み言葉のわかちあい
私の教会では主任司祭の強い要望で毎月「み言葉のわかちあい」をすることになりました。
私はみ言葉のわかちあいには数回参加しましたが、何れも私には合わない集いでした。それ以来このような集いには参加していません。ですから主任司祭には申し訳ないのですが私はずっと参加しないつもりです。
み言葉のわかちあいは日曜日のミサの福音箇所を読んで黙想し、それぞれ自分の心に響いた箇所について話して分かち合います。そしてしばらく沈黙した後、各自自由に祈りを捧げます。
もちろんすべてがこの通りに行われるとは限りませんが、流れは大体同じです。そして、もしみ言葉のわかちあいに参加される方は次のことをしっかりと守ってください。
1.集いの場で聞いたことを他の所で絶対に話さない。秘密は守ること。
2.話をした人に説明したり教えたり、批判したり、議論したりしないように。つまり話す人は皆に聞いてもらい、質問や誰かの助言を求めたりしない。そして聞く人は相手の話を聞くだけで何も応えてはいけません。相手の話を聞いて心にとめるだけです。
み言葉のわかちあいが大好きという方もおられます。それが霊的成長をたすけるのなら参加したらよいでしょう。でも私は苦手なのでパスします。
私は以前にも書きましたが、黙想会(み言葉のわかちあいのない)、講話、十字架の道行などには参加しますが、祈りの集いなどOOの集いや集会といったものには参加しません。若い頃には友人やシスターに誘われて、好奇心から様々な集いに参加しましたが、どれもしっくりくるものではありませんでした。不熱心な信者と思う方もおられるでしょうが、私は他人の目は気にしません。
それよりも毎日曜日の福音朗読の時に、ほとんどの方がみ言葉を聴かずに、パンフレットを黙読していることは問題だと思うのです。福音朗読の時は神のみ言葉を聴くようにと言われています。しかしパンフレットの文字を目で追っていては、聴いていることにはなりません。(朗読ミスをチェックするためにパンフを見ているの? ) 第一朗読・第二朗読・福音朗読の時にはパンフレットは置いて、静かに聞きましょう。(ページをめくる音もせず静かに・・・)
主のみ言葉を聴く人々
また平和のあいさつの時、「すでに司祭とはあいさつをしているので、はじめから信徒同士であいさつをしましょう」と主任司祭が説明したにもかかわらず、先ず司祭の方を向いて「主の平和」とあいさつしているのです。😥 まあ、み言葉を聴くことに比べればたいしたことではないのですが。毎回私があいさつしようとすると皆私ではなく司祭に向かってあいさつしています・・・
典礼に関しては主任司祭が話されたことは守りましょう。一度説明されたら、何故そうしなければならないかを理解して、習慣に流されないようにしましょう。