロ2世)
多くのカトリック信者に愛されている聖母マリア様ですが、その中でも教皇様方に特に愛されている聖母マリア様のご出現は無原罪・ルルド・ファティマそして今日のメキシコのグアダルペの聖母ではないでしょうか。聖母出現は世界中で約2000位あるそうですが、ほとんどは疑わしく教会が認めたものではありません。しかし教皇様方が訪れ祈られる聖母のご出現は当然真実でしょう。
1531年12月9日にフアン・ディエゴの前に聖母マリアさまが現れました。ディエゴの話を疑う司教様は証拠を望みました。ディエゴは聖母に言われた通り丘に咲くバラの花をマントに包み、疑う司教様に差し出しました。そしてそのマントには聖母の姿がはっきりと写っていました。真冬なのでバラなど咲いているはずもないのに、その沢山のバラとマントにうつった聖母を見た司教様はディエゴの話を信じました。
グアダルペの聖母の戴冠は1895年教皇レオ13世により承認されました。あれから125年後のごミサでフランシスコ教皇様は「わたしたちの母、マリアの姿を見つめ、神の寛大さと祝福、恵みを思いながら、わたしたちもまた、自分の生活を皆のための一つの贈り物へと変えていこう」と招かれました。
12月8日「無原罪の聖母マリア」の祭日
フランシスコ教皇様は例年通り、ローマのスペイン広場で無原罪の聖母の像に献花をされて祈られました。
12月8日は無原罪の御宿リの祭日(Immaculata Conceptio Beatae Virginis Mariae)ですが、今年は主日と重なったので今日9日に移動しました。
無原罪の御宿リとは聖マリアは神の特別な恵みによって、母アンナの胎内に宿った時から原罪の穢れを一切受けていなかったという教義です。そして現在は「無原罪の聖母マリア」の祭日と呼ばれています。
この教義は比較的新しく、ピウス9世によって1854年12月8日に教義に定められました。「マリア信仰だ」「マリア崇拝だ」などと言う的外れ、見当違いの批判には耳をかさずに、もっともっとマリア様を堂々と崇敬しましょう。La Vangの聖母行列をしたベトナムの若者たちを見習いましょう。
カトリックいわき教会の聖母(蛇を踏んでいますね)
聖フランシスコ・ザビエルの祝日ですが、鹿児島では盛大な祝いはありません。聖フランシスコ・ザビエル司祭は主の大きな恵みを日本にもたらした聖人です。しかしその聖人の日を盛大に祝わないのはやはり8月15日(聖母の被昇天の日)に鹿児島に上陸した日を祝うからでしょうか。
毎年聖母の被昇天と聖ザビエル上陸記念日のお祝いが重なっています。私は8月15日は上陸記念ではなく聖母の被昇天だけを祝い、12月3日に日本宣教の保護者の聖人フランシスコ・ザビエルを盛大に祝うというようにそれぞれ別に祝うことができれば良いと思っています。
『鹿児島に来たザビエル』を読むと、聖フランシスコ・ザビエルという聖人がよくわかります。日本上陸だけでなく、イエズス会、フランス、イタリアそしてゴアやコーチン、サンチャン島での聖人の生きざまを知れば知るほど、「聖フランシスコ・ザビエルの日」12月3日を祝うべきだと思いました。
私自身が自立した生活ができなくなったら介護施設に入る覚悟はできていますが、デイサービスは利用したくないと思っていました。その理由を代弁している記事があったのでそのリンクを貼ります。
https://www.yomiuri.co.jp/yomidr/article/20241113-OYTET50001/
この記事に書いてある通り、何が嫌かと言うとまるで幼稚園のようだからです。多くの経験を積み、さまざまな能力を持っている大人である人たちを同じ決められたプログラムで強制的に過ごさせることはその人にとっては苦痛でしょう。そのプログラムが合う人は楽しいでしょうが、そうでない人もいるのです。
そろそろこのようなデイサービスのやり方を改めてもよいのではないでしょうか。記事にはスウェーデンのデイサービスについて書かれています。これらを参考にして幼稚園から尊厳のある大人のデイサービスに変えられれば多くの人が喜んで利用するようになるでしょう。
今回は準秘跡と信心業についてのお話しです。私も知らなかったことを学べて、感謝! 典礼委員だけでなくすべての信徒の方が見て学ばれることを願います。
昔のカトリック赤羽教会のYouTube動画を偶然見つけました。ゼノ修道士様の姿も見えます。私が記憶している子供の頃と同じ教会の姿ですね。
今と大きく違うのは信者の数と、ミサの祭壇の向きでしょう。やはり司祭様も信徒と同じく十字架に向ってミサを捧げるのが自然で美しいとこの動画を見て感じました。祭壇の向きとご聖体拝領の仕方は(跪くことも含め)第二ヴァチカン公会議前の姿に戻ることを切に願っています。(私が願っても何も変わりませんが・・・)
今日は「王であるキリスト」の祭日です。教会の典礼暦最後の主日。次の主日からいよいよ待降節が始まります。そして24日には聖ペトロ大聖堂の聖なる門が開かれて聖年が始まります。
(ヨーロッパのある修道会での誓願式:キリストの花嫁)
「ミサの中で祈るのではなく、ミサそのものが祈りである。修道生活の中で祈るのではなく、修道生活そのものが祈りである」
ある修道会の終生誓願ミサの説教で酒井司教様が話された言葉です。その通りですね。修道者たちは皆さん祈りで一日が始まり労働も祈り、一日の最後も祈りで終わります。これがすべてを主に捧げた奉献生活ですね。
私たちも本当はこうありたいです。修道生活をしていない私たちも、違う形で日常生活を聖なるものとできればすばらしいですね。それは聖ホセマリア神父様が言っていることです。どんな小さなこと、つまらないことにも、愛と喜びをもってすればそれはつまらないことにはならない。
マンネリ化した生活の中で私はこのことを忘れていました。『したくないけれど仕方ないからする』というような、いやいやしている事があまりにも多すぎました。ですから最近生活が何かつまらなく感じて心が沈んでしまっていたのでしょう。
シスターたちが明るいのは生活そのものが聖なるものだからですね。彼女たちに倣い私も日常生活が聖なるものとなるように日々過ごすようにします。そうすれば『つまらない生活だ』なんて思うことは決してないでしょう。
コヘレト3章についての小寺神父様のお話しです。いつもさっと読み過ごしてしまうコヘレト3章でしたが、小寺神父様の話を聞いて、著者が伝えたかった意味がよくわかりました。
やはり聖書はただ自分でさっと読めばよいというのものではなく、そこに書かれている意図をよくくみ取ることが必要だと実感しました。そのためにも正しい説明や解説をしてくれる導き手が必要だとつくづく思います。
主日のごミサで読まれる個所は説教の時にそこについての話がありますが、ごミサで読まれないところはブログやYouTubeなどで学んでいます。ただし小寺神父様のように正論だと安心して学べますが、個人的な(カトリック教会の教えとは違う)解釈を話す人もいるので、そこは見極める必要がありますね。